第2課   目に見えない世界

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わたしたちの生活を支えているもの

イエスは「わたしは道である」と言われました。イエスは「道」について教えられたばかりでなく、みずからその道を行い、それが決して空虚な理屈ではなく、実際に人間の生活をうるおし、満足と喜びを与え、平安と希望に満ちたものとする「生き方」であることを示されました。

イエスが示された生き方の根本的なものの一つは、人間の生活は、目に見えるものだけから構成されているのではなく、目に見えない力に支えられ導かれているので、この目に見えない世界との関係をよく悟り、この関係の上に生活を築きあげていくということでした。

多くの人々は、人生はただ目に見えるものばかりからできていると考え、目に見えるものだけに頼り、目に見えるものだけを考えに入れて生活しています。そして、人生のどんな問題でも、ものによって解決ができると考えています。

ある青年がかつて私に訴えたことがあります。「僕は別に大した金持ちになりたいと思ってはいません。しかし、今まで僕の家庭に起こったいろいろな問題は、経済的にもう少しゆとりがありさえすれば、たやすく解決するようなものばかりでした。だから僕は信仰を求めるより、まずお金を求めたいのです」

ものがある種の問題を解決するのは事実ですし、人生において、ものが重要な役割を果たしていることは、だれも否定することはできないでしょう。しかし、ものが全部だと思うところに誤算が生じるのです。

「人はパンだけで生きるものではない」(ルカによる福音書4章4節)というイエスの言葉は、人間生活の基盤が目に見えるものにあるのではないことを示しています。人間がパンのみによって生き得ると考え、またパンのみによって生きようとするところに、今日のいろいろな問題が生じているのです。

また、人間には物質生活のほかに、愛情の生活もあります。

ヘンリー・ドラモンドは、『世界で最も大いなるもの』という小著の中で、「豊かに愛するということが、豊かな生活をすることである。永遠に愛することが永遠に生きることである。したがって、永遠の生命と愛とは、密接に結びついているものである。われわれは、明日生きたいと願うのと同じ理由で、永遠に生きたいと思う。そして、なぜ、われわれは明日の生命をのぞむかといえば、だれか、われわれを愛している人があり、われわれは、その人に会い、その人とともに生活し、またその人を愛したいためである。われわれは、愛し愛されているから、生きることを望むのである。だれも愛する人がなくなったとき、人は自殺してしまう。友だちを持っている間はよい。あるいは犬を愛していてもよい。ともかくも何かを愛している間、人は生きがいを見いだしているが、それがなくなるとき、生きる意味がなくなり、自殺してしまうのである」と言っています。

私たちの生活を支えているものは、目に見えるものではないのです。イエスは人間の生活の真の構造を示してくださったのです。

ルカによる福音書22章に、イエスを裏切った一人の弟子の記事が出ています。ペテロというイエスの熱心な弟子の一人が、イエスが裁かれている大祭司の家の庭で、「イエスを知らない、イエスの弟子ではない」と言い張っているそのとき、イエスが振りかえって、彼に目をとめられました。そのまなざしは、ペテロを責めるものではなく、裏切ったペテロになお注がれた愛に満ちたものでした。そのまなざしにあって、ペテロはイエスの深い愛が身にしみて感じられたのです。

「外へ出て、激しく泣いた」と聖書は記しています。これはペテロにとって、新しい経験でした。それまで3年半の間、イエスとともに生活して、その愛を受けていたのですが、このときはじめて、新しくイエスの愛の深さを悟ったのです。その後のペテロの生活は一変しました。生命を捨ててまで私を愛してくださった方がおられ、また今もなお、変わりなく愛してくださっているということがわかったとき、私たちの心はその愛によって豊かになり、その愛は私たちのうちからあふれて他に注がれるようになるのです。愛を知ることは、私たちの生活に生命を与えます。

ヤコブの物語

旧約聖書に、ヤコブの物語が書かれています。

兄との不和の結果、住みなれた家を出なければならなくなったヤコブは、寂しい心で荒野を旅していました。彼は全く捨てられた者のように感じていました。自分の間違った行為の結果、ここに立ち至ったことを知って、心は重かったのです。あるところで日が暮れ、石を枕として夜を過ごしたとき、彼は夢の中で神のみ姿を見、また神のみ声を聞いたのです。それは悲しみと孤独の中にあったヤコブへの特別な慰めの言葉でした。

