第10課 新しい祈り方ー救い主を見つめて

目次

ボイス・メール方式でなくてよかった

まず、「神とボイス・メール」という題の興味深い文章をご紹介することで、本シリーズの最終回を始めましょう。

この文章の書き手は最近、生身の人間と直接話し合えるまでに、ボイス・メールのつらい段階を何と30分間もかけて通過しなければならなかったそうです。ボイス・メールをよくご存知ない方もあるかと思いますが、その方は知らないことを神に感謝なさってください!この録音システムは、人類史が始まって以来最も人間味のない発明品の1つであることに間違いありません。生身の人間の声を聞くために、録音された音声と30分もつき合うという体験をしたあと、彼はこの「神とボイス・メール」という文章を書きあらわしたのです。

「もし神が、私たちの祈りにボイス・メールで対応されるとしたら、どんなことになってしまうだろうか、と私は考えた。例えば、私が陰口を叩くという罪を犯したとして、それを告白したいと考えたとする。そこで祈ることにした。長距離だがクレジットカードを使う必要はない。神への直通電話があるからだ。

ただちに声が返ってきた。『こちらは天国の祈祷部でございます。ただいま回線がたいへん混み合っております。このまましばらくお待ちください。あなた様のお願いは、受け付け順に応答されます』

私は祈りの姿勢のまま、天使の聖歌隊が歌う賛美歌に耳を傾けていた。歌声の途中途中で、『ただいま回線がたいへん混雑しております。申しわけありませんが、いましばらくお待ちください』という録音メッセージがくり返され、やがて別の音声が聞こえてきた。

『次の項目をよくお聞きの上、該当する項目の番号を押してください。愛する人のための祈りは、1番。教会のための祈りは、2番。感謝の祈りは、3番。罪の告白は、4番。救いについての祈りは、5番。身体的必要についての祈りは、6番。もう1度すべての項目をお聞きになりたい場合は、9番を押してください』

私は罪の告白をしたかったので、4番を押した。すぐに声が聞こえてきた。

『あなたの祈りにお答えするにあたって、次の中から該当する項目をお選びください。あなたの罪が何かしたことであるならば、1番。何かしなかったことであるならば、2番。はっきりしない場合は、3番を押してください』

私の罪がどれに該当するものなのかはっきりしないので、3番を押した。するとまた録音された声が聞こえてきた。

『教会の中のだれかに対する罪の告白は、1番。クリスチャンでない人に対する告白は、2番。家族の中のだれかに対する罪は、3番。個人的性質の罪の告白は、4番。以上のどの項目にも該当しない告白は、5番。もう1度すべての項目をお聞きになりたい場合は、6番を押してください』

私の罪が陰口に関するもので、どの項目に該当するかはっきりわからなかったため、5番を押した。すると例の声が聞こえてきた。

『次の中のどの告白か、該当する番号を押してください。身体に関する罪は、1番。言葉に関する罪は、2番を押してください』

私は2番を押した。すると、少し声質の違う別の声が聞こえてきた。

『こちらは、祈祷部言語課です。次の中から該当する項目をお選びください。呪いであるならば、1番。妻や他の家族を怒鳴ったのであれば、2番。……』

単調な声が、さまざまな項目を並べ続けた。私は耳が疲れてきて、もうそろそろ切ってやろうかと思いながら、陰口を叩いた。が、その瞬間、私は思い出したのだ。神がどのように私たちの必要に対応してくださると聖書に書かれているかを。ボイス・メール・システムではなく、神は次のようにおっしゃっている。

『彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける』(イザヤ書65章24節)」

読者のみなさんも、天国のボイス・メールが架空の物語でよかったと感じておられることでしょう。この最終回に、私たちは「新しい祈り方」について考えてみたいのです。これは、神との永遠の友情を育くむための新しい方法です。

