第9課   だれでも新しく生まれなければ

目次

罪を認める

イエスが宣教を開始されて間もない頃、ニコデモという、ユダヤの国民のうちで高い地位を占めていた老教師が、イエスのもとを訪れました。彼は高い教育を受け、すぐれた才能に恵まれた人でした。

ニコデモは、イエスの働きを聞き、また見ていました。また救い主についての預言を熱心に研究するにつれて、イエスこそ来たるべきメシヤ(救い主)であろうという確信が次第に強められていました。そこで、どうしてもイエスに直接会って、話したいと思ったのです。しかしユダヤ人の指導者としての自分の地位を考えると、まだあまり名も知られていない若い教師を公然と訪ねることは、はばかられました。そこで彼は、夜、イエスのもとを訪れたのです。

ヨハネによる福音書3章にその会見の模様が記されています。ニコデモが「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」と言ったとき、イエスは「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われました(ヨハネによる福音書3章2、3節)。

ここに展開された問題は、キリスト教の根本問題の一つでした。

「だれでも新しく生まれなければ」。ニコデモはイエスと問答しようと思ってやってきましたが、イエスは、必要なものは理論や知識ではなく、生まれかわりの体験であると言われたのです。

今日も多くのニコデモがいます。抽象的な理論として、キリスト教を求めている人々です。しかしキリスト教は、抽象的な人生哲学ではありません。単なる修養でもありません。人間に生まれかわりを与え、救いを与えるのです。

ニコデモには、高い教養と知識、社会的地位と富とがありました。彼は立派な道徳家でした。しかし、それだけでは十分でなかったのです。それだけでは、神の国を見ることはできないのです。

教育が普及し、知識が進歩しても、それだけでは、神の国のことはわからないし、神の国に入ることもできないのです。

新たに生まれるということは回心ともいわれますが、クリスチャンとなるために、ぜひ持たなければならない経験です。キリスト教は単なる信条や教理、あるいは宗教的儀式以上のものです。罪にむしばまれた人間の本来の姿は醜悪なものです。この人間性が、神に立ち帰る過程を「新生」といいます。これは人間のうちに起こる根本的な変革なのです。そしてこのような変化は、神の力が働かなければ起こり得ないものであり、また神の力に助けられて人が決意しなければならないのです。

新たに生まれるという経験の中には、いくつかの段階が含まれています。

第一は罪を認めることです。罪を認めないものに悔い改めは起こり得ません。そして人は、この罪を生まれながらに知っているとは限らないのです。パウロは、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」(ローマ人への手紙7章7節)と言っています。もちろん、外面にあらわれてくる大きな罪はわかるでしょうが、だれも知らない心の中の罪は、神の光に照らされなければわからないのです。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている」(ローマ人への手紙7章18節)と言ったパウロは、少なくとも外面的には、立派な学者であり、道徳家であり、人々の尊敬と信頼を勝ち得ていたのです。しかし神の光に照らされたとき、彼は外面だけの生活に満足できなくなりました。

意識していてもしていなくても、神にさからっているという事実が、人間の心から平安を奪うのです。喜びを取り去ってしまうのです。

新たな生活に入るには、まず罪を認めなければなりません。

次に罪を悲しむ心が起こらなければなりません。ここで注意しなければならないことは、罪の結果を悲しんで、罪そのものを悲しんでいない場合が多くあることです。「悪かった」というときに、罪を犯した自分自身のみにくさに涙するのではなく、その罪のためにいろいろな悪い結果を刈り取らなければならないことを恐れて、悲しむ場合があります。本当の悔い改めに至るためには、罪を認め、罪を憎み、罪を悲しみ、義を慕う心が起こってこなければなりません。そのとき、罪から離れようとの決心が与えられるのです。

罪を認めたとき、それがゆるされるためには一つの条件があります。ヨハネの第一の手紙1章9節に、「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」と書かれています。

すなわち、罪を認めてこれを告白することです。これには勇気がいります。また、謙遜でなければなりません。すべての罪の告白は、神に対して行わなければなりません。しかし、もし人に対して罪を犯した場合は、神に対してだけでなく、その人に対しても告白し、ゆるしを求めなければなりません。

