【ヨブ記解説】不条理な災いや苦しみの中で生きる忠実な信仰(2016年4期SSガイド本より)

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目次

この記事について

*本記事は、クリフォード・ゴールドシュタイン(Clifford Goldstein)安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

第1課 結末

第1課 結末

学生たちは作文の授業で、作品にとって良い結末がいかに重要であるかを教えられます。とりわけ、すべてが作りもののフィクションでは、満足のいく締めくくりで物語を終わらせる必要があります。しかしノンフィクションにおいても、良い結末は重要です。

しかし、現実はどうでしょうか。本のページの中や映画の脚本の中の人生ではなく、生身の人間が生きる人生ではどうですか。私たち自身の物語はどうですか。私たちの物語にはどのような結末がありますか。それらはどのように終わりますか。良い作品のように、すばらしい終わり方をするでしょうか。

どうもそのようになるとは思えません。私たちの物語は常に死で終わるというのに、どうしてめでたく終わったりするでしょうか。その意味で、私たちが幸せな結末を迎えることは決してないのです。死が喜ばしいときなどありますか。

ヨブの物語についても同じことが言えます。その結びの部分は、少なくともヨブが苦しんだあらゆることと対比して、しばしば幸福な結末として描かれますが、実のところ、それはさして幸せなものではありません。なぜなら、この物語も死で終わっているからです。

今回、ヨブ記の研究を始めるに当たって、私たちはその結末から始めます。というのも、それは私たちの結末——現世の結末のみならず、永遠の結末——に関する疑問を提起するからです。

「それからずっと幸せに……」

童話はしばしば次のような一文でしめくくられます。 「それからずっと幸せに暮らしましたとさ」。いくつかの言語において、それは決まり文句同然です。その全体的な意味は、(さらわれた姫、意地悪な狼、悪い王など)どんな物語であれ、男性主人公と(たぶん)彼の新妻とが最後に勝利するということです。

少なくとも一見したところ、ヨブ記はそのような終わり方をしています。身に降りかかったあらゆる試練と災難ののち、ヨブ記は比較的明るいとしか言いようのない雰囲気で終わっています。

物語全体の最後の箇所であるヨブ記42:10~17を読んでください。ヨブが人生をどう終えたかについて、疑問の余地はありません。もしあなたがだれかに、主人公にとってめでたい形で終わる聖書の書巻、「それからずっと幸せに……」的な結末を持った書巻を尋ねるなら、多くの人がヨブ記の名前を挙げることでしょう。

何しろ、物語が終わるときにヨブが持っていたすべてのものに目を向けてください。(エリファズ、ビルダド、ツォファル、エリフ、ヨブの妻を除いて)試練の間、周りにいなかった家族や友人たちがやって来て、ヨブを慰めます。彼らは気前もよく、銀や金をヨブに贈りました。物語が終わるとき、ヨブは物語の最初に持っていたものの2倍を、少なくとも物質的な富においては手にしています(ヨブ42:12と1:3を比較)。彼は、亡くなった7人の息子と3人の娘に代わる(同1:2、18、19参照)7人の息子と3人の娘、つまり10人の子どもを新たに得、最初の娘たちに関しては何も言われていませんが、〔あとから得た〕「ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった」(同42:15)と記されています。しかも、死が間近に迫っていたはずのヨブは、さらに140年間生き、「年老い、日満ちて死んだ」(同42:17、口語訳)のでした。「日満ちて」に相当するヘブライ語の句は(興味深いことに、ときとして「年が満ちて」〔口語訳〕とも訳され)、アブラハム(創25:8)、イサク(同35:29)、ダビデ(代上29:28)の最後の日々を描くためにも用いられています。この表現は、死という、まったく不幸な出来事の際にも、その人が比較的良い、幸せな立場にいたことをあらわしています。

不幸な結末

ヨブ記は、「年老い、日満ちて死んだ」ヨブにとって、物事がうまく行っている状態で締めくくられています。私たちがみな知っているように、しかも、いやというほどわかっているように、多くの人の場合、物語はそのようには終わりません。忠実で、立派で、高潔であった人たちでさえ、必ずしもヨブのような状況で終わるとは限らないのです。

問1

聖書の次の登場人物たちにとって、物語はどのように終わりましたか。アベル(創4:8)、ウリヤ(サム下11:17)、エリ(サム上4:18)、ヨシヤ王(代下35:22~24)、バプテスマのヨハネ(マタ14:10)、ステファノ(使徒7:59、60)

ご覧のとおり、聖書は幸福な結末で終わらない物語であふれています。それは、人生そのものがそのような物語であふれているからです。大義のために殉教しようと、ひどい病気のために死のうと、苦痛と悲惨ばかりの人生を送ろうと、多くの人はヨブのように立派に試練を乗り越えるわけではありません。それどころか、正直なところ、物事はどのくらいの頻度で、ヨブの場合のようにうまくいくでしょうか。その悲惨な事実を知るために、私たちは聖書を必要としません。私たちの間に、不幸な結末を知らない人がいるでしょうか。

(部分的な)回復

確かに、聖書のほかの登場人物や大抵の一般の人々の物語とは対照的に、ヨブの物語は明るい雰囲気で終わっています。聖書学者たちは、ヨブの「回復」について時折語ります。そして実際、ある意味で、多くのものが彼に戻されました。

しかし、もしそれがこの物語の完全な終わりであるなら、公正を期して言えば、物語は本当に終わるのでしょうか。確かに、ヨブにとって事態はかなり好転しましたが、それでもやはり彼は最終的に死んだのです。彼の子どもたちもみな死にました。彼の孫たちも、そのあとの子孫もみな死にました。そして彼らも、私たちがみな体験するのと同じ人生の痛手や試練の多くを、ある程度、体験したに違いありません。こういった痛手や試練は、堕落した世界における現実です。

そして私たちが知る限り、ヨブは彼の身に降りかかったすべての災難の裏側にある理由をまったく知りませんでした。確かに、彼は多くの子どもを得ましたが、失った子どもたちに対する彼の悲しみや嘆きは、どうだったのでしょうか。きっと彼が残りの人生の間抱え続けた心の傷は、どうだったのでしょうか。ヨブは幸福な結末を迎えましたが、それは完璧に幸福な結末ではありませんでした。数え切れないほどの未解決なこと、答えられていない疑問が残っています。

聖書は、主が「ヨブを元の境遇に戻し(た)」(ヨブ42:10)と、とりわけ先に彼を襲ったことと対比して、主が確かにそうなさった、と述べています。しかし多くは、不完全なまま、答えられぬまま、実現せぬまま残ったのでした。

これは意外なことではないはずです。結局のところ、この世においては現状がそうであるように、私たちの「結末」が良かろうと悪かろうと、不完全なまま、答えられぬまま、実現せぬまま残るものが何かしらあります。

それゆえ、ある意味においてヨブの結末は、あらゆる人間の悲しみや苦しみの真の結末の象徴と見ることができるかもしれません。それは、私たちがイエス・キリストの福音によって持っている、(ヨブの回復を色あせさせるような)十全で完全な回復という究極の希望と約束を予示しています。

問2

Iコリント4:5を読んでください。この聖句は、この世において、答えられぬまま、実現せぬまま、未完成なまま残るものがあることに関して、何と述べていますか。その代わり、どんな希望を私たちに示していますか。

最後の王国

何よりも、聖書は歴史に関する書物です。しかし、単なる歴史書ではありません。聖書は、過去の出来事、歴史的事件について語り、(とりわけ)それらを用いて私たちに霊的教訓を与えています。過去の出来事を用いて、私たちが今ここにおいていかに生きるべきか、そのことに関する真理を私たちに教えています(Iコリ10:11参照)。

しかし、聖書は過去について述べているだけではありません。それは未来についても語ります。すでに起こった出来事だけでなく、これから起こる出来事についても私たちに教えています。聖書は私たちに未来を、終末時代さえも指し示しています。終末の諸事件をあらわす神学用語は、「終わり」を意味するギリシア語から派生した「エスカトロジー」です。ときとしてこの用語には、死、裁き、天国、地獄などに関する思想が含まれますし、私たちが持っている新しい世界における新しい命という希望の約束も含まれます。

聖書は私たちに、終末時代に関する多くのことを教えています。確かに、ヨブ記はヨブの死で終わっていますが、もしこれだけが私たちの読むべき書巻であるなら、ヨブの物語は私たちの物語と同様に死で終わった、そういうことだ、と人は思うでしょう。ほかに期待すべきものはありません。なぜなら、私たちがわかり、知っている限りにおいて、そのあとには何もやって来ないからです。

しかし、聖書は私たちに別のことを教えます。終末時代には、神の永遠の王国が打ち建てられ、それは永遠に存在し続け、贖われた者たちの永遠の住まいになると、聖書は教えています。現れては消えるこの世の王国と違い、神の王国は永遠に続きます。ダニエル2:44、7:18を読んでください。

「贖罪の大いなる計画は、この世界を完全に神の恵みのもとに引きかえす。罪によって失われたすべてのものが回復される。人間ばかりでなく、地も贖われて、従順な者たちの永遠のすみかとなる。6000年のあいだ、サタンは地の所有を維持しようと努力してきた。だが、今や創造当初の神のみ旨が完成される。『いと高き者の聖徒が国を受け、永遠にその国を保って、世々かぎりなく続く』(ダニエル7:18)」(『希望への光』175ページ、『人類のあけぼの』上巻403ページ)。

確かに、ヨブ記はヨブの死で終わりました。彼や私たちにとっての良き知らせは、ヨブ記の結末がヨブの物語の結末ではないということです。そして私たちの死も、私たちの物語の結末ではありません。

復活と命

問3

ヨブ記14:14、15(新改訳、口語訳)を読んでください。ヨブはどんな質問をしていますか。彼は彼なりに、どのようにそれに答えていますか。

ヨブ記における主題の一つは、死の問題を扱うことです。扱わないわけがありません。言うまでもなく、人間の苦しみに目を向けるどんな本も、私たちの苦しみの多くの源である死について考えざるをえないからです。ヨブは、死者は「生き返るでしょうか」(ヨブ14:14、新改訳)と問い、続いて、「私の代わりの者が来るまで待ちましょう」(同)と言っています。「待つ」に相当するヘブライ語は、希望も暗示します。それは、ただ何かを待っているのではなく、期待しながら待っています。

そして、彼が期待しながら待っているのは、彼の「代わりの者」でした。この言葉は、「更新」「交換」といったことを意味するヘブライ語から派生したもので、しばしば服を着替えることです。この言葉自体は広い意味を持ちますが、(死のあとにどんな「更新」がなされるのかと尋ね、ヨブがそれを期待しているという)文脈からすると、この変化は死から生への変化——神が「御手の業であるわたしを尋ね求め」(ヨブ14:15)られる時——以外の何物でもないでしょう。

言うまでもなく、私たちの最大の希望、死が終わり(結末)ではないという最大の約束は、イエスの生と死と働きを通じて私たちにもたらされます。「〔新約聖書〕は、キリストが人類の最も苦々しい敵である死を打ち負かし、神が死者たちを最後の裁きのために復活なさると教えている。しかしこの教理は、キリストの復活のあと……聖書の信仰の中核となる。なぜなら、それは、キリストが死に勝利されたことによって確証を得たからである」(ジョン・E・ハートリー『ヨブ記』英文、237ページ)。

さらなる研究

ヨブの身に降りかかったひどい災難にもかかわらず、彼は神に忠実であり続けただけでなく、失った以上のものを戻されました。しかしヨブ記の大半と同様、ここにおいてもなお、疑問は答えられぬままです。確かに、ヨブ記は聖書の中の一つの書巻にすぎず、神学全体を一つの書巻の上に構築することは間違っているでしょう。私たちには聖書の残りの書巻があり、それらはヨブ記で扱われている難問の多くに関する理解を一層深めているからです。とりわけ新約聖書は、旧約聖書時代に十分に理解されえなかった多くのことを明らかにしています。恐らくその最大の例は、聖所の奉仕の意味でしょう。忠実なイエスラエルの民が動物の死と犠牲制度全体についてどれほど理解していたとしても、イエスと彼の十字架上の死という啓示を通してのみ、この制度はより一層明らかになります。ヘブライ人への手紙は、犠牲制度全体の真の意味の多くを浮かび上がらせる助けになります。

そして今日、私たちは「いま持っている真理」(IIペト1:12、口語訳、「現代の真理」とも訳される)を知る機会に恵まれ、ヨブよりも諸問題に対する多くの光を確かに与えられていますが、依然として答えられぬままの疑問を抱えながら生きることも身に着けなければなりません。真理の開示は漸進的であり、現在すでに大いなる光が私たちに与えられていますが、学ぶべきことはまだたくさんあります。それどころか、私たちは次のように言われています——「贖われた群衆は、さまざまな国から集められた者たちであり、彼らの多くの時間は、贖いの神秘を探るために用いられるであろう。そして永遠にわたって、この主題は絶えず彼らの探求の対象となるのである」(『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』1886年3月9日号)。

第2課 大争闘

第2課

「神とサタン、善と悪の、(宇宙レベル、個人レベル双方における)間断なき戦いに関する多くの言及やほのめかしが、旧新両約聖書のページの中には散見される。これらの箇所を比較しながら、私たちはそれらの個々の洞察を埋め込むことで、ほかの方法よりも聖書のメッセージ全体をはっきり見ることができる真理のステンドグラスを作るのである」(『セブンスデー・アドベンチスト神学ハンドブック』969ページ、英文)。

大争闘という主題は、聖書の「メッセージ全体」、とりわけ救済計画をよりよく理解できるようにする枠組みを形作っています。この主題は新約聖書において一層明らかですが、旧約聖書の中にも見いだされます。そして、サタンとこの争い、およびそれらが地上の生活にどれほど強く影響を及ぼしうるかを、ヨブ記以上にはっきりと垣間見せてくれる書巻は、恐らく旧約聖書の中のどこにもありません。

私たちは今回、目の前の現実の背後にあるもっと広い現実——ヨブ記の中心テーマ——に目を向けます。そして、私たちの人生や物語はヨブのものとは異なりますが、私たちには共通することが一つあります。ヨブと同様、私たちはみな、この争闘に巻き込まれているということです。

地上の小さな天国

ヨブ記は、比較的明るい雰囲気で始まります。少なくともこの世的な観点からすれば、私たちはあらゆる面で恵まれた1人の男性を目にします。

問1

ヨブ記1:1~3を読んでください。この箇所は、ヨブが送っていた人生について、どのようなことを明らかにしていますか。ヨブの生き方の肯定的な側面は何ですか。

ヨブは確かに、高潔な品性を含むあらゆるものを手にしているように見えます。ヨブ記1:1で「無垢な」と訳されている言葉は、「完全な」とか「誠実さにあふれる」といった意味の言葉に由来します。「正しい」に相当する語は、真っ直ぐな道を歩いているイメージを伝えます。要するに、この書巻は、何もかも手にした忠実で誠実な富豪を描いている、エデンのような場面で始まります。とは言っても、彼がそのすべてを手にしているのは堕落した世界においてです。

問2

ヨブ記1:4、5を読んでください。これらの聖句は、ヨブが住んでいる堕落した世界の現実について明らかにしています。

「彼〔ヨブ〕は、息子や娘たちとの祝いの催しの最中に、自分の子どもたちが神の機嫌を損ねないようにと気遣った。一家の忠実な祭司として、彼は子どもたち1人ひとりのためにいけにえをささげた。彼は罪の不快な性質を知っており、自分の子どもたちが神の要求を忘れているかもしれないと思い、彼らのために仲介者となったのである」(『SDA聖書注解』第3巻1140ページ、英文)。

明らかにヨブは、地上においてこれ以上なりえないほどに恵まれていました。その場面は、まるでエデンのように描かれています。満たされた生活、大家族、名声、多くの財産を持つ男性。しかし、それは罪に染まった堕落した惑星における人生であり、間もなくヨブが知るように、地上で生きることがもたらすあらゆる危険を伴います。

宇宙規模の争い

ヨブ記は、平和で穏やかな場所である地球で始まります。しかし、ヨブ記1:6から場面が変わります。まったく異なる現実の側面、神の啓示によらなければ人間には見えない側面へ、急転換します。そして実に興味深いことに、この現実の別の側面である天は、少なくともここで最初に述べられている内容によれば、地上のように平和で穏やかではないようです。

問3

ヨブ記1:6~12を読んでください。ここではどんなことが起こっていますか。

これら数節の聖句の中には、研究すべきことがたくさんあります。それらは、どんな宇宙望遠鏡も見つけることができず、人間の科学では理解することさえできない私たちの宇宙の側面を明らかにしているからです。しかし興味をそそられるのは、それらの聖句が宇宙規模の争いをも明らかにしている点なのです。それは、私たちがこの箇所で見る、落ち着いた、平和で、穏やかな会話ではありません。神はヨブについて、(人間の考えを用いて言えば)父親が息子を自慢するように、誇りをもって語っておられます。それにひきかえサタンは、神がヨブについて言われたことをあざ笑っています。「サタンは答えた。『ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか』」(ヨブ1:9)。サタンが神に向かって言ったことは、ほとんどあざけるような皮肉、馬鹿にするような口調に聞こえます。

聖句は、この対決が天におけることだったと明言していませんが、それが起こったのは、間違いなく天でした。それゆえ、この被造物である天使は、天の神の前に立ち、「神の使いたち」の前で、面と向かって神に挑戦しているのです。このように現世の指導者に話しかける人間を想像するのは困難ですが、ここには神御自身に向かってそうしている存在がいます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。

その答えは、聖書全体を通じてさまざまな場所に、さまざまな形であらわれている一つの主題の中に見いだされます。それが大争闘と呼ばれるものであり、ヨブ記だけでなく、聖書全体と、地上のあらゆる罪と苦しみの悲しい物語についての聖書の説明を理解するうえで助けとなる効果的な枠組みを提供してくれるのです。そしてもっと重要なことに、それは、地上における罪と苦しみの問題を解決するために、イエスが十字架で成し遂げてくださったことをよりよく理解するうえで、私たちの助けとなります。

地上での争い

ヨブ記はベールを取り払って、私たちの目や耳、またこの世の哲学者たちが決して私たちに気づかせることのできない存在の次元を明らかにしています(それどころか、ヨブ記1:6~12は、全体像を理解することに関して、私たちの目や耳、この世の哲学者たちがいかに有限であるかを示しています)。また、これらいくつかの聖句が示しているのは、神とこの別の存在であるサタンとの争いです。この争闘は、最初ヨブ記において、天で起こっているように紹介されますが、急に地球へ移ります。聖書全体を通じて、私たちはこの継続中の争い、私たちをも巻き込んでいる争いを指し示す聖句を見いだします。

問4

次の聖句を読んでください。この地上において超自然的悪の勢力と争われている闘いの現実を、それらはいかに明らかにしていますか。

創世記3:1~4

ゼカリヤ3:2

マタイ4:1

Iペトロ5:8

Iヨハネ3:8

黙示録12:9

これらの聖句は、明確に、あるいはそれとなく、文字どおりの悪魔(悪意を持つ超自然的存在)を指し示す多くの聖句の中の一例にすぎません。多くの人はサタンという概念を原始的な神話と見なしていますが、このようなはっきりした聖書の証言によって、私たちはそういう欺きにだまされてはなりません。

宇宙の縮図としてのヨブ記

ヨブ記の冒頭の場面は、いくつかの重要な点を私たちに示しています。まず、先に述べたように、私たちが自力で現在知りえることの彼方に別の次元——神以外の天の存在がいる天の次元——があることを明らかにしています。第二に、この地上における生活と天の世界とが、いかにつながっているかを示しています。地上で起こることは、この世界にいる天の存在と無関係ではないのです。第三に、この地上で起こることと関係している天での道徳的対立を明らかにしています。

要するに、冒頭の数節とそれに続く聖句は、大争闘そのものの縮小版の描写のようなものだということです。これらの聖句は、(本来は宇宙規模の)大争闘がヨブという1人の男性の人生の中にあらわれた様子を明らかにしています。そしてこれから見ていくように、それに関連する問題は私たち全員に関係しています。

ヨブ記は神と対決するサタンを明らかにしています。しかし、その対決がそもそもどのように始まったのかは、明らかにしていません。次の聖句は、この争闘をいくらか理解するうえで、助けとなります(イザ14:12~14、エゼ28:12~16、Iテモ3:6)。

エレン・G・ホワイトは、神の統治の基礎として「愛の律法」について語っています。神は「強制された服従」を望まれなかったので、すべての道徳的被造物に「自由意志を与え」られたと、彼女は記しました。しかし、「神が被造物にお与えになった自由を悪用した者があった。罪は、キリストの次に位し、最大の栄誉を神から受け、天の住民の中で最高の力と栄光を与えられていた者から始まった」(『希望への光』14ページ、『人類のあけぼの』上巻4ページ)。そして次に、サタンの堕落を描写するために、彼女は先のイザヤ書とエゼキエル書の聖句を引用しています。

ここでの極めて重要な概念は、「愛の律法」と自由意志の存在です。聖書は私たちに、サタンが彼自身の輝きと美しさのゆえに自分を称揚し、高慢になったと告げています。どうしてこのようなことが起きたのかはわかりません。それは、IIテサロニケ2:7が「不法の秘密の力」と呼ぶものの一部に違いなく、神の律法がいかに神の統治の基礎と密接に結びついているのかを私たちが理解するとき、完全につじつまが合います。肝心なのは、サタンがヨブ記に登場するまでに、彼はすでに堕落しており、すでに始まっていた争闘はかなり進行していたという点です。

十字架での答え

ヨブ記は、多くの重要な問題を提起しています。しかし、これらの問題の多くは、そこで答えられていません。私たちには聖書の残りの書巻が必要です。しかしその場合にも、私たちは依然として、「鏡におぼろに映ったものを見ている」(Iコリ13:12)ようなものです。