私たちは見ているもののようになる

この新しい祈り方は簡単なものですが、それでいて、神とともに歩む私たちの生活を全く変えてくれるすばらしいものなのです。クリスチャンになりたての人にも、長い間信仰生活を送ってきた人にも役立ちます。

さて、この新しい祈り方の鍵は、宇宙の偉大な1つの法則の中に見いだされるのです。私たちはみな、宇宙が神のお定めになった法則に支配されていることを知っています。高層ビルから飛び降りれば、これらの法則の1つである引力の法則によってどういう結果になるかははっきりしています。私たちは、こういった法則を破ることができません。

同じように、神をもっと深く知り、神ともっと親しくなりたいと願うなら、どうしても修得しなければならない1つの法則があります。この法則は、聖書の有名な2つの言葉から導き出されるものです。

「彼は心に考えるとおりの人間だ」(箴言23章7節・新欽定英訳聖書より)

第1の聖句が教えているのは、私たちは心の中で考えるとおりの人間になる、ということです。私たちの思考様式が、確実に私たちの行動を形成し、支配するというのです。

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(コリント第2の手紙3章18節・口語訳)

第2の聖句が教えているのは、私たちは見ることによって変えられていく、ということです。そしてこれら2つの聖句の教えを合体させると、1つの真理がくっきりと輝き出てきます。

「私たちは、日頃見ているもののようになる!」

この単純な法則、単純な真理は、決して変わることがありません。

私たちは、この法則が実際に働くことをよく知っています。例えば、10代の若者の姿を観察すると、彼らが日頃自分の部屋で何を見ているのかがわかります。彼らは、映画スターやスポーツスターのポスターを徹底的にまねしているからです。

大人だって同じです。自分が尊敬している人、いつもひそかに観察している人。そういった人をまねて、同じような話し方をしたり、同じような服を着たりします。長期間にわたって何かを見つめていると、この法則が働くのです。私たちは見るとおりのものになるのです!

間違いや欠点ばかりを考えていると……

もちろん、この法則は肯定的な結果をもたらしもすれば、否定的な結果をもたらすこともあります。ですから私の提案は、あくまでも肯定的な方向でこの偉大な法則を働かせることです。神との友情を深めるという課題に、この法則を適用してみたいのです。

実際に、この法則をいますぐ利用し始めましょう。そうすれば、私たちの祈りの生活を根底から新しい方向へ向けることができます。

重要なポイントは、私たちの焦点を変えることです。多くの人たちは、あまりにも否定的なものに焦点を合わせて祈ってきました。自分の弱さや罪について、くり返しくり返し、しかも長々と並び立ててきました。「あぁ神様、この問題もあります。あの問題もあります。あぁ神様……」といった調子です。

ただし、誤解しないでください。私たちの罪を神に告白することは、決して誤りではありません。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネ第1の手紙1章9節・口語訳)

すばらしい約束です。罪を告白すれば、神は私たちをお赦しくださるだけでなく、きよめてもくださるのです。

しかし問題は、私たちが救い主を中心にではなく、罪を中心に生きてきたという点なのです。そうすることで、私たちの毎日の祈りはどのようなものになっているでしょうか?自分の犯した罪について、毎日同じような祈りを反復しています。多くの人が、短気と闘い、欲望と闘い、不正直と闘い、高慢と闘っています。多くの人が、人生の失敗や自分の弱点といった否定的なものに焦点を合わせ、それに集中して祈っているのです。

私たちの心は、なつかしい昔のレコード盤のようです。そのレコードをかけるたびに、針は溝を少しずつ深くするのです。同じ罪が心の中を駆け巡るのをそのままにしておくと、溝はますます深くなってゆきます。その過程で、「見ているもののようになる」という法則が悪い方向で働くのを、私たちは目撃することになるでしょう。自分の罪を見つめれば見つめるほど、その罪から逃れにくくなってしまうのです。

