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第1課 福音がコリントに伝えられる
第1課 福音がコリントに伝えられる
私たちは人を生まれ変わらせる神の力を限定しがちです。そして、「できない」という言葉をいとも簡単に口にします。コリントは大きな、繁栄した、地理的に重要な都市で、市民にとっては都会の危険と誘惑であふれていました。このような場所に確固たるキリスト教会を建設することは挑戦的な働きでした。多くの改宗者は異教から出るはずです。不品行に染まっていた彼ら の生き方は、イエス・キリストの福音という価値観によって造り変えられなければなりません。神の恵みの持つ改変力をよく知っていたパウロは、一見不可能に見えるコリントの町をキリスト教伝道の戦略的拠点にしようと考えました。
私たちは周囲の神なき社会のことをどれだけ心にとめているでしょうか。私たちの力を超越した挑戦だと感じていますか。それとも、神の力を再認識することによって、神の恵みの働く機会と考えていますか。
テント職人・伝道者パウロ(使徒言行録18章1節~8節)
質問1 パウロはコリントで、だれと一緒に仕事をしましたか。使徒18:1~3
ローマ皇帝クラウディウスがユダヤ人をローマから退去させる命令を出したため、アキラとプリスキラ(パウロの手紙では「プリスカ」)はコリントにやって来ました。非常に行動的(使徒18:8、Ⅰコリ16:19、ロマ16:3、Ⅱテモ4:19)なこの夫婦は、明らかに、テントや皮革製品を手広く扱う実業家でした。彼らはコリントにやって来たときにはすでにクリスチャンだったようです。
質問2 パウロは安息日ごとにどんな伝道活動に従事しましたか。使徒18:4
「テント造り」としてのパウロの職業もまた、彼の伝道活動に重要な役割を果たしました。「わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした」(Ⅰテサ2:9)。このことから、パウロは職場において福音を宣べ伝えたと思われます。朝早くから夜遅くまで、作業台に向かって働き、顧客たちに復活の主を宣べ伝えているパウロの姿が目に浮かぶようです。
質問3 パウロがコリントで伝道していたときに、どんなことが続いて起こりましたか。彼の働きは成功したと思いますか。使徒18:5~8
ティティオ・ユスト(テテオ・ユスト)は「神をあがめる」者として描かれています(使徒18:7)。「神を畏れる[者]」(使徒10:2、13:16、26、17:4、17)という言葉と同じく、この言葉は完全にユダヤ教に改宗してはいないが、唯一の真の神をあがめるように導かれた非ユダヤ人を示しています。
使徒言行録18:1~8には、職場や会堂のこと、また巨大な世界的植民地コリントのことが描かれています。そこでは、ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人があらゆる国籍・宗教の人々に混じって商売をし、礼拝をしていました。パウロの「多くの神々」(Ⅰコリ8:5)という言葉は、コリントの状況を適切に表現しています。彫像、硬貨、神殿には、アポロ、アテナ、テュケー、アフロディテ、アスクレピオス、デメテル、コレー、パライモン、シシパスなどの神々に対する礼拝が描かれています。
失望と励まし(使徒言行録18章9節〜17節)
質問4 友人や隣人に対するあなたのあかしが無益なように思われたことはありませんか。あなたの経験を、使徒言行録18:9~11のパウロの経験と比較してください。
「パウロはコリントでいくらかの成功をおさめたが、なおこの堕落した都市の邪悪さを見聞きして、ほとんど落胆しそうになった。異邦人の堕落ぶりを目撃し、ユダヤ人からは軽蔑と侮辱を受けて、彼は激しく苦悶した。そして、そこに見いだされる人材で教会を築こうとすることは知恵のないことではないかと、おぼつかない気持ちになった」(『患難から栄光へ』上巻270ページ)。
このようなときにも、コリントにおけるパウロの働きは復活されたキリストからの直接的な励ましによって力づけられました。この励ましは、「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:10)という言葉によって結ばれています。この言葉は今日も変わりません。あなたの町にも私の町にも、すでに神に属する人々がいます。私たちの働きはそれらの人々を見つけ出すという楽しい働きなのです。
質問5 コリントにおける18か月の後に、パウロの働きを粉砕するようなどんな事件が起こりますか。神はどのようにパウロを守られましたか。使徒18:12~17
ギリシアのデルポイで発見された皇帝クラウディウスの碑文は、使徒言行録18章の歴史的背景を裏づけています。そこには、「わが友、アカイアの地方総督、ユリウス・ガリオ」とあり、ガリオの統治を紀元51年または52年としています。
回心者に対するパウロの献身は一時的なものではありませんでした。彼はこの事件の後もなおそこにとどまり、第2次伝道旅行(紀元51~52年)における18か月を終えました。コリントを去った後、また『コリントの信徒への手紙Ⅰ』を書く前のある時点で、パウロはコリント人に1通の手紙を書きました。しかし、それは失われてしまっています(Ⅰコリ5:9)。クロエの家の人たちなどから教会について知らせを受け(Ⅰコリ1:11、16:17)、またコリント人自身から手紙を受け取り(7:1)、パウロはエフェソから第3次伝道旅行に出発する前の、紀元57年頃に『コリントの信徒への手紙Ⅰ』を書いたのでした(Ⅰコリ16:8)。
コリントの聖徒たち(コリント信徒への手紙一 1章1節~9節)
大部分のパウロの手紙、また当時の手紙全般と同じく、『コリントの信徒への手紙Ⅰ』は序文と感謝(4~9節)をもって始まっています。
質問6 パウロはコリントのクリスチャンに何と呼びかけていますか。Ⅰコリ1:2、3
パウロは読者に対して、「聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」という言葉を用いています。「聖なる者とされた人々」という表現は、「聖」を意味するギリシア語のハギオスから来ています。
コリントはギリシアの地峡に位置し、二つの港(レカイオムとケンクレア)を持っていたので、誇りに満ちた歴史を持ち、戦略的に重要な都市でした。それは裕福な町であり、特に高度の造船、建築技術、また織物、陶器類の生産で知られていました。しかし、その反面、コリントは「聖」なる都市ではありませんでした。
当時、コリントと張り合っていたアテネの著述家たちはコリントを中傷して、「遊蕩にふける」を意味する「コリント人のように振る舞う」という言葉や、「売春婦」を意味する「コリントの女」という言葉を作り出しました。ある作者によれば、コリントには女神アフロディテに仕える1000人の売春婦がいました。
コリントはほかの町々よりも不道徳であったとは言えないかもしれません。しかし、パウロの手紙に示されているように、コリントの信者は性的不道徳、偶像礼拝、大食などの誘惑にさらされていました(Ⅰコリ5章、6:12~20、8章、11:17~22)。そして、彼らはいとも容易にこれらの誘惑に負けていたのです。パウロは初めから彼らの心をキリストの清めの働きに向け、霊的に清められた者となるように訴えました。彼は、コリントの信者が(将来でなく現在)「聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」であることを再認識させています。
「主よ、来てください」(コリントの信徒への手紙一 1章1節~9節、16章21節〜24節)
1冊の本を読むうえで役に立つ方法の一つは、全体を読む前に序文と結びを読むことです。この方法によって、著者が言おうとしている内容をだいたい把握することができます。
質問7 『コリントの信徒への手紙Ⅰ』の序文と結びには、どんな主題が述べられていますか。Ⅰコリ1:1~9、16:21~24
この手紙の序文と結びには、回心者に対するパウロの愛が表現されています。彼は、信徒の上に恵みが豊かに与えられるようにと心から願っています。そこにはまた、キリスト再臨に対するパウロの信仰が生き生きと表されています。クリスチャンは、「わたしたちの主イエス・キリストの現れ」(Ⅰコリ1:7)を待ち望んでいます。神が約束を守られるお方であるというパウロの確信は、キリストの間もない再臨を待ち望んでいる私たちにとって大きな励ましです。
質問8 黙示録もまた、その序文と結びにおいて、再臨に対する確信をどのように表明していますか。黙示1:1~8、22:20、21
