【ヨナ書】めざましい働きをした伝道者、ヨナ【3章解説】#8

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ヨナはアッシリアの首都ニネベに入ります。彼は神から与えられた使命を大胆に宣べ伝えます。ニネベの都に驚くべきことが起こります。悔い改めるとは思わなかった人々が心から悔い改めたのです。事実、彼らの悔い改めはヨナ書の中でも最大の驚きです。

彼らにこれほどの方向転換をさせたものは何だったのでしょうか。聖書は何も語っていません。回心が個人的で、まれな経験であることを考えると、異教徒の都全体が回心することは驚きです。聖書によくあることですが、ここでも詳しい説明は与えられていません。とすれば、与えられた情報で満足するしかありません。罪人に与えられた神の恵み深い愛を理解するにはそれで十分です。

アッシリアの首都で説教する

ヨナの説教を要約したものがあればよかったかもしれません。異教の民にこれほど強力な影響を与えた説教がどのようなものであったかがわかるからです。

彼は何を伝えようとしたのでしょうか。彼が説いたのは一神教でもなければ、神の無限の愛や永遠の希望・約束でもありません。教会一致運動を推進しようとしたのでもありません。それは、悪しき道を離れなければ神の裁きを受ける、ということでした。

ヨナは特に何について警告しましたか。ヨナ3:4

裁きは救いと共に聖書に一貫して流れている中心的なテーマです。両者は互いに関連しています。悪人にとって、裁きは死と滅びを意味しますが、義人にとって、裁きは勝利と正義、救いを意味します。義人であれ悪人であれ、だれひとり裁きを逃れることはできません。

裁きの思想は聖書の中に様々なかたちで現れます。次の聖句は裁きについてどんなことを教えていますか。創15:14、詩1:5、19:10(口語訳19:9)、コヘ3:17、12:14、ダニ7:22、ヨハ12:47、ルカ21:36、使17:31、Ⅰヨハ4:17、黙20:12     

神の最終的な目的は裁くことでなく救うことにあります。ヨハネ12:47を読んでください。ここに、神のすべての裁きが救いを目的としていることが教えられています。

あと40日すれば

神は何日後にニネベの都を滅ぼすと言われましたか。これと同じ数字(40日)はほかにどこに出てきますか(創7:17、出24:18、民14:33、34、マタ4:2、マコ1:13、ルカ4:2、使1:3を読んでください)。これらの聖句に記されている出来事とヨナ書の出来事との間に何か共通点がありますか。

ヨナが何と言ったかはわかりませんが、結果は明らかでした。ヨナ書3:5にある「身分の高い者も低い者も」(文字通り訳すと、「大きい者から小さい者まで」、口語訳参照)という表現は、ヘブライ語で全体を表す一般的な表現です。邪悪な異邦人の町全体が、ヨナが裁きについて語ったことを真理として受け入れます。

第1章に出てきた異教徒の水夫たちと同様、ここでも異邦人が天の神を受け入れるのを見ます。邪悪なニネベの都の、異教徒の住民がヨナの語る裁きのメッセージを真剣に受け入れます。

ヨナがニネベの都に恐ろしい警告を発したとき、どんな驚くべき結果が見られましたか。ヨナ3:5

ニネベの住民はヨナを信じただけでなく、「神を信じ」ました

(ヨナ3:5)。彼らはほかの神々を礼拝していましたが、必ずしも唯一の至高の神、裁き主なる神を知らなかった、あるいは反抗的であったとは言えません。ニネベの住民は、自分たちが神の裁きを受けて当然であると考えました。聖書にもあるように、異教徒であれクリスチャンであれ、各人の心には良心があり、神はそれを目覚めさせてくださいます。

異教徒の回心(ヨナ3:5―8)

ニネベの人々は、自分たちが神の裁きを受けて当然だと考えました。そこで、断食をし、粗布をまとうことによって悔い改めの気持ちを表しました。これらの行為は悔い改めを表す方法でした。一人の魂を真の悔い改めに導くためには、多大の労力が必要です。それなのに、異教徒の町全体が悔い改めたのですから、まさに驚きです。

