【ヨナ書】最後の言葉【4章解説】#11

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4章からなるヨナ書の物語はこれで終わりです。最後に、神はヨナに問いかけておられます。しかし、それはヨナから何かを学ぶためではなく、むしろヨナに何かを教えるためでした。

ヨナが神の問いかけの意味を理解したか否かは明記されていません。そのこと自体は私たちにとってそれほど重要ではありません。重要なのは、私たちがそれをどのように理解するか、です。確かに、私たちは神の愛と憐れみについて知っています。それらを感謝して受け入れています。しかし、神の助けによってこれらの愛と憐れみを喜んで人々に表しているでしょうか。進んで自己犠牲を払うことによって、現代のニネベの住民に、裁きが来ること、自分の罪の弁明をする日が来ることを告げ知らせているでしょうか。

1人の失われた魂

ヨナ4:11を読むと、主はこの哀れな男に道理を教えようとしておられます。ヨナの住んでいた世界は、現代と同様、人命が軽視されがちでした。しかし、主はすべての人のために死なれました。すべての人を愛しておられるからです。主は一人の魂のためであっても死なれたのです。「たとえの中の羊飼いは一匹の羊、すなわち、数として最少のものをさがしに出かけた。そのように、道に迷った魂がただ一人であったとしてもキリストは、その人のためにおなくなりになられたはずであった(」『キリストの実物教訓』165ページ)。

ヨナ書4:11(また、ヨナの態度)に関連して、マタイ18:11~14を読んでください。これらの聖句から、人間に対する神とヨナの態度の違いについてどんなことがわかりますか。イエスのこれらの言葉は私たちの魂に対する冷淡さと愛の欠如に関してどんなことを教えていますか。

キリストが宇宙に比べればはるかに小さいこの地球上の住民のために死なれたということは、それだけでも十分に驚きです。それなのに、たった一人のために死なれる?だれがこのような愛を理解することができるでしょうか。最終的に何人の人が救われるかはわかりませんが(黙21:24、イザ66:23)、少なくとも一人以上であることは確かです。それなのに、たった一人のためにでも死なれるとは!世俗的な人間はもちろんのこと、信仰を持つ人間でさえこのような高遠な愛を理解することができません。

無知の時代

ヨナ書4:11で、主はニネベの人々を一種の比喩を用いて表現しておられます。主はこのような表現を用いることによってヘブライの預言者ヨナに何を教えようとしておられますか。

主はヘブライ人のヨナ、御自身の特別な民の一人であるヨナに語りかけておられました。ヘブライ人は神についての、また神の永遠の道徳的原則についての大いなる光を与えられていました

(出19:5、同20章、申4:7、12:8、詩19:8~11-口語訳19:7~10、37:31、エレ31:33参照)。ヘブライ人の歴史は大部分、彼らが律法と律法に含まれる道徳的原則をどのように理解するかにかかっていました。この意味において、ヘブライ民族は周辺の異教国家よりもはるかに優位な立場にありました。

これとは対照的に、神はニネベの人々を右も左もわきまえぬ人間と呼んでおられます。明らかに、これらの民はイスラエルと同じ道徳的教えを与えられていませんでした。神の律法と啓示から逸脱することに関連して、これと同じ表現がほかにも用いられています(申28:14、17:20、ヨシュ1:7)。ヨナ書はここで、ニネベの人々が主の律法を知らなかったことを教えています。「右も左も」という表現はバビロニアの写本の中にも見られるもので、「真理と正義」あるいは「法と秩序」と同義に用いられています。このようなわけで、主はヨナにニネベに対する裁きを延期すると言われます。彼らが道徳的に無知だったからです。

家畜も?(ヨブ39章)

ヨナ書4章全体を通じて、神はヨナにニネベに対する神御自身の配慮を理解するようにやんわりと圧力をかけておられます。驚きに満ちたこの書の中でも、最も驚かされるものの一つはヨナに対する神の最後の問いかけです。