『黙示録』と『コリントの信徒への手紙Ⅰ』の結びには、どちらも、「主イエスよ、来てください」(黙示22:20)、「主よ、来てください」(Ⅰコリ16:22)という心からの呼びかけが含まれています。後者における呼びかけは、「マラナ・タ」というアラム語で表現されています。この言葉が新約聖書で用いられているのはここだけです。これは、パウロがキリストを拒む者に対してのろい(アナセマ)を宣告した直後だけに、特に力があります(ガラ1:8、9比較)。「アナセマ」と「マラナ・タ」は、ギリシア語聖書では続いて現れます。パウロにとって、「アナセマ」はキリストを愛することを拒む者にふさわしいものです。しかし、救い主に対する愛によって生きる者たちの叫びは、「マラナ・タ」(主よ、来てください)です。
パウロの序文と結びに述べられている思想は次の三つです。
1.信者に対する心からの愛
2.キリスト再臨に対する喜ばしい信仰
3.神の守りに対する確信に満ちた信仰
聖なる者たちのための募金(コリントの信徒への手紙16章1節~20節)
質問9 「聖なる者たちのための募金」とは何ですか(Ⅰコリ16:1)。それがパウロの働きに欠かすことのできないものであったのはなぜですか。Ⅰコリ16:1~4(Ⅱコリ8、9章)
「聖なる者たちのための募金」はパウロの手紙に見られる目立った特徴であり、ほぼ20年にわたり彼の事業になっていたようです。パウロの大きな関心の一つは、教会内のユダヤ人と異邦人の一致ということでした(特にエフェ2:11~22参照)。パウロがおもに異邦人からなる自分の教会から資金を集めて、それをエルサレムにいる貧しいユダヤ人信者のために用いることは、両者の間に一致をもたらすための実際的な方法でした。
このような事業はまた、イザヤ書58:6~8、マタイ25:34~46 の教えに対するパウロの態度を表しています。恵まれない人たちに対する私たちの態度は、事実上、主に対する私たちの愛の表明です。
質問10 コリントⅠ・16:1~4を引用して、日曜日が初期のクリスチャンの礼拝日だったと主張する友人に対して、あなたは何と答えますか。私たちは人々の必要に対する関心をどのように表すべきですか。
パウロはコリントの信者に対して、「聖なる者たちのための募金」をあらかじめ用意しておくように勧めています。次回の訪問のときにそれを集めるためでした。「前後関係からすると、これは教会の集会とほとんど関係がない。求められているのは個人の資金計画である」(D・R・デレイシー「聖日」『パウロと彼の手紙辞典』404ページ)。これらの聖句は実際には、安息日がパウロの諸教会でなおも重要な意味を持っていたことを示しています。「手もとに取って置く」ことは自宅でなされる個人的な行為であって、クリスチャンの安息日に行うことが不適当と見なされていた経済的活動を第1日に行うことを示しているようです。
質問11 テモテ、アポロ、「ステファナの一家」といった忠実なクリスチャン指導者の扱いに関して、パウロはどんな関心を表明していますか。Ⅰコリ16:5~20
まとめ
コリントにおける伝道を推進するパウロの勇気ある模範は、時にはくじけそうになる私たちの伝道の働きを再点検するように教えています。パウロの霊的清めに対する生きた信仰、教会の一致に対する献身は、同じく私たち自己吟味を要求します。私たちも心からの確信をもって、「主よ、来てください」と言うことができるでしょうか。
第2課 分裂
第2課 分裂
キリスト教は、教会をとりまく文化と同じように、その雄弁さのゆえに、その説得力のゆえに、その歌唱力のゆえに、多くの人々を引きつけます。そして、特定の教師や音楽家を信奉する人々が、自分たちの「名士」の評判を高めるために、ほかの人を信奉する人々と対立になります。
クリスチャンの指導者をひどく扱うこともあれば、逆に「人気のある」指導者に過度に心酔することもあります。そして、人間の指導者に心酔するあまり、御子キリストを忘れてしまいがちです。パウロは力強い比喩を用いて、人間の指導者に忠誠を尽くすのをやめて、神と御子キリストに対する聖霊に満たされた礼拝に立ち返るようにと読者に勧めています。キリストは教会のかしらであって、私たちはキリストだけに従うべきです。それゆえに、パウロはコリントの信者に対して、教会の指導者であるキリストに献身し、忠誠を尽くすように求めているのです。
コリント教会内の分派(コリントの信徒への手紙一 1章10節〜17節、3章1節〜4節)
質問1 コリントで起こっていたどんな問題が、「クロエの家の人たち」によってパウロに知らされましたか。パウロはこの問題をどれほど重要視していますか。Ⅰコリ1:10~17、3:1~4
コリントのクリスチャンは色々な「分派に分かれていました。つまり、「パウロ派」があり、「アポロ派」があり、「ケファ派」(ケファはペトロをさすヘブライ名)があり、そして聖なるグループとして特別な名称を主張する「キリスト派」がありました。このような分裂騒ぎに対して、パウロは次のような強力な質問を用いてクリスチャンの一致を説いています。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけたれたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。当然、これらの質問に対するパウロの答えは「否!」です。
質問2 パウロはエフェソ4:1~6でも一致を呼びかけています。彼がコリントⅠ・1:10~17の質問に何と答えているかに注目してください。同じクリスチャンに対する謙虚さ、優しさ、寛容がどのようにして一致を促進するか説明してください。
「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」。クリスチャンの一致はひとりの主を礼拝することから来ます。「パウロはあなたがたのために十字架につけられたのですか」。十字架の下は平らな地面であって、そのことは私たちが一つであることを強調しています。「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。私たちは「一つのバプテスマ」によって清められ、キリストの名によってバプテスマを受けたのです。これらの信仰の事実が私たちを一つに結びつけます。しかしながら、このような一致は単なる信仰箇条ではなく、実際的な方法で実現すべきものです。パウロは実際の生活において一致を実現するように信者に求めています。
セブンスデー・アドベンチストは信仰と目的の一致を当たり前のものと考えてはなりません。キリストの愛と主権が多様な私たちを一つに結びつけていないかぎり、コリント教会のような分裂が今日の私たちの教会の一致を失わせるのです。パウロの言葉は不一致の病をいやす薬です。
別々か一緒か(コリントの信徒への手紙一 1章10節〜17節、3章1節〜4節)
質問3 初期のクリスチャンはどこで集会を開きましたか。初期のキリスト教会はどのようなものでしたか。Ⅰコリ16:19、ロマ16:3~5
新たに組織された宗教グループは、国の認可を受けないかぎり、礼拝のための公の建物を所有することができませんでした。事実、個々の教会堂は2世紀の終わり頃まではあまり見られませんでした。
コリントのクリスチャンは時々、合同で集会を開いていたようです。パウロはコリントからの手紙の中で、「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」(ロマ16:23)のことを高く評価しています。コリントⅠ・14:23には、「教会全体」が一緒に集まっている場面が述べられています。しかし、こうしたことは例外的だったようです。
パウロの教会の中でいちばん良く知られているのはコリントの教会です。この教会員のうちの16人までが、名前がわかっています。新約聖書の記述に基づいてなされた、信頼のおけるある計算によれば、パウロの時代のコリント教会には、50人ほどの信者がいたと思われます。あるいはもう少しいたかもしれません。
質問4 母教会とは別に、離れた所で集会を開いているグループにはどんな強みがありますか。弱点は何ですか。Ⅰコリ1:10~17、3:1~4
「パウロがコリントⅠ・1:12で言及している様々なグループは、定期的に分かれて集会を開いていたものと思われる。このような比較的孤立した状況では、各グループは独自の神学を確立するようになり、事実上、ほかの考え方に出会う前に固定した考えを持つことになったであろう」(ジェローム・マーフィ=オコナー『聖パウロのコリントの信徒への手紙—本文と考古学』158ページ)。
