【ヨナ書】第二の機会【2ー3章解説】#7

目次

この記事のテーマ

ここまで、ヨナ書に記された様々な出来事について見てきました(まだ2章しか見ていません)。これまでに学んだなかで最も重要なことの一つは何でしょうか。それは、ヨナのうちに働かれた神が今日の私たちのうちにも働いておられるということです。私たちの試練や経験はヨナほど劇的ではないかもしれません。私たちの召しはヨナほど重大ではないかもしれません。しかし、神が私たちに対して抱いておられる関心と愛は、神がヨナに対して抱いておられたそれと何ら変わりありません。もちろん、そのように信じる信仰があれば、の話ですが。神がヨナのためになさったことはすべて、この優柔不断な預言者を御自分の望まれるところに導くためでした。神は私たちに対しても同じようにされないでしょうか。もちろん、その必要があれば、の話ですが。

ここまでヨナ書の中で見てきたことは聖書全体に見られることの一つの特別な例です。それは従順な心の持ち主に対して働く神の驚くべき恵みと言えます。

神の「言葉」が再び臨む

ヨナ書2章11節(口語訳10節)を読んでください。多くの翻訳では、この聖句の微妙な意味が訳出されていません。この聖句を文字通りに訳すと、「主は魚に言われた。すると、魚はヨナを吐き出した」となります。「主〔神〕は言われた」という表現は聖書にごく普通に見られる表現です。

たとえば、創世記の天地創造の記録の中に、次のような表現が見られます。「神は言われた。『光あれ』。……神は言われた。『水の中に大空あれ』」(創1章参照)。同じように、ヨナ書でも、被造物に対する主の権威を示す動詞形が用いられています。もし主がその言葉によってこの世界と自然界を創造されたとすれば、ヨナ書の初めの数章に見られるように、主が同時に自然界を支配されるとしても不思議ではありません。

ヨナ書3:1を1:1と比較してください。どんな共通点が見られますか。

ここでも、神の行為がその「言葉」を通して現されています。詩編33:6、107:19、20、イザヤ書55:10、11を読み、そこに主の「言葉」がどのように現されているか見てください。これらの聖句は、神が御心を地上に実現される方法を示しています。それによれば、神は御自分の「言葉」を通して御心を地上に実現しておられます。

「タルグム」は旧約聖書(の一部)をアラム語に訳したもので、ユダヤ教の会堂において大きな影響力を持ちます。それによれば、「主の言葉」は主御自身と密接な関係に置かれています。

聖書には、「神は……人を創造された」とあります(創1:27)。タルグムはこれを、「主の言葉は人を創造された」と訳しています。聖書には、「主は……地上に人を造ったことを後悔し」とあります(創6:5、6)。タルグムはこれを、「主は御自分の言葉によって人を造ったことを後悔し」と訳しています。聖書には、アブラハムは「主を信じた」とあります(創15:6)。このような例はほかにもたくさんあります。

第二の機会

ヨナは初めに従わなかったにもかかわらず第二の機会を与えられています。ヨナは故意に、頑固に神に背きました。不思議なのは、神がそれでもヨナをお見捨てにならなかったことです。神は背いたヨナを再び召しておられます。

神はほかにだれに第二の機会を与えておられますか。創22:1~10

「神は、アブラハムを信仰の父として召されたのであるから、彼の生涯は後世の人々の信仰の模範となるべきであった。しかし、彼の信仰は完全ではなかった。彼はさきに、サラが妻であることを隠し、こんどはハガルと結婚して神への不信を示した。神は、彼が最高の標準に達するために、これまでまだだれも召されたことのないきびしい試練に彼を会わせられた」(『人類のあけぼの』上巻153ページ)。

第二の機会を与えられた人をほかにあげてください(創28:10~22)。あなたもそのような経験がありますか。

「エサウの怒りに生命をおびやかされて、ヤコブは逃亡者となって父の家を出た。しかし、彼は、父の祝福をたずさえていった。

……しかしヤコブは、深く物思いに沈んでさびしい旅に出かけた。2日めの夕方、彼は父の家から遠く離れたところに来ていた。彼は、自分が放浪の身に陥ったことを感じた。そして、この苦しみは、すべて、自分のまちがった行為の結果であることを悟った。絶望の暗黒が、彼の心におしかぶさり、祈ることすらできなかった。しかし、その極度の寂しさのなかで、これまでになかったほどに神の保護の必要を痛感した。彼は、涙を流して深く恥じ入り、罪を告白し、自分が全く見捨てられていないという確証を願い求めた。……しかし、神はヤコブを見捨てられなかった」(『人類のあけぼの』上巻198、199ページ)。