昨日触れたように、例えば、サタンの反逆がいかに始まったのかということについて、ヨブ記は何も語っていません。サタンが大争闘で最終的にどのように敗北するのかということについても、一切語っていません。それどころか、このあとに続くヨブ記の中でサタンが重要な役割を果たしているにもかかわらず、2回だけ登場したあと(ヨブ1:6~12、2:1~7)、彼は二度と姿を見せません。彼が引き起こした破壊は残るのに、彼は突然姿を消しています。残りの部分は、彼に言及さえしていません。その代わりに、このあとに続くヨブ記のほとんどは、サタンではなく、神に関する内容です。そして、それは道理にかなっています。なぜなら、ヨブ記は結末において、神と、神が本当はどのような方なのかということについて記しているからです。

それにもかかわらず、聖書は大争闘におけるサタンの敗北に関する疑問への答えなしに、私たちを置き去りにしていません。そして、その敗北の中心的役割を果たすのは、十字架におけるイエスの死です。

次の聖句は、イエスがなさった、大争闘を終結に導くであろうことを説明するうえで、助けとなります(ヨハ12:31、32、黙12:10~12、ロマ3:26、ヘブ2:14)。

十字架において、サタンは、殺人者であるという彼の正体を宇宙の前で完全に暴露されました。天で君臨しておられたときのイエスを知っていた者たちは、彼がサタンの手先によって侮辱されるのを見て驚いたに違いありません。それが、ヨハネ12章においてイエスが語られたサタンに対する「裁き」でした。十字架で、救い主が「全世界の罪」(Iヨハ2:2)のために亡くなられたときに、ようやく天は、救いが訪れた、と宣言できました。そのとき、その場において、神が「永遠の昔」(IIテモ1:9)になさった約束が果たされました。私たちの身代わりに死んだことで、キリストは「御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさる」(ロマ3:26)ことができました。つまり、彼は十字架で、神は律法を守る(正しい方である)ことができないし、その律法を破った者たちを救う(義となさる)こともできないという悪魔の挑戦に反論されたのでした。カルバリーのあと、サタンの運命は確定しました。

さらなる研究

善と悪の争い、争闘という概念は、多くの文化の中に見られます。その考えは、数千年もの間、しばしば神話を通じて表現され、生き残ってきました。今日、高等批評や現代的合理主義のせいで、多くのクリスチャンが文字どおりの悪魔や悪天使の存在を否定しています。こういったものは、自然悪や人間〔道徳〕悪*をあらわす原始的な文化の象徴にすぎない、といいます。私たちアドベンチストの観点からすると、悪魔や彼の天使たちの存在を信じることなく、どうして聖書の意味を理解できるのか、想像できません。

善と悪の超自然的な勢力間のこの宇宙規模の対立が存在することを否定するあざむきに、すべてのクリスチャンがだまされているわけではありません。例えば、グレゴリー・ボイドという名前の福音派の学者は、神とサタンの(永遠ではないものの)長年にわたる争いの存在について詳しく書いています。彼は、『交戦中の神』という著書の序文で、ダニエル書10章のいくつかの箇所に言及したあと、次のように記しています。「聖書は、最初から最後まで、人間と神との間に存在する霊的実在を前提としており、彼らの行動が、善かれ悪しかれ、人間の存在に大きな影響を与えている。まさに、私が本書で論じているそのような概念が、聖書の世界観の中心を成しているのである」(11ページ、英文)。彼はなんと正しいことでしょう。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

第3課 利益もないのに神を敬うでしょうか

第3課 利益もないのに神を敬うでしょうか

ヨブ記は、現実のまったく新しい次元を私たちの目の前に開き、キリストとサタンの大争闘を垣間見せてくれます。そしてそうすることによって、私たちが住んでいる世界、私たちを頻繁に当惑させ、ぼう然とさせ、おびえさせもする世界をよりよく理解するための枠組み、輪郭を与えてもくれるのです。しかしヨブ記は、この大争闘が私たちとは無関係の、他のだれかの闘いなどではないことも示しています。そうであればいいのですが、残念ながらそうではありません。「地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである」(黙12:12)。サタンは地と海に降って来たのであり、彼の怒りが本当に大きいことを、私たち自身が知っています。私たち人間の中に、その怒りを感じたことのない人がいるでしょうか。

私たちは今回、大争闘が激しさを増す中、私たちがいかに適応すべきかについて一層理解しようと努めつつ、ヨブ記の最初の2章を引き続き研究します。

神の僕、ヨブ

ヨブに対するサタンの非難に焦点を合わせながら、ヨブ記1章を読んでみましょう。サタンの主張と攻撃には、どのようなことがほのめかされていて、サタンはだれを攻撃しているのか考えてください。

「あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです」(ヨブ1:10)。ヨブ記の冒頭部分は、ヨブの正しさと善良な品性だけでなく、彼の物質的豊かさと大きな家族についても言及しています。これらの具体的なものによって、ヨブは「東の国一番の富豪」(同1:3)として尊敬されました。しかもこれらは、サタンが取り上げて神を批判した具体的なものでした。要するにサタンは、ヨブが神に仕えるのは、神が彼のためにこのようなことをしたからにすぎない、と言ったのです。

では、もし神がこれらのものを取り去ったなら、ヨブは「面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(ヨブ1:11)というサタンの攻撃には、どのようなことがほのめかされているのでしょうか。その攻撃は、実のところ、神御自身に対する攻撃です(これは、大争闘全体に関係していることです)。もし神がとてもすばらしく、善良な方であられるなら、ヨブはもっぱら愛と感謝の気持ちから神に従い、神を畏れ、神を拝むでしょう。結局のところ、自分のために多くのことをしてくださった神を愛さない人がいるでしょうか。ある意味においてサタンは、神は自分に忠実でいさせるためにヨブを買収しておられたのも同然だ、と言っているのです。それゆえ、ヨブが神に仕えているのは神に対する愛からではなく、利己的な動機からなのだと、サタンは主張しました。

ひどく卑劣で、憎むべき政治的支配者なのに、その支配者がよくしてくれるからという理由で命を捨てるほど忠実な取り巻きを持つ人物を思い浮かべてみてください。実際、もし主が、描かれているとおりの本当に親切で、愛情深く、優しい神であられるなら、たとえヨブはそれらの良いものをすべて失っても、主に仕え続けるでしょう。しかしサタンは、ヨブは忠実であり続けないだろう、と主張することで、ヨブは神を全面的に信頼していないし、彼が忠実なのは、神が彼に与えられたもののゆえにすぎないのだ、とほのめかしています。つまり、(サタンによれば)結局のところ、ヨブの忠誠心は、まさにうまみのある商取引かどうかにかかっているのだ、と言っています。

皮には皮を——戦は続く

ヨブ記2:1~3は、ほとんどヨブ記1:6~8の繰り返しです。大きな違いはヨブ記2:3の後半部分で、そこでは主御自身が、身に降りかかった災難にもかかわらず、ヨブがいかに忠実であり続けたかについて語っておられます。それゆえ、ヨブ記2:3に至るまでは、サタンの非難が誤りであったように見えます。ヨブは神に忠実であり続け、サタンが言ったように神を呪ったりしませんでした。

問1

ヨブ記2章を読んでください。そこではどのようなことが起きていますか。また、ヨブ記1、2章において、「神の使いたち」がその場にいて、神とサタンの対話を目にしているという事実には、どのような意味がありますか。

「皮には皮を」という慣用句は、これまで注釈者たちを悩ませてきました。しかし、その考えは次のようなものです——ヨブ自身の身に何かが起これば、彼の忠誠心が本当はどこにあるのか、わかるでしょう。ヨブの体、彼の健康を害して、何が起こるか見てみよう、ということです。

そしてとても興味深いことに、起こることは、だれもいない所で起こるのでもありません。天における二つの闘争は、ヨブ記で明らかにされているように、これらの天の知的存在たちと神との、ある種の会合のような状況の中で起こっています。サタンは公然と非難をしています。言い換えれば、彼はほかの存在者の前で非難しています。このような考えは、私たちが大争闘について知っていることと完全に一致します。この争いは、全宇宙の前で展開しているからです(Iコリ4:9、ダニ7:10、黙12:7~9参照)。

「しかし、贖罪の計画は、人類の救済より、もっと広く深い目的をもっていた。キリストが地上に来られたのは、人間を救うためだけではなかった。この小さな世界の住民が、神の律法に対して当然払わなければならない尊敬を払うようになるためだけではなかった。それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった。……人間の救いのためにキリストが死なれた行為は、人間が天にはいる道を開いたばかりでなく、神とみ子が、サタンの反逆に対して取られた処置の正当性を全宇宙の前に示すのであった。それは、神の律法の永遠性を確立し、罪の性質とその結果を明らかにするのであった」(『希望への光』36ページ、『人類へのあけぼの』上巻61、62ページ)。

主の御名はほめたたえられよ

問2

ヨブに対するサタンの最初の攻撃があり、彼の身に降りかかったあらゆる災難についてのニュースが届いたあと、ヨブはどのように応じましたか(ヨブ1:20~22参照)。このような悲劇の中にあっても、ヨブが「神を非難することなく、罪を犯さなかった」という事実は、何を意味しますか。

神の統治、愛に基づく統治の中核を成すものは、選択の自由です。神は私たちに、強制されてではなく、愛するがゆえに御自分に仕えてほしい、と願っておられます。「サタンは、ヨブが利己的な動機から神に仕えているとほのめかした。……真の宗教が神の御品性に対する知的理解と愛から生じるということ、真の礼拝者が——見返りのためではなく——宗教そのものを愛するということ、彼らが神に仕えるのは、そのような奉仕自体が正しいからであって、単に天が栄光に満ちているからではないということ、彼らが神を愛するのは、神が彼らの愛情と信頼に値するお方であるからであって、単に神が彼らを祝福されたからではないということを、サタンは否定しようとしたのである」(『SDA聖書注解』第3巻500ページ、英文)。

ヨブ記においてヨブは、サタンの非難が間違っていることを証明しました。しかし、神はどうなるかをご存じであったものの、ヨブが異なる行動をすることもありえました。彼は「神を非難すること」も、罪を犯すこともできました。ヨブは神に強制されて、あのように行動したのではありません。その状況を考えると、彼の揺るがぬ忠実さは、人間と天使たちとの前でのすばらしいあかしでした。

ヨブ記1章で起こったことと、創世記3:1~8でアダムとエバに起こったことを比較してみましょう。アダムとエバは、真の楽園の中にいた罪なき存在でしたが、サタンの攻撃のゆえに命令を破り、罪に堕ちました。ヨブは、まったくの苦悩、悲劇、没落の中にいましたが、サタンの攻撃にもかかわらず、神に忠実であり続けました。どちらの場合も、自由意志に関する極めて重要な問題の絶好の実例です。

ヨブの妻

ここで、ヨブの物語におけるもう1人の犠牲者、つまり彼の妻を取り上げるのは、たぶん一番良いタイミングでしょう。彼女はヨブ記2:9、10にだけ登場します。彼女に関して、それ以外のことは書かれていません。しかし、すでに起こったあらゆることを考えると、この不幸な女性が味わった悲しみを、だれが想像できるでしょうか。ヨブ記1章において、子どもたちやほかの犠牲者を失ったという彼女の悲劇は、苦しみの普遍性をあらわしています。私たちはみな、大争闘に巻き込まれており、だれ1人として逃れることができません。

ヨブ記2:3と2:9を比較してください。ヨブが「誠実」であり続けたという表現が両方の聖句で見られるのは、偶然ではありません。〔新改訳で〕「誠実」と訳されているこの言葉は、ヨブ記1:1と1:8で用いられている同じ言葉から派生したもので、しばしば「無垢」「潔白」と訳されます。その語根は、「完全」「充足」といった意味です。

ヨブの妻が、まさに神の称賛されたこと〔無垢であること〕に関してヨブに挑む者になったというのは、なんと不幸なことでしょう。ヨブの妻は嘆き悲しみの中で、まさに神が、ヨブはしないであろうと言われたことをするように彼を後押ししています。私たちは確かに彼女を裁くことはできませんが、彼女は、私たちがほかの人のつまずきの石にならないよう、いかに注意しなければならないかということの大きな教訓です(ルカ17:2参照)。

問3

ヨブ記2:10を読んでください。ヨブはここでも、どのような力強いあかしをしていますか(フィリ4:11~13も参照)。

ヨブは、彼の信仰が本物であることを明らかにしています。彼は良いときも悪いときも、主に仕えようとしています。しかし興味深い点は、サタンがここで物語から姿を消し、二度と登場しないことです。聖句はそのことに言及していませんが、私たちはヨブの態度に対するサタンの落胆と怒りを想像することができます。サタンが、アダムやエバ、またそれ以外の多くの人たちをいかに簡単にだましてきたか、考えてみてください。「我々の兄弟たちを告発する者」(黙12:10)は、ヨブ以外に責めるべきだれかを見つけなければならなくなりました。

死に至るまでの従順

ヨブ記1:22には、「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」とあり、ヨブ記2:10には、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」と記されています。いずれの場合においても、ヨブは〔サタンの〕攻撃にもかかわらず、主に忠実であり続けました。いずれの聖句も、ヨブが行動でも言葉でも罪を犯さなかったという事実を強調しています。

言うまでもなく、これらの聖句は、ヨブが罪人ではなかった、と言っているのではありません。聖書は、私たちがみな罪人だと教えているのですから、そんなことは決して言いません。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」(Iヨハ1:10)。「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生き(る)」(ヨブ1:1)ことで、人の罪がなくなるわけではありません。ほかのすべての人と同様、ヨブは罪の中に生まれ、救い主を必要としていました。

それにもかかわらず、ヨブは、彼を襲ったあらゆることをよそに、主に忠実であり続けました。その意味において、ヨブは彼なりに、ある種のイエスの象徴、イエスのほのかな前例(第14課木曜日参照)だったと見ることができます。そのイエスは、激しい試練と誘惑のさなかにあってもあきらめず、罪を犯さず、そのようにして、神に対するサタンの非難に反論されました。もちろん、キリストがなさったことは、ヨブがしたことよりもはるかに大きく、偉大であり、重要でした。それにもかかわらず、ちょっとした類似性があります。

マタイ4:1~11を読んでください。ひどい環境の中、食べ物がなかったために体が弱っていたものの、人性、つまり「罪深い肉と同じ姿」(ロマ8:3)を取られたイエスは、悪魔が彼にさせたいと思ったことを、ヨブもしなかったように、なさいませんでした。そしてまた、ヨブが忠実であり続けたあとの場面からサタンが姿を消したように、イエスが彼に対するサタンの最後の試みに抵抗されたあと、「悪魔は離れ去った」(マタ4:11、さらにヤコ4:7も参照)と、聖書は記しています。

しかし、イエスが荒れ野で直面されたことは、始まりにすぎませんでした。イエスの本当の試練は十字架で訪れるのですが、そこでも、彼に投げつけられた(ヨブが直面したことよりもはるかにひどい)あらゆることにもかかわらず、主は死に至るまで忠実であられました。

さらなる研究

ヨブ記のヘブライ語を掘り下げて研究する学び手は、興味深い一つの現象に遭遇します。ヨブの妻が夫にかけた言葉は、「神をのろって死になさい」(ヨブ2:9、口語訳、強調著者以下同様)と訳され、ヨブ記1:5は、「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と訳され、ヨブ記1:11は「ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と訳されています。しかし、いずれの場合でも、「呪う」と訳されている言葉は、「祝福する」を意味する言葉に由来します。〔英語アルファベット表記で〕‘brk’という語根に由来するこの言葉は、聖書の中で常に「祝福する」をあらわすために用いられています。同じ語根は、神が御自分の造られた被造物を「祝福」された創世記1:22でも、詩編66:8(「諸国の民よ、我らの神を祝し」)でも用いられています。

では、なぜ「祝福する」を意味する同じ動詞が、先のいくつかの聖句において「呪う」と訳されているのでしょうか。第一に、もしヨブ記のそれらの聖句において「祝福した」という意味であるなら、聖句は意味を成しません。ヨブ記1:5において、ヨブの息子たちが心の中で神を祝福したのなら、なぜヨブは神にいけにえをささげたいと思ったのでしょうか。文脈から異なる意味が必要とされます。ヨブ記1:11も2:5も同様です。災難がヨブの身に降りかかったら、彼が神を祝福するだろうと、なぜサタンは考えたのでしょうか。文脈から「呪う」という意味である必要があるのです。またヨブは、妻が彼に、神を祝福しなさい(ヨブ2:9、10)と言ったからと、なぜ彼女を叱責したのでしょうか。文脈を考えると、「呪う」という意味の場合に限って、この聖句は意味を成します。

それでは、なぜヨブ記の記者は、「呪う」に相当する一般的な言葉を使わなかったのでしょうか。学者たちは、これは婉曲表現だと信じています。なぜなら、神を呪うという概念を書き記すことが、記者の宗教的感受性には不快だったからです(同じようなことが王上21:10、13でも見られます。そこで「呪った」と訳されている言葉は、「祝福する」を意味する‘brk’に由来する言葉です)。呪うという意味が意図されていたことは明らかであるにもかかわらず、モーセは、「呪う」という言葉をそのまま使わずに、「祝福する」という言葉を使ったのです。

第4課 神と人間の苦しみ

第4課 神と人間の苦しみ

聖書の中のどの書巻とも違って、ヨブ記の背景はイスラエルの人々やその国(土地)からまったく切り離されています。主がアブラハムに、「あなたを大いなる国民に(する)」(創12:2)と約束された創世記から、「聖なる都」(黙22:19)について描いている黙示録に至るまで、何らかの形で、直接的あるいは間接的に、イスラエルや、彼らと神の契約関係という背景が、各書巻の形成に一役買っています。

しかし、ヨブ記にはそのようなものが、古代イスラエル史の中で重大な出来事であった出エジプトさえ、一切含まれていません。その最も直接的な理由は、モーセがヨブ記をミディアンの地で、創世記とともに書いたからです(『SDA聖書注解』第3巻1140ページ、英文参照)。出エジプトがまだ起きていなかったということが、なぜヨブ記の中で言及されていないかを説明しています。

しかし、恐らくもう一つの理由、もっと重要な理由があります。ヨブ記の主要なテーマの一つである人間の苦しみが普遍的である、ということです。それはいずれかの人や時代に限定されません。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、私たちはみな、ヨブの苦悩、堕落した世界に生きることの苦痛を多少なりとも知っています。ヨブの苦痛がどれほど特殊であったとしても、彼は苦しみの中にある私たちを象徴しています。

自然界の中の神

問1

ローマ1:18~20を読んでください。パウロはここで何と言っていますか。

なんと説得力のある文章でしょうか。神の存在は「被造物」(ロマ1:20)、つまり創造されたこの世界によって十分に明らかにされており、人間には不信心に対する「弁解の余地がありません」(同)。パウロは、天地創造のときから、人間だけが神の存在とその御性質を十分に知ることができ、それゆえ、人間は裁きの日に公正に有罪とされうるのだ、と言っています。

自然界が神の存在について多くのことを私たちに示していることは、間違いありません。現代科学も、私たちの祖先が300年ほど前でさえ、ましてや3000年前には想像もできなかった天地創造の驚異に関する詳細を明らかにしてきました。そこには興味深い皮肉もあります。科学は、命の中に複雑さを見いだせば見いだすほど、命が偶然によるものだとますます主張できなくなっています。例えば、設計された形を持ち、設計されたように動き、中も外も設計されたとおりで、設計されたようにしか動かないスマートフォンは、言うまでもなく、設計されたものです。ところが、設計された姿を持ち、設計されたように行動し、中も外も設計されたとおりで、設計されたようにしか動かない人間は、単なる偶然の産物にすぎないというのです。悲しいことに、多くの人がこのような主張を信じるようにだまされています。

問2

ヨブ記12:7~10を読んでください。ここでの言葉は、ローマ1:18~20であらわされている考えを、どのように反映していますか。

この箇所も、神の存在は創造された世界の中に明らかだ、と告げています。自然界は、とりわけその堕落した状態において、神の御品性を十分にはあらわしていませんが、神の創造力と善意という側面は確かに啓示しています。

それ自体から生じたものは何もない

神の存在を支持する十分で、説得力のある根拠がたくさんあります。創造された世界のあかしに加えて、いわゆる「宇宙論的証明」と呼ばれるものもあります。要するにそれは、それ自体から生じたものは何もない、また、それ自体を創出したものは何もない、という考えです。そうではなく、創造されたものは、それより前に存在した何かによって創造されたということ、何であれ創造されたものは、それより前に存在した何かによって創造されなければならないということです。これは、創造されなかった何か、常に存在してきた何か、存在しなかったことのない何かに私たちが至るまで、延々と続きます。そしてそれは、聖書の中に描かれている神以外にありません。

問3

次の聖句は、あらゆるものの起源について、どのようなことを教えていますか。

黙示録4:11

コロサイ1:16、17

ヨハネ1:1~3

これらの聖句は、何が天地創造の最も論理的な説明であるか——永遠の昔から存在される神——を教えています。神という考えに真っ向から反対する思想家の中には、代替案を出している者たちもいます。全能で永遠の神が宇宙を創造されたのではなく、「無」が宇宙を創造したというのです。かつてニュートンが占めていた椅子に現在座っているスティーブン・ホーキングのような有名な科学者でさえ、「無」が宇宙を創造したと主張します。「重力のような法則があるおかげで……宇宙は無から生成できます」(『ホーキング、宇宙と人間を語る』エクスナレッジ、252ページ)。確かにホーキングは彼の考えを説明するために、難解で複雑な多くの数学を用いますが、私たちは不思議に思わざるをえません。科学革命が始まってから少なくとも400年が過ぎ、世界最高の科学者の1人が、宇宙とその中にあるものは「無」から生じた、と論じています。しかし、偉大な科学者が語ったとしても、間違いは間違いです。