神の庭園としての教会(コリントの信徒への手紙一 3章5節~9節)
質問5 パウロはどんなたとえを用いて、コリントにおける自分とアポロの役割を説明していますか。Ⅰコリ3:1〜3、6、10、11
質問6 アポロはどんな人でしたか。新約聖書から彼についてどんなことがわかりますか。使徒18:24~28、Ⅰコリ16:12、テト3:13
第2次伝道旅行においてコリントで働いた後、パウロはエフェソに移り、そこに仲間のアキラとプリスキラを残して帰ります。パウロがパレスチナに帰ると、アポロがエフェソに来ました。アポロは生まれつき雄弁で、旧約聖書にも精通し、イエスのことを「熱心に語り」ました(使徒18:25)。「ヨハネのバプテスマ」しか知らない彼は、より深い知識を必要としていましたが、その不足は有能な働き手であり教師であったアキラとプリスキラの教えによって満たされます。アポロはエフェソの信者の助けを借りて、アカイアまで働きを拡大しようとしました。そこで、彼はコリントに行き、神の助けによって新しい回心者の信仰を育成し、ユダヤ人にキリストを宣べ伝えたのでした。
「福音の働き人たちをご自分の使者として送り出すおかたは、聴衆の中に、だれか気に入りの牧師に対する愛着が非常に強くて、他の教師の働きを受け入れたがらない様子が見られるときに、はずかしめを受けられる。……教会を、キリスト教のすべての要求において完全なものとするのに必要な資格を、ひとりの牧師がすべて備えていることは、めったにない。そこで神は他の牧師たちを送られる。おのおのが、他の人たちには不足している何かの能力を持っているのである」(『患難から栄光へ』上巻300ページ)。
神の神殿としての信者(コリントの信徒への手紙一 3章9節~23節)
質問7 新約聖書の中で、「神殿」という言葉はクリスチャンやクリスチャンの共同体をさす比喩としてよく用いられています。個々の信者は聖霊の宿られる場所でもあります。次の聖句に用いられている比喩をコリントⅠ・3:9~17のそれと比較してください。
Ⅰコリ6:19
Ⅰコリ6:14〜7:1
エフェ2:19〜22
Ⅰペト2:4~8
パウロは古代ギリシアの「神殿文化」を受け継ぐ人たちのために書いています。コリントは昔から、ほかの都市に神殿を建てるための職人と材料を提供してきました。パウロの時代に町の中心部が再建されたことからもわかるように、数々の神殿はコリントの大きな特徴でした。パウロの手紙を読んだ人々は、町の大通りを歩きながら、毎日のように神殿の建物と修復工事を見ていたわけです。したがって、彼らはパウロの神殿の比愉をすぐに理解することができたはずです。
パウロは神殿に関する一般的な考えを利用しています。
1.神殿はその神殿の神に属するものであって、その神にとって重要です。したがって、神殿を壊すことは神を汚すことです。
2.神殿には神が住んでいます。
3.殿の建物は管理を必要とします。
4.請負人は良い仕事をすれば報酬を受けますが、悪い仕事をすれば罰金を課せられます。
質問8 パウロはコリントの信者のうちにあった分派に関する勧告をどのように結んでいますか。彼は「この世の知恵」に対する神の評価を何と表現していますか。Ⅰコリ3:18~23
コリント人はこの世の教師たちの知恵にあこがれていました。ペトロ、パウロ、アポロといった教師たちは確かに知恵がありました。しかし、コリント人は不健全なまでに個々の教師を崇拝していたのです。このことが教会に深刻な問題を引き起こしていました。こうして彼らは「この世の知恵」に従い、キリストの弟子となる特権を見失っていたのでした。
神の神殿を建てる者(コリントの信徒への手紙一 3章9節~17節)
質問9 パウロは神殿の比喩を用いて、神の計画に従わない働きをしているクリスチャンについて何と教えていますか。Ⅰコリ3:9~17
長年にわたって、聖書の研究者たちはクリスチャン指導者の働きについてのこれらの言葉と取り組んできました。しかし、神殿建築に関する古代の碑文を読むときに、これらの聖句の意味が明らかになります。[ギリシア]アルカディア地方のテゲアから出た紀元前4 世紀の碑文は、特に助けになるかもしれません。それは、アテネの神殿を建てるときに請負人と職人が守るべき条件を細かく規定しています。ある部分には次のように書かれています。
「もしだれかが仕事の配分に異議を唱えたり、……少しでも傷をつけたり、……損害を与えたりした場合には、配分をした者たちは……彼に、それにふさわしい罰金を課し、彼らの決意としてそのことを公に発表し、統轄する裁判所に彼を呼び出し、罰金の全額を支払わせるものとする。……
もしだれかが、契約に署名した後で、……聖なるもの、公共のもの、個人のものを問わず、契約の合意に反して、現存するほかの建造物に損害を与えた場合には、その損害を与えた部分を自分の費用で、契約時に劣らない[状態に]復元しなければならない。もし復元しない場合には、……[定められた期限を]過ぎた……これらの仕事に雇われた者たちと共同で……罰金を支払わなければならない」(ジェイ・シャノー訳「大建築家パウローコリントⅠに見る建築用語」『新約聖書研究』34、462ページ)。
質問10 パウロはクリスチャンの指導者たちを「神に奉仕する者」として描いています(Ⅰコリ3:5~9)。彼は神殿の比喩を用いて自分自身を何と呼んでいますか。Ⅰコリ3:10~12
パウロは自分自身を、神によってコリント教会という神殿建築の監督者に定められた「熟練した建築家」と呼んでいます。すべての指導者が神に奉仕する者ですが、パウロは自分がコリントのキリスト教会に関して特別な、神から与えられた役割を担っていることを自分の信者に認識させようとしたのでした。
まとめ
全体から離れて特定の教師に傾倒したり、特定の分派に加わったりすることは、霊的な病に導きます。むしろ、私たちはパウロが勧めているように、クリスチャンのあらゆる特権を活用し、神から与えられた考え方や交わりから祝福を受けるべきです。
第3課 栄光の言葉でなく、栄光の主
第3課 栄光の言葉でなく、栄光の主
両親に捨てられたロバート・アレンは、年老いた親戚に預けられましたが、学校にはやってもらえませんでした。伯母のベビーは8年の教育しか受けていませんでしたが、ロバートに読み方を教えてくれました。ロバートは盲目の大伯母のアイダに欽定訳聖書を2回通読してあげることで、この技能をみがきました。こうして、神の御言葉から学んだロバートは、不用品即売会で買った2000冊の本によって幅広い知識を身につけていきます。1981年、32歳のときに、彼は教育を受ける決心をして、高得点で大学の試験に合格しました。ベテル・カレッジのある教授は次のように言いました。「彼は神話のバビロンと8世紀のユダヤに精通している。彼はテネシーから出ることなく世界の市民となった」。数年後、ロバートは最優等で卒業し、大学の学位を取得しました。その後、英語の修士号と博士号を取得しました。すべては、盲目の伯母に神の御言葉を読むことによって与えられた知恵のおかげでした(『チャタヌーガ新聞』1991年12月22日より)。
パウロがコリントⅠ・1:18~2:16で言っていることは、真の知恵がこれと同じ源、すなわちキリストについての神の啓示から来るということです。
コリントにおけるパウロの伝道法(Ⅰコリ1:18~21:6、使徒17:16~34)
質問1 パウロがアテネとコリントで用いている二つの接近法を比較してください(使徒17:16~34、Ⅰコリ2:1~5)。この比較から伝道法についてどんなことを学ぶことができますか。
パウロは会堂や市場で福音を説き、その後、アテネの有名なアレオパゴス(英語欽定訳では、『アレス神の丘』)、市場にある「王室柱廊」に連れて行かれました。アレオパゴスは、「伝説時代には、アテネで最も重要な施設であり、往時の権威をほとんど失っていたとはえ、なお大きな威信を保っており、倫理的、宗教的問題に関して特別な裁判権を持っていた」(F・F・ブルース「アレオパゴス」『新聖書辞典』第2版、81ページ)。熱心な伝道者であったパウロはアテネでの結果に失望したかもしれません。しかしながら、貴族院の議員であった「アレオパゴスの議員ディオニシオ」のほか、数名の人たちがクリスチャンになりました。
コリントに移ったパウロは、そこで直面した現実によって自分の非を悟り、神からの啓示に基づいたメッセージを語る必要性を痛感します。人間的に工夫をしたメッセージでは満足できなかったのです。神の力よりも人間の語る能力に頼ったやり方ではだめだと考えたのです。
質問2
今回の課の聖句全体を読み、その内容を要約してください。Ⅰコリ1:18~2:16
1.中心思想(1:18~25)