『キリストへの道』(E・G・ホワイト)という有名な本の中に次の文章があります。

「人生行路をたどりながらも、自分のまちがいや欠点や失望ばかりを考えて、悲しみと落胆にみたされている人がたくさんいます。……過去の生涯の不愉快な思い出、罪や失望ばかりをかき集め、そのことを語り、悲しんでついには失望してしまうことは決して賢明なことではありません。失望した魂は暗やみにおおわれ、心から神の光を閉ざしてしまい、他の人々の行く手にも陰を投げかけます」

罪中心の祈りから、救い主中心の祈りへと、私たちは方法を変える必要があるのです。

3つのDの問題

私がこの新しい祈り方に初めて出会ったのは、1986年8月のことでした。それ以来、ずっとこの方法を用いています。ですから何のためらいもなく、みなさんにこれをお勧めできるのです。イエスの恵みと聖霊の導きによって、あなたも神とともに歩く感動を必ず発見できると確信しています。

ところでこの新しい方法は、個人礼拝の祈りにおいて直面する3つのDの問題を解決してくれます。3つのDの問題とは、「訓練(discipline)」「注意力散漫(distraction)」、そして「対話(dialogue)」です。

「訓練」の問題を考えてみましょう。毎年、1月を迎えると、教会ではたいていクリスチャン生活における祈りと聖書の学びの重要性を訴える説教がなされます。そこで新年の決心として、「今年こそ聖書研究と祈りを真剣にやるぞ」と多くの教会員が心に誓います。それからどうするでしょうか?いままでほとんどのクリスチャンがしてきたことをするのです。

本棚から聖書を取り出し、「今年こそ聖書を読み通そう」と読み始めるのです。どこから読みだすでしょうか?もちろん、聖書の1番最初の創世記からです。雄大な人間模様にいろどられた創世記をまたたくまに読んでしまうと、次に出エジプト記に入ります。叙事詩を思わせる物語が続いているので、ホッとします。そして、十戒が記されている20章に到達し、やがて聖所の建設に関する設計図の説明へ突入していくのです。こうしてレビ記に入ると、「これまでとは違うなぁ」と感じます。レビ記全体が、儀式の細則や掟ばかりだからです。元旦から忠実に聖書通読を実行してきて、すでに2月になりました。レビ記あたりから、「ちょっとぐらい中断してもいいだろう」という気持ちになります。そして、そのとおりにすると、もう2度と通読は再開されません。

そのうちに、クリスチャン生活における祈りと聖書の学びの重要性を訴える説教をまた聞くことになるのです。そこで、決心を新たにし、「今度こそは」と神に約束します。こうして、1月1日がまた巡ってくると聖書を取り出し、再び創世記を開くのです。それからどうなるでしょうか?同じようなことが始まります。2月になり、レビ記の半ばにさしかかると、また少し中断しようと思い……ということになってしまうのです。

新しい祈りの方法は、みなさんの信仰生活における祈りを訓練してくれます。祈りをささげる前に聖書も読みますが、それは創世記から始めるようなやり方ではありません。

しかし、新しい祈りの方法を用いると、あなたの個人礼拝における祈りをキリスト中心に毎日行うことができるようになります。これは本当に重要な訓練です。

気が散ることも、一方的になることも減ります

次に、「注意力散漫(distraction)」の問題を考えます。

正直なところ、私を含めて多くのクリスチャンが、祈っている最中に眠くなってしまった、という経験を何度もしているはずです。

たとえば、1日を始める早朝に、こんな祈りをささげた人はいませんか?ベッドのかたわらにひざまずき、眠気をこらえながら祈り始めます。「愛する神様。この日を感謝します。(長い間)主よ、きょうも1日、入院中の母とともにいてください。あなたは母の病状も必要もすべてご存知です。どうか近くにいてあげてください。……母、はは、は……あぁ、そう言えば、主よ、私の歯がなかなか治りません。もう3回も治療に行ったのに、痛みが取れないのです。別の歯医者に通ったほうがいいのでしょうか?……痛みが、いたみ、いた……おぉ、主よ、そうでした。先月伊丹市に引っ越したばかりの友人が交通事故にあったと連絡を受けました。どうか、彼のけがを癒してあげてください。1日も早く退院できますように。……退院、たいいん、たい……。あぁ、主よ、そう言えば……」