最古の書巻

神を信じない者たちのうそにもかかわらず、神を信じる者たちには、自分たちの信仰の正当な理由がたくさんあります。しかし、神を信じないことを正当化するために、多くの人が昔から用いてきた長年にわたる問題が一つあります。それが、人間の苦しみと災いという問題です。災いが存在するのに、どうして神が憐れみ深く、愛情深く、全能でありえるのか……。このことは、これまで多くの人にとってつまずきの石でしたし、今もなおそうです。しかも私たちが正直になるなら、神を信じる者、神とその愛の現実を味わい、体験してきた者たちで、ときとしてこの問題に苦しまなかった人がいるでしょうか。

さて、ユダヤ人の言い伝えは、モーセがヨブ記をミディアンの地で書いたと教えていますが、エレン・G・ホワイトもそう教えたというのは、なんと興味深いことでしょう。「荒れ野での長年にわたる孤独は、無駄にはならなかった。モーセは彼の前に備えられた偉大な働きの準備をしていただけでなく、その間に、聖霊の導きのもとで創世記と、時の終わりまで神の民によって深い関心をもって読まれるヨブ記をも記した」(『SDA聖書注解』第3巻1140ページ、英文)。

聖書の最初の2巻のうちの一つであるヨブ記は、人間の痛みと苦しみという普遍的な問題を扱っているのだと、この言葉は告げています。つまり神は、この問題が人類にとって大きな問題になることをご存じであり、それゆえ最初から、モーセを用いて聖書の中にヨブの物語を書かせられたのでした。神は、私たちが痛みと苦しみの中に置き去りにされたりしないこと、神がその場にいて、すべてをご存じであり、最後にはそれを正されるという希望があることを、早くから私たちに知らされたのです。

次の聖句は災い(苦難)の存在について教えています(マタ6:34、ヨハ16:33、ダニ12:1、マタ24:7)。災いによって神の存在を否定する議論は、いかに理解できるものであったとしても、聖書の光に照らすなら意味を成しません。聖書は、全知全能で、愛情深い神の存在を教えていますが、同時に、災いや人間の苦悩が存在することも教えているからです。災いは、神を信じない言い訳にはなりません。実際、ヨブ記をざっと読むなら、ヨブがすっかり落ち込んださなかにあっても、神の存在をまったく疑わなかったことがわかります。疑問は、なぜこれらのことが彼の身に起こっているのかという、もっともなものでした。

難問

問4

ヨブ記の次の聖句を読んでください。ヨブはどんな問題と格闘していますか(ヨブ6:4~8、9:1~12)。彼はどんな質問はしていませんか。

昨日の研究の中で述べたように、神の存在の問題はヨブ記にはまったく登場しません。そうではなく、疑問は、なぜヨブがこのような試練をくぐっているのか、というものでした。そして、彼の身に起こったあらゆることを考えるなら、とりわけ彼は神を信じていたのですから、それは確かにもっともな疑問でした。

例えば、誰かが無神論者で試練が襲いかかるとしたら、理由に関する答えは、その人にとって比較的単純でわかりやすいものになるでしょう。私たちは意味も目的もない世界、私たちにまったく関心のない世界に住んでいます。、私たちを取り囲む厳しくて冷酷で思いやりのない自然の力の中で、ときとして何の意味もない試練の犠牲者になります。なぜそうなるのでしょうか。もし人生そのものに意味がないなら、その人生に伴う試練も意味がなくなるからです。

多くの人が、このような答えは満足のいかない絶望的なものだ、と思うかもしれませんが、神が存在しないという前提を考慮するなら、それは確かに筋が通っています。一方で、ヨブのような人にとってその難問は異なります。

問5

ヨブ記10:8~12を読んでください。これらの聖句は、ヨブが格闘していた大きな疑問を理解するうえで、いかに助けとなりますか。

確かに、ヨブが格闘している疑問は、神を信じる多くの者がこれまで格闘してきた、そして今も格闘している疑問と同じものです。もし善良で愛情深い神が存在されるのなら、なぜ人間はこのように苦しむのだろうか……。なぜヨブのような「良い」人たちが、しばしば何の価値も生み出さないように思える試練や災難を体験するのでしょうか。またもや、もしこの宇宙に神が存在されないのなら、その答えは単純でしょう。私たちが純粋に物質的な世界に、つまり人間が原子と分子の偶然の副産物にすぎない世界に生きているからです。ヨブはそれ以上のことを知っていました。私たちもそうです。だから悩むのです。

神義論

ローマ3:1~4を読んでください。直近の文脈は、一部の神の契約の民の不誠実さですが、パウロがここで語っているもっと大きな問題があります。

パウロは詩編51:6〔口語訳51:4〕を引用しながら、いかに主御自身が「言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」(ロマ3:4)かについて述べています。ここで提示されている考えは、聖書のさまざまな場所に登場する一つの主題で、神義論と呼ばれています。悪事(災い)が存在するにもかかわらず神が善であると理解しようとする問題です。これは、私たちが今回ずっと研究してきた昔からの問題です。実際、大争闘は、それ自体がまさに神義論です。人類の前で、天使たちの前で、全宇宙の前で、この世に広がる悪にもかかわらず、神が善であることが明らかにされます。

「長年にわたって争われてきた真理と誤謬のすべての問題が、今明らかにされた。反逆の結果、すなわち神の律法を廃することの結果が、すべての知的被造物の目の前で明らかになった。神の統治と対照的なサタンの支配が行われた結果が、全宇宙の前に公開された。サタン自身の行為が、彼を罪に定めたのである。神の知恵と正義といつくしみとが、完全に擁護される。大争闘における神のすべての処置は、ご自分の民の永遠の幸福のために、そして神の創造されたすべての世界の幸福のために行われたものであることが明らかになる」(『希望への光』1926、1927ページ、『各時代の大争闘』下巻457ページ)。

罪と苦しみの世に浸かっているので、現在の私たちには理解しがたいかもしれませんが(わたしたちに理解しがたいのなら、ヨブにとってなおさらでしょう)、すべてが終わるとき、人類、サタン、罪に対する神のあらゆる扱いの中に、神の善、正義、愛、公平を見ることができるでしょう。このことは、この世に起こるあらゆる物事が良いという意味ではありません。明らかにそうではありません。それはただ、神があらゆることを最善の方法で扱っておられ、罪によるこのようなひどい体験が終わるときに、私たちが「全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。諸国の民の王よ、あなたの道は正しく、また、真実なもの」(黙15:3)と叫べることを意味するにすぎません。

さらなる研究

クリスチャン作家で護教論者のC・S・ルイスは、彼の妻の死とその死を受け入れる格闘について本を書きました。その中で、彼は次のように述べています。

「わたしが神を信じなくなる危険が大きいわけではない(と思う)。ほんとうの危険は、神に関してこのようなおそろしいことを信じるようになるということだ。わたしが怖れる結論は、『それではけっきょく神はないのだな』ではなくて、『それじゃ神の、ほんとうのありていがこれなんだな。もう欺かれてはならないぞ』なのだ」(『ルイス宗教著作集6——悲しみをみつめて』新教出版社10ページ)。

これもまた、ヨブ自身が格闘した問題です。すでに触れたように、彼は神の存在を決して疑いませんでした。彼が苦しんでいたのは、神の御品性に関する問題でした。ヨブはそれまで忠実に主に仕えていました。彼は「良い」人でした。それゆえに彼は、自分の身に起こっていたことを受けるいわれがないと知っていました。従って彼は、神を信じる多くの人が悲劇のさなかにあって抱く問い——「神とは実際にどのような方なのか」——を問うていました。そしてこれこそが、まさに大争闘ではないでしょうか。この問題は、神の存在に関する問題ではなく、神の御品性に関する問題です。そして、大争闘を解決するうえで多くのことが関わりますが、十字架上のイエスの死、つまり神の御子が「御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」(エフェ5:2)こと以上に私たちの創造主の真の御品性を宇宙に啓示したものは、間違いなくありません。キリストの十字架は、神が、私たちの信頼しうる神であることを示しています。

                                                                                                                                                                                           第5課 その日を呪なさい

第5課 その日を呪なさい

私たちがヨブ記を読むとき、私たちには二つの際立った優位さがあります。第一に、結末を知っていること。第二に、宇宙規模の対立が舞台裏で起きているという背景を知っていることです。

ヨブはこれらのことをいずれも知りませんでした。彼が知っていたのは、万事順調な生活を送っていたのに、突然、次から次へと災難や悲劇が襲いかかって来たということだけでした。そして次に、この「東の国一番の富豪」(ヨブ1:3)は、山のような灰の上で嘆き悲しむまでに落ちぶれました。

私たちがヨブ記の研究を続ける際に、わが身をヨブの立場に置いてみましょう。そうすることで、彼が味わっていた戸惑い、怒り、悲しみをよりよく理解できるからです。しかも、ある意味において、それはさほど難しいことではないに違いありません。私たちが体験してきたことはヨブが体験したことではありませんが、堕落した世界に肉体を持って生まれた私たちの間に、悲劇や苦しみがもたらす当惑を多少なりとも味わったことのない人がいるでしょうか。とりわけ、私たちが忠実に主に仕え、主の目に正しいことを行おうと努めているときにです。

その日は消えうせよ

あなたがヨブだと想像してみてください。不可解にも、あなたの人生が、これまでのあらゆる努力が、成し遂げてきたあらゆることが、神から授けられたすべてが、崩れ去ります。納得できません。良し悪しにかかわらず、このことにいかなる理由もあるようには思えません。

昔、1台のスクールバスが道から外れて、多くの子どもたちが死にました。そのような状況の中で、ある無神論者が、「これは意味も目的も方向性もない世界で人が予想しうる類のことだ。この世自体が意味を持たないのだから、このような悲劇には何の意味もない」と言いました。

しかしこれまで見てきたように、このような答えは、神を信じる者たちには役に立ちません。主に忠実に従う者であったヨブにとっても、この答えは役に立ちませんでした。しかし、〔ヨブにとっての〕答えは何だったのでしょうか。説明は何だったのでしょうか。ヨブにはそれがありませんでした。彼が持っていたのは、激しい悲しみと必然的にそれに伴うさまざまな疑問だけでした。ヨブ記3:1~10を読んでください。

言うまでもなく、命は神からの贈り物です。私たちが存在するのは、神が私たちを創造されたからです(使徒17:28、黙4:11)。私たちの存在そのものが、現代科学を困惑させてきた奇跡です。実際に科学者たちは、「命」をどう定義するかについてさえ、ましてや、それがどのように生じたかについて、もっと重要なことに、なぜそれが生じたのかについて、意見が一致していません。

しかし絶望したときに、命にそれだけの価値があるのだろうか、と疑問に思ったことのない人がいるでしょうか。私たちは、自殺という不幸な例を話題にしているのではありません。そうではなく、ヨブのように、私たちがそもそも生まれてこなければよかったと望むときはどうでしょうか。

かつて、ある古代ギリシア人が、「死ぬことを除いて、人に起こりうる最上のことは、まったく生まれてこなかったことだ」と言いました。つまり、人生は悲惨になりうるから、私たちは存在しないほうが幸せだったろうし、それによってこの堕落した世界での人生に伴う必然的な苦悩を回避できたであろうといいます。

墓の中での憩い

問1

ヨブ記3:11~26を読んでください。ヨブはここで何と言っていますか。彼はどのように嘆きの言葉を続けていますか。彼は死について何と言っていますか。

私たちは、哀れなヨブが直面していたひどい悲しみを想像することしかできません。財産を失うことも、健康を失うこともつらかったに違いありませんが、ヨブは子どもをすべて失いました。1人残らずです。1人の子どもを失う苦痛を想像するだけでも大変ですが、ヨブは全員失いました。彼には10人の子どもがいました。

彼が死にたいと思ったのも不思議ではありません。そして、またもや、ヨブはこのことの背景をまったく知りませんでした。が、それを知ったからといって、彼の気持ちが楽になったわけではないでしょう。

ですが、ヨブが死について語っていることに注目してください。もし彼が死んだら、どうなるというのですか。天の至福ですか。神の御前にいる喜びですか。天使と一緒に竪琴を弾くのでしょうか。そのような神学はここにはまったくありません。そうではなく、彼は何と言っていますか。「それさえなければ、今は黙して伏し/憩いを得て眠りについていたであろうに」(ヨブ3:13)と言っています。

問2

コヘレト9:5とヨハネ11:11~14を読んでください。ヨブが言っていることは、聖書が死後に起こると教えていることと、いかに一致していますか。

聖書の最古の書巻の一つであるヨブ記のここに、私たちが「死後の状態」と呼ぶものの、恐らく最も初期の表現があります。この時点でヨブが望んでいたのは、「憩いを得る」ことだけでした。人生が突然、困難に、難しく、つらくなってしまい、ヨブは、彼が死として知っているもの、つまり墓の中での安らかな憩いを切望しました。彼はあまりにも悲しく、苦しかったので、災難がやって来る前に人生で味わったあらゆる喜びを忘れて、生まれ落ちたときに死んでいればよかったのに、と願ったのでした。

ほかの人たちの苦痛

記録されているように、ヨブはヨブ記3章の中で最初の嘆きの言葉を言い終えました。そのあとの2章の中では、彼の友人の1人であるエリファズがヨブに意見します(これについては、来週再び取り上げる予定です)。続くヨブ記6章と7章では、ヨブが彼の苦しみについて語り続けています。

ヨブ記6:2、3を読んでください。この比喩は、ヨブが彼の苦しみをどのように受け止めているかを伝えています。もし海辺のすべての砂を天秤の片側に載せ、彼の「苦悩」と「(彼を)滅ぼそうとするもの」をもう一方に載せるなら、彼の苦しみのほうがすべての砂よりも重いだろう、といいます。

ヨブの苦痛は、彼にとってそれほど現実的でした。そして、これはヨブの苦痛だけであって、ほかの人の苦痛ではありません。私たちは時折、「人類の苦しみの総和」といった考えを耳にします。しかし実のところ、これは真理をあらわしていません。私たちは集団で苦しむわけではないからです。私たちはだれかの苦痛を感じるのではなく、自分自身の苦痛を感じます。私たちは自分の苦痛、自分の苦しみしかわかりません。しかし、ヨブの苦痛がどれほど激しいものであったにしろ、それは、これまでにだれかが感じえた苦痛を超えるものではありませんでした。「あなたの苦痛がわかりますよ」と、善意からだれかに言う人がいるかもしれません。しかし、彼らにはわかりません。わかりえないのです。彼らが感じるのは、だれかの苦しみに対して生じる彼ら自身の苦痛です。しかし、それは常に彼ら自身の苦痛でしかなく、ほかの人の苦痛ではありません。

私たちは、人為的なものかどうかは別にして、多くの死者を伴う災害について耳にします。死傷者の数は私たちを驚かせます。私たちはそのような大きな苦しみをとても想像できません。しかし、ヨブの場合や、(エデンのアダムとエバからこの世の終わりに至るまで)堕落した人類のあらゆる場合と同様、古今東西のすべての堕落した人間が知りえるのは、その人自身の苦痛にすぎません。

言うまでもなく、私たちは個人の苦しみを軽視したくありませんし、クリスチャンとして、可能な時と場所では、心の痛みを和らげる手助けをしなさい、と命じられています(ヤコ1:27、マタ25:34~40参照)。しかし、どれほど多くの苦しみがこの世に存在しようと、堕落した1人の人間が苦しむのはその人の苦しみだけだというのはなんと感謝すべきことでしょう(唯一の例外については、第12課参照)。

機の梭(補足)

次の会話を想像してみてください。2人の人が、すべての人間の運命である死について嘆いています。つまり、どんなにすばらしい人生を過ごそうと、どんなことを成し遂げようと、人生は墓の中に行きつくということです。

メトシェラが友人にこぼします。「私たちはたかだか800年か900年生きたら死ぬんだ。永遠に比べたら、800年や900年なんて何だろうか」(創5章参照)。

数百年間生きるというのはどんな感じなのか、私たちには想像しがたいのですが(メトシェラは187歳のときに息子レメクをもうけ、その後782年生きました)、ノアの大洪水以前の人たちでさえ、死という現実に直面したとき、彼らにとっての人生の短さを嘆いたに違いありません。

ヨブ記7:1~11を読んでください(詩編39:6〔口語訳39:5〕、ヤコブ4:14も参照)。私たちは、ヨブが死によってもたらされるだろう憩いと安息を求めているところを見たばかりです。今度は、人生がいかに速く過ぎ去るかを、彼は嘆いています。要するに彼が言っているのは、人生は厳しく、労苦と苦痛であふれていて、やがて私たちは死ぬのだ、ということです。ここには、私たちがしばしば抱えている難しい問題があります。私たちは、人生が悲しく、惨めであっても、いかに人生が速く過ぎ去り、はかないかを嘆きます。

あるアドベンチストの女性が、うつ病との闘いや自殺念慮について記事を書きました。しかし、彼女は次のように記しています。「最悪だったのは、私が、『平均より6年間長く』生きる助けになると証明された生活スタイルを守るアドベンチストであったということでした」。合点がいきませんでした。言うまでもなく、痛みや苦しみがあるときには、多くの物事が納得できないように思えます。ときとして、苦痛の中で理性や合理性は隅に押しやられ、私たちが知っているのは痛みと恐れだけで、希望が見えません。実に分別のあったヨブでさえ(ヨブ19:25)、絶望と無力さの中で、「わたしの命は風にすぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう」(同7:7)と叫びました。今や、かつてないほど死の兆しが近づいているヨブは、現状が悲惨であるにもかかわらず、それでも自分の人生がいかに短いかを嘆きました。

「人間とは何なのか」

再び、私たちはわが身をヨブの立場に置く必要があります。「なぜ神はこのようなことを私になさっているのか。なぜ神は、このようなことが私に起こるのを許しておられるのか」。ヨブは全体像を見ていませんでした。どうしてそんなことができるでしょうか。彼は周囲や自分の身に起きたことしか知らず、そのどれもまったく理解できません。同様の状況を体験したことのない人がいるでしょうか。

ヨブ記7:17~21を読んでください。ヨブはここで質問をしています。ある学者たちは、ヨブは詩編8:5~7〔口語訳8:4~6〕をあざ笑っているのだ、と主張してきました(詩編144:3、4も参照)。「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」。しかし問題なのは、ヨブ記が詩編よりもずっと前に書かれたということです。ですから、もし両者に関係があるとしたら、詩編記者がヨブの嘆きの言葉に応じて書いたのかもしれません。

いずれにしても、「人間とは何なのか」という疑問は、私たちが問いうる最も重要な疑問の一つです。私たちは何者なのでしょうか。私たちはなぜここにいるのでしょうか。私たちの人生の意味や目的は何でしょうか。ヨブの場合、彼は、神が彼に「狙いを定め」られた、と信じているので、「なぜ神は私を悩ますのだろうか」といぶかしんでいます。神は偉大であり、その被造世界は広大です。一体全体、なぜ神はヨブに対処する必要があるのでしょうか。そもそも、なぜ神は私たちのだれかのことで頭を悩ます必要があるのでしょうか。

ヨハネ3:16とIヨハネ3:1を読んでください。「ヨハネは、死にゆく私たち人類に対する神の愛の高さ、深さ、広さを見て、賞賛と畏怖の念に満たされている。彼はこのような愛を表現する適当な言葉を見いだすことができないが、それに目を向けるよう、世界に訴えている。『御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えて下さい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです』。このことによって、なんという価値が人間に置かれていることだろうか。罪を犯したことによって、人の子らはサタンの臣下となった。しかし、キリストの限りない犠牲と彼の御名に対する信仰によって、アダムの子らは神の子らとなる。人性を取ることで、キリストは人類を高められるのである」(『教会への証』第4巻563ページ、英文)。

さらなる研究

「これまでになく科学と理性によって啓発された時代の中で、キリスト教の『福音』は、ますます説得力のない形而上学的構造物、その上に人生を築くにはますます頼りない土台、精神的にますます不要なものとなった。無限で永遠の神が、特定の歴史的時代と場所に、突然、特定の人間になり、結局、屈辱的な形で処刑されるなどという一連の出来事がまったく起こりえないことが、痛々しいほど明らかになってきた。想像もできないほど広大で非人間的な宇宙の中にある無数の恒星の中の一つの周りを回っている、今やあまり重要でない物質だとわかっている一つの惑星の上の辺鄙で未開な一つの国で、2000年前に一つの短い人生が生じた。そのような平凡な出来事が、圧倒的な宇宙や永遠の意味を持つなどということは、もはや理性的な人間にとって説得力のある信仰ではありえなかった。宇宙全体が、その広大さの中のこんな小さな場所に熱烈な関心を寄せるなどいうことは、たとえ何らかの「関心」があったとしても、まったく信じがたい。公的に、経験的に、科学的に、あらゆる信条を裏づけることへの現代的要求という光のもとで、キリスト教の核心部分はしぼんでしまったのである」(リチャード・ターナス『西洋精神の情熱』305ページ、英文)。

このような思想の問題点は何ですか。この著者は何を見落としていますか。この引用文は、「科学と理性」が神の存在と私たちに対する神の愛について知りえることの限界について、どんなことを教えていますか。このことは、啓示された真理、人間の「科学と理性」が達しえない真理の必要性について、どんなことを示していますか。

第6課 呪いは原因不明なのか

第6課 呪いは限定的んなのか

私たちは前回、少なくともできる限り、わが身をヨブの立場に置くことの重要性を強調しました。ある意味において、それはさほど難しいことではなかったに違いありません。なぜなら、私たちはみな、同じような立場に置かれたことがあるからです。言い換えれば、ある程度まで、私たちはだれもが、しばしば納得のいかない、まったく公平に思えない苦しみにいつの間にか陥ってきたからです。

このような視点は残りの課においてもずっと保つべきですが、その一方で、ヨブの物語に出てくるほかの人たち、ヨブと一緒に嘆き悲しむためにやって来た人たちの視点を探る必要もあります。そして、それもまたさほど難しくないはずです。私たちの中に、ほかの人の苦しみを目にしたことのない人がいるでしょうか。苦痛や喪失の中にいる人を慰めようとしたことのない人がいるでしょうか。私たちの心をも切りつける悲しみを抱えた人に語りかける適切な言葉を見つけようとすることがどういうことかを知らない人がいるでしょうか。

