【ヨナ書】救いは主にある【1ー2章解説】#6

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ヨナ書1章は山場を迎えます。神からの使命を逃れてきた預言者ヨナは暴風に遭って死にそうになります。しかし、このような苦境の中で主に祈ったのは預言者ヨナではなく、異教徒の水夫たちでした。

「ついに、彼らは主に向かって叫んだ。『ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから』」(ヨナ1:14)。なんという皮肉でしょう。イスラエル人でない異教徒たちが、不従順な神の預言者の前で、預言者の死の責めを自分たちに負わせないでくださいと祈っています。主の僕たちが黙っている一方で、異教徒たちが主に祈るこのような光景は聖書の中にめったに出てきません。終始、異教徒たちが本来ならヨナのなすべきことをしています。

さらに、これらの水夫たちはヨナのあかし(9節)を受け入れて、イスラエルに与えられた特別な契約名を用いてヨナの神に祈っています。彼らは恐怖にかられて行動していたかもしれませんが、時には恐怖も注意を喚起するうえで有用かもしれません。

物語に沿って、次に何が起こるか見てみましょう。

主を畏れる

先週は、死に物狂いの中で、彼らは言われた通りヨナを海に投げ込みます。すると、「荒れ狂っていた海は静ま」ります(ヨナ1:15)。海を造られた神は明らかにそれを支配しておられます。

暴風が静まったのを見た水夫たちはどうしましたか。ヨナ1:15、16

水夫たちが天候の急変を気まぐれな自然のせいと見ることもなく、単なる偶然や幸運とも見ていません。それどころか、彼らは「大いに主を畏れ」ました(16節)。先に、彼らは暴風を恐れましたが、今は暴風そのものよりも暴風の主を畏れました。それまでは様々な偽りの神々を拝んでいた水夫たちが、ヤーウェの神を拝み、誓いを立てています。彼らは生ける神を知るに至り、海を創り、それを支配しておられる真の神に犠牲を献げ、誓いを立てています。

神は奇跡によって水夫たちを救われました。その結果、水夫たちは神を崇めるに至りました。このことはイエスの生涯と働きによる救いの計画をどのように例示していますか。ヨハネ9章参照

私たちはイエスによって救われ、死から解放され、次に、この救いの結果として、イエスを崇め、従うようになるのでした。これらの水夫たちの場合も同じです。畏敬、礼拝、服従そのものは決して人を救いません。それらは信仰によって奇跡的に救われたことの結果に過ぎません(ガラ2:20参照)。

魚の腹の中で

水夫たちはみな、ヨナが溺れ死んで、海底の藻屑(水難・海戦などで死ぬこと)となったに違いないと考えたことでしょう。しかし、ここでもまた、神が自然界を完全に支配しておられることが明らかにされます。

神の主権がどのようなかたちで現されましたか。ヨナ2:1(口語訳1:17)

人間が生きたまま魚に呑み込まれ、その腹の中で丸3日も生き続けるという話は、この21世紀だけでなく、どの時代にあっても信じがたいことです。それなのに聖書は、この不思議な出来事の説明も正当化もしていません。著者はただ、そのことを事実として記録しているだけです。主がそうされても何ら不思議なことはない、と考えているからです。ヨナ書は、主が大いなる魚に「命じて」とあるのは、「定めて」と訳すこともできます。この動詞の語源になっているヘブライ語は、「定める」「備える」「数える」「見なす」を意味する言葉です。ここで、この言葉が用いられているのは、神が被造物を支配することによって御自分の目的を達成されることを強調するためです。事実、著者はほかに3回、これと同じ動詞を神の主権と結びつけて用いています。

ほかにどんな動詞が魚の行為を描写するのに用いられていますか。

旧約聖書の中に「呑み込む」という動詞は、神の民に対する裁きを描写するのに用いられる場合があります。事実、神の民に対する裁きの多くは彼らを悪から立ち返らせるための手段にほかなりませんでした。裁きには贖罪的な意図がありました。主はヨナに対してもそのような意図を持っておられたに相違ありません。そうでなければ、魚はヨナを丸ごと呑み込む代わりに、噛み砕いていたはずです。

ヨナは何日間魚の中にいましたか。ヨナ2:1(口語訳1:17)

これと同じ時間的表現が旧約聖書のどこに見られますか。サム上30:12、列王下20:5、8、ホセ6:2

この時間的表現は新約聖書の中でどのように用いられていますか。マタ12:39、40(ルカ11:30参照)