2.中心思想の裏づけ(1:26~2:5)
(1)1:26〜31
(2)2:1〜5
3.中心思想が私たちに教えること(2:6~16)
この世の知恵(コリントの信徒への手紙一 1章18節~25節)
質問1 今日の聖句、コリントⅠ・1:18~25を、コリントⅠ・1:10~17に照らして読んでください。両者は互いにどんな関係にありますか。
コリントにおける党派心の根底には、「知恵」に対する渇望があったようです。これは周囲の文化の影響によるものでした。昔のある作者によれば、コリントの人々は「女や子供でさえ」雄弁術にあこがれていました。「コリント人の言葉」という表現は、工夫に富んだ演説を意味していました。こうした魅力にとりつかれたクリスチャンは、特定の教師に傾倒することによって、実際には、同じ恩恵をもたらすために神からつかわされたほかの教師をないがしろにしていたのでした。
パウロはすでに彼らの知恵に訴え(1:10~17)、のちに再び訴えます(3:1~23)。彼はここで、分裂の原因となっているものを捨てるように、そして最高の「知恵」を求めるように訴えています。
質問4 パウロは「宣教という愚かな手段」(Ⅰコリ1:21)と言っていますが、これは何を意味しますか
パウロは明らかに宣教を高く評価していました(ロマ10:14~17、Ⅰテモ4:13~15、5:17、Ⅱテモ4:1、2)。福音の宣教が愚かに見えるのは信じない人たちにとってだけです。クリスチャンにとって、宣教は神の力と知恵を与えるものです。「多くの人たちは宣教をキリストの定められたご自分の民の教育手段、したがってつねに高く評価すべきものと見なしていない。彼らは説教を自分たちに対する主の言葉と思わず、また語られた真理の価値によってそれを評価しようとしない。彼らはそれを法廷における弁護士の話のように、議論の技術や言葉の力・美しさによって判断する。……天からつかわされた者であるかのように彼[説教者]に耳を傾けないから、あなたはその言葉を尊ばないし、それを神の言葉として受け入れることもない」(『教会へのあかし』第5巻298ページ)。
神の知恵(コリントの信徒への手紙一 1章18節〜25節)
質問5 パウロは「世の知恵」と「神の知恵」とをどのように比較していますか。あなたはコリントⅠ・1:18~25のどの言葉に最も教えられますか。
パウロの時代の人々は、「知恵のある人」、「学者」、「この世の論客」に知恵を求めました。しかし、パウロによれば、そうすることは低次元の知恵で満足してしまうことでした。この世の人々は、事業や商売の上で重要な、真に価値のある知恵は、顧問やコンサルタント、弁護士から出ると考えています。彼らは最新の自己啓発書やベストセラーの心理学書に知恵を求めます。しかし、パウロの教えによれば、真の知恵は十字架のもとにあります。真の識別力は聖霊によって与えられます。ただし、神がクリスチャンの助言者や専門家の知恵を用いて私たちを助けられるということを忘れてはなりません。
質問6 ユダヤ人とギリシア人は一般的に何を求めていましたか。彼らはそれぞれ、十字架につけられたキリストに対してどのような態度を取りますか。Ⅰコリ1:22~24
イエスは、すべてのユダヤ人、すべてのギリシア人、すべての人が心の中で求めているお方です。キリストのうちに、ギリシア人は人生の真の意味とそれを実現する方法とを見いだすことができます。人間の心には、ほかのものでは満たされない真の渇望があります。この真の渇望を満たすことがクリスチャンの働きの目標です。
「パウロがコリントのギリシヤ人たちにキリスト[注・救い主]として紹介しようとしていたイエスは、悪名の高い町で育てられた、身分の低い生まれのユダヤ人であった。イエスはご自分の民族に拒まれ、ついに、悪人として十字架にかけられた。ギリシヤ人は、人類を高めることは必要であると信じていたが、哲学や科学の研究が真に人類を高め名誉を得る唯一の方法だと思っていた。この身分の低いユダヤ人の力を信じることが、人間のあらゆる力を向上させ、高尚なものとすることを、パウロは彼らに信じさせることができるであろうか」(『患難から栄光へ』上巻263、264ページ)。
愚かで、弱く、軽んじられた者たち(コリントの信徒への手紙一 1章26節〜31節)
質問7 「知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者も多かったわけでもありません」と記されていますが、この少数の人々とは誰のことでしょうか。Ⅰコリ1:26、使徒18:8、ロマ16:1、2、23
コリントのクリスチャンの中には、社会の重要な地位を占めていた人たちが何人かいたことを、パウロは否定していません。彼はローマ16:23で、そうしたコリントの市民の一人であるエラストに言及し、彼が「市の経理係」あるいは「公共事業の監督」であったと記しています。コリントで発見されたラテン語の碑文の一つに、次のように書かれています。「エラスト、造営官に任命されたことに感謝して、自費でこの舗道を敷く」。造営官は公共の建造物に関して責任を負っていました。この碑文にあるエラストとローマ16:23のエラストとは同一人物であると考えられています。
コリントの信者の何人かは社会的に有力な人たちでしたが、パウロによれば、大部分の人たちはそうではありませんでした。家の教会でパウロの言葉を聞く人たちの中には、社会の下層にあった職人、主婦、子供、奴隷がいました。このような人たちにとって、パウロの言葉は大きな慰めになったことでしょう。彼らは社会的な地位や富を重んじる世にあっては、見捨てられた存在でした。しかし、神はご自分の目的を遂行するために特に彼らを選ばれたのです。ドナルド・クレイビルはかつて、『逆転の王国』という福音書に関する書物を著しましたが、コリントⅠ・1:26~31は、この逆転の王国へのパウロの序章です。
質問8 パウロはコリント人に対してどんな力強い約束の言葉を書き送っていますか。彼がキリストについてこのように言っているのはなぜですか。Ⅰコリ1:30
コリントの信者で「家柄のよい者」(1:26)は多くはありませんでした。ユダヤ人が純粋な家柄を重んじたのと同じくらい、ギリシア人は高貴な家柄を重んじました。「よい家柄」に対して、パウロはクリスチャンを王の家柄に属する者と呼んでいます。
キリストの思い(コリントの信徒への手紙一 2章6節〜16節)
質問9 「神の知恵」は「この世の知恵」や「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」とどのような関係にありますか。Ⅰコリ2:6~8
十字架につけられたキリストに表されている神の知恵は、この世の哲学を求める人たちの心を引きつけないかもしれません。しかし、そのことはあまり問題ではありません。神の知恵は永遠のものであり、「世界の始まる前から」(2:7)神によって定められていたものです。それは将来も続きます。それは「この世の」、あるいは「この時代の」(新改訂標準訳)知恵ではなく、「来るべき世」(エフェ2:7)を支配される「栄光の主」を啓示する知恵です。
質問10 コリントⅠ・2:9 の引用文は色々な意味に用いられます。パウロはコリントⅠ・2:6~16の文脈において、それをどのように用いていますか。
9節の引用文がどこから来ているのかは明らかではありません。パウロはイザヤ書64:3(口語訳、64:4)と52:15を組み合わせて引用しているように思われます。預言者イザヤがイザヤ書64:3 で、ご自分の民を助けられる神のすばらしさを瞑想しているのと同じように、パウロは十字架につけられた御子によって救われる神の驚くべき性質を強調しているのです。神が十字架につけられたキリストによってご自分の民のために啓示し、実現されたことは、「目が見もせず、耳が聞きも」しなかったことです。
知恵と霊的な賜物
パウロはコリントⅠ・2:6~16で、自分たちを霊的に成熟した者、「霊的」な者と主張する人々、特別な「知恵」を持つとうぬぼれる人々(3:18~20、8:1~3比較)をなおも批判しています。こうした人々はまた、霊的な賜物、とりわけ異言を語ることが霊的に高められたことの証拠であると考えていました(Ⅰコリ12~14章)。しかし、パウロが強調しているように、「霊的な賜物」を正しく判断する力を与えてくださるのは聖霊です(2:12、14参照)。
まとめ
真の知恵は、技巧を凝らした美しさや一般への受容の程度によってではなく、人の生き方を変える力、また十字架につけられたイエス・キリストのうちに啓示された神の知恵を表す力によって判断されるべきです。
第4課 召されて使徒となったパウロ