思い当たりませんか?お祈りを日課にしている人なら、思い当たるのではないでしょうか。たいていの人は祈りの途中で注意力が散漫になってしまうのです。この問題を解消するために、私たちは訓練される必要があります。訓練によって、イエスに集中して祈れるようになるのです。

注意力を散漫にさせるすべての要素を取り除くことは不可能でしょう。しかし、この新しい祈りの方法を用いると、注意力散漫がたいへん少なくなり、集中して祈ることができるようになります。

第3の問題は、対話(dialogue)です。私は、『キリストへの道』の次の文章が好きです。

「祈りとは、友達に語るように、心を神に打ち明けることであります」

しかし、それが問題なのではないでしょうか?私たちの祈りは、実にしばしば、独り言のくり返しに終わってしまっていないでしょうか?なぜ私たちの祈りは一方通行なのでしょうか?

新しい祈りの方法は、その質問に回答を与えてくれます。つまり、祈る人の心と神の心が、実際に対話するのを体験させてくれるのです。

毎朝、とりあえず10分間

では、この新しい祈り方とはどのようなものなのでしょうか?それは、「祈りの日誌法」と呼ばれており、個人礼拝用の日誌を用いる方法なのです。

これはとても簡単です。必要なものは、聖書、マーカー、ペン、日記帳。そして、もう1つ必ず必要なのが、あなた専用の「祈りの密室」です。イエスは山上の説教の中で次のように言われました。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイによる福音書6章6節)

祈りの密室は、あなたがたった1人でイエスと対話できる場所、何の邪魔も入らない場所です。あなたと神が、邪魔されずに一緒にいることのできる場所を見つけましょう。

すると、決まって聞かれる質問があります。「祈りの密室でどれだけの時間、祈ればよいのでしょうか?」という質問です。

青年たちからたずねられたなら、私は、とりあえず毎朝5分から10分、とたいてい答えています。1回の時間は短いですが、1週間に7日、つまり毎日するように勧めます。こうして、「祈りの日誌」をつける新しい方法を始めると、すぐに夢中になって時間を気にしなくなります。

神はあなたと会うのに、ストップ・ウォッチを持って来られたりはしません。それどころか、あなたの友情を求める熱い心をもって来てくださいます。日頃、朝寝坊をしがちの人も、個人的な友となられた宇宙の神と交わるためなら、10分程度の時間を割くことはできるでしょう。祈りに集中できるかどうかは、いかに自分のスケジュールを組むかにかかっているのです。

1日に物語を1つだけ読む

聖書全66巻のうち4巻の中に、神との永遠の友情を育くむ祈りについて、中心的な重要事項が記されています。

偉大な宣教師であったパウロは、フィリピの信徒への手紙の中で次のように叫びました。

「わたしは、キリストを知りたい」(3章10節・新国際英訳聖書より)と。そして、この願いをかなえてくれる4巻のすばらしい書物が、4つの福音書なのです。イエスに関する福音書の物語は、私たちが必要とする濃厚な魂の食物を提供してくれます。

さぁ、いまやすべての準備が整いました。あなたは祈りの密室の中にいます。筆記用具などもそばに置かれています。深く呼吸をしましょう。そして、まず黙祷から始めます。

「イエス様、あなたと私はいまここに一緒にいます。私はこれからあなたの本を開き、あなたのみ姿を探し求めます。あなたからのお言葉もお聞きしたいのです。どうぞ私にお語りください」