神の賜物

私たちの神は赦しの神、愛と憐れみの神です。救いの全計画はこの赦しの思想にもとづいています。それは、神がキリストによって罪のゆえに死すべきものとなった人間に命を与えてくださるという思想です。

次の各聖句は人間の本質、品性、行為について何と教えていますか。イザ53:6、イザ64:6(口語訳64:7)、エレ17:9、ロマ3:23、ロマ5:12

私たちの周囲を見れば、これらの聖句の正しさが容易に理解できます。周囲を見るまでもなく、自分自身を見るだけで十分です。神はヨナに第二の機会をお与えになりましたが、これは神がイエスの十字架を通して人類のために成し遂げてくださったことの実物教訓です。私たちはみなキリストを通して第二の機会を与えられています。私たちはみな、キリストが与えてくださる輝かしい贖いにあずかる機会を与えられています。

エフェソ2:1~10を注意深く読んでください。これらの聖句は上記の言葉をどのように要約していますか。罪、死、過ち、不従順、欲望、肉、怒りという言葉は私たちの行為と品性をどのように描写していますか。対照的に、主の行為と品性がどんな言葉で描写されていますか。

再度の第二の機会

もし私たちが多くの第二の機会でなく、一回限りの第二の機会しか与えられないとしたら、果たしてどれだけの人が救われると思いますか。

ヨハネの手紙Ⅰ・1:8~2:1を読んでください。これらの聖句は、クリスチャンとしての私たちが一回以上の「第二の機会」を必要としていることをどのように例示していますか。特に8節に注意してください(ギリシア語では、「罪がない」は現在時制になっています)。

私たちは何度も何度も赦しを必要とします。ヨナは二度、神の赦しを経験していますが、私たちはそれ以上に何度も神の恵みと赦しを経験しているのではないでしょうか。他人の罪と、彼らに対する神の御業にばかりに目を向けていると、自分がどれほど豊かに神から恵みを受けているかが見えなくなります。

「イエスは、ひとりびとりの魂の事情をご存じである。自分は罪深い者だ、とても罪深い者だとあなたは言うだろう。あるいはそうかも知れない。しかしあなたが悪ければ悪いほど、イエスが必要なのである。主は泣いて悔い改める者を決してしりぞけられない。主は明らかに示すことがおできになることを全部だれにでもお告げになるとは限らない。主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。主はゆるしと回復とを求めてみもとに来るすべての者を快くゆるしてくださる」(『各時代の希望』中巻396、397ページ)。

神が私たちを何度、穴の中から引き上げてくださったか思い起こしてください。そうするなら、神が反抗的な御自分の預言者ヨナに示してくださった恵みをもっと理解することができます。

再度の挑戦

「主の言葉」が再びヨナに臨みます。主は何と言われましたか。ヨナ3:2

「さあ、大いなる都ニネベに行って」という神の命令は、初め神から与えられたものと同じです。神はなおもヨナをニネベに遣わそうとしておられました。神はヨナの頑迷さに失望されません。

今度は、ヨナはどのように応答しますか。ヨナ3:3

1章のときと同じように(3節)、ヨナは「立って」行きます。しかし、今度は、「主から逃れ」ることなく、「主の命令どおり」に従います。彼のたどった長旅のことは何も書かれていません。1、2章に記された初めの旅とは対照的です。ニネベの都の光景が直ちに目の前に広がります。初めの旅の行程が詳しく書かれているのには理由がありました。神に対するヨナの反抗を描くためでした。しかし、ヨナが従ったからには、旅行の行程を描く必要はありませんでした。重要なのはニネベです。

ニネベはどのように描かれていますか。ヨナ3:3

ニネベの大きさは、「一回りするのに三日かかった」(3節)という言葉のうちに暗示されています。当時の標準からしても、それは大きくて、重要な都でした。ニネベはまた、神がわざわざヨナをそこに遣わそうとされたことからもわかるように、神にとって「大いなる」都でした。