第4課 召されて使徒となったパウロ
あなたは最近、牧師を批判したり、ほめたりしたことはありませんか。あるいは、牧師が教会員を批判したり、ほめたりするのを聞いたことがありませんか。そのような批判は牧師や教会員の賜物・責任についての正しい理解に基づいたものでしょうか。クリスチャン同士の誤解は目新しいものではありません。コリントにおけるパウロの評判が傷つけられたのも、無遠慮な比較のためでした。それゆえに、パウロはコリント人への手紙の中で、かなりの部分をさいて、自分の働きに関する彼らの理解を深めることによって彼らとの関係を改善しようとしたのです。教会がうまく機能するためには、指導者と教会員が互いに協調しなければならないことを、パウロは知っていました。コリントの信徒への手紙Ⅰの4章と9章は使徒としてのパウロの役割について述べています。これらの章は、どの教会の指導者・教会員も互いに思いやりのある者となることができることを教えています。
「第1に使徒」(コリントの信徒への手紙一 4章1節〜5節)
「使徒」は権限を持った使者・代表者です。パウロは、広い意味で、この言葉を実際的な使命を帯びて教会から送られる使者を示すものとして用いることがありますが(Ⅱコリ8:23、フィリ2:25)、正式には、霊的賜物、つまりキリストによって福音を宣べ伝えるためにつかわされた者(Ⅰコリ1:1)を指すものとして用いています(Ⅰコリ1:1)。この教課では後者の意味に注目しています。
質問1 「使徒」の役割は何ですか。この賜物はいつまで神の教会において活動することになっていましたか。使徒2:15~26、Ⅰコリ9:12、12:27~31、15:3~8、エフェ4:11~13
使徒の身分とその働きの期間については、二つの考え方があります。
1.使徒とは、十二使徒、パウロ、その他の人たちからなる特別な集団のことです。彼らは初期のキリスト教会にあって、将来のクリスチャンのために権威ある基礎を築きました。現在、生存している使徒はいません。
2.「使徒」という言葉は、地上におけるキリストの働きに参加した12人の人たちに与えられたものです。しかし、特にパウロのような人たちも使徒と呼ばれるにふさわしい人たちです。この賜物はキリストの再臨まで教会内に存続します。
質問2 上記の聖句によって判断するなら、これらの考え方のうちのどちらが正しいと思いますか。その理由を説明してください。
質問3 パウロは使徒の役割について何と述べていますか。Ⅰコリ4:1~5
パウロによれば、使徒とは、ポティファル(ポテパル)に仕えたヨセフのように、天の主人の財産を管理する役目を任された奉仕者のことです。このように重要な役職には、地上の権力者ではなく神ご自身に対する高度の責任が伴います。最も重要なのは、神が私たちの奉仕をどのようにお考えになるかということです。神にとっての成功の基準は功績や地位ではなく、ご自分に対する忠実さです。達成や成功についてのこの世の基準に惑わされる必要はありません。私たちの神は愛と忠誠に満ちたおかたです。神に対する私たちの愛と忠誠こそ、神が最も尊ばれるものです(Ⅰコリ4:2)。
「見せ物となった」(コリントの信徒への手紙一 4章6節〜13節)
パウロはさらに、自分自身とアポロのことを例に引きながら、使徒の役割について語っています(Ⅰコリ4:6)。彼は8~13節において、自分自身の境遇(「わたしたち使徒」)をコリントの敵対者たちの境遇と比較しています。これらの敵対者たちはパウロのみじめな境遇を逆手にとってパウロに反対したのでした。しかし、パウロは苦難や逆境を神の怒りのしるしではなく、むしろ名誉の記章と考えました。
質問4 私たちはパウロの弁明からクリスチャンの生き方についてどんな教訓を学ぶことができますか。Ⅰコリ4:8~13
パウロは使徒について語ると同時に、ほかの人たちも自分の言葉から教訓を学ぶように望んでいます(6節)。のちに、彼はクリスチャンに対して自分にならう者となるように勧めています(16節)。自らの働きについてのパウロの言葉は私たちの心に意欲を呼び起こします。「十字架の恥辱がパウロの使徒職についての幻よりも強調されている。彼にとって、これはまさに『この主人にして、このしもべあり』と言われるゆえんであった」(ゴードン・D・フィー『コリントの信徒への手紙Ⅰ』175ページ)。同じことがキリストのための私たちの働きについても言えるでしょうか。
質問5 パウロはどんな言葉を用いて、使徒の役割をさらに詳しく描写していますか。Ⅰコリ4:9
円形競技場は闘技士たちの戦いの場でした。コリントの円形競技場は1万4千人を収容することができました。パウロは使徒を、すでに死刑宣告を受けて演技の終わりに競技場に引き出された一団の囚人にたとえています。これらの哀れな囚人たちは、闘技士や野獣に殺されることによって、観衆の慰み物とされたのです。(Ⅰコリ15:32)。パウロはすべての真の使徒たちと共に、「世の屑、すべてのものの滓」(4:13)とされました。コリントのクリスチャンの中にもそのように考えた人たちがいたかもしれません。パウロははっきりと、自分が逆境の中にあることを認めています。同時に、これらの境遇が主によって許されたものであることも認めています。このように、神はパウロ(と同僚の使徒たち)を「世界中に、天使にも人にも」(4:9)見せ物とされたのです。
使徒の権利(コリントの信徒への手紙一 9章1節~18節)
質問6 パウロは使徒に属するどんな権利を自分も持つと言っていますか。Ⅰコリ9:1~12
以前もそうでしたが(Ⅰコリ4:3~5)、パウロはここでも自分を裁き、試みることに余念のない者たちを心にかけています。コリントⅠ・9:1、2で、彼は一連の質問によって使徒としての自分の資格を確認しています。彼は復活された主にお会いしていました。彼の働きは、コリントのクリスチャン(その中の何人かがパウロを批判していたと思われる)に見られるように、実を結んでいました。パウロは兵役、農業、牧畜に関する例話を用いて自分の主張を確かなものとしています。さらに、彼は旧約聖書を引用して議論を進めています。
質問7 パウロは旧約時代の祭司・レビ人の生計とキリスト教の牧師の生計とを比較してどのように述べていますか。Ⅰコリ9:13、14
パウロは旧約時代の祭司制度に倣ってキリスト教の制度を作り直そうとしていたのではありません。彼がほかのところで、「すべての信者が祭司である」という思想を説いているからです。それにもかかわらず、彼は十分の一によって支えられていたレビ人(民数18:21、24、レビ27:30、32、マラ3:8~12参照)と、福音を宣べ伝える働きに献身する者たちの生計との間にある類似点を指摘しています。その最大の証拠として、パウロはキリストご自身の指示をあげています(Ⅰコリ9:14、ルカ10:7)。
神は今日の私たちに次のことを教えておられます。
- 私たちがどんな仕事についていても、神から委託された働きに参加すること。
2. 福音の宣教に全時間をささげた人たちを支えるために、十分の一を返すこと。これらの聖句には、別の意味での挑戦が含まれています。十分の一を受ける者も受けない者も、パウロと同じように献身するなら、福音はもっと早く宣べ伝えられることでしょう。
順応性のある使徒、パウロ(コリントの信徒への手紙一 9章19節〜23節)
質問8 パウロは人々をキリストに導くためにどれほど順応性を働かせたと言っていますか。Ⅰコリ9:19~23
私たちは自分の最も得意とする方法でキリストをあかししたいと考えます。得意でない方法でキリストをあかしするように求められると、戸惑ってしまいます。レナード・スイートは、ある大学院生の話を伝えています。この大学院生は、就職の口が見つかったのですが、その職では不満だというのです。すると友人が次のように言いました。「しかし、もしミケランジェロが『私は天井画なんか描かない』と言っていたら、この世界はどうなっていたと思う?」。
このやりとりを耳にしたスイートは、次のように書きました。
「もしモーセが、『私はファラオ(パロ)のもとに行かない、エジプトからも出ない』と言っていたなら、この世界はなかったであろう。
もしダビデが『私は巨人と戦わない』と言っていたなら、この世界はなかったであろう。
もしペトロが、『私は異邦人のもとには行かない』と言っていたなら、この世界はなかったであろう。
もしバプテスマのヨハネが、『私は荒野に出て行かない』と言ってたなら、この世界はなかったであろう。
もしマリアが、『私は処女降誕などいやです』と言っていたなら、この世界はなかったであろう。
もしパウロが、『私は手紙など書かない』と言っていたなら、この界はなかったであろう。