ある人々は、魂の秘密を知る権利のない人々に罪の告白をすることがありますが、これは誤りです。公に知られた罪は、公に告白しなければなりませんが、ある人々だけにしか知られていない罪は、その人々にだけ告白すればよいのです。この点、特に健全な常識が必要です。また告白とともに罪に対する償いをできるだけしなければなりません。

ここまできて、イエスの十字架のゆえに、すべての罪がゆるされるのです。どんなにひどい罪でもゆるされるのです。ここで大切なことは、神を信じ、その約束に頼ることです。神の言葉を信じ、十字架の事実を見上げて、わたしの罪はゆるされたという確信を握ることです。神は真実な方です。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネの第一の手紙1章9節)という神の約束に信頼してよいのです。

あるいはあなたは、「少しも罪がゆるされたように感じない」と思われるかもしれません。しかし信仰は感情を土台とするものでなく、歴史的事実の上におかれた神の約束を、その通りに受けとることにあるのです。

回心の体験の最後の段階は、罪から離れることです。大きな罪を犯した女に、イエスは、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネによる福音書8章11節)と言われました。

福音の目的は、ただ罪をゆるすばかりでなく、ふたたび罪を犯さないような力を与えることです。罪に勝利していく力を与えることです。パウロは、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」(ローマ人への手紙1章16節)と記しました。

新しい生活に入るために、私たちには力が必要です。悪い習慣を改め、心の純潔を保ち、愛の奉仕をしていくための力です。人間の努力だけではできません。神の福音はこの力を与えます。神の力に支えられて新しい生涯に入るのです。

どうしてそういうことが起こるかと疑う方があるかもしれません。ニコデモも、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」(ヨハネによる福音書3章9節)と言いました。

しかし聖霊が働くときに、これが事実として体験されるのです。これは議論以上の世界です。

ウェスレーの回心は英国史を変えたとも言われます。人の心に起こるこの大きな変革は個人の生活を新しいものにし、家庭の生活に豊かなうるおいを与え、社会をきよめていくのです。

無神論者に挑戦されたある牧師が、公開討論に応じるにあたって次の提案をしました。

「私はキリストによって人生の目的を見いだし、喜びと平安を味わい、新しい生活に入り得た10人の証人を連れていくから、あなたも無神論によって人生の意義と希望を見いだし、新生涯に入った証人を連れてきてほしい」

しかし無神論者はこれに応じることができなかったということです。

謙虚に真理を求める人々に、キリストの言葉が新生の体験を与えてきた事実は、だれも否定し得ないのです。

新しく生まれた人々には、新しい世界が見えてきます。現実の、目に見える世界をこえた実在の世界をつかみ、霊の世界の深い真理を悟ることができるのです。

「だれでも新しく生まれなければ」。ここに希望の黎明があるのです。

私って、「罪人」ですか?

教会に来て、多くの人がとまどうことの一つに、「人はみな罪人である」という表現があります。「私は法に触れるような犯罪に手を染めたことはありません」と、ほとんどの人は思われるかもしれません。

新約聖書の原語であるギリシア語では、罪のことを「ハマルティア」(的外れ)といいます。的というのは、創造主である神のことです。宇宙をつくり、地球をつくり、そして私たちをつくられた創造主から離れている状態を指しています。神に背を向けるだけではなく、神の存在さえ知らない、その状態を聖書では「罪」というのです。

罪人である証拠

また聖書には、罪とは法を犯すことであるとも書かれています(ヨハネの第一の手紙3章4節参照)。神はモーセを通して私たちに十戒を与えられましたが、それがまさしく私たちにとっての「法」でもあるのです。さらにキリストは、心の中で人を裁いたり、悪口を言ったり、異性を情欲の思いで見ることも、「殺してはならない」「姦淫してはならない」という法に反するのだと教えられました。

このように心の中の思いまでがその基準としてはかられるとしたら、「私は罪を犯していない」とだれが言えるでしょうか。

さらに聖書には、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)とあります。罪は死によって償うしかないほど、汚れたものだと教えているのです。

神の約束

しかし、希望があります! ローマ人への手紙3章24節には、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」と書かれています。自分の力では、この罪の状態から抜け出すことはできませんが、キリストが十字架におかかりになり、私たちの身代わりとして永遠の刑罰を受けてくださったことによって、私たちは罪がゆるされるのです。これが、神の私たちに対するすばらしい約束です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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