次に、あなたが読もうと選んだ福音書を開きます。そして、物語を1つだけ読みます。奇跡の物語でも、たとえ話でも、何でもかまいませんが、大切なのは1日に物語を1つだけ読むということです。なぜそうするのでしょうか?理由は、聖霊があなたにお伝えすることをはっきりさせるためです。もし複数の物語を読めば、複数の異なるメッセージが出てきて、自分にとってきょう必要なものが、そのうちのどれであるかわからなくなってしまうでしょう。

最近の聖書には小見出しがつけられたりしていて、イエスの教えや物語の区切りを見つけるのが難しくありません。そこでこの教えや物語をさらに細かく割り、1回分を5節から8節ほどにしてみます。と言うことは、1分以内で読み終われるということです。ですから、その箇所を何度もくり返し読みましょう。「命をよみがえらせるために、読み直せ!」というモットーをいつも心に留めてください。あなたへのメッセージは、物語を何度も読み直すことによって得られるからです。

五感を総動員して読み直す

そして読み直すときは、五感を総動員しましょう。テレビのお陰で、現代人の生活は映像的で、具体的で、あいまいさのないものになりました。私たちはいつも感覚的なものを渇望するようになっています。そういうわけですから、福音書の物語を感覚を総動員して生き返らせることは、私たちが日常の生活でよくやっている方法であり、それによって心に強く印象づけられるのです。

読み直すたびに5感を1つずつ加えていくというのはどうでしょうか。こうすると、5回目に読み直すときには、イエスが登場する福音書のできごとが、あなたの心の中にフルカラーの映像としてはっきり写し出されてきます。あなたのくるぶしに打ち寄せるガリラヤ湖の冷たい波を感じてください。遠くで聞こえる子供たちの笑い声や頭上でさえずる小鳥たちの声を聞いてください。イエスから手渡されたパンを味わってください。命をよみがえらせるために、読み直すのです!

読み直しをすることには、どのような利点があるのでしょうか?答えは簡単です。初めにお話しした法則、「私たちは見ているもののようになる」という法則を私たちの生活に活用できるのです。五感を総動員して聖書を読むことで、イエスをゆっくり眺められるわけです。そもそも、聖書の物語の中に私たちはどなたを探しているのでしょうか?あらためて言うまでもなく、いつもイエスを探しているのです。イエスにいつも焦点を合わせるために、毎朝次の質問を自分にしてみましょう。

「この物語はイエスについて何を私に告げているか?」あなたはイエスを求めて祈りの密室にやって来ました。私たちの願いは、イエスを知ることです。そこで自分自身にたずねるのです。

「これはイエスについて何を私に告げているか?」と。

あなたがその答えを探そうとするとき、物語を通して聖霊があなたの心に与えてくださる特別な教訓を必ず感じ取ることができます。これは決して心霊体験などではありません。が、霊的な強い印象を感じることは事実で、「これが私に与えられたきょうのメッセージだ!」と感覚的に受け止められるのです。

ときには、聖書を読んでいても何も感じない日があるでしょう。毎日食べる食事だって、おいしいと感じないときはあります。しかしだからといって、食べるのをやめるでしょうか?いえ、決してやめません。要するに、すべての友情と同じく、決してあきらめないで、神との対話を続けることが大事なのです。

与えられたメッセージを記し、手紙を書く

さて、いままでいろいろ説明してきたことと「祈りの日誌」とは、どのように結びつくのでしょうか?すべての点で結びつくのです。

読み直しによって自分の人生やその日に必要なメッセージを受け取ると、あなたはすぐそのメッセージに集中したいと思うでしょう。そこで、ペンを取って日記帳を開き、日付を記し、物語の中で自分に語られたメッセージを書きつけるのです。それから次の2つの手紙のうちどちらか書きます。つまり、あなたからイエス様に宛てた手紙か、イエス様からあなたに宛てられた手紙か、です。

