【ヨナ書】神との対話【4章解説】#9

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ヨナは見事に使命を果たしました。首都ニネベの市民は、身分の高い者も低い者も、裁きのメッセージを受け入れ、悔い改めて天の神に立ち帰りました。ヨナは今、邪悪な異教徒の心さえ変えることのおできになる神の偉大な力に対する喜びと感謝に満たされて帰途につきます――このように期待したいところです。しかし、ヨナ書はさらなる驚きで満ちています。

ヨナ書全体を通じて、神は邪悪な異教徒以上に御自分の預言者に手を焼いておられます。第1章におけると同様、第3章でも、ヨナは異教徒に比べて影の薄い存在になっています。つまり、第1章では、水夫たちと船長が暴風の中で神の力を見、神を礼拝しました。第3章では、邪悪なニネベの人々が悔い改めて神の裁きの警告を受け入れました。

しかし、ヨナは神のきびしい試練に遭って初めて神に従っています。異教徒の王でさえ、神の憐れみを信じて(ヨナ3:9)、謙虚に神の絶対的な権威に従っています。しかし、ヨナは神の憐れみにつけ込んでいます。

意外な応答

ヨナ書4:1「ヨナにとって、このことは悪、大いなる悪であったので、彼は激怒した」(ヘブライ語聖書)。彼は、何に対して激怒したのでしょうか。この「大いなる悪」とは何だったのでしょうか。それは、ニネベの人々がその罪と不法を捨てたので、彼らに下ることになっていた裁きが下らなかったということでしょう。

これら邪悪なアッシリア人はその悪のゆえに裁きを受けて当然であるのに、彼らに対する神の恵みは正義の原則に反するものである、と彼は考えたのでしょう。民族主義的な感情から、これら異教徒の上に神の裁きが下ることを望んだのでしょう。その裁きが下らなかったために、自分が偽預言者に見られると思ったのでしょう。

たった今、ヨナの身に起きたどんな経験が、いっそう彼の態度を悪いものにしていますか。ヨナ2:1~10参照

主はヨナの心を、また彼がどのような行動をとるかを知っておられました。しかし、ヨナの誤った態度にもかかわらず、主はヨナを選び、なおも彼と共に働こうとしておられました。これと同じ原則が聖書全体の中に見られます。

次の聖句を読み、ヨナの場合と同様、神が欠点だらけの私たちと共に働き、私たちを用いてくださることについて学ぶことがありますか。創9:20、21、創16:1~4、民20:11、12、サム下11:4、マタ11:3、使15:35~41、ガラ2:11~14 

ヨナが初めに祈っているのは大魚の腹の中においてです。ここで、自分を滅びから助け出してくださいと祈っています。次に祈っているのはここ第4章においてです。ここでは、神が他人を滅びから助け出したと言って怒っています。なんという偽善でしょう。

ヨナは事実上、自分がニネベに行かなかったのは、神が憐れみ深い方であることを知っていたからである、と言っています。それによって、神がニネベの人々を助けることを自分は望まなかったと正直に認めていることになります。さらに驚くのは、主がこのようなヨナの態度を知りながら、なお彼をお用いになったことです。確かに、神の恵みは人間の知恵をはるかに超えていす。

ヨナは神の品性について何と言っていますか(ヨナ4:2)。これらの特質は具体的に何を意味しますか(出34:6、7、ヨエ2:13、民14:18、詩86:15参照)。ヨナの言葉にはどんな皮肉が含まれていますか(神の恵み、憐れみ、慈しみを最もよく受けているのはヨナかニネベの人々か考えてください)。

クリスチャンにとって、神の憐れみ、恵み、忍耐といった概念は単なる神学的な教理ではありません。それらはクリスチャンとして主と共に歩む経験の一部となるべきものです。もし私たちがこのような神との関係の中にあるなら、またこのような神を愛しているなら、神の憐れみ、恵み、忍耐がどのようなものであるかを自ら経験しているはずです。