実際、ヨブ記の大部分は、ヨブとこのような人たちとの対話で占められています。彼らはみな、しばしば合点がいかないように思えること——愛情深く、力強く、思いやりのある神によって創造されたこの世界で、人間の苦しみや悲劇が果てしなく続くこと——の意味を理解しようとしています。

重大な疑問

ヨブ記において動きのある部分は、ほとんどが最初の2章の中だけです。そこでは天と地球の間のベールが取り払われ、さもなければ私たちには隠されたままである現実の全体像が垣間見られます。現代の望遠鏡がどれほど遠くまで宇宙を見通せるとしても、数千年前に(たぶん今日のサウジアラビアにある)荒れ野で書かれたこの書の中で示されたことを私たちに見せることはまだできません。ヨブ記はまた、超自然の世界、つまり神と天使たちの世界が、自然の世界、つまり地球とそこに住む私たちと、いかに密接につながっているかも示しています。

最初の2章のあと、ヨブ記の大部分は、テレビ業界で「トーキング・ヘッズ」と呼ばれるもの(カメラに向かって話し続ける人たち)、つまり対話で構成されています。ここでの「トーキング・ヘッズ」は、ヨブと、人生の重大な問題(神学、苦悩、哲学、信仰、生、死)を話し合うためにやって来た男性たちです。

ヨブの身に起こったことを考えるなら、当然でしょう。生活のありふれた出来事、日々をただ生きることにとらわれ、何が重大で重要な問題であるかを忘れてしまうことは簡単です。私たち自身の災難であれ、だれかの災難であれ、災難ほど私たちを霊的無気力から揺すり起こし、重要な疑問を私たちに問いかけるものはほかにありません。

詩編119編65~72節を読んでください。この詩編記者は、自分を苦しめる試練によって生じた良い面を見ることができました。ときとして試練は、私たちを主に連れ戻したり、初めて主のもとへ導いたりする点において、確かに不幸中の幸いになりえます。人生が危機的状況に至り、そのときになって神に立ち帰ったり、初めて神に服従したりしたという人たちの物語を聞いたことのない人がいるでしょうか。いかに恐ろしく、悲劇的であっても、試練はときとして、私たちが長い時間をかけて理解できる良いことのために用いられることがあります。が、偶然で無意味に思えることもあります。

罪のない人がいつ滅びたのか

問1

ヨブ記2:11~13を読んでください。ヨブの友人たちが彼の状況をどう見ているかに関して、この箇所は何と述べていますか。

ヨブの身に起こったことを聞いて、この人たちは「相談し」(ヨブ2:11)ました。つまり、彼らは計画を立て、友に会うため一緒にやって来ました。先の聖句は、目にしたことに彼らが驚き、ヨブとともに「悲嘆のプロセス」に入ったことを伝えています。

先の聖句によれば、彼らは黙って座り、一言も発しませんでした。結局のところ、ヨブのような立場にある人に、あなたならどんな言葉をかけるでしょうか。しかし、ヨブが最初に口を開いて不平を口にするや否や、この友人たちには言うべきことがたくさん出てきました。

ヨブ記4:1~11を読んでください。ここでのエリファズは、たぶん悲嘆カウンセリングに関する良書の導入部分で取り上げることができるでしょう。その最初の章は、「嘆き悲しんでいる人に言うべきでないこと」といったタイトルになるかもしれません。明らかにこの友人たちはヨブに同情していましたが、その同情は限定的なものでした。エリファズにとっては、神学的正しさのほうが基本的な慰めよりも重要だったようです。ヨブが体験していたようなことを体験している人のところにやって来て、要するに、「あなたは自業自得に違いない。なぜなら神は正しく、神に逆らう者だけがこのように苦しむのだから」などと言う人を想像するのは困難です。

たとえ、ヨブの場合がそうだと思った人がいたとして、それをヨブに告げることは、どんな役に立ったでしょうか。スピード違反の運転手が事故を起こし、彼の家族を全員失ったとしましょう。悲しみの中にいる彼のところへすぐに行って、「あなたがスピード違反をしたことで、神はあなたを罰しておられるのだ」と言う人を想像できますか。エリファズの言葉の問題点は、その疑わしい神学だけではありません。より大きな問題は、ヨブと、ヨブが体験していることに対するエリファズの無神経さです。

人と造り主

最初の数行に関して、エリファズが分別や同情心の賞を何か獲得することはまずないでしょう。要するに彼が言っていたのは、次のようなことでした。「物事がうまくいっているときに、ヨブが人々の光や慰めになることは簡単だ。しかし、今や災いがヨブの身に降りかかり、彼は『おびえている』(ヨブ4:5、新改訳)。だが、彼はおびえるべきではない。神は正しい方なのだから、私たちを襲う災いは当然の報いなのだ」

ヨブ記4:12~21を読んでください。イスラエルの民があらわれる前にもかかわらず、この友人たちがいかに真の神の御性質や御品性を理解していたのかということを含め、ここには考察すべき興味深いことがたくさんあります。確かにヨブ記全体が、族長たちやのちのイスラエルの人々以外の人たちも主について多少知っていたことを示しています。それどころか、エリファズはここで神の御品性を擁護しようとしています。

エリファズが「夜の幻」(ヨブ4:13)の中で聞いたことは、いろいろな意味で非常に健全な神学でした(詩編103:14、イザ64:7、ロマ3:19、20参照)。私たち人間は塵であり、はかないものであり、しみのように簡単につぶされます。そして言うまでもなく、いずれの人間が神より正しくありえるでしょうか。

一方で、エリファズの言葉は古臭く、的外れです。ヨブに関する問題は、ヨブが神よりも正しいかどうかではありませんでした。ヨブの不平は、そういうことではありませんでした。ヨブが語ったことの大部分は、彼がいかに惨めであり、いかに苦しんでいるかということについてであって、彼が神より正しいということではありませんでした。

しかしエリファズは、ヨブが言ったことをすべてこういった意味に読み取ったようです。結局のところ、もし神が正しい方なら、災いは悪人だけを襲うのであり、従ってヨブは、彼が今体験していることに見合う何かをしたに違いない。それゆえ、ヨブの不平は不当だ、といいます。エリファズは神を擁護したいと思い、ヨブに意見し始めます。エリファズは、自分が持っていると思っていた神について蓄えた知識だけでなく、それ以外のもの——彼の見解を支持する超自然的な啓示のようなもの——も持っていました。しかし唯一の問題は、彼の取った見解が的外れであったということです。

愚か者が根を張る

エリファズはヨブ記5章で彼の主張を続けます。それは、彼が前の章で言ったこととほとんど同じで、災いは悪人にだけ起こるというものです。その主張をヨブがどう感じたか、想像してみてください。彼は、そんな主張は正しいはずがなく、自分は現状のようになるいわれがないことを知っていました。

しかし、ここには問題が一つありました。エリファズがここで言っていることのすべてが間違っているわけではない、ということです。それどころか、このような考えの多くが聖書のほかの箇所で繰り返されています。

問2次の聖句は、ヨブ記5章であらわされている心情を、どのように反映していますか。詩編37:10、箴言26:2、ルカ1:52、Iコリント3:19、詩編34:7〔口語訳34:6〕、ヘブライ12:5、ホセア6:1、詩編33:19

判断を急ぐ

エリファズがヨブに語ったことの多くは、間違っていませんでした。彼は多くの正しい主張、のちに聖書の中で述べられた主張をしました。それにもかかわらず、ヨブに対する彼の返事にはひどくまずい点がありました。その問題とは、彼が言った内容ではなくて、それを言った状況でした(来週の研究を参照)。

私たちの世界は複雑な場所です。一つの状況を見て、それに当てはまると思う決まり文句や聖句をいくつか引用することは簡単です。しかしそれらはしばしば当てはまりません。私たちの身に起こることはいかに自ら招いているかについて、エレン・G・ホワイトは次のように述べています。「聖書に、行為は人格のあらわれであると教えられているが、これほどはっきりした真理はない。人生の経験の大部分は、われわれ自身の思想や行為が実を結んだものである」(『教育』164ページ)。

これは、意味深い重要な真理です。あなたは、ヨブのような状況にある人のところへ行って、その人にエレン・G・ホワイトの先の言葉を読み聞かせる善意の人というものを想像できるでしょうか。その善意の人は、次の勧告に従ったほうがどれほど良かったことでしょう。「多くの人は、キリストの優しい、偉大な愛を少しも表さずに、神の正義を示していると思っている。厳格、過酷に取り扱っている相手が、誘惑に苦しんでいることもよくある。サタンは、こういう人と戦っているのであって、荒々しい不親切な言葉によって彼らは失望し、誘惑する悪魔の力に負けて、その捕虜となってしまう」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』151ページ)。

実はエリファズや、ヨブを含むほかの人たちが考えていたことよりもはるかに多くのことが、ここでは起きていました。それゆえ、エリファズが判断を急いだことは、彼の神学がすべて正しかったのに、彼の行動は正しいとは言えませんでした。私たちがだれかを、とりわけ罪を犯したと思われる人を扱うとき、次の聖句を念頭にとどめておく必要があります(マタ7:1、2、ロマ2:1~3、Iコリ4:5)。

ヨブは全人類の象徴として存在しています。なぜなら、私たちはみな大争闘に巻き込まれており、その中で苦しんでいるからです。そして私たちはみな、ある時点で、小言ではなく、思いやりと同情を必要とします。確かに、意見されるべき時と場所もあります。しかし、ある人が人生を台なしにし、子どもを亡くし、体中を皮膚病で覆われ、山のような灰の上に座っているときは、ふさわしい時ではありません。

さらなる研究

すでに触れたように、エリファズはヨブに対する同情心を持っていなかったわけではありません。ただ彼の同情心が、神の御品性を擁護することよりも重要でなかっただけのことです。結局のところ、ヨブはひどく苦しんでおり、神は正しい方なのだから、ヨブは自分の身に起きていることに見合うことをしたに違いない、というわけです。神が正義であるというのはそういうことだと、エリファズは結論づけました。それゆえ、ヨブが不平を言うのは間違っているのでした。

言うまでもなく、神は正しい方です。しかし、だからと言って、この堕落した世界で起きるあらゆる状況の中に神の正義があらわされるのを私たちが目にするとは限りません。事実、そうではありません。正義と裁きはもたらされるでしょうが、必ずしもそれは今ではありません(黙20:12)。信仰によって生きるということの一部は、この世において欠けている正義がいつの日か啓示され、明らかにされると、神を信じることです。

私たちがエリファズに見るものは、イエスに対する一部の律法学者やファリサイ派の人々の態度の中にもあらわれています。この人たちは、「忠実」で信心深くありたいという願いにとらわれ、主が安息日になさったいやし(マタイ12章参照)に対する彼らの怒りのほうが、その病人がいやされ、苦しみから解放されたという喜びに勝ってしまいました。

次の聖句のキリストの言葉が、どれだけ特定のことに関するものであろうと、その原則は、神を愛し、神に熱い思いを抱いている私たちが常に覚えておく必要のあるものです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが」(マタ23:23)。

第7課 報復的な罰

第7課 報復的な罰

人間の苦しみという問題は、確かに人類を脅かし続けています。私たちは、「良い」人たちが大きな悲劇で苦しむ一方、悪人たちがこの世において罰を免れているのを目にします。数年前、『なぜ良い人に悪いことが起きるのか』(英文)という本が出版されました。それは、何千年にもわたってこの問題に対する満足のいく答えを得ようとしてきた多くの試みの一つでした。が、答えは得られていません。ほかにも多くの著者や思想家が、人間の苦しみを受け入れるための苦闘について書いてきました。彼らが正しい答えを見いだしたようには見えません。

言うまでもなく、この主題はヨブ記の主題であり、私たちはその中に、ヨブのような「良い」人がなぜこの世で苦しむのかを探り続けています。しかし、ヨブ記とほかの本との決定的な違いは、ヨブ記が苦しみについて人間的な視点に立っていないという点です(しかしこの書巻の中で、私たちはそのような視点もいろいろ見ます)。むしろ、ヨブ記は聖書なので、私たちはこの問題に関する神の視点を見ます。

私たちは今回、悲惨なヨブのもとにやって来た友人たちの言葉をさらに読みます。私たちはその言葉から、とりわけ、ほかの人たちが失敗してきたのと同様、苦痛の問題を理解しようとする際の彼らの失敗から、何を学ぶことができるでしょうか。

さらなる非難

あたかもエリファズから意見されたことが十分でなかったかのように、次にヨブはビルダドから意見されます。ビルダドは、エリファズが言ったのと同じようなことを言いました。残念ながら、ビルダドはヨブに対して、エリファズよりも粗雑で辛辣でした。子どもを失った人のところにやって来て、「あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ/彼らをその罪の手にゆだねられたのだ」(ヨブ8:4)と言う人を想像してみてください。

この言葉は皮肉です。なぜなら、ヨブ記1章(ヨブ1:5)は、ヨブが子どもたちのために(万一彼らが罪を犯していた場合に備えて、という理由から)いけにえをささげたことを明らかにしているからです。このように私たちは、(ヨブの行動に見られるような)恵みの理解と、辛辣で報復的な律法主義をあらわしているビルダドの開口一番の言葉との対比をここに見ます。しかしさらに悪いことに、ビルダドは神の御品性を擁護するために、そのように話します。

ヨブ記8章を読んでください。ビルダドがここで言っていることに、だれが多くの欠点を見つけられるでしょうか。「わたしたちはほんの昨日からの存在で/何も分かってはいないのだから。地上での日々は影にすぎない」(ヨブ8:9)。この言葉は説得力があり、真実であり、極めて聖書的です(ヤコ4:14参照)。この世のものに希望を置く神を認めない人たちは、「くもの巣」(ヨブ8:14)より不安定なものを信頼しているのだという彼の警告に、どこか間違っているところがあるでしょうか。私たちが手に入れられる聖書的な考えは、このくらいのものです。

最も大きな問題は、ビルダドが神の御品性の一つの側面だけを述べているということです。道路の片方の側の側溝にいるという一つの実例です。いずれの側の側溝にも、私たちはいるべきではありません。例えば、ある人は、律法、正義、服従といったことだけに注目し、一方別の人は、恵み、赦し、代理といったことだけに注目することができます。いずれの過度の強調も、神や真理の姿をゆがめることに大抵つながります。私たちは同じ問題をここに見るのです。

「あなたの罪の一部を見逃して」

問1

「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。高い天に対して何ができる。深い陰府について何が分かる。神は地の果てよりも遠く/海原よりも広いのに」(ヨブ11:7~9、さらにイザ40:12~14参照)。どのような真理が述べられていますか。私たちがそれを常に覚えていることは、なぜ重要なのですか。

これらの言葉は、私たちには神についてわからない部分がたくさんあるということ、私たちが自力で神を調べようとどんなに努力しても、ほんのわずかしか知ることができないという事実を見事に表現しています。20世紀の最も有名な哲学者の1人故リチャード・ローティが、私たちは現実と真理を理解できないのだから、そのような努力はやめたほうがよい、と主張したというのは、興味深いことです。現実を理解しようとする代わりに、私たちにできるのはそれに対処しようとすることだけだと、ローティは言いました。なんと興味深いことでしょう。西洋哲学の2600年の伝統が、結果的にこのような敗北宣言に至りました。もし私たちがいくら探求しても、私たちが生きている現実の性質についてわからないままなら、だれが「探求することによって」創造主——その現実を生み出し、それゆえに現実よりも偉大な方——を理解できるでしょうか。ローティは、たった今私たちが読んだ聖句を基本的に支持しました。

しかし、これらの聖句は深遠なものですが、ヨブの三番目の友人ツォファルの言葉であり、彼はその言葉をヨブに対する誤った主張の中で用いました。

ヨブ記11章を読んでください。ヨブのように苦しんでいる人のところへやって来て、要するに、「あなたは自業自得だ。いや、それどころか、一部を見逃してもらっている」と言い放てる人を理解することは非常に困難です。さらに悪いことに、彼はほかの2人と同じように、神の善意と御品性を立証しようとして、そう言っているのです。

神の報復

間違いなく、ヨブの3人の友人は神に関する知識をいくらか持っていました。そして彼らは、神を擁護する努力においても熱心でした。すでに触れたように、ヨブに対する彼らの言葉は、(とりわけ背景を考慮するなら)見当違いでしたが、彼らは極めて重要な真理もいくつか述べていました。

そして、彼らの主張の中核を成していたのは、神は正義の神であり、罪は悪に報復的な罰を、善に特別な祝福をもたらすという考えでした。彼らが生きていた正確な時代はわかりませんが、私たちは、モーセがミディアンの地にいたときにヨブ記を書いたと信じているので、彼らは出エジプトの少し前の時代に生きていたのでしょう。しかも十中八九、大洪水のあとの時代です。

創世記6:5~8を読んでください。明らかに、大洪水の物語は、罪に対する神の報復の実例です。神はその中で、はっきり罰を受けるに値する者たちに直接それを下しておられます。しかしそこにおいてさえ、創世記6:8に見られるように、恵みの概念が明らかにされています。エレン・G・ホワイトも、「箱船に打ちつけられる槌音の一つひとつは、人々に説教していた」(『預言の霊』第1巻70ページ、英文)という事実を記しています。しかしそれにもかかわらず、これらの友人たちがヨブに説いていたことの一例を、私たちはこの物語の中に(ある程度)見ることができます。

問2

報復的な裁きという同様の考えは、創世記13:13、18:20~32、19:24、25の中に、どのように見られますか。

エリファズ、ビルダド、ツォファルがこれらの出来事をよく知っていたにしろ、知らなかったにしろ、彼らは悪に対する神の直接的裁きという現実を明らかにしています。神は、罪人をただ罪におぼれるままにしたり、その罪が彼らを滅ぼすままにしたりなさいませんでした。大洪水と同様、神は彼らを罰する直接的な主体でした。神はここで、不正と悪の裁き主、破壊者として働きました。

「もし主が新しいことを創始され(るなら)」

忠実さに対する祝福とともに、悪に対する直接的な神の罰に関する多くの実例が、聖書の中に記録されています。それらは、ヨブ記の登場人物が全員死んだあと、ずいぶん経ってから書かれたものです。

問3

服従に対し、どんな大きな約束が与えられていますか(申6:24、25)。

旧約聖書は、祝福と繁栄の約束であふれています。その祝福と繁栄は、もし神の民が神に従うなら、神から直接与えられるものです。私たちはここに、ヨブの友人たちが、神と神の戒めに従おうとする者たちや、信心深く真っ直ぐに生きようとする者たちの忠実さを神が祝福してくださることに関してヨブに言ったことの例を見ます。

言うまでもなく、旧約聖書は、不服従に対して下される直接的な神の罰に関する警告であふれています。旧約聖書の大半において、とりわけシナイの地でイスラエルと契約が交わされたあと、神はイスラエルの人々に、彼らの不服従がもたらすものについて警告しておられます——「しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る」(サム上12:15)と。

民数記16:1~33を読んでください。反逆者たちの滅ぼされ方の性質を考えると、この事件は、「罪はそれに対する罰を伴う」から自然なことだと見なすことはできません。この人たちは、自らの罪と反逆に対する神からの直接的な報復に遭ったのです。この件において、私たちは神の力の超自然的な顕現を目にします。それは、まさに自然界の法則が変わってしまったかのようでした。「だが、もし主が新しいことを創始されて、大地が口を開き、彼らと彼らに属するものすべてを呑み込み、彼らが生きたまま陰府に落ちるならば、この者たちが主をないがしろにしたことをあなたたちは知るであろう」(民16:30)。

この聖句における「創始する」という動詞は、創世記1:1で「創造された」と訳されている言葉と同じ語根に由来するものです。神はすべての人に、この罰を速やかに、かつ直接、反逆者たちに下すのが神御自身であることを知ってほしい、と願われたのでした。

第二の死

確かに、最も大きく、最も力強い報復的な裁きは、聖書の中で「第二の死」(黙20:14)と呼ばれる悪人たちの滅びによって世の終わりにあらわれるでしょう。言うまでもなく、この死と、アダムのすべての子孫に共通する死を混同してはいけません。この死は、第二のアダムであるイエス・キリストが、世の終わりに義人たちには免れさせる死のことです(Iコリ15:26)。それとは対照的に、第二の死は、旧約聖書時代に見られたいくつかの罰のように、悔い改めず、イエスによる救いを受け入れなかった罪人に下される神の直接的な罰なです。

問4

IIペトロ3:5~7を読んでください。失われた者たちの運命について、神の御言葉は何と述べていますか。

「火が天の神のみもとからくだる。地はくずれる。地の深いところに隠されていた武器が引き出される。焼き尽くす炎が、地のすべての裂け目から吹き出す。岩石そのものが火になる。『炉のように燃える日』が来たのである。『天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされる』(マラキ4:1、IIペトロ3:10)。地の表面は、ちょうど溶けたかたまり、巨大な沸騰する火の池のように見える。それは神を敬わない者たちの、刑罰と滅びの時である。『主はあだをかえす日をもち、シオンの訴えのために報いられる年をもたれる』(イザヤ34:8)」(『希望への光』1927、1928ページ、『各時代の大争闘』下巻459ページ)。

罪はそれに対する罰を伴うことがありますが、ヨブ記の主役たちが主張したように、神御自身が罪と罪人を直接罰せられる時も確かにあります。この世のすべての苦しみが罪から生じたことは確かです。しかし、すべての苦しみが罪に対する神の罰であるというわけでもありません。ヨブの場合はまったくそうでありませんでしたし、ほかの多くの場合においても同様です。事実は、私たちが大争闘に巻き込まれており、私たちに害を及ぼそうと躍起になっている敵が存在するということです。良い知らせは、そのただ中にあって、神がそばにおられることを私たちが知っていることです。私たちが直面する試練の理由が何であれ、現時点でのそれらの結果がどうであれ、私たちには神の愛の確証があります。それは、イエスが私たちのために十字架にかかられたことでわかるほど大きな愛です。そしてその行為だけが、すべての苦しみを終わらせると約束しています。