夢からさめたとき、彼はやはり荒野の中にあり、夜の深い静寂があたりを領していました。もはや夢に見た輝いた天使の姿もありませんでした。人気のない丘の線がぼんやり見え、その上には星のきらめいている空が、彼の視線をとらえました。そして彼は見えない神の存在を悟ったのです。

「ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。そして彼は恐れて言った、『これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ』」(創世記28章16、17節)。

ヤコブは罪を犯した者も捨てられることのない神の約束と、その臨在がはっきりわかったのです。荒野に一人残されたと思ったことは間違いでした。神がともにいて、導いてくださることがわかったときに、寂しい荒野は、彼にとっては神の家であり、天の門となったのです。

私たちの人生も、荒野のように感じられるときがあるでしょう。けれども、見えざる神を発見し、神とのつながりを知るときに、荒涼たる人生は一変して天の門となるのです。神に導かれ、神とともに歩み、神の愛の中に守られていくとき、人生の旅は楽しいものとなるのです。

どう生きるのか

今日、人々が最も大きな関心を持っているのは、どう生きていくかということです。こんな科学の進歩した時代に、宗教など、何の役に立つのだろうと考えるかもしれません。「私は、その日その日の生活に追われているので、教会になど行く余裕はない」「宗教はアヘンだ、宗教によってパンの問題は解決しない」と言う人もいます。

しかし、心を落ちつけて考えてみると、本当に私たちは自分の力だけで生きているのでしょうか。私たちは自分で何か仕事を見いだして、毎日、自分の力で働いて生活しているように思っていますが、実際そうでしょうか。

たとえば、働きたいと思っても、健康でなかったら働くことはできません。そして、私たちは自分の力だけで健康を支えているのでしょうか。

私たちの身体は、いつも活動しています。私たちが意識しないときでも、眠っているときでも、動いているのです。「私たちは眠るときに、電気のスイッチを切るけれども、心臓のスイッチを切らない」と言った人がいます。私たちの身体を支え、生命を支えておられるのはだれでしょうか。ある人は、それはだれでもない、ただ自然なのだと言います。しかしイエスは、神が私たちの生命を支えておられることをお教えになりました。目には見えませんが、この世界をつくられ、今も支配しておられる神が、私たちの生命を支えておられるのです。

物質は人生のすべての問題の解決とはなりません。フランスに一人の立派な婦人がいました。身分が高く、物質的にも恵まれていました。しかし、その婦人は、第一次世界大戦で両親を失いました。さらには、第二次大戦で夫も失ってしまいました。彼女は、現在の世相を見、将来の世界を考えたとき、人生に生きる望みを失ってしまい、自殺しようと思いました。物音が外部にもれないように、ラジオのスイッチを入れて、自殺を決行しようとしたそのとき、ラジオから流れてきた声が、彼女の心をとらえました。キリスト教のお話だったのです。彼女は自殺するのをやめて、ラジオに聞き入りました。

そのお話は、彼女の心にほのかな希望を与えました。彼女は生きる望みを取り戻し、早速、キリスト教の研究を始めました。その後、その婦人は、熱心なクリスチャンになり、喜びに満ちた平安な生活を送ったそうです。

アメリカの『レディース・ホーム・ジャーナル』という婦人雑誌が自分は幸福だと思っている人々について調査をしたところ、自分は幸福だと言った女性の86パーセントが、その理由として、自分たちは宗教を持っているために、信仰があるために幸福なのだと答えました。

イエスは、人生を支えている見えない世界を示しておられます。イエスは、人が、「神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」ことを教えられました。神を見いだし、神のみ旨に従って生きるとき、はじめて生きがいのある人生を送ることができるようになります。また神の言葉に従って生きるときにのみ、人間としての意味のある歩みができるようになり、生活のすべての必要も満たされるのです。

イエスは、「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6章31〜34節)と言われました。まず神の国と神の義とを求めるならば、生活上の問題も解決されるのです。

神は私たちのすべてを支え、導いてくださる方です。神に頼り、神に従っていくとき、私たちには幸福な生活が約束されています。

目に見えるものを超えた世界―永遠の世界の実在を認めない所に、あらゆる問題が胚胎するのです。神に土台を置いた、永遠の価値を持った生活を求め、この世の生活が終わるときにも、なお希望と喜びを持つことができるようにするとき、現在の生活の問題も解決されていくのです。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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