第8課 死よりも強いもの

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つかみどころのないこと

持ち物や手足の一部ではなく、自分の存在そのものがなくなってしまう一大事について人があまり考えたがらないのは、考えてもわからないし、希望がないからではないでしょうか。死に関して例外はないのですが、なんとなく自分は例外にして生活しています。死は昔から宗教の重要なテーマでしたが、東大の宗教学教授、故岸本英夫博士は死を自分のこととして突きつけられた時のことを、その著『死を見つめる心』の中に記しています。博士はスタンフォード大学の客員教授として米国に滞在していたある日、リンパ腺のがんであることを告げられたのです。

「2階に上って、ドアーをしめると、はじめて、ひとりになった。ガランとしたへやにだたひとり、とりのこされてしまったような気持ちがした。ソファーに腰を下してみたが、心を下のほうから押し上げて来るものがある。われしらず叫び声でもあげてしまいそうな気持ちである。いつも変わらない窓の外の暗やみが、今夜はえたいのしれないかたまりになって、わたしの上に襲いかかって来るような気がした」。

死の苛酷な現実と人間の無力さを思い知らされるのは、なんといっても人が火葬場のかまの中で焼かれ、灰に帰してしまう時ではないでしょうか。岸本教授もその時のことを考え、こう記しています。

「自分がなくなるということは、いったいどういうことか、いま、ものを考えているこの自分というものがなくなってしまうことである。つかみどころのないようなことでありながら、思っただけでも身の毛がよだつようなことである」。

どのようにしてその死の不安とむなしさから逃れることができるか、さまざまな教えがなされてきました。

釈尊は、死についての苦しみは、人間の生に対する執着にある。諸行無常、諸法無我、すべてのものは移り変わっていくのであって永遠に存続する実体あるものは何もない。そのことに徹すれば執着を断ち切り、なにものにも動じない悟りの境地に到達することができると教えられました。

孔子は論語の中で、「自分はまだ生きることがよくわからない、まして死についてはわからない」と正直に死の問題についての自分の限界を認めました。

人類史上例のない出来事

世界有数の宗教の開祖たちの墓は、みな今でもたいせつにされ、人々が参拝に訪れます。しかし、世界最大の宗教といわれるキリスト教を開いたキリストの墓はどこにもないのです。キリストは生前から自分が世に来たのは、人間の罪をあがない、そしていのちを与えるためにほかならないとその死を予告しておられました。ただしそれはすべての終わりではなく、ご自分にはその死を破るいのちの力があることも宣言しておられたのです。

「だれかが、わたしからそれ(命)を取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」(ヨハネによる福音書10章18節、口語訳)と言っておられたのですが、弟子たちにはその意味がわかりませんでした。

そしてそのキリストが十字架の上にいのちをささげられたとき、望みを失った弟子たちは「みなイエスを見捨てて逃げ去った」のでした。望みが費えたばかりでなく、自分たちの身にも危険が及ぶのではないかと恐れたのです。ヨハネによる福音書には、「弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめて」いたと記されています。もしこのまま何も起こらなかったなら、やがてイエスの名も弟子たちの名前も、歴史の流れの中に永久に消えていったことでしょう。

ところが、そのおくびょう者の弟子たちが、エルサレムの街に立ち、死を覚悟でキリストこそ人類の救い主であることを確信を持って宣べ伝えはじめたのです。実際弟子たちの多くは、殉教の死を遂げていきました。一体何が起きたのでしょう。死を恐れて一時は「そんな人は知らない」と3度もキリストを否定した弟子のペテロの証言です。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(使徒言行録3章15節、新共同訳)。ペテロと同じくローマで殉教したといわれるパウロの言葉です。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。……あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。……しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(コリント人への第1の手紙15章14~20節、口語訳)。

死に打ち勝つ力

このキリストの復活にこだわり続けた作家が故遠藤周作氏でした。彼はその著『イエスの生涯』の中で前述のパウロの言葉を引用して、「この絶対的な自信、動くことのない確信は何よりもわたしたちを圧倒してしまう。どこからこの自信と確信は生まれたのか。もしそれが事実でないとするならば……」と述べています。

もしそれが事実でないとすれば、キリストの弟子たちのみならず、それは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネによる福音書11章25節、口語訳)と言われたキリスト自身を世界最大の偽り者にしてしまうことになります。

キリストの十字架の死によって消え失せるかのように見えたキリストの教えは、キリストの復活によってよみがえったのです。キリストの復活は、その十字架の死が敗北ではなく、わたしたちに罪のゆるしと、死を超えたいのちの希望を与える神の愛の勝利の確証となったのです。

祈りの言葉
神さま、キリストを信じるときに死を超えたいのちの希望が与えられることを知りました。しかし、まだ半信半疑のときもあります。どうか、おくびょうだったイエスの弟子たちが殉教の死をも恐れなくなった理由を私にも信じさせてください。そして私から死の不安とむなしさを取り去りいのちの希望への確信をお与えください。
イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。アーメン。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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