さらなる研究

このシリーズの最初に述べたように、この物語の登場人物の立場にわが身を置こうとすることは重要です。なぜなら、そうすることで彼らの動機や行動が理解しやすくなるからです。彼らには舞台裏で起こっている闘いは、私たちのようには見えませんでした。もし私たちが彼らの立場に立って考えてみるなら、ヨブの苦しみに関してエリファズ、ビルダド、ツォファルが犯した過ちを理解するのはさほど難しくないはずです。彼らは、まったく下す資格のない判断を下していました。

「大きな災難が大きな犯罪や罪の確かなしるしだと考えるのは、人間にとってごく自然なことである。しかし、そのように品性を評価することにおいて、人間はしばしば過ちを犯す。私たちは報復的な裁きの時代に生きていない。善と悪は混じり合っており、災難はすべての人を襲う。ときとして、人間は神の保護を離れて境界線を越えるが、するとサタンが彼の力を人間に行使し、神は介入なさらない。ヨブは激しく苦しんでおり、彼の友人たちは、その苦しみが彼の罪の結果だと認めさせ、彼を有罪宣告のもとにあると感じさせようとした。彼らはヨブの事例を大罪人の事例だと言ったが、主は、御自分の忠実な僕に対する彼らの裁きを叱責された」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第3巻1140ページ、英文)。

私たちは、苦しみという問題全体の扱い方において注意深くなければなりません。確かに、ある場合には、理解しやすいかのように見えます。だれかがたばこを吸い、肺がんになったとします。これ以上にわかりやすいことがあるでしょうか。それはいいとして、では生涯ずっと喫煙して、がんにかからない人はどうですか。神は一方を罰し、他方を罰しておられないのでしょうか。結局のところ、エリファズ、ビルダト、ツォファルと同様、私たちはなぜ苦しみがこのように襲ってくるのか、必ずしもわかりません。ある意味において、私たちがわかるか、わからないかは、ほとんど重要ではありません。重要なのは、私たちが目にする苦しみに対してどう行動するかです。この点において、3人の友人は完全に間違っていました。

第8課 罪のない者の血

第8課 罪のない者の血

アルジェリア生まれの作家アルベール・カミュは、人間の苦しみという問題と格闘しました。『ペスト』という本の中で、彼は人類に痛みと苦しみをもたらす病気の象徴としてペストを用いています。彼は、ペストにかかった幼い少年が過酷な死を遂げる場面を描きました。少年が死んだあと、その悲劇を目にした神父が、やはりその場にずっといた医師に向かってこう言います。「それはつまり、それがわれわれの尺度を越えたことだからです。しかし、恐らくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」(『カミュ1』新潮世界文学48、405ページ)。すると、医師は腹を立てて言い返します。「そんなことはありません。……僕は愛というものをもっと違ったふうに考えています。そうして、子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯じません』」(同)。

この場面は、私たちがヨブ記の中に見てきたことを反映しています。単純な解決策のないことに対する型通りで説得力のない答えです。ここでの医師と同様、ヨブは、与えられた答えがどれも目の前の現実に合致しないことを知っていました。ですから、次のことが問題でした。「私たちは、しばしば理にかなっていないように思えることの理を説明する答えを、いかに見いだしたらよいのか」。今回も私たちは探求し続けます。

ヨブの抗議

エリファズ、ビルダド、ツォファルの言うことには、一理ありました——神は悪を罰されます。しかし残念なことに、その「一理」はヨブの状況には当てはまりませんでした。ヨブの苦しみは、報復的な罰の事例ではなかったからです。神は、のちにコラ、ダタン、アビラムになさったように、罪のゆえにヨブを罰しておられたのではありません。ヨブはまた、しばしばそういう場合があるように、まいたものを刈り取っていたのでもありませんでした。違います。ヨブは正しい人でした。神御自身がそう言っておられます(ヨブ1:8)。ですから、ヨブは彼の身に起こったことを受けるいわれもありませんでしたし、彼はそのことを知っていました。そのことが、彼の不平を激しく、苦々しいものにしました。

ヨブ記10章を読んでください。彼は神に向かって何と言っていますか。大きな悲劇に見舞われたとき、神を信じる人たちは次のような質問をしてこなかったでしょうか。「主よ、なぜあなたは、わざわざ私を造ったのですか」「なぜあなたは私にこのようなことをなさるのですか」「私は造られてこのような目に遭うくらいなら、生まれてこなかったほうがよかったのではありませんか」

重ねて言いますが、ヨブの理解を難しくさせていたのは、「自分は神に忠実である」という彼の自覚でした。ヨブは神に向かって叫びました。「わたしが背く者ではないと知りながら/あなたの手からわたしを救いうる者はないと知りながら」(ヨブ10:7)。

ここには理解しがたい皮肉があります。ヨブは、彼の友人たちが言ったこととは違い、自分の罪のゆえに苦しんでいたのではありません。ヨブ記そのものが正反対のことを教えています。ヨブがここで苦しんでいるのは、まさに彼が忠実であったからでした。ヨブ記の最初の2章がその点をはっきり述べています。ヨブは、そのことが原因だったとは知る由もありませんでしたし、たとえ知ったとしても、恐らく彼の苦しみと不満は一層深まるだけだったでしょう。

ヨブの状況がいかに特殊であったとしても、苦しみという普遍的な問題を扱っているという点において(とりわけ、その苦しみが、だれかが犯したかもしれない悪に釣り合わないほど大きく思えるときに)、彼の状況は普遍的でもありました。スピード違反を犯して違反切符を切られることと、スピード違反を犯してその過程でだれかを殺してしまうこととは、大違いです。

罪のない者の血なのか

私たちは、「罪のない者」たちの苦しみという問題をしばしば耳にします。聖書も、だれかがいわれなき暴行を受けたり、殺害されたりした場合に、「罪のない者の血」(イザ59:7、エレ22:17、ヨエ4:19〔口語訳3:19〕)という言葉を用いています。この「罪のない者の血」の意味を理解することは、私たちの世界が多くのその実例であふれている事実を認めます。

その一方で聖書は、人間の罪深さ、堕落という現実についても述べており、そのことは、「罪のない」という言葉の意味について疑問を提起します。もしすべての人が罪を犯し、神の律法を破ったのなら、一体だれが真に罪のない状態にあるでしょうか。だれかがかつて「あなたの出生証明書は、あなたが有罪であることの証明です」と言いました。

何世紀にもわたって、神学者や聖書学者たちは、人間と罪との正確な関係について議論してきました。しかし聖書は、罪が全人類に影響を及ぼしていると、明快に述べています。人間が罪深いという考えは、新約聖書の中にだけ見いだされるものではありません。それどころか、この人間の罪深さに関する新約聖書の探求は、旧約聖書の中に書かれたことをさらに詳しく説明しているにすぎません。

問1

罪の現実について、次の聖句は何と教えていますか(王上8:46、詩編51:7〔口語訳51:5〕、箴言20:9、イザ53:6、ロマ3:10~20)。

聖書の明瞭なあかしに加えて、主を個人的に知った人、神の善意と聖さを垣間見た人たちは、人間の罪深さの現実を知っています。その意味において、私たちの中のだれが(さしあたって、赤ちゃんや幼い子どもに関する疑問は差し置いて)、真に「罪のない」状態にあるでしょうか。

しかし、そういうことが問題なのではありません。ヨブは罪人でした。その意味で、彼は罪のない状態にありませんでしたし、ましてや彼の子どもたちは同様でした。しかし彼や彼らは、その身に降りかかった悲運に値するどのようなことをしたのでしょうか。恐らくこれは、人類にとって、苦しみに関する究極の疑問ではないでしょうか。友人たちの「土くれの盾」(ヨブ13:12)とは違い、ヨブは、彼の身に起こっていたことがいわれなきものであることを知っていました。

不公平な運命

ヨブ記15:14~16を読んでください。再びエリファズは(ほかの人たちと同様)真理を語っていますが、今回は全人類の罪深さについての真理です。罪は地上の命の普遍的な現実であり、苦しみも同様です。また私たちが知っているように、全人類の苦しみは、究極的に罪から生じています。私たちに重要な教訓を教えるために、神が苦しみをお用いになることは、疑いの余地がありません。「神は、常に神の民を悩みの炉の中で試みてこられた。クリスチャン品性という純金から不純物が取り除かれるのは、炉の火の中においてである」(『希望への光』63ページ、『人類のあけぼの』上巻128ページ)。

しかし、苦しみに関するさらに深い問題があります。苦しみから何も良いものが得られないように思えるときは、どうでしょうか。たとえば〔事故などで〕即死して、品性の中の純金から不純物を取り除いてもらえない人たち。真の神や、神に関することをまったく知らずに苦しむ人たち。苦しみによって神に恨みを抱き、怒り、憎しみを持っただけの人は、どうでしょうか。私たちはこういった例を無視したり、単純な公式に押し込んだりすることはできません。なぜなら私たちは、ヨブを非難した人たちと同様の過ちを犯すことになるからです。

さらに、森林火災で生きたままゆっくりと焼かれ、悲惨な死を遂げた動物たち。あるいは、自然災害で死んだ多くの人や、戦争で死んだ民間人は、どうでしょうか。彼らはどんな教訓を学びえたでしょうか。あるいは、彼らと一緒に死んだ彼らの家族はどうだったでしょうか。死んだヨブの10人の子どもについてだけでなく、「切り殺され(た)」(ヨブ1:15)牧童たち、「天から神の火が降って」(同1:16)焼け死んだ僕たち、「切り殺され(た)」(同1:17)別の牧童たちについても、当然疑問を呈することができます。

ヨブと、彼を非難する人たちがどんな教訓を学び、またサタンが、ヨブの忠実さによってどんな敗北を味わうにしろ、これらのほかの人たちの運命はまったく公平とは思えません。実際、こういった出来事は、公平でも正しくもありません。

私たちは今日、同じような疑問に直面します。6歳の子ががんで死ぬということ、20歳の女子大生が車から引きずり出されて暴行を受けるということ、3人の子どもを持つ35歳の母親が交通事故で死ぬというこれらは、公平でしょうか。2011年の東日本大震災(津波)で死んだ約1万9000人の日本人は、どうでしょうか。1万9000人全員が、罰として受けなければならない罪を何か犯したのでしょうか。これらは難しい問題です。

その日だけで十分……

問2

次の聖句を読み、描かれている人たちの早い死について考えてください。「人生は彼らをいかに公平に扱っただろうか」と自問してみましょう。ヨブ記1:18~20、創世記4:8、出エジプト記12:29、30、サムエル記下11:17、マタイ14:10、ヘブライ11:35~38、(エレミヤ38:6)

聖書は、私たちの堕落した世界における人生の厳しい現実を反映しています。災いや苦しみは現実です。いくつかの聖句を抜き出し、神の御言葉を表面的に読むとき、この世の人生は公平公正で、私たちが神に忠実でありさえすれば苦しみは襲ってこないといった考えを人に与えることがあります。確かに、忠実であることによって大きな報いを得ることはできますが、忠実さが苦しみや痛みに対する完全な障壁になるという意味ではありません。ヨブに聞いてみてください。

イエスは山上の説教の中で、私たちがなぜ神を信頼する必要があるのか、また何を食べ、飲み、着るかを心配する必要がないのかについて、力強い説教をなさいました。そして、私たちの必要を満たされる神の恵みを、自然界の実例を用いて説明されました。それから、イエスは次の有名な言葉で締めくくられました。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタ6:34)。

「その日の苦労は、その日だけで十分である」という日々の生活の中にイエスは(「悪」「堕落」「悪い出来事」といった意味のギリシア語に由来する)苦労が存在することを否定していません。イエスは私たちの日常生活の中に災い(苦労)が存在し、行き渡っていることを認めておられます。主であるイエスは、私たちのだれよりもこの世の災いについてよくご存じだからです。

見えないもの

箴言3:5を読んでください。だれもがよく知っている聖句ですが、そこには(とりわけ、私たちが学んできたこととの関連において)重要なメッセージが書かれています。

ヨブの場合は極端な例ですが、それは堕落したこの世における人間の苦しみの悲しい現実を反映しています。この現実を知るために、私たちはヨブの物語も、聖書に収められているほかの物語さえも必要としません。至る所でそれを目にするからです。私たちはみな、ある程度、確かにその現実を生きています。

「人は女から生まれ、人生は短く/苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ/影のように移ろい、永らえることはない」(ヨブ14:1、2)。

つまりここでも、私たちが格闘する疑問は、理にかなわないように思える類の苦しみ、罪のない者の血が流されるような類の苦しみを、私たちはいかに説明するのか、ということです。

ヨブ記の最初のほうの章が示していたように、また聖書がほかの箇所で明らかにしているように、サタンは実在するものであり、直接的または間接的に、多くの苦しみの原因です。このシリーズの研究で先に触れたように(第2課参照)、大争闘という枠組みは、この世における災いの現実を論じるうえでとても役に立ちます。

しかしそれでも、なぜそういうことが起きるのかを理解することは、ときとして困難です。時折(実際には、多くの場合)、物事はまったく理にかなっていません。私たちに理解できないこと、私たちが神の善意を信じることを学ぶ必要のある物事が起きるのは、そういうときです。答えがすぐにわからないときや、身の回りの災いや苦しみから何も良いものが生じたと思えないときでさえ、私たちは神を信頼することを学ぶ必要があります。

問3

ヘブライ11:1には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と書かれています。私たちは目に見えない物事に関して、目に見える物事から、いかに神を信頼することができるようになるでしょうか。これまでにヨブ記の中で読んだ内容から、ヨブはどうすることを学びましたか。私たちはいかにして同じことができるでしょうか。

さらなる研究

今回の導入部分はアルベール・カミュで始まりましたが、彼は苦しみの問題に対する答えだけでなく、(苦しみによって一層深刻になるばかりの)人生の意味全般に対する答えを求めての格闘についても、たくさん書いています。大抵の無神論者と同様、彼はあまり良い答えを見いだせませんでした。彼の最も有名な引用文が、そのことを示しています。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」(『シーシュポスの神話』新潮文庫ページ)。確かに、人間の苦しみという問題は、簡単に答えられるものではありません。ヨブ記はベールを取り払い、私たちがほかの書巻で見るよりも大きな全体像を見せています。

しかし、神なしで苦しみの問題に対する答えを求めて格闘する人たちと、神ありでそうする人たちとの間には、極めて大きな違いがあります。確かに、痛みと苦しみの問題は、あなたが神の存在を信じるときに一層難しくなります。神が存在されるにもかかわらず災いや苦痛があるという避けがたい問題が生じるからです。しかし一方で、私たちには、カミュのような無神論者たちが持っていないものがあります。それは、この問題が答えられ、解消されるという見通しです(カミュは後年、バプテスマを受けたいと望んだものの、交通事故で急死してしまったことが明らかになっています)。「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙21:4)。たとえ、この約束や、聖書の中の多くの約束を信じなかった人でも、次のことは認めざるをえないでしょう。ほかのことはともかく、少なくともそのような希望を持つほうが、ただ労苦と格闘の中で生き、やがて何の意味もないまま永遠に死んでいくという見通しよりも、今の人生がはるかにすばらしくなるでしょう。

第9課 希望の兆し

第9課 希望の兆し

イギリスの随筆家ウィリアム・ハズリットは、こう書きました。「人間は、笑い、泣く、唯一の動物である。なぜなら人間は、物事の現状と物事のあるべき状態との違いに衝撃を受ける唯一の動物だからだ」

物事は確かに、あるべき状態にありません。しかし、再臨の約束を抱きつつ生きるクリスチャンには、希望があります。物事がどうなるかという大いなる希望です(IIペト3:13)。それは、現在の罪で曇った心ではほとんど想像できない(Iコリ13:12)ほどすばらしいものでしょう。これは、世俗の心がその狭量と偏狭の中で遠い昔に失ってしまった希望です。

私たちは今回、ヨブ記における苦しみの問題を研究し続けながら、ヨブが、身に降りかかった不公平で、理にかなわず、不当な悲劇のただ中にもあっても、希望の言葉を口にすることができたことを知るでしょう。その希望とは何だったのでしょうか。そしてその希望は、私たちも望みを置くことのできるどんなことを告げていますか。

偽りをもってうわべを繕う者

「無知な者も黙っていれば知恵があると思われ/唇を閉じれば聡明だと思われる」(箴17:28)。

人間ヨブについて言いたいことを言うとしても、彼が悲しみの中で何もせずにただ座り、友人たちが投げつけてくることを静かに聞こうとしていた、とは言えません。それどころか、ヨブ記の大半は、真実と誤りの入り混じった言葉に対する彼の反撃で構成されています。すでに触れたように、この友人たちは気配りや同情をあまり示しませんでした。彼らは、ヨブに起こったことを正当化しながら神を擁護する主張をし、要するに、ヨブは自業自得であるか、もっとひどい目に遭っても仕方がないのだ、と言っていました。このような考え方はどれ一つ取ってもまったくひどいものでしたが、この3人(やほかの人たち)は全員ひどすぎたので、ヨブは言い返しました。

ヨブ記13:1~14を読んでください。ヨブ記2章で読んだように、この友人たちは、やって来てヨブを初めて見たとき、7日間、彼に何も話しかけませんでした。最終的に彼らの口から出てきた言葉を考えると、話しかけないことが最善の接し方だったのかもしれません。ヨブが考えたのは、まさにそういうことでした。

この友人たちは単に不正を語っているだけでなく、神について不正を語っている、とヨブが言っていることにも注目してください(ヨブ記の終わりに起こったことを踏まえると、これは興味深い点です〔ヨブ42:7参照〕)。確かに、間違ったことを何か言うよりは、黙っているほうが賢明でしょう(私たちの中に、それがいかに正しいかを体験したことのない人がいるでしょうか)。しかし、神について間違ったことを言うことのほうがはるかに悪いようです。言うまでもなく、皮肉なことにこの友人たちは、起こったことに関するヨブのひどい不平不満から神とその御品性を自分たちが擁護している、と実際に考えていました。ヨブは、こういったもろもろの出来事がなぜ彼を襲ったのかは理解できぬままでしたが、この友人たちの言っていることが彼らを「偽りをもってうわべを繕う者」(ヨブ13:4、口語訳)にしていることは、よくわかっていました。

神が私を殺したとしても

このシリーズの研究を始めたとき、私たちはまずヨブ記の結末を扱い、ヨブにとって事態が最終的にどう好転したのかを見ました。ひどい苦しみの中にあっても、ヨブが希望を持っていたのを、私たちは目にしました。実際、私たちは今に生き、この書全体と聖書の結末を知っているので、ヨブが想像しえた以上のずっと多くの希望を持っていることがわかります。

しかしヨブは、子どもたちが死んで、財産が奪われ、健康が損なわれたとき、事態がどう展開するのかを知りませんでした。彼が知っていたのは、人生が急に暗転してしまったということだけでした。

でもヨブは、生まれてこなければよかった、母親の胎から墓へ運ばれていればよかったと嘆きつつも、依然として希望を表しており、その希望はヨブを今ひどく不公正に扱っていると思っている同じ神の中にありました。

ヨブ記13:15を読んでください。「見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望(む)」(新改訳)。なんと力強い信仰のあかしでしょう。

あらゆることが起こったので、ヨブは、最後のもの、彼の身に起こっていなかった死が恐らくやって来るだろうこと、しかも神がそれをもたらされるかもしれないことを知っていました。しかし、たとえそうなったとしても、ヨブは主をとにかく信頼しつつ死んだことでしょう。

「キリストの恵みの豊さを常に覚えておく必要がある。彼の愛が与える教訓を蓄えましょう。『たとえ神が私を殺しても、私は神を信頼する』と宣言できるよう、あなたの信仰をヨブの信仰のようにしましょう。天の御父の約束をしっかりつかみ、神がこれまでにあなたや神の僕たちをどう扱われたかを思い出しなさい。『神を愛する者たち……には、万事が益となるように共に働く』からです」(『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』1910年10月20日号)。

人間的な観点からすれば、ヨブには何かを期待する理由がありませんでした。しかし実際のところ、ヨブは人間的な観点から見ていたのではありませんでした。もし人間的に見ていたなら、彼はどんな希望を持つことができたでしょうか。そうではなく、ヨブがこのような驚くべき信仰と希望のあかしをしたとき、彼は神を信頼することにおいてそうしたのです。

希望の兆し

「このわたしをこそ神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら御前に出るはずはないではないか」(ヨブ13:16)。なんと興味深い聖句が昨日読んだ聖句のすぐあとに続いていることでしょう。たとえヨブが死なねばならないとしても、たとえ神が彼の命を奪われたとしても、ヨブは神の救いを信じているといいます。見方によっては、それは奇妙な対比であり、別の見方をすれば、完全につじつまが合っています。結局のところ、救いは死からの解放以外の何でしょうか。死は、少なくとも救われた者たちにとって、永遠の命へ復活する前の短い休息の時、一瞬の眠り以外の何でしょうか。永遠の命へ復活するというこの希望は、数千年間にわたって、すべての神の民の最大の希望ではないでしょうか。それは、ヨブの希望でもありました。