深遠な神の恵み

リチャード・ターナスは、世を贖うに十分とされるイエスとイエスの死がこの科学時代に生きる現代人にとって、どんな価値があるかについてこう述べています。「諸事件の核心にあったものが全くありそうにないものとなりつつあった。すなわち、無限にして永遠なる神が突然、ひとりの人間となって歴史上の特定の時間と空間に現れ、不名誉にも処刑されたということがそれである。2000年前、一人の人間が想像もできないくらい広大で非人格的な宇宙にある、何十億もの星の一つの周りを回る、取るに足らない物質からできた一個の惑星上の、薄暗く原始的な一国家に生まれ、短い生涯を送ったということがそれである。このような特に目立たない一つの出来事が、圧倒するほどの宇宙的な、あるいは永遠の意味を持つなどということは、理性を備えた人間を強制するだけの信仰にはもはやなりえない。宇宙全体が広大無辺の中のこの微小な一点に強い関心を抱くなどということは全く想像もできない」(リチャード・ターナス『西洋的精神の熱情』305ページ)。

これとは対照的に、エレン・ホワイトは次のように記しています。「神の御子が堕落した人間のためにその働きを遂行するときに経験された謙遜、犠牲、自己否定、屈辱、反抗について瞑想することは有益である。御子の苦しみについて瞑想するとき、その驚くべき謙そんに感嘆の声を上げるであろう。神の御子が一歩一歩、恥辱の道をたどられるのを深い関心をもってながめるとき、天使たちは驚嘆する。それは信心の奥義である。神は、天の光と知識に関して人間を無知の中に置くことによってでなく、人間の最高の知力を超越することによって御自身とその道を隠されるが、これは神の栄光である。……キリストの愛は知識を超えている。贖いの神秘はあくまでも神秘、無尽蔵の科学、永遠にわたって永遠の歌のままである。人間は、だれが神を知りうるか、と叫ぶであろう」(『バイブル・エコー』1894年4月30日)。

神の憐れみ深すぎる?

神の恵みをなかなか理解できないのは、現代人だけではありません。ヨナもそうでした。ニネベに警告を伝えようとしなかったのは、ニネベの人々が分不相応な恵みにあずかることを望まなかったからです。しかし、恵みとはいつでもそのようなもの、つまり分不相応なものを受けることです。

以前にも、主はイスラエルに深い恵みと慈しみをお示しになっておられます。彼らが神に背いて荒野で金の子牛を拝んだときのことです(出34:6参照)。あのときは、本来なら神から見捨てられて当然でした。結果的に、神の憐れみと恵みが示されました。

出エジプト記32章の金の子牛の事件と比較して、イスラエルの罪はニネベの人々の罪よりずっと重かったと思いますか。モーセの態度をヨナの態度と比較してください。これほどの大きな違いはどこから来ていますか。

ヨナは自分に対する神の憐れみを心から感謝しましたが、イスラエルの神が同じ恵み深い態度をニネベの人々のような邪悪な人間に示されることに怒りを覚えました。ヨナは恵みと慈しみに満ちた神の特性を批判しています。神は義人に救いを、悪人に裁きを与えるべきであると、彼は考えました。

ヨナと同じ精神を表したのはだれですか(ゼカ3:1~7、黙12:10参照)。このことはヨナの態度の不当さについてどんなことを教えてくれますか。

ヨナはニネベに対する裁きの猶予を誤りと見ています。彼はニネベの住民に対する主の憐れみを強く非難しています。ニネベの住民もヨナも、共に裁きを受けるべき反抗的な罪人でした。それにもかかわらず、恵み深い神は彼らすべての人に憐れみを示されました。ヨナは喜んでこの憐れみを受け入れましたが、それは自分自身のためであって、ニネベのためではありませんでした。

ヨナに対する神の忍耐

神の憐れみに憤慨するあまり、死にたいと言うヨナに対して、神は何と言われましたか。ヨナ4:4

恵みと憐れみに満ちたヨナの神は、静かに、鋭い質問をされます。ヘブライ語のわずか3文字で、神はヨナに再考を促されます。

主がヨナに言われたこと(ヨナ4:4)とカインに言われたこと(創4:6)とを比較してください。神は何を問題とされていますか。

神はヨナに、正気に返って、子どもじみた自分の態度を改めるよう穏やかに促しておられます。頑迷なヨナが成熟した信仰者になるようにと、自分の考えと行動を分析し、熟考するように勧めておられます。神はヨナに、彼の状況理解が適切でなかったことも穏やかに諭しておられます。しかし、聖書の中で神の導きに戸惑いを感じているのはヨナだけではありません。

聖書の中でほかにだれが神の導きを理解するのに苦闘していますか。これらの人たちの不満は何でしたか。それはヨナの不満とどこが異なりますか。ヨブ7:17~21、エレ15:15~18          