まとめ

「私の兄弟・姉妹方よ、目を覚ましなさい。まだ福音の宣べ伝えられていない国内の伝道地に入って行きなさい。外国の伝道地のためにいくぶんかを献げたからといって、それで自分の義務が終わったと考えてはならない。外国の伝道地にもなすべきことがあるが、同じくらい重要な国内にもなすべきことがある。アメリカの町々にはあらゆる言語の民がいる。これらの人々も、神が御自分の教会にお与えになっている光を必要としている」(『教会へのあかし』第8巻36ページ)。

「遠い地のいろいろな国々の住民に警告する種々の計画が実行されている一方、われわれの国の岸にやってきている外国人のために多くのことがなされねばならない。われわれの戸口のかげにいる人々は中国にいる人々と同様に重要である。神の民は、み摂理が道を開くままに遠い地で忠実に働かねばならない。それと同時に彼らはまた、近くにある都市や村、いなかの地方にいるさまざまの外国人に対する義務も果たさねばならないのである」(『クリスチャンの奉仕』285、286ページ)。

ミニガイド

再度の任命

ヨナは、大魚の胃の中に三日三晩閉じ込められ、呑み込んだ魚のえさ、消化液など、どろどろした液体の中の、不快きわまる環境の中でも守られ、三日目に吐き出されました。おそらく彼は失神していたでしょう。気が付いてみると、自分が生きていて陸地にいる、それだけのことでした。どの地点に置かれたのでしょう。そのあたりは聖書に書いてありませんが、おそらく、彼が逃げ出そうとした、ヤッファの近くの海岸だったのでしょうか。いわば、振り出しにもどされたのです。最初からやり直しです。名誉回復のチャンスです。

再び主の言葉が臨みます。今度は少し主の言葉に変化があります。前の言葉は「ニネベの町に対して(against)」【1:2】神のみ旨を伝えることでしたが、今度は「ニネベの町に(unto)」【3:2】伝えるよう命じられます。今回は、伝える理由も、内容も告げられていません。絶対的な服従だけが要求されています。大魚の腹の中での、彼の悔い改めが本物であるか、「いけにえをささげて、誓ったことを果たそう」と主に対する誓いが実行されるかが試される時です。今度だけは、主に抗議する意思も、反論する意図もへし折られていました。

彼は異教徒をも愛される主の御心に、自分も賛同して宣教に出かけたのでしょうか。異邦人に対する偏見は捨てたのでしょうか。それは4章で明らかになるように、彼の宣教の結果ニネベの住民がこぞってその悪の道を離れたことを知り、主が災いを下すことを差し控えられたとき、「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った」(4:1)ことを読めばわかるとおり、異邦人を愛する思いはなく、偏見に満ちたままでした。

しかし、主はヨナを強制的に遣わされたのではありませんでした。ヨナが喜んで従うように導いておられます。神は、自分勝手な私たち、主のご要求を無視し、真っ向から反抗する人間を回復してくださるばかりでなく、もう一度、更にもう一度と、御用に用いてくださるとは驚くべきことです。

大きな町

ある著者はニネベを次のように描写しています。

「基礎工事を施した、広大な高台の上に、何階もの高さに及ぶ宮殿、兵器庫、兵舎、図書館、神殿がいくつもそびえ立っていた。水を豊富に供給するシステムが、巨大な水門を備えた運河から四方八方に広がっていた。空中庭園が設けられ、そこには立派な植物と珍しい動物が充ちていた。アラバスター(雪花石膏)、金、銀、宝石がくすんだレンガのかたまりにアクセントをつけていた。それは、壁のあらゆるくぼみや銃眼つきの胸壁に取り付けられていた。……城壁の外側には広大な郊外があり、その向こうにも別の町々が続き、住宅地が延々と広がっていた」。

ヨナの祈り

ヨナの大魚の腹の中での祈りは、詩編との類似点が多く見られます。思想、表現に詩編の作者の手法が祈りに織り込まれています。詩編3編、18編、107編、120編、124編などと類似しているといわれます。祈りは3区分されます。

2―4節 危機と苦難

5―7節 苦難からの救い

8―9節 救われた感謝と賛美

*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次