イエスはヨナの奇跡的救出を御自分の苦難・死・復活のしるしとして用いておられます。預言者ホセアは、ヨナの経験の時期を復活の文脈の中で語っています(ホセ6:2)。このように、キリストが御自分の死と復活の経験をヨナの経験にたとえられたとき、彼は旧約聖書にすでに見られる一般的な理解にもとづいて語っておられたのです。

一方、地中海に投げ込まれたヨナは、自分をすっぽりと包み込んでいる闇が「陰府」(ヨナ2:3)のそれでないことを理解するにはしばらく時間がかかったでしょう。自分が助かったとわかったとき、彼はそれを神の救いのしるしとして受け入れました。

その時、ヨナはどうしましたか。ヨナ2:2(口語訳2:1)

ヨナの祈りは、溺れるときの苦しみ、死の淵で感じたこと、「大魚」の腹の中での体験や思いをよく表現しています。彼はその祈りの中で詩編の言葉をいくつも引用しています。祈りの中で詩編の言葉を引用することは珍しいことではありません。

地とその扉

ヨナ書2:3~10を読んで、ヨナの祈りの冒頭部分を詩編18:7(口語訳18:6)、120:1と比較してください。ある聖書注解者たちはこのヨナの祈りを、主が恐るべき境遇から救い出してくださったことに対する感謝の詩編と呼んでいます。

興味深いのは、生きたまま魚に呑み込まれた後も、ヨナが自分を救ってくださった神をほめたたえていることです。明らかに、彼は主の御手の業を見、神の救いを悟ったはずです。ヨナは主に背き、明らかな義務から逃れようとしました。しかし、主は彼をお見捨てになりませんでした。

ヨナ書2:5を読むと、ヨナはここで、「わたしは思ったあなたの御前から追放されたのだと」言っています。これをヨナ書1:3、4と比較してください。どんなことがわかりますか。

絶望的な苦悩で始まるヨナの祈りはどのように結ばれていますか。ヨナ2:10(口語訳2:9)

多くの人は神の憐れみに関するこの最終的な宣言をヨナ書の中心、著者の強調点と見なしています。結局、ヨナは神の救いの憐れみを認めざるを得ませんでした。しかしながら、異教徒の水夫たちはすでにそのことを認めていました。

ヨナ書1章と2章は共にいけにえと誓いをもって終わっています。そこにはヨナの経験と水夫たちの経験とが対比されています。どちらも暴風という極限状況に直面しました。どちらも神の主権を認めて、神に助けを求めました。どちらも助かりました。どちらも礼拝をささげました。多少時間がかかりましたが、ヨナも最後には異邦人の水夫たちと同じ境地に到達しました。

苦しい時に祈る

ヨナは、「救いは、主にこそある」という言葉をもって祈りを結んでいます。この「救い」にあたるヘブライ語は直接的な肉体の救いばかりでなく、永遠の救い、究極の贖いをも意味します(「救い」という言葉は語源的にはメイエスモと同じです)。

もちろん、ヨナの問題は主に対する信仰にあるのではありません。ヨナ書1章で、ヨナは神に対する信仰とは無関係に行動しています。したがって、彼が主と主の力についてどれだけ素晴らしい宣言をしたとしても、それだけでは何の意味も持ちません。ヨナの場合は「行いの伴わない信仰」の最も良い実例の一つです(ヤコ2:18~20参照)。

行いの伴わない信仰の実例をあげるとすれば、だれをあげますか。ユダですか。サウルですか。12人の斥候ですか。彼らの信仰はどのように現されましたか。

ヨナはその祈りの中で一度も自分の背信を告白していません。彼が心から悔い改めたしるしはありません。もちろん、だからと言って、彼が魚の腹の中で罪を告白しなかったということにはなりません。しかし、そのように書かれていない事実を見落としてはなりません。たとえ彼が罪を告白して、心から悔い改めなかったとしても、主はなおも彼を試し、彼と共に働かれるのでした。

ヨナの祈りを詩編51編のダビデの祈りと比較してください。どこが同じで、どこが異なりますか。

ヨナの祈りは私たちに、失敗の中でも祈ることができることを教えています。たとえ、その失敗が自分自身の不従順によるものであっても、です。これはぜひ学びたい教訓です。なぜなら、そのようなときに祈ることは非常に難しいように思われるからです。神に祈る権利がないように感じるからです。祈りたくても、神の助けを求める資格がないように感じるからです。