ルカ9:52~56を読んでください。ここに記されていることとヨナ書4章にあるヨナの経験とを比較してください。

神は苦闘している信者を退けられず、事実、そのような経験の中にある人たちを温かく見守っておられます。ヨナもその一人でした。神は御自分との正直な関係を尊ばれます。

まとめ

「贖いの計画には数々の神秘がある。……天使たちにとって、それらは絶えざる驚きの対象である。使徒ペトロは、『キリストの苦難とそれに続く栄光』に関して預言者たちに与えられた啓示に言及し、これらのものは『天使たちも見て確かめたいと願っているもの』である、と言っている」(『教会へのあかし』第5巻702ページ)。

「主が懲らしめを与えることを好まれないことが、ここに明らかに示されている。主は刑罰を止めて、心かたくなな人々に訴えようとなさるのである。『地に、いつくしみと公平と正義を』行っているおかたが、彼の道を踏みはずした子供たちを切に慕い求めて、なんとかして彼らに永遠の生命への道を教えようとなさるのである(同9:24)。神はイスラエルの人々が、唯一の真の生きた神に仕えるように、彼らを奴隷の生活から解放されたのであった。彼らは長くさまよい出て偶像礼拝を行い、神の警告を無視したけれども、神は今、彼らに懲罰を与えることを快く延ばして、彼らにもう一度悔い改めの機会を与えようと宣言されるのである」(『国と指導者』下巻35ページ)。

「彼は、ふたたび、疑惑の念にかられて、またもや、失望の淵に沈んでしまった。彼は、他の人々の幸福のことなど何も考えず、生きていて町が救われるのを見るよりは、死んだ方がましだと考えて、不満げに叫んだ。『それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです』」(『国と指導者』上巻240ページ)。

ミニガイド

ヨナ(預言者)と主の働き人(預言者)

ヨナは、神の憐れみを十分に知っていました。もし自分がニネベは40日以内に滅びると叫んでも、彼らが悔い改めれば、主はニネベに災いを下すのを控えられるのではないかと恐れていました。

はたして、彼の予測どおりになりました。このような結果になるのを嫌がって主の前から逃げようとしたのでした。彼の狭量かつ偏狭な心は、このイスラエルの敵が滅ぼされることをこそ望んでいたのです。これこそ、当時のイスラエル民族の代表的な考えでした。

自分たちは神の選民だ、残りの民だ、神の祝福はもっぱらわれわれに注がれるべきなのだ、という自己中心、排他的な態度です。自分が軽蔑している者が自分より恵まれるのは我慢ができません。他の人の成功を喜ぶことができません。

このヨナの態度と私が重なってきます。なんと卑しいのでしょう。なんと狭量なのでしょう。口では「主の栄光のため、隣人への奉仕のため」と言いながら、伝道も説教も己の栄光のため、自分を喜ばせるためにしていることをしばしば発見します。

ニネベにおける彼の伝道活動は大成功を収めたというべきでしょう。今や彼は有名人です。そのことが彼を高ぶらせたのでしょうか。しかし、預言者として召されたのは、神の憐れみだったはずです。彼が選民の一人として存在できるのは、彼らが立派な民族だったからではなく、ひとえに神のみ旨を果たすため、神のご計画を実行するための器に選ばれたに過ぎません。

主が私を選ばれたのは、「行って実を結びなさい」とのみ旨を果たすため、それだけです。使命をいただいていることは特権ではあっても、特権意識に陥ってはならないのです。「先生、先生」と言われると、何か自分が偉い存在になったように錯覚する危険があります。主の働き人は、常に謙遜の霊に満たされていきたいものです。

無関心な態度と異教の民

自分の思っていたのと逆方向にニネベの住民の反応が悔い改めへと進み、それだけでも不愉快であったのに、その正義の神が与えられた自分の使命とは反対に、なんとこの町を赦されるとは……。彼は、怒り心頭に発しました。子どものように駄々をこねれば、「主はもう一度思い直してニネベに審判を下されるかもしれない」とすねながら、薄目を開けて主の心変わりを待ちました。主は、穏やかに彼をたしなめられました。本来ならヨナは、異教の人々の改心を喜び、手を差し伸べて、霊的なフォローアップに力を注がねばならない立場にありました。日本の伝道が遅れているといわれるのは、もしかしたら私たちクリスチャン自身に問題があるためだと考えたことがあるでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

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