一般の住民のほかに、だれが裁きのメッセージを聞きましたか。ヨナ3:6

古代近東諸国の王たちは、特に「外国」の神の前では高慢で頑迷なことで知られていました。しかし、ニネベの王は違いました。彼らは、神の前にへりくだりました。

「ニネベの王」という称号は、すなわち「アッシリアの王」ということです。しかし、アッシリアという国名はヨナ書に一度も出てきません。当時の文書においては、主要な都市の名前によって一国を代表するのが一般的な慣習でした。

王はヨナのメッセージにどのように応答していますか。ヨナ3:6~9

王の一連の動きに注目してください。彼は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ捨て、それから粗布をまとって、灰の上に座します。王座から下りて灰の上に座し、王衣を脱いで粗布をまとっています。これは心からの悔い改めを表しています。

この異教徒の王は巧みな方法を用いて自分の罪を隠そうとはしませんでした。彼は自分の過ちを正直に認めました。自らの悔い改めの必要を認めて民の前に模範を示しました。

王の布告

王はどんな注目すべき布告を出しましたか。ヨナ3:7~9

食べることと水を飲むことは全く別のことです。しかも、通常、断食は動物にまでは当てはまりません。しかしながら、なぜか動物まで、食べることも、水を飲むことも禁じられています。彼らはヨナの言葉を非常に重大なものとして受け止めました。家畜にまで言及しているということは、王の使者が城壁の外の農村地帯にまで遣わされたことを暗示します。

王はさらにどんな要求をしましたか。ヨナ3:8

「粗布」は罪に対する悲しみを表します。粗布をまとうことは罪によって生じる破綻を表します。粗布をまとうときのざらざらした不快感は罪の恐ろしさを表します。それは、罪人が聖なる神の前にいかに哀れな状態であるかを表します。

「灰」は焼き尽くす火と罪の最終的な消滅を表します。

王はニネベの人々にさらにどんなことを要求しますか。ヨナ3:8

王はニネベに蔓延していた様々な罪悪の中から特に不法を指摘しました。神がニネベを裁こうとされたのも不思議ではありません。不法はアッシリア人の特徴でした。考古学者によって発見された花崗岩の壁板には、彼らが征服した民に対して行った残虐な行為が描かれています。王はニネベの文化が暴力に彩られていることを自ら認めたのです。

真の悔い改め

王の布告はどんな動機から出ていましたか。ヨナ3:9

王は、自分たちの罪の赦しが天と地の大いなる神の憐れみにかかっていることを認めました。恐ろしい暴風に遭遇したとき、ヨナに、「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」と懇願したあの船長と似ています(ヨナ1:6)。両者の共通点に注目してください(ヨナ3:9)。どちらの場合も、自分たちの力を超えた神の憐れみに全く頼るしかなく、神の恵み以外に助かる機会はありませんでした。

神が災いをくだすのを「思い直され」た(ヘブライ語では、「哀れに思い」)のは彼らの行い(信じたこと、断食したこと、粗布をまとったこと、家畜にも断食させたこと)のうちの特にどの行いを「御覧になり」、災いを撤回されましたか。このことは私たちにどんな重要なことを教えていますか(ヤコ2:2~26参照)。

後にニネベの人々の悔い改めについて何と言われていますか。マタ12:41

イエスは後に彼らの悔い改めに言及しておられます。ヨナ自身の民であるイスラエル人は、神と特別な契約関係にあったにもかかわらず、ニネベの人々と同じような集団としての経験にあずかることができませんでした。結局のところ、彼らは悔い改めなかったために裁きを受けました。