ヨナ書を締めくくる最後の聖句はどんな言葉で終わっていますか。ヨナ4:11

いくぶん不可解な終わり方をしているヨナ書ですが、最後のところで神は異教徒のニネベの人々だけでなく彼らの家畜(ヘブライ語では「動物」一般を意味する)に対しても憐れみを示しておられます。終わりの部分は曖昧で、正確な意味がはっきりしませんが(読者としては対話の結末を知りたいところです)、主はヨナに、御自分がニネベの人々にも彼らの動物にも等しく憐れみをかけるのだ、と言っておられるように思われます。

このことはそれほど意外なことではありません。ヨナ書全体を通じて、「海と陸とを創造された天の神、主」(ヨナ1:9)がすべての被造物を支配されるお方として登場します。これは聖書全体についても言えることです。聖書によれば、神はその被造世界のすべてに、またもろもろの天にさえ心をかけておられます。

ヨブ記39章を読んでください。状況が大きく異なるとはいえ、主がここでヨブに言われることとヨナに言われたこととの間にはどんな共通点がありますか。

ユダヤの伝承によれば、神は動物を優しく扱う人々を顧みられます。動物は人間の好意に報いることができないからです。

疑問、疑問、疑問……

ヨナ書は心を探るような問いかけをもって突然終わります。神の恵みが自分に与えられるのを喜びながら、ニネベの住民に与えられるのを嫌がるというヨナの利己的な態度が受け入れられたのかどうかは最後まで明らかにされていません。また、自分自身の考えをはるかに超えてすべての人に与えられる神の寛大な愛をヨナが理解したのかどうかも明らかにされていません。さらには、ヨナが赦しに値しない人たちに与えられる神の赦しを理解したのかどうかも疑問のままです。

聖書の特定の書巻が問いかけ、しかも驚くべき問いかけをもって終わることはきわめて異例です。このような終わり方は思考の停止あるいは不注意な書き方の結果ではありません。むしろその逆で、ヨナ書はこのような終わり方をすることによって、ヨナの態度と神の態度の違いを際立たせているのです。

聖書の書巻が問いかけをもって終わることは異例であっても、主御自身が問いかけをされることはそれほど異例ではありません。次の各聖句において、主はどのような問いかけをしておられますか。初めに、主が問いかけをされる理由を、次にその問いかけに対するあなた自身の答えとその理由を書いてください。出4:11、ヨブ40:1、2、ヨナ4:11、マコ8:36、ルカ6:9   

牛は知っている

イザヤ書1章の初めの3節を読んでください。そこには、ヨナの経験とどんな共通点が見られますか。

ヨナ書全体を見ると、自然界は主の支配に服しています。この教えは特に新しいものではありません(マタ21:18、19、17:24~27、マコ4:35~41参照)。人間も自然界と同じくらい神に従順であったらよかったのですが……。しかしながら、自然界とは異なって、神は人間を道徳的に責任を負うものとして創造されました。自然界とは異なって、神は人間を強制されません。人間が道徳的存在者であるためには、自由な存在でなければなりません。悲しいことに、私たちはしばしばこの自由を乱用します。

ヨナ書をもう一度読み直してください。主に従ったのはだれ(何)で、従わなかったのはだれですか。そこにどんな皮肉を見ることができますか。

自然界は従い、異教徒は従いました。ヘブライ人のヨナだけが、少なくとも主の求められるほどには従いませんでした。ある意味で、ヨナは各時代におけるイスラエル民族を象徴していました。イスラエル民族は、平和と繁栄の時代に達成できたことを(列王上8:60、イザ27:6、56:5、ゼカ8:23)、捕囚、隷属、追放という苦難に満ちた状況の中で達成することになりました。ヨナも同じでした。もし彼が初めに求められた通りに行動していたなら、暴風、大魚、三日三晩の経験は避けられたのです。ヨナが最終的にどうなったかはわかりませんが、少なくともヨナ書によれば、彼はまだ主の御心を理解するには至っていません。

まとめ

「神は個人また一民族としてのイスラエルの民に『地上最大の国家とするためのあらゆる必要なもの』を与えようと意図された(『キリストの実物教訓』266ページ、申4:6~8、7:6、14、28:1、エレ33:9、マラ3:12、『人類のあけぼの』上巻314ページ、『教育』33ページ、『各時代の希望』下巻12ページ参照)。