問1

Iコリント15:11~20を読んでください。ここで私たちに提示されている希望は何ですか。この希望がなければ、なぜ私たちにはまったく希望がないのですか。

さらにヨブは、先の力強い救いのあかしのあと、「神を無視する者なら/御前に出るはずはないではないか」と言っています。「神を無視する者」に相当するヘブライ語の「ハーネフ」の語根は、「冒」とか「不信心」を意味し、とても否定的な意味合いを持つ言葉です。ヨブは、彼の救いが神と神に対する忠実な服従に徹した生き方の中にしか見いだされないことを知っていました。それゆえ、悪い人や不信心な人、つまり「ハーネフ」には希望がありませんでした。たぶんヨブは、彼が「救いの確証」として理解することを表明していました。ヨブは罪のためのいけにえを忠実にささげましたが、彼がその意味をどの程度理解していたのかはわかりません。キリストの十字架以前、忠実に主に従うヨブのような者たちの大部分は、間違いなく、十字架以降に生きている私たちが理解しえるようには、救済について十分に理解できませんでした。それにもかかわらず、ヨブは、彼の救いが主の中にしか見いだされないこと、いけにえがその救いの見いだされる方法を表現したものであることは、十分にわかっていました。

この世が始まる前の希望

ヨブが体験したようなことを体験した人で、一体だれがこのような力強い希望の言葉を口にできるでしょうか。ヨブの言葉は、彼の信仰と服従の生活が本物であったことの永遠の証拠です。

ヨブが希望を持っていたのは、彼が希望の神に仕えていたからでした。聖書には、エデンにおけるアダムとエバの堕落から(創3章)、終末時代におけるバビロンの崩壊に至るまで(黙14:8)、人間の罪深さに関するさまざまな物語が収められていますが、それでも聖書は希望にあふれた書物です。この世が与えることのできないものに対する光景であふれています。

「世はキリストにまかされ、キリストを通して、神からのすべての祝福が堕落した人類に与えられた。キリストは受肉の後と同じように、受肉の前にもあがない主であられた。罪が生じると同時に、救い主がおられた」(『希望への光』771、772ページ、『各時代の希望』上巻257、258ページ)。私たちの希望の大いなる源である方以外に、一体だれが救い主でしょうか。

次の聖句は、今日の研究におけるエレン・G・ホワイトの言葉の中にあらわされているすばらしい希望を支持しています(エフェ1:4、テト1:2、IIテモ1:8、9、Iペト1:18~20)。これらの聖句は、神がその予知力によって、人間が罪に堕ちるであろうことを天地創造の前から知っておられたという驚くべき真理を教えています。原語のギリシア語だとIIテモテ1:9は、私たちは「永遠の昔に」キリスト・イエスにおいて与えられた恵みによって呼び出されたとあります。

これは、「わたしたちの行い」に対して与えられた恵みではなく(私たちが存在していないときに、「わたしたちの行い」でありえるでしょうか)、イエスによって与えられた恵みです。私たちが存在する前だというのに、神は永遠の命という希望を人類に与える計画を立てられました。その希望は、私たちがそれを必要としてから生じたのではありません。そうではなく、私たちがそれを必要としたときにはすでにあり、私たちのために準備されていました。

私たちクリスチャンには、期待するもの、望みを置くものがたくさんあります。私たちは神によって創造された世界に存在しており、その神は、私たちを愛しておられる神(ヨハ3:16)、私たちを贖われた神(テト2:14)、私たちの祈りを聞かれる神(マタ6:6)、私たちのために執り成しをなさる神(ヘブ7:25)、私たちを決して置き去りにしないと約束しておられる神(ヘブ13:5)、私たちのしかばねを死から立ち上がらせ(イザ26:19)、一緒に永遠に生きる命を私たちに与えると約束しておられる神です(ヨハ14:2、3)。

希望の例

問2

次の聖句を読んでください。それぞれの聖句は、どんな希望を明らかにしていますか。創世記3:15、創世記22:8、レビ記17:11、ヨハネ1:29、ガラテヤ2:16、フィリピ1:6、Iコリント10:13、ダニエル7:22、ダニエル12:1、2、マタイ24:27、ダニエル2:44

さらなる研究

最初から最後まで、聖書はすばらしい希望の言葉であふれています。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハ16:33)。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:20)。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)。「東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」(詩編103:12)。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8:38、39)。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(創9:16)。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです」(Iヨハ3:1)。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ」(詩編100:3)。

これらの聖句は、私たちの神がどのような方であり、どのようなものを私たちに与えられるかということについて、御言葉の中に明らかにされていることのほんの一部です。もし希望が聖書に明らかにされていることに基づかないとしたら、私たちにはその希望に対するどんな根拠があるでしょうか。

第10課 エリフの痛み

第10課 エリフの痛み

ヨブとこれら3人の友人との論戦の中には、ときとして賢明で、美しく、深く、真実な言葉が含まれていました。人々はなんとしばしばヨブ記から、しかもエリファズやビルダドやツォファルの言葉からさえ引用することでしょう。それは、これまで何度も触れてきたように、彼らが確かに良いことをたくさん言ったからです。ただ、それらの言葉をふさわしい場所、ふさわしい時、ふさわしい状況で言わなかっただけです。ここから私たちが学ぶべきことは、箴言25:11~13の説得力のある真理でしょう。

時宜にかなって語られる言葉は
銀細工に付けられた金のりんご。
聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは
金の輪、純金の飾り。
忠実な使者は遣わす人にとって
刈り入れの日の冷たい雪。
主人の魂を生き返らせる。

残念ながら、ヨブが友人たちから聞かされていたのは、そのような言葉ではありませんでした。それどころか、問題は一層深刻になろうとしていました。なぜなら、3人の友人がヨブに、「あなたは間違っている」と言うだけでなく、新たな1人が登場するからです。

惨めな慰安者たち(慰める者たち)

ヨブの力強い信仰表明のあとも(ヨブ13:15、16)、舌戦は続きました。多くの章にわたって、彼らは入れ替わり立ち替わり、神、罪、死、正義、神に逆らう者、知恵、人間のはかなさに関する深くて重要な問題をいろいろ論じました。

問1

次の聖句には、いかに真理があらわされていますか。ヨブ記13:28、ヨブ記15:14~16、ヨブ記19:25~27、ヨブ記28:28

これらの章を通じて議論は続き、いずれの側も自分の立場を譲りませんでした。エリファズ、ビルダト、ツォファルは、自分なりの仕方で、それぞれの意図を持って、人は人生においていかに自業自得であるか、つまりヨブの身に降りかかったことは彼の罪に対する罰に違いないという議論を弱めませんでした。一方でヨブは、彼を襲った残酷な運命を、その苦しみは受けるいわれがないと確信して、嘆き続けました。入れ替わり立ち替わり、彼らは言い争い、「慰安者たち」は各自空しい言葉を語ってヨブを非難し、ヨブも彼らに対して同じことをしました。

結局、ヨブを含むだれもが、起こっていることをまったく理解していませんでした。どうして彼らに理解できるでしょうか。彼らは、あらゆる人間が持っている非常に限られた観点から語っていました。もし私たちがヨブ記から何らかの教訓(とりわけ、全員の発言が終わったこの時点までに明らかなはずの教訓)を得ることができるとしたら、それは、私たち人間が神と神の働きについて話すとき、謙虚さが必要だということです。私たちはいくらかの真理を、場合によっては多くの真理さえ知っているかもしれませんが、(これら3人の友人を見てわかるように)ときとして、自分が知っている真理を適用する最善の方法を必ずしも知りません。

エリフの登場

ヨブ記26章から31章まで、この物語の悲劇的主人公であるヨブは、3人の友人に最後の話をしています。雄弁に熱く語ってはいますが、基本的に彼はこれまで述べてきた主張を繰り返しているにすぎません。「私はこの身に起こっていることを受けるいわれはない」ということ。それだけです。

またもやヨブは、いわれなきことで多くの人が苦しんでいる人類の大半を象徴しています。そして、(いろいろな意味で最も難しい問題である)その問題は、「なぜ」なのです。ときとして、苦しみに対する答えは比較的簡単です。人は明らかに自分の身に自ら困難を招くことがあります。しかし非常にしばしば、とりわけヨブの場合、そうではありません。ですから、苦しみに関する疑問が残ります。

ヨブ記31章が終わりに近づくにつれ、ヨブは、彼が送ってきたような人生、つまり彼の身に今起きていることに値することを何もしてこなかった人生について語っています。そして、この章の最後の聖句は、「ヨブは語り尽くした」(ヨブ31:40)と書かれています。

ヨブ記32:1~5を読んでください。ヨブ記の中で、このエリフという男性が出てくるのは、ここが初めてです。彼は明らかに長い議論のなにがしかを耳にしましたが、彼がいつその場に姿を見せたのかは、私たちに告げられていません。エリフは遅れて来たに違いありません。なぜなら、ほかの3人が最初にやって来たとき、彼らと一緒だったようには書かれていないからです。しかし、エリフが対話のどの部分を耳にしたにしろ、その耳にした答えに彼が満足できなかったということはわかります。それどころか、この五つの聖句の中で、エリフは耳にしたことに「怒った」と4回も述べられています。そしてその後の6章の中で、このエリフという男性は、ヨブを襲った災難のゆえに、この人たち全員が立ち向かった問題に対する彼の理解と説明を語ろうとします。

神を擁護するエリフ

エリフと彼のコメントに関して、長年にわたって、多くの注釈が書かれてきました。中には、それを対話の方向性を変える転換点だと見なすものもあります。しかし、対話の力学を変えるような、新しい、あるいは画期的な何かを、エリフがどこで加えているのかを確認することは、実のところ、簡単ではありません。むしろ彼は、ほかの3人が(ヨブの苦しみに関する不公正さの告発に対抗して)神の御品性を擁護しようとして語ったこととほとんど同じ意見を述べているように思えます。

問2

ヨブ記34:10~15を読んでください。エリフはここで、どのような真理を語っていますか。エリフの言葉は正しかったのに、なぜそれは現状にはふさわしくなかったのでしょうか。

もしかすると私たちがエリフに見いだすことができるものは、ほかの友人たちと同様、恐れ——神は、自分たちが考えているような方ではないという恐れ——かもしれません。彼らは神の善良さ、正義、力を信じたいのです。徹底的に、神の善良さ、正義、力に関する真理を言いあらわすこと以外に、エリフに何ができるでしょうか。

「神は人の歩む道に目を注ぎ/その一歩一歩を見ておられる。悪を行う者が身を隠そうとしても/暗黒もなければ、死の闇もない」(ヨブ34:21、22)。

「まことに神は力強く、たゆむことなく/力強く、知恵に満ちておられる。神に逆らう者を生かしてはおかず/貧しい人に正しい裁きをしてくださる。神に従う人から目を離すことなく/王者と共に座につかせ/とこしえに、彼らを高められる」(ヨブ36:5~7)。

「全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない」(ヨブ37:23、24)。

もしこれらがすべて正しいなら、人が導き出しうる唯一の結論は、ヨブは受けるべきものを受けているということです。それ以外の結論がありえるでしょうか。そこでエリフは、ヨブのような良い人に降りかかったひどい災いを目の前にしながらも、神に対する自分の理解を守り抜こうとしたのでした。

災いの不合理

神を信じる者、正義の神を信じる者であったこの4人は、いつの間にか全員がジレンマに陥っていました。神の御品性に対する彼らの理解と矛盾しない合理的、論理的な形で、いかにヨブの状況を説明したらよいのでしょうか。残念なことに、彼らの取った災いの見解、少なくともヨブの身に降りかかった災いを理解しようとする試みにおいて、基本的に間違っていたことがわかりました。

エレン・G・ホワイトは、この点に関して説得力のある意見を述べています。「罪の存在を理由づけようとして罪の起源を説明することは、不可能である。……罪は侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる」(『希望への光』1836ページ、『各時代の大争闘』下巻228ページ)。

彼女は「罪」という言葉を使っていますが、これを同様の意味を持つ別の言葉、つまり「災い(悪)」に置き換えてみたらどうでしょうか。すると先の引用文は次のようになります。「災いの存在を理由づけようとして罪の起源を説明することは、不可能である。……災いは侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる」

悲劇が襲うとき、人々はしばしば、「理解できない」とか、「合点が行かない」とか言ったり、考えたりします。ヨブがずっと口にしていた不平は、まさにそういうことでした。

ヨブや彼の友人たちが悲劇の意味を理解できなかったのには、もっともな理由があります。災い(悪)は理にかなっていないからです。もし私たちがそれを理解できるなら、もしそれが理にかなっているなら、もしそれが何らかの論理的、合理的計画に適合するなら、それは災いでも、悲劇でもないでしょう。なぜなら、それは合理的な目的を果たすからです。

サタンの堕落と悪の起源に関する次の聖句に目を向けてください(エゼ28:12~17)。ここにいるのは、完璧な環境の中で、完璧な神によって創造された完璧な存在です。彼は高められ、知恵に満ち、美しさの極みであり、貴重な宝石を身に着け、「神の聖なる山」にいた「油そそがれたケルブ」(英語訳)でした。しかし、これだけ多くのものを与えられたにもかかわらず、この存在は堕落し、悪に身を任せたのです。悪魔に影響を及ぼすようになった悪よりも、不合理で非論理的なものが、これまでにありえたでしょうか。

信仰の難しさ

確かに、ヨブ記のおもな登場人物たちは、「鏡におぼろに映ったものを見ている」(Iコリ13:12)単なる人間として、非常に限られた観点から、物理的世界の(ましてや、霊的世界の)性質に関する非常に限られた理解に基づいて、発言していました。また、ヨブの身に降りかかった災いに関するこれらの議論の中で、ヨブを含むだれもが、ヨブの苦しみの直接的原因である悪魔の役割についてまったく論じていないというのは、興味深いところです。しかし、自分の正しさに対する彼らの(特にエリフの〔ヨブ36:1~4参照〕)自信にもかかわらず、ヨブの苦しみを合理的に説明しようとする彼らの試みは、いずれも不十分でした。

ヨブ記1:1~2:10を読んでください。私たちはヨブ記の最初の2章で、登場人物のだれもが見ることのなかった状況を目にします。それにもかかわらず、問題は今でも理解しがたいままです。すでに触れたように、この苦しみをヨブにもたらしたのは、彼の悪などではなく、まさに彼の「善良さ」であり、その善良さのゆえに神は悪魔の目を彼に向けさせたのでした。

では、ヨブの善良さや、神に忠実であろうという願いが、このようなことを引き起こす原因になったのでしょうか。どう理解したらよいのでしょうか。また、たとえヨブが背景を知っていたとしても、「神様、どうかほかの人を用いてください。私の子どもたちを、健康を、財産を戻してください!」と、彼は叫ばなかったでしょうか。ヨブは実験台になることを申し出ていたのではありません。一方で、神は悪魔からの挑戦に勝利されましたが、悪魔が敗北宣言をしていないことを私たちは知っています(黙12:12)。

では、目的は何だったのでしょうか。また、ヨブに起こったことから最終的にどんなに良い結果が生じたとしても、それはこの人たち全員の死や、ヨブが体験したあらゆることに値したのでしょうか。(より多くの答えが与えられつつあるものの)もしこのような疑問が私たちに残るのであれば、ヨブはどれほど多くの疑問を抱いたことでしょう。想像してみてください。

しかしここには、私たちがヨブ記から学ぶことのできる最も重要な教訓の一つがあります。見えるものによらず、信仰によって生きるという教訓、つまりヨブのように、物事の起きる理由を合理的に捉え、説明できないときでさえ、神を信頼し、神に忠実であり続けるという教訓です。すべてが十分に合理的に説明されるとき、私たちは信仰によって生きていません。私たちが信仰によって生きるのは、ヨブのように、たとえ周囲で起きていることの意味を理解できないときでも、神に信頼し、神に服従するときです。

さらなる研究

英国の科学史家ジョン・ヘドリ・ブルックは、信仰と理性の問題に関する議論の中で、ドイツの哲学者インマヌエル・カント(1724~1804)と、人間の(とりわけ、神の働きに関する)知識の限界について理解しようとする彼の試みについて記しています。「〔カントにとって〕人間に対する神の処遇を正当化するのは、知識ではなく、信仰の問題なのだ。逆境に直面したときの正しい姿勢として彼が挙げているのは、確固たる良心以外のすべてを奪われたヨブである。神の命令に服従し、彼の災禍を合理的に説明しようとする友人たちの忠告を正しくも拒み続けた。ヨブの姿勢の強みは、自分には何もわからない、相次ぐ不幸の意味は神のみぞ知ると認めていることにあった」(『科学と宗教』工作舎、229ページ)。

ヨブ記の中のこの友人たちと、今やエリフは、ヨブの身に起こったことを単純な因果関係で説明できると考えました。原因はヨブの罪、結果は彼の苦しみ、というわけです。これ以上に明快で、神学的に妥当で、合理的な考えがあるでしょうか。しかし、彼らの論法は間違っていました。それは、現実と、その現実を生み出し、支えておられる神が、必ずしも(神と、神が創造された世界の機能の仕方に対する)私たちの理解に従わないという事実の絶好の実例です。

第11課 嵐の中から

第11課 嵐の中から

ヨブ記の登場人物の違いが何であれ、彼らには一つの共通点がありました。それは、各自が神について、つまり神に対する彼らの理解について、言いたいことをたくさん持っていたという点です。そしてすでに触れたように、彼らが言ったことの多くに私たちは同意できます。結局のところ、だれが次の〔ヨブやビルダドの〕言葉に反論できるでしょうか。「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを」(ヨブ12:7~10)。あるいは、「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか」(同8:3)といった言葉はどうでしょう。

ヨブ記の主題はヨブの苦しみですが、議論のおもな焦点は神です。しかし最初の2章を除けば、物語が進む中で、神は背景にお隠れになったままでした。

しかし、すべてが変わろうとしています。ヨブ記における多くの議論と論争の焦点である神御自身が、今や御自分のために話されます。

ヨブ記38:1を読んでください。突然、しかも思いがけず、主が今やヨブ記の中に登場されます。その登場は、ヨブ記2:6で、「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」と主がサタンに言われて以降、初めてのことです。

神のこの突然の登場に、読者は何の心の準備もできていません。ヨブ記37章はエリフの話で終わっており、気がつけば、「主(が)嵐の中からヨブに答えて仰せになった」(ヨブ38:1)からです。あたかもほかの人たちは無関係であるかのように、一瞬にして神とヨブだけです。少なくとも今は……。

「嵐」と訳されているヘブライ語は、「つむじ風」「暴風」などを意味し、神が人間の前に登場されることと関連づけて用いられてきました(イザ29:6、ゼカ9:14参照)。この言葉は、エリヤが天に上げられる場面でも用いられています。「主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た」(王下2:1)。

この「神の顕現」(神が視覚的に人間の前に姿をあらわすこと)について、物理的なことは何も述べられていませんが、神がヨブに「静かにささやく声」(王上19:12)で話しかけておられないことは明らかです。そうではなく、主は御自身を、ヨブの注意を確実に引くような非常に効果的な形であらわされました。

言うまでもなく、神が罪深い人間の前に御自身をあらわされたのは、これが唯一の機会だったというわけではありません。聖書は、人間に対する神の親密さを繰り返し示しています。

次の聖句は、神がどれほど私たちに近づきうるのかということについての真理を教えています(創15:1~6、32:24~32、ヨハ1:29)。

聖書は偉大で重要な真理——私たちの神は、この世を創造してから私たちを放置された神、遠く離れた神ではないという真理——を教えています。それどころか、私たちの神は、私たちと親しく交わられる神です。私たちの悲しみ、悩みが何であれ、あるいは、私たちがこの人生で何に直面していようと、私たちは、神が近くにおられ、私たちが神を信頼できるという確信を持てます。

神の質問

ヨブにとって長い沈黙と思われたに違いない時間のあと、神は遂に彼に語りかけられます。しかし、神が最初に言われたことは、ヨブが聞きたかったことではなかったかもしれません。神がヨブにお尋ねになった最初の質問は、どのようなものでしたか(ヨブ38:2)。

聖書の至る所で、神は人間に質問をしておられます。それは、神がその答えをご存じでないからではありません。そうではなく、神がお尋ねになるのは、良い教師がしばしば質問をするように、私たちが自分の状況について考え、自分自身を見つめ、問題に取り組み、適正な結論を出すうえで、そうすることが効果的な方法だからです。ですから、神がお尋ねになる質問は、神がご存じでない何かを神に教えるためのものではありません。むしろ、人間がよりよい理解のために必要なことを学べるように、それらの質問はしばしば問われます。神の質問は、人間に真理を伝える助けとなる修辞的技法です。

問1

神からの次の質問を読んでください。これらの質問をお尋ねになった神の目的は、何であったと思いますか。神は何を言おうとしておられたのですか。創世記3:11、創世記4:9、列王記上19:9、使徒言行録9:4、マタイ16:13

ヨブは神について言いたいことがたくさんありましたが、主はヨブに、実際のところ、彼が創造主について知らないこと、理解できないことがたくさんあるという事実を知ってほしい、と明らかに望まれました。ヨブに対する神の最初の質問は、多くの点で、友人たちがヨブに語った言葉のいくつかと似ています(ヨブ8:1、2、11:1~3、15:1~3参照)。

創造主としての主

ヨブ記38:4~41を読んでください。神はヨブのために質問をされました。もしヨブが、なぜこういった災難が自分の身に降りかかったのかということに関する詳しい説明を期待していたなら、彼はそれを得ることができませんでした。彼がその代わりに受けたのは、主の創造力と、ヨブのはかなさと無知を対比した一連の〔答えを必要としない〕修辞疑問でした。

「わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか」(ヨブ38:4)と、主は問いを始めました。大地、海、光、闇の起源など、創世記の最も初期の場面のあと、神はヨブに、「そのときお前は既に生まれていて/人生の日数も多いと言うのなら/これらのことを知っているはずだ」(同38:21)と問われました。

次に主は、大地の創造だけでなく、気候や天体の神秘も含んだ一連の修辞疑問を用いて、天地創造の不思議な業や神秘を指摘なさいました。「すばるの鎖を引き締め/オリオンの綱を緩めることがお前にできるか」(ヨブ38:31)。