このように、神はすべての人を分け隔てなく、同じ基準によって扱われます。最後には、ニネベもエルサレムも滅ぼされました。神はすべての民族を平等に扱われます。

まとめ

「ニネベは悪しき町であったが、全体が悪に染まっていたわけではなかった。『人の子らをひとりひとり御覧にな』る(詩33:13)お方は、……より良いもの、より高いものを求める多くの人がこの都の中にいるのを知っておられた。……神は確かな方法で彼らに御自身を啓示し、できることなら彼らを悔い改めに導こうとしておられた」(エレン・G・ホワイト『戦いと勇気』230ページ)。

「『神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる』。キリストの来臨に先だった暗黒の時代に、支配者であられる神は、異教徒の偶像礼拝を見過ごしておられたが、今、神はみ子を通して真理の光を人々にお与えになり、貧しくつつましい者ばかりでなく、誇り高い哲学者やこの世の君主たちすべてが、救いを得させる悔い改めに導かれるようにと望んでおられた。『神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである』。パウロが死者の復活について語ると、『ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った』」(『患難から栄光へ』上巻258ページ)。

「この王が与えたゆるしは、すべての罪に対する神のゆるしをあらわしている。哀れに思ってしもべの負債をゆるした王は、キリストを表わしている。人間は律法を破って、罪の宣告のもとにあった。人間は自分自身を救うことができなかった。そのためにキリストはこの世界にこられ、神性に人性をまとい、不義なもののために、義なるご自身の命をお与えになった。主はわたしたちの罪のためにご自身を与え、血によって買いとったゆるしを全ての人に価なしに提供される。『主には、慈しみがあり、また豊かな贖いがある』(詩篇130:7)」(『キリストの実物教訓』220ページ)。

ミニガイド

悔い改めと改革

ヨナの託宣の内容は、ニネベの住民にとって破壊的なメッセージで、悔い改めた後の恵みについては、示されなかったにもかかわらず、「神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」(3:9)と言った王の言葉にうながされて、民全体が悔い改めの表明をし、悪の道、暴虐な行いをやめたと言います。

彼らの真剣な悔い改め、それにふさわしい実を結んだことをご覧になり、国全体を滅ぼされるという予定を変更、または延期されました。悔い改めには、改革(生き方の方向転換)が伴ってはじめて、主がそれを承認されるのです。しかし、悔い改めも改革も自分の力ではできません。徹頭徹尾主のあわれみと主の賜物です。しかし、悔い改めの実は長続きしませんでした。国力が増し、諸外国を脅威にさらすようになりました。またもや、真の神から離れ、前612年メディアバビロン、スキタイの連合軍によって攻められ、陥落しました。

迅速な悔い改め

悔い改めを促す主の使信が突きつけられて、これほど早く異邦人の大多数の人が悔い改め、邪悪な生き方を方向転換した例はあまりありません。エジプトの王に迫ったモーセの使信に、ファラオは心を頑なにし、あくまで主に反抗したためにそれに倣ったエジプト人は、紅海で海の藻屑と消えました。

パウロがアテネの人々に語った福音は、当時の人々によって黙殺されました。主ご自身によってもたらされたイスラエルの悔い改めの使信は、嘲笑と反発に終わってしまいました。

安息日毎になされる説教は、私たちに悔い改めを迫る中身を持っているでしょうか。霊的覚醒を促すものでしょうか。それを聞く現代のイスラエルの態度は、ニネベの人々に肩を並べることができるでしょうか。

ニネベ全市の悔い改め?

「粗布をまとって、灰を」かぶった「身分の高い者も低い者も」と言及されているのは、住民が一人残らず行動したと考えなくてもよいのではないでしょうか。

ソドム・ゴモラを滅ぼすとの宣言を聞いたアブラハムが、その町のために執り成しの祈りを主に捧げました(創世記18:16~33)。そのとき主は、町の中に義人が10人いれば滅ぼさないと言われたことに照らしてみれば、ニネベの町の大分の人が悔い改めたのでょう。キリスト教国といわれる国でもすべての国民がキリスト者であるわけではありません。聖書の理念がその社会に活かされている国のことです。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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