これですべてです。

「愛する主よ、私は何とペトロに似ていることでしょう。私は、外側は高慢で大言壮語する人間でありながら、内側は弱く不信仰な人間なのです。赦してください。あなたがペトロをお赦しになったように、私をもお赦しください。きょう一日ずっと、私を見つめておられるあなたのみ姿を見させてください。アーメン」

あるいは、イエス様にあなた宛の手紙を書いていただくこともできます。

「愛するものよ。忍耐がなく、たいていぶっきらぼうに振る舞うあなたのような人間に対して、私がどんなに忍耐深いか、気がついたと思います。私が社会の片隅で生活している人々の間に入って働いている様子をよくご覧なさい。あなたが私のように生きることを心から期待しています。あなたが必要としている愛は、私が持っています。いま以上に私に求めてごらんなさい」

なぜ、書くのでしょうか?指から手へ、手から腕へ、腕から頭へ刺激が伝わり、その日の祈りを一日中覚えておくことができるからです。祈りながら眠ったりすることもありません。

そして最後にひざまづき、祈りのうちにあなたの一日を神にささげ、あなたが心にかけている人々を神におゆだねします。こうして祈りの密室から出て行くときには、「世界の創造主、宇宙の王、永遠のお方と、いま私は会見したんだ」という感激がわき上がってくるはずです。

力の源であるイエスに近づこう

このような体験の積み重ねは、どんな違いをもたらすでしょうか?

1つの物語をお話しして、本シリーズをしめくくりたいと思います。それは、私がオレゴン州の教会にいたときに起こったことで、ちょっと気恥ずかしいできごとです。

どうしてそのようなことになったのか、私にはわかりませんでした。が、ある日、私が牧師館の電話の受話器を取り上げたところ、その町のロック・ミュージックFM局からの爆発するような音が聞こえてきたのです。電話をかけてきたのは教会の年輩の女性信者さんでしたから、この騒々しい音楽が彼女の家のラジオから流れているものでないことは明らかでした。そこで私は、すぐに心配しだしたのです。「あの牧師は変な音楽を聞いているわ」と彼女が考えたのではないか、と。

次にまた別の電話がかかってきました。このときも、同じように騒々しい音楽が聞こえたため、「何かが故障したのだ」と私は確信しました。そこですぐに電話会社を呼び出し、「どういうわけでこの若い牧師が、牧師館の電話でロック・ミュージックを聞かなければならないのですか」と理由を聞いたのです。

彼らは修理を約束してくれました。が、その後も状況は改善されず、くり返し電話会社へ苦情を言い続けるしかありませんでした。数日後、電話会社の1人の技師がわが家に立ち寄ってくれました。彼は問題をつきとめ、やっとのことで牧師館の電話線からロック・ミュージックを消してくれたのです。

原因はこうでした。最近行った配線工事の際、電話線とラジオ局の電線をあまりにも近づけて配線してしまったのです。このために、ラジオ局の電線からわが家の電話線に音が流れ込んできたというわけです。従って、わが家に電話をかけた人は、ラジオ局にもかけたことになったのでした。

使徒言行録4章13節は、初期の教会のクリスチャンたちが、周囲の人々からどのように思われていたかについて、こう記しています。

世の人々は、「彼ら[弟子たち]がイエスと共にいた者であることを認め」た、と。

初期の弟子たちは、自分の電話線を力の源であるお方に近づけていたので、その力が彼らのほうへ流れ込んでいたのです。世の人々が弟子たちに電話をかけたなら、彼らはイエスとも話をすることになったというわけです!

地上におけるイエスの最初の友人たちがそうであったように、終わりの時代の友人たちもそのようでなければなりません。

私たちは、見ているもののようになります。

読者のみなさんも、イエスを見つめる新しい人生を始めてみませんか?見つめることによって、私たちは造り変えられるからです。神との永遠の友情によって、すっかり造り変えられてみませんか?あなたの決心を、神は心から待っておられます!

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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