もしマグダラのマリアが、『私は足なんか洗わない』と言っていたら、この世界はなかったであろう。
もしイエスが、『私は十字架につかない』と言っておられたなら、この世界はなかったであろう」(『リーダーシップ』1994年春、第15巻2号、32ページより)。
神に従って神の王国を進展させることは、「言葉ではなく力」の問題です(Ⅰコリ4:20)。私たちは神の求められることを語りはしても、その語ったことを実現してくださる聖霊の力を心から求めていないことがよくあります。
勝つために走る(コリントの信徒への手紙一 9章24節〜27節)
パウロはコリントの東9マイル(14キロ)にあるイストミアに私たちを案内してくれます。それはコリントが主催する重要な競技会の開催地でした。ここで、彼は私たちに、競走をながめ、ボクシングの練習を見、競技者の鍛錬から教訓を得るように勧めています。パウロはなおも自分の働きの方法について述べると同時に、クリスチャンの弟子たちが彼の模範から教訓を得るように勧めています。
質問9 パウロは競技者とクリスチャンの生き方との間にどんな類似点・相違点を引き出していますか。Ⅰコリ9:24~27
パウロの用いている比嶮は、彼の手紙の朗読を聞く人たちにとってはわかりやすいものでした。2年ごとに開催されるイストミアの大競技祭はオリンピア競技に次いで重要なものでした。パウロはコント滞在中にこの競技祭に参加し、何千人もの競走者・競技者のために天幕を用意したのではないか、と言う人たちもいます。
古代ギリシアの競技祭では、特別な青葉で作った冠が勝利の象徴して用いられていました。パウロもたぶん、競技場の中で、優勝者のビクトリー・ラン[勝利の一周]を見たことでしょう。勝利者の頭には勝利の王冠—しおれたセロリがあったことでしょう!イストミアの競技祭では、セロリの王冠が用いられていて、贈られるときにはすでにしおれていました。汗をかいた額にある冠は、ビクトリー・ランの終わる頃には、すっかりしおれていたことでしよう。まさに、つかのまの栄誉でした。
現代のオリンピック大会で金メダルを獲得するのを見るのは胸の踊る経験です。しかし、この金メダルも金メッキしただけのものであって、100ドルくらいの価値しかありません。表彰式もつかのまの出来事です。受賞者は表彰台に上がり、メダルを首にかけてもらいます。それから受賞者の国旗が掲げられ、優勝者の省略された国歌が吹奏されます。あっという間に終わりです。金メダルもしおれたセロリの冠と大した違いはありません。しかし、それに価値がないという勝利者はひとりもいません。パウロがここで言おうとしているのは、私たちがつかのまの勝利に対しては最大の努力をしているのに、キリストが従う者たちに約束しておられる報酬に対してはほとんど心を向けていないということです。
質問10 黙示録はクリスチャンの勝利者に対してどんな栄誉を約束していますか。彼らはどんな競技場においてこの栄誉を受けますか。この報酬はいつまで続きますか。黙示2:7、10、17、26~28、3:5、12、21(マタ6:19、20比較)
まとめ
宣教の働きについてのパウロの言葉は、クリスチャンの働きを理解する助けになります。私たちはみな、ある意味で、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(Ⅰコリ4:1)であって、「世界中に、天使にも人にも、見せ物」(4:9)となっています。パウロはまた、私たちが神の働きを経済的に支え、伝道法において彼の柔軟性に見ならい、霊的に献身した者となるように教えています。そして最後に、「勝つために走る」ように勧めています。
第5課 クリスチャンの特徴を回復する
第5課 クリスチャンの特徴を回復する
アドベンチストの大学生に、「セブンスデー・アドベンチスト教会について好きな点と嫌いな点は何か」と尋ねたところ、積極的な答えの中に次のようなものがありました。「SDA教会の好きな点は要求しないところ。嫌いな点は困っている人を放っておく傾向があるところ」。この学生は、どちらも同じ問題を言っていることに気づいていないようでした。それは、教会が教会員に関心を寄せていないことを言っているのです。福音は私たちに、ほかの教会員に対して責任を持ち、困っている人に対して積極的にかかわりを持つように「要求」します。
パウロがコリントⅠ・5、6章を書いたのは、コリントのクリスチャンをそのような思いやりのある共同体に育てるためでした。近親相姦や違反者に対する寛大すぎる扱いのために、コリント教会におけるクリスチャンの責任意識が衰退していました。また、訴訟問題が教会を分裂させ、一部の兄弟たちが堂々と売春宿に通っていたことにも見られるように、クリスチャンの道徳が完全に乱れていました。
今回の課の研究によって、これらの章にあるパウロの忠告が私たちの心と教会の中にある問題を解決するうえでどんな助けになるか考えてください。
汚れた世界の中で清く生きる(Ⅰコリ 5章1節~5節、6章9節〜11)
コリントⅠ・5、6章はクリスチャンの性に対する考え方を理解するうえで重要です。しかし、これらの章を読むときには注意が必要です。昔のある作家は手紙を定義して「半分の対話」と言いました。手紙を読むことは電話での会話の一方だけを聞くようなもの、と言えるかもしれません。これらの章を読むに当たっては、聞いていないもう一方の会話を勝手に想像することのないように注意する必要があります。
質問1 コリントの教会はどんな状況にありましたか。パウロはそれに対してどうする必要があると感じていましたか。Ⅰコリ5:1~8
コリントⅠ・4:14〜21には深刻な問題が扱われており、パウロはそれに関連して「鞭を持って」コリントに行くと強く迫っています(Ⅰコリ4:21)。第5章の初めには、パウロが「むちを惜しむと子供をだめにする」と考えるに至った理由が述べられています。パウロの言葉づかいからすると、この違反者の相手は自分の母ではく、父の後妻だったようです。この人は父の死後、彼女と性的関係を持っていたのかもしれません。いずれにしても、早急に断固とした措置をとる必要がありました。
質問2 コリントの性的風潮がどのように描写されていますか。それはどんな意味でクリスチャンの生き方と相いれないものでしたか。Ⅰコリ6:9~11
「私たちはコリントⅠ・6:9~11の趣旨と意味について瞑想する必要がある。今日の世界は一つの広大なコリントである。……しかし、コリントにおける奇跡は、キリストが最悪の行いからでも人々を救うことがおできになることを教えている」(ウィリアム・G・ジョンソン「御言葉への窓一コリントにおける奇跡」『アドベンチスト・レビュー』1981年2月5日、6ページ)。
教会における責任(コリントの信徒への手紙一 5章1節~5節、9節~13節)
質問3 教会の懲戒に対するパウロの態度と、コリントのクリスチャンの態度とを比較してください。Ⅰコリ5:1~5、9~13
「教会の懲戒」という言葉は時代に逆行するように思われるかもしれません。現代は、「私の人生だから、私の好きなようにする」、「あなたには関係のないことだ」、「余計なお世話だ」といった考え方が主流になっているからです。しかし、現代がまた孤独で満ちていることも事実です。クリスチャンの共同体においては、信者はお互いに対して責任を負うべきであると、パウロは言っています。初期の家の教会にあっては、過ちに陥っている信者が見過ごしにされるということはありませんでした。彼らはお互いによく知っていました。ですから、どちらかと言うと、周りの人々が罪を犯している人をかばい、厳しい処置を免れさせようとする傾向がありました。
質問3 教会の懲戒に対するパウロの態度と、コリントのクリスチャンの態度とを比較してください。Ⅰコリ5:1~5、9~13
教会は「このような者を……サタンに引き渡」すべきであるとは何を意味するのでしょうか(Ⅰコリ5:5)。パウロのこの表現は教会員の除名を意味しています。—教会の外にはサタンの王国が広がっているからです(コロ1:13、Ⅰテモ1:20、Ⅰヨハ5:19)。
「その肉が滅ぼされる」とはどんな意味でしょうか。これは、除名することによって、できることなら、その人を「自覚」させ、クリスチャンの共同体に復帰させ、それによって肉を滅ぼすという意味です。「除名の目的は、共同体の純潔を守ることよりも、違反者に自分の行為を恥じ入らせることによって彼を復帰させることにある。……滅ぼされるべきものは肉体ではなく、違反者を罪に縛りつける傾向である」(N・G・ジョイ「肉体を滅ぼすべきか」『バイブル・トランスレーター39』、435、436ページ)。