イスラエルの民が御名の誇り、周辺諸国の祝福になるように、神は計画された(『教育』33ページ、『キストの実物教訓』264ページ)。

「古代の諸国民がイスラエルの前例なき繁栄を見るとき、興味と関心がかき立てられるのであった。『異邦人も、生ける神に仕えてこれを拝する者たちの優越を認めることであろう』(『キリストの実物教訓』267ページ)。自らも同じ祝福を願い求めて、彼らはどうしたら自分たちもこのような物質的繁栄にあずかることができるのかと尋ねるであろう。イスラエルは次のように答えるであろう。『私たちの神をあなたがたの神として受け入れ、私たちと同じように神を愛し、神に仕えなさい。そうすれば、神はあなたがたにも同じようにしてくださるであろう』。『こうしてイスラエルに保証された祝福は、広い天の下のすべての国家と個人とに、同じ条件の下において、同じように与えられることが保証された』(『国と指導者』下巻109ページ、使10:34、35、15:7~9、ロマ10:12、13ほか参照)。地上のすべての国民はイスラエルに惜しみなく与えられた祝福に共にあずかるのであった(『国と指導者』上巻338ページ)(『SDA聖書注解』第4巻28ページ)。

ミニガイド

ヨナ書の意外な終わり方

ヨナ書の結末は、読者の予期しない終わり方をしています。この内容の今後の展開と私たちに対するメッセージは、おのおのが想像をたくまして読み取って適用するようにと言っているのでしょう。

ヨナ書は、神が話しかけられ、最後も神のヨナに対する語りかけで閉じて、ヨナは沈黙しています。神のニネベの人々に対するみ旨と、ヨナの思いはことごとくすれ違いのままのようにも思われますが、最後の神のヨナに対する、質問ともあるいは神ご自身のモノローグ(独り言)のようにも見える最後の発言を記すことによって、見事な調和でフィナーレ(最終の場面)を迎えています。

とうごまの木の記述は、人間を救われる神の御心の象徴でした。ヨナは自分にとって、暑さを和らげ、暑熱から守ってくれたとうごまの木が枯れたことに怒りをあらわにしたことは、彼が神の御旨を理解しようとしない態度の象徴です。被造物はみな神の作品であって、その存在の可否は神に掌握されており、生きとし生けるものの生殺与奪は神にあるのであって、人間にはご処置に対する抗議の権利などひとつもないことの認識も欠けていました。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木を惜しんでいる」と言われました。与えられた神は、また取り去る権利もお持ちです。

「もし、お前があのちっぽけなとうごまの木を惜しむ心があるなら、12万人とも60万人とも数えられるこの地の住民の命を惜しむ私の願いがあなたには伝わってこないのか。この人々は、空の小鳥、一輪の花、一本の木にまさる尊い存在ではないか。私の形に創られ、私が命を与え続けているかけがえのない人々ではないか。どうしてそれが理解できないのか。それだけではないよ。この人たちはあなたのメッセージによって悔い改めたではないか。生活も改めたではないか。それなのにどうして、悔い改めない人に対するのと同じ刑罰を与えることができようか」という神の訴えが聞こえてくるようです。

象徴を通して明白な教訓が与えられたのに、それから学ぶことのなかったヨナ。彼の、自己中心的な排他主義、間違った選民意識、他者に対する憐れみの欠如、不従順の態度を改めるよう、最後の最後まで思いやりを示される神。

ヨナがこのように尻切れトンボのような結末をもって書を閉じたのは、意図的にそうしたのかもしれません。すなわち、自分の盲目的な愚かしさに対する自責の念、心の狭い自分であったことの告白、赦しの願いが込められているとみるのは読みすぎでしょうか。多くの人の悔い改めの業に、自分のような者をあえて用いてくださった神の度量の大きさとを改めて感謝しているようにも思われます。聖霊によってこのことが悟らされ、恥じ入りながら告白文として残したものではないでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

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