更に主は、ヨブの目を再び地球へ、人間の知恵から生まれるあらゆるものへ(同38:36)、また(同39章全体を通じて、さらに詳しく扱われている主題)野生動物の命へ(同38:39~41)向け直されます。ヨブ記が今日書かれたとしたなら、主は、「だれが陽子や中性子の中のクォーク*を結合させるのか」「私がプランク質量**を初めて量ったとき、お前はどこにいたのか」「重力が時空をゆがめるのは、お前の知恵によるのか」などとお尋ねになったかもしれません。

こういったあらゆる質問に対する答えは、「もちろん、いいえ」です。ヨブは、これらの出来事が起きたいずれの場所にもいませんでしたし、主が言及されたいずれの現象についても、ほとんど知識がありませんでした。神の真意は、ヨブのあらゆる知恵と知識をもってしても、またヨブが、その場にいたほかの人たちと比べて、神について「正しく」(ヨブ42:7)語ったとしても、彼の知っていることはごくわずかであることを彼らに示すことでした。そしてヨブの知識の乏しさは、彼が被造世界についていかに無知であるかということによって最もよく明らかにされたのでした。

もしヨブが被造物についてごくわずかしか知らないのなら、彼は創造主についてどれほど理解できるでしょうか。創造主と被造物、神と人間との、なんと説得力のある対比でしょう。神は御自分をヨブと対比なさいましたが、(イエスを除いて)そのほかのいかなる人間も対比されるには十分でありませんでした。神と比較したら、一体私たちは何者でしょうか。それにもかかわらず、この神が私たちを救い、神との永遠の交わりという希望を与えるために成し遂げられたことに、目を向けてください。

*物質の基礎単位であると考えられている理論上の粒子。

**量子重力理論における基本的な質量。

賢者の知恵

今日の私たちの観点からすれば、神がヨブに問われた質問を考えてみて、数千年前に生きていたヨブのような人が、被造世界についていかにわずかしか理解できなかったかを実感することは容易です。例えば、(今や私たちのほとんどが当然だと思っている)天空の太陽の動きが地球の自転の結果であることを人類(少なくとも、その一部)がよくやく理解したのは、西暦1500年代になってからのことでした。

おもに現代科学のおかげで、私たちは、聖書の時代の人々がとうてい理解できなかった自然界に関する知識を持ちつつ今を生きています。しかし、私たちが獲得したこのようなすべての知識をもってしても、人間は自然界とその起源について非常に限られたことしか、いまだに理解できません。

問2

ヨブ記38章と39章で神がヨブにお尋ねになった質問を読み直してください。現代人はこれらの質問に、どれくらいよりよい答えを返せるでしょうか。

隠されていた現実の様相を科学が明らかにしてきたことは、疑いの余地がありません。しかし、私たちが学ぶべきことは、依然としてたくさん残っています。科学は、いろいろな意味で、神の被造物のすばらしさや神秘を取り除くどころか、一層それを魅力あるものとし、これまでの世代が知らなかった自然界の深遠さや複雑さを明らかにしてきました。

「『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表されたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属』する(申命記29:29)。神が、どんな方法で創造の働きをなさったかは、人間にあらわされていない。人間の科学は、至高者の秘密をさぐり出すことはできない。神の創造の力は、神の存在と同様に理解することはできない」(『希望への光』24ページ、『人類のあけぼの』上巻32ページ)。

塵と灰の上での悔い改め

ヨブ記40:1~4、42:1~6を読んでください。神が御自分をあらわされ示されたことによって、ヨブは圧倒されました。実際、ヨブ記42:3で、「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは」と彼は言っていますが、それは神の最初の質問の繰り返しにすぎません。今やヨブは答えがわかったのです。彼が本当にわからないと語っていたのは、彼自身だったのだ、と。

彼がヨブ記42:5で言っていることにも注目してください。ヨブは神について聞いていただけでしたが、今や神を見た(つまり、神についてよくわかるようになった)ので、自分自身をあるがままに見ています。それゆえ、彼は自分を嫌悪し、塵と灰の上で悔い改めるという反応を示したのです。

イザヤ6:1~5、ルカ5:1~8を読んでください。ここに描かれている反応は、ヨブの反応と似ています。いずれの場合にも見られるものは、聖書の極めて重要な真理、つまり人間の罪深さのあらわれです。ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてい」(ヨブ1:1)ました。そして、ヨブを神に逆わせようとするサタンの非常に巧妙な試みにもかかわらず、彼はずっと神に忠実であり続けました。私たちがここに見いだすのは、主を固く信じる者です。

それにもかかわらず、なぜでしょうか。イザヤやペトロと同様、神の聖さと力を垣間見ることは、ヨブが彼自身を罪深く小さいと感じ、縮み上がるのに十分でした。それは、私たちがみな、本質的に神と対立してしまう堕落した存在、罪によって傷ついた存在だからです。それゆえ、結局のところ、だれも自分自身を救えませんし、だれも神の前に好意を得るに値する十分な良い業を行うことができません。ですから、私たちはみな——ヨブのように無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けている「最も善良な」人でさえ——、恵みを必要とし、救い主を必要とし、私たちが自力でできないことを私たちのためにしてくれるだれかを必要としています。ありがたいことに、私たちはそれらすべてを、それ以上のものを、イエスのうちに持っています。

さらなる研究

「神は、科学と芸術の両方面において、世界にあふれる光をお注ぎになった。しかし、科学者と自称する人々がこうした問題を、単に人間的観点だけによって処理しようとするならば、必ず誤った結論を下すに決まっている。もし、われわれの説が、聖書の事実と矛盾しないならば、神の言葉の啓示を越えて推論しても害はないであろう。しかし、神の言葉をさしおいて、科学的原則によって神の創造のわざを説明しようとする者は、未知の大海を海図も羅針盤もなくただようようなものである。もし、神の言葉の指導なしに研究するならば、どんな偉大な頭脳の持ち主でも、科学と啓示の関係を追及するのにとまどうことであろう。創造主と神のわざは、彼らの理解力をはるかに超えていて、彼らは、それを自然の法則によって説明することはできない。それで、彼らは、聖書の歴史は信頼できないと考える。旧新約聖書の記事の信頼性を疑う者は、さらに一歩進んで、神の存在を疑うようになる。こうして、彼らは、いかりを失った船のように、不信の暗礁にのり上げる」(『希望への光』24、25ページ、『人類のあけぼの』上巻32、33ページ)。

第12課 ヨブの贖い主

第12課 ヨブの贖い主

突然、ヨブ記38章の冒頭に主御自身が登場されたことによって、ヨブ記はその頂点に達しました。力強い、奇跡的な方法で神は御自分をヨブにあらわされ、そのことが結果的にヨブの告白と悔悛をもたらしたのです。次に神はヨブの3人の友人を、彼らの見当外れな言葉のゆえに非難され、ヨブは彼らのために祈りました。「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた」(ヨブ42:10)。そしてその後、ヨブは長く、充実した人生を送りました。

しかし、この物語とその終わり方には、何か落ち着かない、何か満足のいかないものがあります。神とサタンは天で議論し、この地上でヨブの人生と肉体を用いて闘争をしたのでしょうか。ヨブが、神とサタンとの対立のひどい結果をもろに受けなければならない一方で、主が天にとどまり、それをただ眺めておられるだけだったとしたら、公平にも正しくも思えません。

この物語には続きがあるに違いません。そして、確かにあります。それは何百年もあとにあって、イエスと十字架における彼の死の中にあらわされます。私たちはイエスの中にのみ、ヨブ記が十分に答えなかった疑問に対する驚くべき、そして慰めとなる答えを見いだします。

「わたしを贖う方は生きておられ(る)」

ヨブ記38章で神がヨブの前にあらわれたとき、神は御自分を、「豪雨に水路を引き/稲妻に道を備え/まだ人のいなかった大地に/無人であった荒れ野に雨を降らせ(た)」(ヨブ38:25、26)創造主として示されました。しかし、私たちの主はもう一つ別の重要な肩書き、役割も持っておられます。

ヨブ記19:25~27を読んでください。ヨブはこれらの有名な聖句によって、贖い主についての知識——人間は死ぬけれども墓の先に希望があり、その希望は、やがて地球に来られるはずの贖い主の中に見いだされるのだという知識——をいくらか持っていたことがわかります。

ヨブのこれらの言葉は、聖書の最も重要な真理であること、つまり神が私たちの贖い主であるということを指し示しています。確かに、神は私たちの創造主です。しかし、堕落した世、罪人が自分の罪のうちに永遠に死ぬ定めにあるこの世で、私たちが必要とするのは創造主だけではありません。私たちは贖い主をも必要としています。そして、まさにそれが私たちの神であられる方です。創造主にして贖い主(イザ48:13~17参照)、その二つの役割を持っておられる神に、私たちは永遠の命の大いなる望みを置いています。

問1

ヨハネ1:1~14を読んでください。この箇所で、ヨハネは創造主としてのイエスと贖い主としてのイエスを、どのように結びつけていますか。

創世記1:1の創造主としての神へのさりげない言及が、ヨハネ1:1には明らかです。もしそれで十分でないとしたら、次の言葉が、創造主としてのイエスと贖い主としてのイエスを分かちがたく結びつけています。「言は世にあった。世は言によって成った。……言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハ1:10~12)。イエスが私たちの贖い主になりえたのは、ひとえに彼が創造主でもあられたからです。

人の子

ヨブ記の最初の2章において、私たちはキリストとサタンの大争闘の現実を垣間見せられました。知ってのとおり、それは天で始まり、のちに地球にやって来た闘いです(黙12:7~12参照)。私たちはヨブ記の中に同じ主題を見ます。つまり、天における対立が地球にもたらされるという主題です。ヨブにとって不幸なことに、地上におけるその対立は、彼の上に集中しました。

ヨブ記10:4、5を読んでください。ヨブの主張は単純でした。「あなたは、神、宇宙の統治者、創造主です。そのあなたが、人間であること、私たちを苦しませる物事に苦しむことがどういうことかを理解できるだろうか〔いや、できるはずがない〕」ということです。

問2

次の聖句はヨブの不平にどう答えていますか(ルカ2:11、ヨハ1:14、ルカ19:10、マタ4:2、Iテモ2:5、ヘブ4:15)。

神は人間でないのだから人間の苦悩を理解できない、というヨブの不平は、イエスが人類の中にやって来られたことによって、十分かつ完全に答えられました。神性は失いませんでしたが、イエスは完全に人間でもあり、その人間性において、ヨブやすべての人間同様に、苦しみ、もがくことがどういうことなのかを知っておられました。実際、私たちは四福音書全体を通じて、キリストの人性の現実と彼が人生において体験された苦しみを目にします。イエスはヨブの不平にお答えになりました。

「キリストが御自分に取られたのは、見せかけの人性ではなかった。彼は人性を取り、人性を生きられた。……彼は単に肉体を取られたのではなく、罪深い肉体と同じ姿を取られたのである」(『SDA聖書注解』第5巻1124ページ、英文)。

キリストの死

問3

次の聖句は、イエスと、彼に対する私たちの見方について、どのようなことを教えていますか。

Iヨハネ2:6

ガラテヤ4:19

疑いもなく、イエスは模範的な人です。彼の人生、その品性は、彼に従う者たちが神の恵みによって見習うべき手本です。イエスは、神が私たちに求めておられるような人生を送るうえで私たちが持っている唯一完全な手本なのです。

しかし、イエスは単に手本を示すためだけにこの地球へおいでになったのではありません。罪人である私たちの状況は、品性の発達以上のものを必要としました。確かに、私たちの品性を改め、私たちをイエスに似せることは、贖い主としての彼の大切な働きです。しかし、私たちはそれ以上のものを必要としています。私たちは、私たちの罪の報いを受けるだれか、身代わりを必要としています。イエスは私たちの手本としての完全な人生を送るためだけにおいでになったのではありません。彼はまた、その完全な人生が私たち自身のものとして認められるよう、それにふさわしい死を遂げるためにもおいでになったのでした。

私たちにはキリストの死が必要であることについて、次の聖句は教えています(マコ8:31、ルカ9:22、24:7、ガラ2:21)。律法を守ることは、クリスチャン生活の柱ですが、罪に堕ちた者たちを救うことはできません。ですから、イエスは私たちのために死ぬ必要がありました。「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう」(ガラ3:21)。もし罪人を救いうる律法があるとすれば、それは神の律法でしょうが、その律法でさえ、私たちを救いえません。私たちの完全な手本であるイエスの完全な人生だけが、私たちを救いえたので、キリストは「罪のため(の)一つの永遠のいけにえ」(ヘブ10:12、口語訳参照)として御自分をささげるためにおいでになりました。

人の子の苦しみ

十字架における主の苦しみについて教えているイザヤ53:1~6を読んでください。イザヤ53:4は、イエスが私たちの病と痛みを担われた、と述べています。そこにはヨブの病と痛みも含まれていたはずです。イエスが十字架で死なれたのは、古今東西のあらゆる人間の罪のためでした。

それゆえ、十字架においてのみ、ヨブ記は正しく捉えることができます。そこにおられるのは、ヨブに御自分をあらわされた神——鷲に飛ぶことを教え、クォーク*を結合させられる神——と同じ神です。その神は、これまでいかなる人間も(ヨブさえもが)苦しんだことのないほど、苦しまれました。私たちが個人として知っている病や痛みを、この方は一つにまとめて担われました。従って、苦しみについて神に意見することのできる人はいません。なぜなら、神は人として、罪が地球上に広めたあらゆる苦しみを一身に背負われたからです。私たちが知っているのは自分自身の病と痛みだけですが、十字架において、イエスはそれらすべてを体験されました。

「天の法則を知り/その支配を地上に及ぼす者はお前か」(ヨブ38:33)とヨブにお尋ねになった神は、「天の法則」を作った方でありながら、地上で肉体を取り、「死をつかさどる者、つまり悪魔」(ヘブ2:14)を滅ぼすために、その肉体によって死なれたことを私たちが悟るとき、一層驚くべき神になります。

キリストの十字架を通して見るとき、(十字架なしで見るよりも)ヨブ記は一層納得がいきます。なぜなら十字架は、この書巻の中で答えられなかった多くの疑問に答えているからです。あらゆる疑問の中で最大の疑問は、ヨブが地上においてあのように苦しまざるをえなかったときに、神が天におられたのは公平かというものであり、それはサタンの非難に反論するためです。キリストの十字架は、ヨブやほかの人間がこの世においていかにひどく苦しんだとしても、私たちの主は、どんな人間が苦しんだよりもずっとひどく、自発的に苦しまれたことを示しています。それはすべて、私たちに救いの希望と約束を与えるためでした。

ヨブは神を創造主と見ていました。しかし十字架のあと、私たちは神を創造主にして贖い主、あるいは、贖い主になられた創造主(フィリ2:6~8参照)と見ます。そしてそのために、神は、ヨブを含むいかなる人間も苦しみえない形で罪の苦しみを受ける必要がありました。それゆえヨブのように、いえ、それ以上に、私たちはその光景を前にして、ただ叫ぶしかありません。「わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:6)。

*物質の基礎単位であると考えられている理論上の粒子。

正体をあばかれたサタン

問4

ヨハネ12:30~32を読んでください。十字架と大争闘との関係において、イエスはサタンについて何と言っておられますか。

エレン・G・ホワイトは十字架におけるイエスの死について語ったあと、天と見守っている宇宙にその死が及ぼした大きな影響に関して、次のように書いています。「神のご品性とその統治に対するサタンの偽りの攻撃は、その真相をさらけ出した。彼は、神が被造物に服従を要求されるのは、ただ神ご自身を高めるためにすぎないと非難し、創造主はすべての者に自己犠牲を強制しながらご自分は克己も犠牲もしておられないと主張してきた。

今や、堕落した罪深い人類の救いのために、宇宙の支配者であられる神が、その愛によってのみなし得られる最大の犠牲をお払いになったことが明らかになった。なぜなら『神はキリストにおいて世をご自分に和解させ』られたからである(IIコリント5:19)。また、ルシファーは栄誉と主権とを望んだために罪の門戸を開いたが、一方キリストは罪を滅ぼすために身をいやしくして死に至るまで従順であられたことが明らかになった」(『希望への光』1841ページ、『各時代の大争闘』下巻240ページ)。

IIコリント5:19を読んでください。キリストの死は、堕落したこの世を神と和解させました。この世は罪に堕ち、神に反逆していました。例えば、ヨブ記にはっきり見られるように、この世はサタンの陰謀にさらされていました。しかしイエスは、神性を失うことなく人性を取ることで、天と地の間に断ちがたい絆を結び、御自分の死によって、罪とサタンの最終的な滅びを保証なさいました。イエスは十字架において罪に対する法的罰を受け、そうすることで堕落したこの世を神と和解させられました。私たちは死を運命づけられた罪人ですが、信仰によって、イエスにおける永遠の命の約束を手に入れることができます。

さらなる研究

「イエスは続けて言われた。『「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』。イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである」(ヨハネ12:31~33)。いまは世界の危機である。もしわたしが人類の罪のためにあがないの供え物となれば、世は明るくなるであろう。人の魂をとらえているサタンの束縛はたちきられるであろう。けがされた神のみかたちは人性のうちに回復され、信じる聖徒たちの家族はついには天国を嗣ぐであろう。

これがキリストの死の結果である。救い主は、目の前に浮かぶ勝利の光景について瞑想にふけられる。主は十字架が、それも残酷で不名誉な十字架が、あらゆる恐怖を伴っているにもかかわらず、栄光に輝いているのをごらんになる。

しかし人類のあがないの働きが十字架によってなしとげられる全部ではない。神の愛が宇宙にあらわされる。この世の君が追い出される。サタンが神に向けた非難が反ばくされる。サタンが天に投げかけた非難は永遠に除かれる。人類はもちろん天使たちもあがない主に引きよせられる」(『希望への光』1002ページ、『各時代の希望』下巻88ページ)。

第13課 ヨブの品性

第13課 ヨブの品性

私たちはヨブ記における主要な問題にすべて触れましたが、もう一つの重要な主題を忘れてはなりません。それは、ヨブという人そのものです。主がこれほど信頼し、彼の忠実さと誠実さを巡って悪魔に挑まれたこの人は、一体何者なのでしょうか。自分の身に起こっていたことの理由を理解できず、それが不当だとわかっており、それに対する怒りといら立ちをあらわしたものの最後まで忠実であり続けたこの人は、一体何者だったのでしょうか。

ヨブ記の大半は、災難が襲ったあとのヨブを扱っていますが、物語の中から、それ以前のヨブの人生に関する情報を得ることができます。私たちはヨブの過去と彼のような人間について知ることによって、なぜヨブがひどい苦しみの中でも、つまりサタンが彼を神から引き離そうとして行ったあらゆることの中でも主に忠実であり続けたのかを、より深く理解できます。

ヨブはどのような人だったのでしょうか。私たちは自分の人生を生きるうえで、彼の生き方から、私たちを一層忠実な主の弟子とするのに役立つどのようなことを学べるでしょうか。

ウツ出身の人

ヨブ記1:1、1:8を読んでください。これらの聖句は、ヨブの品性について述べています。ヨブは対話の間ずっと、このような災いが彼を襲うからには、彼が何か悪いことをしたに違いない、と言われ続けていましたが、正反対のようです。彼がサタンの特別な標的になったのは、彼の善良さ、忠実さのゆえでした。

彼はいかに善良であり、いかに忠実だったのでしょうか。第一に聖書は、彼が「無垢」であったと述べています。この言葉は、必ずしもイエスのように「罪がない」という意味ではありません。そうではなく、この言葉に伴う概念は、相対的な意味での完全、高潔、誠実などです。神の目に「無垢」な人とは、その時々において天がその人に期待する成長の度合いに達している人のことです。「無垢」に相当するヘブライ語の「タム」は、「ギリシア語の『テレイオス』に相当し、しばしば〔新約聖書において〕『完全な』と訳されているが、『十分に成長した』とか『成熟している』と訳されるほうがより良い」(『SDA聖書注解』第3巻499ページ、英文)。

第二に聖書は、彼が「正し」かったと述べています。この言葉は、「真っ直ぐ」「一貫した」「公正な」などを意味します。ヨブは、「善良な市民」と呼ばれうるような生き方をしていました。

第三に聖書は、彼が「神を畏れ」ていたと述べています。旧約聖書は、「神を畏れる」という概念を忠実なイスラエル人であることの特徴の一つとして用いていますが、この同じ語句は新約聖書において、イスラエルの神に忠実に仕える異邦人に対しても用いられています(使徒10:2、22参照)。

最後に、ヨブは悪を「避けてい(まし)た」。ヨブのこの特性は、主御自身によってお墨付きを与えられています。主がサタンに、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ1:8)と言われたからです。

結局のところ、ヨブは彼の生きざまによって信仰を明らかにした神の人でした。人がキリストにおいてどのようになりえるかについて、彼は「天使にも人にも」(Iコリ4:9)誠実にあかしをしました。

「乳脂はそれで足を洗えるほど豊か」

ヨブは彼の身に降りかかった災難を受け入れようともがいていたとき、彼の過去について、それがいかにすばらしいものであったか、彼がどのように生きていたのかを考えました。ヨブはかつての日々を語るために、「乳脂はそれで足を洗えるほど豊か」(ヨブ29:6)だった、とここでは言っています。

例えば、彼はヨブ記29:2で、「神に守られていたあの日々」について語っています。「守る」に相当するヘブライ語は、御自分の民に対する神の見守りについて語る際に旧約聖書の至る所で用いられている一般的な言葉に由来します(詩編91:11、民6:24参照)。疑いもなく、ヨブは良い暮らしをしていました。また、彼が良い暮らしを送っていたことを自覚していた点も重要です。

問1

ヨブ記29:8~17を読んでください。これらの聖句は、ほかの人々がヨブをどう見ていたのか、ヨブが苦しんでいる人たちをどう扱っていたのかということについて、何を教えていますか。

ヨブがどれほど尊敬されていたかが、ここでわかります。「広場で座に着(く)」(ヨブ29:7)という語句は、明らかにヨブが一翼を担っていた地方行政のようなものを思わせます。そのような座は、社会の中で尊敬されている年配者に通常与えられるもので、彼らの中でもヨブは高く評価されていました。