まとめ

「悪魔がきて、あなたは恐ろしい罪人であると言うならば、あがない主を仰ぎその功績を語りなさい。キリストの光をながめることは大きな助けになります。自分の罪を認めるとともに、敵には、

『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』

(テモテ第1・1:15)と告げねばなりません」(『キリストへ道』)。

「罪を告白した後で、神の御言葉が確かであること、神が約束に忠実なお方であることを信じなさい。罪を告白することがあなたの義務であるのと同じくらい、神が御言葉にしたがって、あなたの罪を赦してくださると信じることもあなたの義務である。御自分の御言葉に約束されたことを忠実に実行し、あなたのすべての罪を赦してくださる神に対して信仰を働かせなければならない」

(エレン・G・ホワイト『この日も神と共に』89ページ)。

「あなたは過ちを犯したことがないだろうか。イエスのもとに行き、イエスに赦しを求め、イエスが赦してくださると信じなさい。

『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます』(Iヨハ1:9)。主に過ちを赦してくださるように求めなさい。そして、主にあって喜びなさい」(エレン・G・ホワイト『天をながめて』132ページ)。

「自分の欠点を嘆いていても何の助けにもならない。むしろ、次のように言いなさい。『主よ、私の哀れな魂をあなたに、しかもあなただけにお委ねします。私はもう心配しません。あなたが、「求めなさい。そうすれば、与えられると言われたからです』。与えられると信じなさい。あなたの救い主が同情に満ちたお方、優しい憐れみと愛に満ちたお方であることを信じなさい。ささいなことで悩んではならない。主は小さな失敗によってあなたを大きな失敗から守ってくださるのである」(エレン・G・ホワイト『天をながめて』132ページ)。

ミニガイド

船底で熟睡しているヨナが目を覚ましたのは、前代未聞の嵐に遭遇した乗組員たちの動揺と、船客たちの戸惑いに翻弄されている船長の荒々しい声でした。嵐の原因を突き止めたい彼らは、乗船するや否や、姿をくらました一人の乗客に思い当たる節がありました。

さんざん捜したあげく、船底でふてぶてしく寝息をたてている乗客ヨナを見つけました。乗組員、乗客がみな顔を揃えたところで、神の怒りの原因を知ろうと、クジを引き始めました。ヨナの心境は、あのアカンが部族から家族へ、そして自分に当たった時のようであったでしょうか。神のご指示は、寸分の狂いもありません。ヨナに的中したのです。

異教徒の人々は、矢継ぎ早に質問を浴びせて、神を信じているといいながら、大胆にもそのご命令に背いた預言者、嵐の原因ともなった人をつきとめました。

「なんという事をしたのだ」。これは重い言葉です。「あなたはクリスチャンでありながら、どうしてそんなことをするの?どうしてそんなことを言うの?」と問われて、クリスチャンとしてふさわしくない言動があったことを知り、我ながら恥じ入ることがあります。その人はクリスチャンの標準を知りながら、自分がその標準にないことは棚に上げて、クリスチャンの言語動作を観察して、その非をあげつらわれた経験が、皆さんにも一度ならずあると思います。

「『海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ』と告白しながら、その実、お前たちは偽善者だ!お前たちの生活はなっちょらん!」私も家内の家を訪問した時、義父から何度も聞いた言葉です。たしかに義父は、周りの人々に親身になって世話を焼き、人々もその振る舞いや人格に評価を与えていました。

私たちの立場から、神を信じない人の生活を見れば、逆の質問をしたいぐらいに、その人の生活はもっと虚偽に満ちていると思える人をあえて神はお用いになって、私たちの弱点や偽善的な一面を浮き彫りにされて、私たちを矛盾のない生き方に連れ戻れそうとなさるのでしょう。

私たちは「すべての人から読まれている」「キリストの手紙」(Ⅱコリ3:3)であるだけに、その責任と特権を自覚したいと思います。未信徒の人々の目は鋭く厳しく感じられますが、キリストの目はもっと鋭く的確なものであることも覚えましょう。

「立っている者は、倒れないように」気をつけねばなりませんし、これまで大丈夫だったからといって、この後も大丈夫という保障はありません。ただ、神の憐れみにすがって、一歩一歩進むのみです。自分の非を悟ったヨナも、自ら水中に身を投じる勇気もなく、投げ込むように頼むしかなかったのですが、憐れみに富む神のまなざしは注がれ続けられました。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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