パウロの目的ははっきりしています—「それは主の日に彼の霊が救われるためです」。彼は最後のさばきの日に目を向け、懲戒を受けた違反者が神の民の中に立っている姿を思い描いています。
質問5 パウロの以前の手紙によってどんな誤解が生じていましたか。このことは今日のセブンスデー・アドベンチストの働きにとってどんな重要な意味を持ちますか。Ⅰコリ5:9~13
パン種の入っていない者(コリントの信徒への手紙一 6章1節〜13節)
質問4 パウロの勧告はどんな意味において、「教会の懲戒」に関する私たちの考え方を変えるものですか。Ⅰコリ5:1~13
教の懲戒について、パウロは次のように理解していました(ほかにあれば付け加えてください)。
1.教会の懲戒は積極的な物です。パウロは重大な問題に対して消極的な態度をとることで満足していません。教会員が一定の限度を越えることによって教会の信用を失墜させたときには、教
は行動すべきであると、パウロは考えていました。
2.教会の懲戒は各教会の責任を強調します。パウロは問題解決の手助けはしても、行動する責任は各教会にあると考えていました。
3.教会の懲戒は救済を目的としています。パウロは、違反者が教会にいないように望む一方で、違反者が復帰するように願っています。これは私たちのための模範です。私たちは背信した教会員を「望みのない者」と決めてしまいがちです。
質問7 パウロは過越祭を引用して、コリント人の尊大さをどのように正そうとしていますか。Ⅰコリ5:6~8
過越においては、ユダヤ人の家族はパン種を少しも残さずに取り除かなければなりませんでした(出エ12:14~20、13:7)。パウロは過越祭の大いなる実体を明示して、「キリストが、わたしたちの越の小羊として屠られた」と言っています。パウロはなおも心の中で、背信した信者の除名について考えていたかもしれませんが、彼の考えはもっと広いものです。信者は、見た目には小さくても、実際には大きな影響力と破壊力とを持った態度(たとえば、彼らの「尊大さ」)に対して、十分に警戒する必要があります。なぜなら、それは「外見」に似合わず重大な影響を彼らの働きに及ぼすからです(ガラ5:7~9比較)。
質問8 信者に責任を説く者たちはどんな態度で臨むべきですか。Ⅰコリ5:2、ガラ6:1、Ⅱテサ3:14、15
災いを招く(コリントの信徒への手紙一 6章1節~8節)
今日、多くの国々で、人々はささいなことですぐに裁判に訴えます。パウロの時代のコリントでも、大した違いはなかったようです。ディオ・クリュソストムは紀元100年に、「多くの弁護士が正義をゆがめている」と記しています。裕福で権力のある市民はしばしば裁判を利用して、貧しい人々に不正を行っていました。パウロが裁判官を「正しくない人々」(Ⅰコリ6:1)と呼び、裁判に勝った者たちが「不義を行い、奪い取って」いる(6:8)と言っているのは、そのためかもしれません。
質問9 コリントの教会にはさらにどんな問題が生じていましたか。パウロはどんな解決法を示していますか(Ⅰコリ6:1~8)。クリスチャンが別のクリスチャンに対して不正を働いた場合にはどうするように、イエスは勧告しておられますか。マタ18:15~20
質問10 クリスチャンはいつ、この世と天使をさばきますか。マタ19:28、ルカ22:28~30、黙示3:20、21、20:4~6
コリントⅠ・5、6章で取り上げられている問題は、「部内者」と「部外者」の問題です。全くの「部外」者が「部内」にとどまることを許されてもよいのでしょうか(Ⅰコリ5:1~8)。かつてクリスチャンであった人たちを、全く「部内」にいたことのない人たちと同列に扱ってもよいのでしょうか(Ⅰコリ5:9~13)。「内部」の問題を「外部」の法廷で扱うことは適当なのでしょうか(Ⅰコリ6:1~8)。
不品行を避ける(コリントの信徒への手紙一 6章12節~20節)
質問11 コリントのクリスチャンはどんな誤った性的行為を正当化しようとしましたか。Ⅰコリ6:12 ~20
「コリントの信徒への手紙Ⅰ」の初期の写本には、見出し、章・節の区切り、明確な段落というものは全くありません。引用符や語間の空白もありません。したがって、どの言葉がパウロの言葉なのか、どの言葉がコリント人の用いていた思想や標語の引用なのかをよく見極める必要があります。
最近の翻訳によれば、次のものがコリントの標語であったとされています。パウロはそれらに答えています。「わたしには、すべてのことが許されている」(12節)。「食物は腹のため、腹は食物のためにある」(13節—誤った性的行為を正当化するための標語)。
次のものも標語と考えられます。「神はそのいずれをも滅ぼされます」(13節—神は人間の体を滅ぼされるのであるから、人間が体をどう扱っても問題はない、ということか)。「人が犯す罪はすべて体の外にあります」(18節)。
質問12 パウロはこれらの標語に何と答えていますか。彼は人間の性の問題に関してどんな重要な原則を述べていますか。Ⅰコリ6:12~20
パウロはコリントの標語の一つ一つに答えています。コリントの哲学によれば、体は道徳と無関係であって、人が体をどう扱おうと、それは神との関係に影響を及ぼすものではありませんでした。
しかし、パウロによれば、(1)神は体を高く評価して、それを復活させてくださいます(14節)。(2)クリスチャンが娼婦と交わることは不条理で罪深いことです(15~17節)。(3)クリスチャンの体は聖霊の神殿であり、クリスチャンは買い取られた奴隷であって、神に属するものです(19、20節)。
まとめ
パウロはコリントのクリスチャンに対して、一人の信者の公然たる性的罪を弁護するような態度を捨てるように、不適当な裁判に訴えることをやめるように、娼婦のもとに通うことをやめるように訴えています。使徒時代の純潔が疑われる結果になるかもしれませんが、その一方で、私たちはクリスチャンのあるべき姿を述べたパウロの原則のおかげで、豊かな祝福を受けることができます。
第6課 クリスチャンと性
第6課 クリスチャンと性
性が売り物とされている世の中にあって、クリスチャンは人間の性について正しい理解を持つことが必要です。聖霊は御言葉の力を私たちの生活に吹き込み、私たちにきよい生活を送る力を与え、この世の低級な性的標準によってではなく、神の御言葉の高い標準によって生きるのを助けてくださいます。
コリントⅠ・7章を研究すると、パウロの述べている状況をもっと詳しく知りたいと思うかもしれません。しかし、パウロが特定の考え方に対して自説を述べるのを見、コリントの信者にクリスチャンの自由と性に関する原則を教えるのを聞くことによって、私たちは多くのことを学ぶことができます。
結婚生活における性(コリントの信徒への手紙 7章1節〜7節)
質問1 いよいよパウロはコリント人の質問に答えます。彼が最初に取り上げているのはどんな問題ですか。Ⅰコリ7:1~7
ここでも、どれがパウロの言葉であり、どれがコリント人の標語であるかを見分けることは重要です。次の二つの言い方には何か違いがあるでしょうか。「そちらから書いてよこしたことについて言えば、『男は女に触れない方がよい』」(Ⅰコリ7:1、新改訂標準訳)。「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい」。
「男は女に触れない方がよい」という文はコリント人の標語であったと見なすべきです。パウロはそれに対して答えています。コリント人は禁欲主義的な結婚観をパウロに認めさせようとしたのです。これは重要な点です。なぜなら、クリスチャンの結婚に対するパウロの見解はコリント人の見解とは異なっていたからです。
真の宗教は性を否定するための方便ではありません。パウロが要求しているのは道徳的、性的純潔であって、禁欲ではありません。性欲は神の目的と計画に従って用いられる限り、神から与えられた祝福です。
質問2 結婚生活における性は霊性にどんな影響を及ぼしますか。Ⅰコリ7:2~7
パウロにとって、クリスチャンの普通のあり方は結婚することでした。彼は人間の性欲については現実的で、結婚生活における長期の禁欲は、たとえ信仰的な理由からであろうと、誘惑につながると考えていました。彼はすべての人に自分のように独身であってほしいと願っていますが、同時に、神がそれぞれの人に対して異なった計画を持っておられることを認めています(7節)。
「男は女に触れない方がよい」(1節)というコリント人の標語に答えて、パウロは結婚生活における性だけを論じています。その理由は、結婚だけが性行為を許されるただ一つの合法的関係だからです。36〜38節を婚約中の男女にあてはめるなら、結婚するまでは性行為を控えるようにということになります。