しかし、社会の「最も身分が低い」者たちでさえ、ヨブを愛し、尊敬していました。貧しい人々、死にゆく人たち、目の見えない人、やもめ、身寄りのない子ら、歩けない人——ヨブのように祝福されていなかった人たちは、まさに彼が助けと慰めを与えた人たちでした。

「神はみ言葉を通して、ひとりのりっぱな人間、すなわち真の意味において成功の人生をおくり、天地の尊敬をうけたひとりの人間〔ヨブ〕をえがいておられる」(『教育』156ページ)。

先の聖句や(あとで見る)ほかの聖句は、人間の目にも、神の目にも、なぜヨブがあらゆる面で非常に成功した人物であったのかを明らかにしています。

心と目

ヨブ記31:1~23を一読した限りでは、あたかもヨブが自慢しているかのように、彼の聖さ、美徳、善行をほかの人に見せびらかしているかのように思えます。言うまでもなく、このような態度は、まさに聖書が非難する類の態度です(マタ23章参照)。しかし、ここでヨブが言っているのは、そのようなことではありません。もう一度、状況を思い出すことが重要です。ヨブは、彼の過去の人生が、つまり極めて不道徳だったと思われる人生が苦しみの原因だ、と言われていました。一方でヨブは、それが事実であるはずはなく、彼の身に降りかかったことに値するようなことを自分はしてこなかった、とわかっていました。それゆえに彼は、彼が送ってきた人生や彼がどういう人間であるかを詳しく話すために、この機会を用いています。

ヨブ記31:1~23を読んでください。災難に遭う前の生き方について、ヨブが彼の外面的な行動にだけ言及しているのではないことに、注目してください。「目の向くままに心が動いた」(ヨブ31:7)という聖句は、彼が聖さというものの深い意味を、つまり善悪や神の律法といったものの深い意味を理解していたことを示しています。どうやらヨブは、神が私たちの行動だけでなく、私たちの心や思いに注意を払っておられることを知っていたようです(サム上16:7、出20:17、マタ5:28参照)。ヨブは、女性と不倫することはもちろん、女性に劣情を抱くことも間違っていると知っていました(これは、神がイスラエルの民を召し、御自分の契約の民、御自分の証人となさる以前に、真の神の知識が存在していたという事実の、なんと説得力のある証拠でしょうか!)。

ヨブ記31:13~15において、ヨブが言っていることを読んでください。ヨブはすべての人間の基本的平等性について、とりわけ当時としては(実際には、いつの時代であれ)驚くべき理解を示しています。古代世界では、普遍的権利や普遍的法則が理解されたり、守られたりしていませんでした。人間集団は、自分たちのことをほかの集団よりも偉大で、優れていると考え、ときには、ほかの人たちの基本的尊厳や権利を認めないことを何とも思いませんでした。しかし、ここでヨブは、彼がどれほど人権を理解しているか、またそれらの権利が私たちを造られた神に根差していることを明らかにしています。ある意味で、ヨブは当時だけでなく、私たちよりも進んでいました。

岩の上の家

ヨブ記31:24~34を読んでください。ヨブは、自分の信仰をしっかり生きた人、その働きによって彼と神との関係の現実を明らかにしていた人でした。言うまでもなく、このことが、「なぜこんなことが私に起こっているのか」という彼の不平を一層苦いものにしました。そしてもちろん、このことが彼の友人たちの議論を空しく、無価値なものにしました。

しかし、ヨブの忠実で従順な生き方から私たちが学ぶことのできるもっと深く、重要なメッセージがあります。過去における彼の人生が、のちに彼を襲った悲劇に対する応じ方と深く密接につながっていることに注目してください。ヨブが「神を呪って、死ぬ」(ヨブ2:9)ことを拒んだのは、偶然でも、幸運でも、強い意志の力によってでもありませんでした。そうではなく、神に忠実であり、従順であった歳月が、このようなことが起きても主を信頼する信仰と品性を彼に与えたからでした。

問2

マタイ7:22~27を読んでください。ヨブが忠実であり続けた理由を明らかにしているこれらの聖句の中に、どんなことを見いだせますか。

ヨブの大きな勝利の鍵は、彼がそれまでに積み上げてきた「小さな」勝利の中に見いだされます(ルカ16:10も参照)。ヨブをヨブたらしめていたのは、妥協することなく、正しさにこだわることでした。私たちがヨブ記の中に見るのは、ヤコブの手紙が信仰生活における行いの役割について述べていることの実例です。「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう」(ヤコ2:22)。この聖句には、クリスチャン生活の重要な原則の一つがどのようなものであるかが、明らかにされています。私たちはヨブの物語の中に、この原則が力強い形で実行されているのを目にします。ヨブは私たちと同様に肉と骨でできていましたが、彼の熱心な努力と神の恵みによって、神に忠実に従う人生を送ったのでした。

神の多種多様な知恵

ヨブ記の初めのほうで、登場人物たちが入れ替わり立ち替わりする中、テマン人エリファズはヨブに、「あなたが正しいからといって全能者が喜び/完全な道を歩むからといって/神の利益になるだろうか」(ヨブ22:3)と言いました。私たちは天の舞台裏で起きていたことを知っているので、それは非常に皮肉な質問です。確かに、ヨブが正しいことは神にとって喜びであり、ヨブが完全に生きることは神の利益でした。そして、これはヨブだけに当てはまることではなく、主の弟子と主張する人たちすべてについても同様です。

マタイ5:16を読んでください。ヨブ記における重要な問題は、「ヨブは忠実であり続けるだろうか」というものでした。サタンは「否」と言い、神は「しかり」と言われました。そしてヨブが忠実であり続けたことは、少なくともサタンとのこの戦いにおいて、間違いなく神を有利な立場にしました。

しかしこの物語は、より大きな問題の一つの縮図にすぎません。第一天使のメッセージは、一つには、「その〔神の〕栄光をたたえなさい」(黙14:7)と私たちに告げており、マタイ5:16においてイエスは、私たちが立派な行いによって神に栄光を帰すことができる、と説明なさいました。これがヨブのしたことであり、これが私たちにもできることです。

問3

エフェソ3:10を読んでください。ここにあらわされている原則は、より小さな規模ではあるものの、ヨブ記の中でいかに明らかにされましたか。

この聖句やヨブ記の中には、神が、御自分に従う者たちの人生の中で働いておられるという事実が表現されています。神がそうなさるのは、御自分の栄光のために、彼らを御自分のかたちに変えるためです。「神のみかたちが人間のうちに再現されるのである。神の栄え、キリストの栄光は、神の民の品性の完成に含まれている」(『希望への光』1029ページ、『各時代の希望』下巻157ページ)。ヨブは何千年も前に生きた人ですが、彼の人生は、いかに人間がこの原則を明らかにしうるかということの一つの手本でした。あらゆる時代の神の民は、同様の人生を送る特権に恵まれています。

さらなる研究

プロテスタントの宗教改革は、信仰のみによる救いという偉大な真理を取り戻しました。この真理は、聖書の中で、エデンにおいて初めて知らされ(創3:15参照)、次にアブラハムの人生の中でもっとはっきり表現されています(同15:6、ロマ4:3参照)。そしてその後、パウロを通して聖書の中に明らかにされました。しかし、信仰のみによる救いという真理は、信じる者たちの人生における聖霊の働きを救いの手段としてではなく、救いのあらわれとして常に含んでいました。私たちはヨブの人生と品性の中に、この働きがどのようなものであるかの貴重な実例を見ます。神学者たちはこの働きを「聖化」——基本的には「聖」を意味する——と呼びます。それは聖書の中でとても重要なので、私たちは、「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブ12:14)と言われています。聖化の基本的な意味は、「聖なる用途のために取り分けられる」ということです。それは、例えば、主が御自分の契約の民に、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19:2)と言われたときに見られる概念です。

この概念は、旧新両約聖書の中にさまざまな形であらわれていますが、それは、神が私たちの中になさることと関係しています。それは善良さにおける、あるいは善良さに向かっての道徳的成長と見うけられます。聖化とは、「人間の意志と聖霊の力が協力して、起こる道徳的変化の漸進的な過程のことである」(『SDA神学ハンドブック』296ページ、英文)。この働きは、神だけが私たちの中に成し遂げることのおできになるもので、私たちが義認を強制されないように、聖化も強制されません。私たちが自分を主にささげると、信仰によって義とされる同じ主が、私たちを聖めてくださいます。そして、ヨブになさったように、地上において可能な限り、私たちを神のかたちに変えられます。パウロは、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラ4:19)と書きました。エレン・G・ホワイトは記しています。「キリストは私たちの見本、見習うために私たちに与えられた完全で聖なる模範である。私たちはこの見本と同じにはなれないが、私たちの能力に従って、それをまね、似ることはできる」(『キリストを知るために』265ページ、英文)。

第14課 ヨブ記からの教訓

第14課 ヨブ記からの教訓

私たちはヨブ記における主要な問題にすべて触れましたが、もう一つの重要な主題を忘れてはなりません。それは、ヨブという人そのものです。主がこれほど信頼し、彼の忠実さと誠実さを巡って悪魔に挑まれたこの人は、一体何者なのでしょうか。自分の身に起こっていたことの理由を理解できず、それが不当だとわかっており、それに対する怒りといら立ちをあらわしたものの最後まで忠実であり続けたこの人は、一体何者だったのでしょうか。

ヨブ記の大半は、災難が襲ったあとのヨブを扱っていますが、物語の中から、それ以前のヨブの人生に関する情報を得ることができます。私たちはヨブの過去と彼のような人間について知ることによって、なぜヨブがひどい苦しみの中でも、つまりサタンが彼を神から引き離そうとして行ったあらゆることの中でも主に忠実であり続けたのかを、より深く理解できます。

ヨブはどのような人だったのでしょうか。私たちは自分の人生を生きるうえで、彼の生き方から、私たちを一層忠実な主の弟子とするのに役立つどのようなことを学べるでしょうか。

ウツ出身の人

ヨブ記1:1、1:8を読んでください。これらの聖句は、ヨブの品性について述べています。ヨブは対話の間ずっと、このような災いが彼を襲うからには、彼が何か悪いことをしたに違いない、と言われ続けていましたが、正反対のようです。彼がサタンの特別な標的になったのは、彼の善良さ、忠実さのゆえでした。

彼はいかに善良であり、いかに忠実だったのでしょうか。第一に聖書は、彼が「無垢」であったと述べています。この言葉は、必ずしもイエスのように「罪がない」という意味ではありません。そうではなく、この言葉に伴う概念は、相対的な意味での完全、高潔、誠実などです。神の目に「無垢」な人とは、その時々において天がその人に期待する成長の度合いに達している人のことです。「無垢」に相当するヘブライ語の「タム」は、「ギリシア語の『テレイオス』に相当し、しばしば〔新約聖書において〕『完全な』と訳されているが、『十分に成長した』とか『成熟している』と訳されるほうがより良い」(『SDA聖書注解』第3巻499ページ、英文)。

第二に聖書は、彼が「正し」かったと述べています。この言葉は、「真っ直ぐ」「一貫した」「公正な」などを意味します。ヨブは、「善良な市民」と呼ばれうるような生き方をしていました。

第三に聖書は、彼が「神を畏れ」ていたと述べています。旧約聖書は、「神を畏れる」という概念を忠実なイスラエル人であることの特徴の一つとして用いていますが、この同じ語句は新約聖書において、イスラエルの神に忠実に仕える異邦人に対しても用いられています(使徒10:2、22参照)。

最後に、ヨブは悪を「避けてい(まし)た」。ヨブのこの特性は、主御自身によってお墨付きを与えられています。主がサタンに、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ1:8)と言われたからです。

結局のところ、ヨブは彼の生きざまによって信仰を明らかにした神の人でした。人がキリストにおいてどのようになりえるかについて、彼は「天使にも人にも」(Iコリ4:9)誠実にあかしをしました。

「乳脂はそれで足を洗えるほど豊か」

ヨブは彼の身に降りかかった災難を受け入れようともがいていたとき、彼の過去について、それがいかにすばらしいものであったか、彼がどのように生きていたのかを考えました。ヨブはかつての日々を語るために、「乳脂はそれで足を洗えるほど豊か」(ヨブ29:6)だった、とここでは言っています。

例えば、彼はヨブ記29:2で、「神に守られていたあの日々」について語っています。「守る」に相当するヘブライ語は、御自分の民に対する神の見守りについて語る際に旧約聖書の至る所で用いられている一般的な言葉に由来します(詩編91:11、民6:24参照)。疑いもなく、ヨブは良い暮らしをしていました。また、彼が良い暮らしを送っていたことを自覚していた点も重要です。

問1

ヨブ記29:8~17を読んでください。これらの聖句は、ほかの人々がヨブをどう見ていたのか、ヨブが苦しんでいる人たちをどう扱っていたのかということについて、何を教えていますか。

ヨブがどれほど尊敬されていたかが、ここでわかります。「広場で座に着(く)」(ヨブ29:7)という語句は、明らかにヨブが一翼を担っていた地方行政のようなものを思わせます。そのような座は、社会の中で尊敬されている年配者に通常与えられるもので、彼らの中でもヨブは高く評価されていました。

しかし、社会の「最も身分が低い」者たちでさえ、ヨブを愛し、尊敬していました。貧しい人々、死にゆく人たち、目の見えない人、やもめ、身寄りのない子ら、歩けない人——ヨブのように祝福されていなかった人たちは、まさに彼が助けと慰めを与えた人たちでした。

「神はみ言葉を通して、ひとりのりっぱな人間、すなわち真の意味において成功の人生をおくり、天地の尊敬をうけたひとりの人間〔ヨブ〕をえがいておられる」(『教育』156ページ)。

先の聖句や(あとで見る)ほかの聖句は、人間の目にも、神の目にも、なぜヨブがあらゆる面で非常に成功した人物であったのかを明らかにしています。

心と目

ヨブ記31:1~23を一読した限りでは、あたかもヨブが自慢しているかのように、彼の聖さ、美徳、善行をほかの人に見せびらかしているかのように思えます。言うまでもなく、このような態度は、まさに聖書が非難する類の態度です(マタ23章参照)。しかし、ここでヨブが言っているのは、そのようなことではありません。もう一度、状況を思い出すことが重要です。ヨブは、彼の過去の人生が、つまり極めて不道徳だったと思われる人生が苦しみの原因だ、と言われていました。一方でヨブは、それが事実であるはずはなく、彼の身に降りかかったことに値するようなことを自分はしてこなかった、とわかっていました。それゆえに彼は、彼が送ってきた人生や彼がどういう人間であるかを詳しく話すために、この機会を用いています。

ヨブ記31:1~23を読んでください。災難に遭う前の生き方について、ヨブが彼の外面的な行動にだけ言及しているのではないことに、注目してください。「目の向くままに心が動いた」(ヨブ31:7)という聖句は、彼が聖さというものの深い意味を、つまり善悪や神の律法といったものの深い意味を理解していたことを示しています。どうやらヨブは、神が私たちの行動だけでなく、私たちの心や思いに注意を払っておられることを知っていたようです(サム上16:7、出20:17、マタ5:28参照)。ヨブは、女性と不倫することはもちろん、女性に劣情を抱くことも間違っていると知っていました(これは、神がイスラエルの民を召し、御自分の契約の民、御自分の証人となさる以前に、真の神の知識が存在していたという事実の、なんと説得力のある証拠でしょうか!)。

ヨブ記31:13~15において、ヨブが言っていることを読んでください。ヨブはすべての人間の基本的平等性について、とりわけ当時としては(実際には、いつの時代であれ)驚くべき理解を示しています。古代世界では、普遍的権利や普遍的法則が理解されたり、守られたりしていませんでした。人間集団は、自分たちのことをほかの集団よりも偉大で、優れていると考え、ときには、ほかの人たちの基本的尊厳や権利を認めないことを何とも思いませんでした。しかし、ここでヨブは、彼がどれほど人権を理解しているか、またそれらの権利が私たちを造られた神に根差していることを明らかにしています。ある意味で、ヨブは当時だけでなく、私たちよりも進んでいました。

岩の上の家

ヨブ記31:24~34を読んでください。ヨブは、自分の信仰をしっかり生きた人、その働きによって彼と神との関係の現実を明らかにしていた人でした。言うまでもなく、このことが、「なぜこんなことが私に起こっているのか」という彼の不平を一層苦いものにしました。そしてもちろん、このことが彼の友人たちの議論を空しく、無価値なものにしました。

しかし、ヨブの忠実で従順な生き方から私たちが学ぶことのできるもっと深く、重要なメッセージがあります。過去における彼の人生が、のちに彼を襲った悲劇に対する応じ方と深く密接につながっていることに注目してください。ヨブが「神を呪って、死ぬ」(ヨブ2:9)ことを拒んだのは、偶然でも、幸運でも、強い意志の力によってでもありませんでした。そうではなく、神に忠実であり、従順であった歳月が、このようなことが起きても主を信頼する信仰と品性を彼に与えたからでした。

問2

マタイ7:22~27を読んでください。ヨブが忠実であり続けた理由を明らかにしているこれらの聖句の中に、どんなことを見いだせますか。

ヨブの大きな勝利の鍵は、彼がそれまでに積み上げてきた「小さな」勝利の中に見いだされます(ルカ16:10も参照)。ヨブをヨブたらしめていたのは、妥協することなく、正しさにこだわることでした。私たちがヨブ記の中に見るのは、ヤコブの手紙が信仰生活における行いの役割について述べていることの実例です。「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう」(ヤコ2:22)。この聖句には、クリスチャン生活の重要な原則の一つがどのようなものであるかが、明らかにされています。私たちはヨブの物語の中に、この原則が力強い形で実行されているのを目にします。ヨブは私たちと同様に肉と骨でできていましたが、彼の熱心な努力と神の恵みによって、神に忠実に従う人生を送ったのでした。

神の多種多様な知恵

ヨブ記の初めのほうで、登場人物たちが入れ替わり立ち替わりする中、テマン人エリファズはヨブに、「あなたが正しいからといって全能者が喜び/完全な道を歩むからといって/神の利益になるだろうか」(ヨブ22:3)と言いました。私たちは天の舞台裏で起きていたことを知っているので、それは非常に皮肉な質問です。確かに、ヨブが正しいことは神にとって喜びであり、ヨブが完全に生きることは神の利益でした。そして、これはヨブだけに当てはまることではなく、主の弟子と主張する人たちすべてについても同様です。

マタイ5:16を読んでください。ヨブ記における重要な問題は、「ヨブは忠実であり続けるだろうか」というものでした。サタンは「否」と言い、神は「しかり」と言われました。そしてヨブが忠実であり続けたことは、少なくともサタンとのこの戦いにおいて、間違いなく神を有利な立場にしました。

しかしこの物語は、より大きな問題の一つの縮図にすぎません。第一天使のメッセージは、一つには、「その〔神の〕栄光をたたえなさい」(黙14:7)と私たちに告げており、マタイ5:16においてイエスは、私たちが立派な行いによって神に栄光を帰すことができる、と説明なさいました。これがヨブのしたことであり、これが私たちにもできることです。

問3

エフェソ3:10を読んでください。ここにあらわされている原則は、より小さな規模ではあるものの、ヨブ記の中でいかに明らかにされましたか。

この聖句やヨブ記の中には、神が、御自分に従う者たちの人生の中で働いておられるという事実が表現されています。神がそうなさるのは、御自分の栄光のために、彼らを御自分のかたちに変えるためです。「神のみかたちが人間のうちに再現されるのである。神の栄え、キリストの栄光は、神の民の品性の完成に含まれている」(『希望への光』1029ページ、『各時代の希望』下巻157ページ)。ヨブは何千年も前に生きた人ですが、彼の人生は、いかに人間がこの原則を明らかにしうるかということの一つの手本でした。あらゆる時代の神の民は、同様の人生を送る特権に恵まれています。

さらなる研究

プロテスタントの宗教改革は、信仰のみによる救いという偉大な真理を取り戻しました。この真理は、聖書の中で、エデンにおいて初めて知らされ(創3:15参照)、次にアブラハムの人生の中でもっとはっきり表現されています(同15:6、ロマ4:3参照)。そしてその後、パウロを通して聖書の中に明らかにされました。しかし、信仰のみによる救いという真理は、信じる者たちの人生における聖霊の働きを救いの手段としてではなく、救いのあらわれとして常に含んでいました。私たちはヨブの人生と品性の中に、この働きがどのようなものであるかの貴重な実例を見ます。神学者たちはこの働きを「聖化」——基本的には「聖」を意味する——と呼びます。それは聖書の中でとても重要なので、私たちは、「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブ12:14)と言われています。聖化の基本的な意味は、「聖なる用途のために取り分けられる」ということです。それは、例えば、主が御自分の契約の民に、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19:2)と言われたときに見られる概念です。

この概念は、旧新両約聖書の中にさまざまな形であらわれていますが、それは、神が私たちの中になさることと関係しています。それは善良さにおける、あるいは善良さに向かっての道徳的成長と見うけられます。聖化とは、「人間の意志と聖霊の力が協力して、起こる道徳的変化の漸進的な過程のことである」(『SDA神学ハンドブック』296ページ、英文)。この働きは、神だけが私たちの中に成し遂げることのおできになるもので、私たちが義認を強制されないように、聖化も強制されません。私たちが自分を主にささげると、信仰によって義とされる同じ主が、私たちを聖めてくださいます。そして、ヨブになさったように、地上において可能な限り、私たちを神のかたちに変えられます。パウロは、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラ4:19)と書きました。エレン・G・ホワイトは記しています。「キリストは私たちの見本、見習うために私たちに与えられた完全で聖なる模範である。私たちはこの見本と同じにはなれないが、私たちの能力に従って、それをまね、似ることはできる」(『キリストを知るために』265ページ、英文)。

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