独身でいることは良いこと(コリントの信徒への手紙一 7章8節、9節、25節~40節)
質問3 「結婚すべきかどうか」迷っているコリントのクリスチャンに対して、パウロはどんな勧告を与えていますか(Ⅰコリ7:8、9、25~40)。あなたはこの勧告についてどう思いますか。
パウロの勧告は、「未婚者とやもめ」(8、9、39、40節)また「未婚の女」(25~28節—この言葉は両性を含みます、黙示14:4比較)に対して与えられています。
ある人とその「娘」のことが語られている3番目の状況はあまりはっきりしません(Ⅰコリ7:36~38)。大部分の現代の翻訳はこれを、ある人とその婚約者と解釈していますが、ある父親とその婚約中の娘と考えることも可能です。
どの場合にあっても、パウロの勧告は首尾一貫しています。彼は独身でいる方が良いと考えています。これは道徳的な意味で「良い」ということではありません。独身でいることも結婚することも共に良いことであり、人間に対する神の計画にかなったことです(28、38節)。しかし、「危機が迫っている状態」(26節)や「主のこと」(34節)全的に献身する必要があることを考えると、事情が許すかぎり、独身でいる方がより適切な選択であると、パウロは言っています。
質問4 パウロは独身でいることをどのように評価していますか。Ⅰコリ7:8、25、26、32~35、38、40
コリントⅠ・7章は私たちの教会に重要な貢献をしています。独身の良さについて教えているからです。独身でいることは望ましいことであり、神の御心にかなったことです。それは決して二流の生き方ではありません。独身でいることはクリスチャンにとって正しい選択です。事実、パウロはそれを神からの賜物と呼んでいます(Ⅰコリ7:7—37節比較)。彼は主と同じく独身であって、大胆にこの賜物を求めています。パウロはおもに結婚を迷っている人々のために書いていますが、独身生活についての彼の積極的な評価は、そのような生き方を自ら選んだか否かにかかわらず、今日のすべての独身者に大切なことを教えています。
既婚のままでいるべきか(コリントの信徒への手紙一 7:10〜16、39、40)
質問5 コリントⅠ・7 章で、パウロは夫婦のどちらか一方が「離縁」を望んでいる場合について述べています。このような状況に関して、パウロは何と教えていますか。
状況1 (夫と妻の場合—10、11節)
状況2 (未信者と結婚した信者の場合—12~16節)
結婚の永続性についてのパウロの信仰は、「主」の命令に基づいてました(マタ5:31、32、19:1~9、マル10:1~12)。
夫婦のどちらかが回心すると、その結婚が何となく無効になると感じていた人たちがいたようです。しかし、パウロの考えによれば、「夫婦一体」の原則がなおも有効であり、信者の夫または妻が結婚によって傷つくということはありません。不法な結合が神聖を汚すものであるように(Ⅰコリ6:16)、合法な結合は神聖なものです。パウロは信者を両親に持つ未信者の子供を例に用いています。未信者の子供が「聖なる者」であるのと同じように、未信者の夫または妻は聖なる領域に導き入れられています。
ルイス・スメデスはその著『思いやりと献身』の中で、離婚後に激しい後悔の念に苦しんだ「ラルフ」という人物について記しています。ラルフの訪ねた療法士は次のように慰めました。「結婚は人の成長のためにある。一定期間、成長がなかったなら、それは別れるべきときである」。スメデスはこの考えに反論して次のように述べています。「理想的な女性または男性という空想を追いかけているかぎり、個人的に成長するための機会というものは訪れない。私たちが成長するのは、自分のただ一人の配偶者に絶えず献身を新たにすることによる。私たちが成長するのは、完全な結婚を夢見ることをやめて、現在の自分の配偶者に思いやりをもって順応することによる。私たちが最もよく成長するのは、自分自身の成長を忘れて、相手のために心を尽くすことによる。私はむしろ次のように言いたい。成長に対する私たちの必要は、生涯の誓約を守る主要な理由にこそなれ、それを捨てる正当な理由にはならない」(95ページ)。
今のままでいる(コリントの信徒への手紙一 7章17節〜31節)
質問6 パウロがくどいほどに信者に対して、今のままでいるように勧めているのはなぜだと思いますか。彼の勧告を現代にあてはめるとどうなりますか。Ⅰコリ7:17~24
パウロがコリントのクリスチャンに求めているのは、自分にとって何が重要であるかを吟味することです。クリスチャンにとって最も重要なことは神の御心に従うことです。「大切なのは神の掟を守ることです」(7:19)。
質問7 パウロは「妻のある人」に「ない人のように」するように求めていますが、これは何を意味しますか。Ⅰコリ7:29~31(ヘブ11:13~16比較)
「神は人々をこの世に置かれた。食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだりすることは彼らの特権である。しかし、これらのこと、神をおそれる思いをもって行うときにのみ安全である。私たちは永遠の世界への思いをもって、この世に生きるべきである」(『心、性、個性』第1巻221ページ)。(マタ24:38参照)
コリントⅠ・7章は二種類の質問を提起します。ひとつは、独身で、結婚について考えている人たちに対するものです。
1.私は神から与えられた独身の賜物を神の国のために活用することができるだろうか(Ⅰコリ7:7、17、37)。
2.私の将来の伴侶は共にイエス・キリストに献身してくれるだろか(パウロの勧告によれば、再婚の相手は「主に結ばれている者」に限ります—39節)。
3.私の結婚はキリスト再臨への備えを妨げるものだろうか、それとも促すものだろうか(25~31節)。
もうひとつの質問は結婚している人たちに対するものです。
1.私はパウロの言うほどに自分の夫または妻を尊敬しているだろか(4節)。
2.私は自分の結婚に心から満足しているだろうか。私はキリスト助けによって、たとえ理想の相手でないにせよ、自分の夫または妻に忠誠を尽くしているだろうか(10~14節、マル10:2~9較)。
3.どうしたら私たち夫婦は「心おきなく」主に献身することができるだろうか(29、32~35節)。
結婚と性に関する聖書の見解(創世1:27、箴2:1 、2、16〜19、5:15~23、6:20~35、エフェ5:21~33)
パウロはコリントⅠ・7章において、コリント人のさらなる質問に答えています。彼の答えはクリスチャンの性についての理解を深める助けになります。しかし、この問題について理解するためには、ほかの聖句についても調べてみる必要があります。
質問8 パウロはエフェソ5:21~33において、どんな結婚観について述べていますか。それをコリントⅠ・7章の結婚観と比較してください。
質問9 今日、一般的に信じられている結婚と性についての誤りに対して、以下の聖句は何を教えていますか。
誤り1 結婚生活は退屈である(箴5:15~23)
誤り2 密通は賢くて魅力のある証拠(箴6:20~35)
誤り3 密通は人生に興奮をもたらす(箴2:1、2、16~19)
リチャード・フォスターは創世記1:27を解説して、次のように述べています。
「人間が男と女に造られているということは、人類の偶然的な取り合わせでもなければ、人類を保存するための利便でもない。否、それは真の人間性の中心をなすものである。私たち男と女は関係の中に存在する。人間の男女の特性、愛し愛される能力は、人間が神のかたちに造られていることと密接な関係がある。何と高尚な人間の性についての見解であろうか!……
聖書の見解は何と豊かで、完全なのであろうか!……偉大な書物について論じ合い、一緒に日没をながめる—これが最高の性というものである。なぜなら、男と女は親密な関係にあるからである。厳密に言えば、生殖的な性は全体像の一部であって、人間の性は単なる性交よりもはるかに大きな事実なのである」(『鍛錬された生き方を求めて—クリスチャンの金銭、性、権力観』92ページ)。
まとめ
私たちは神の召しに基づいて、神の与えられる賜物の力によって、またキリストの再臨に照らして、結婚するか、独身のままでいるかを決定しなければなりません。
第7課 反省の材料
第7課 反省の材料
ある作者は現代を「異常なほど個人主義的」な時代、「猛烈な個人主義」に満ちた時代と呼んでいます。彼らはさらに次のように言っています。「この時代を支配するものは、私の楽しみ、私の好き・嫌い、私の満足である。将来のことは忘れろ、子供のことも孫のことも、後に支払う者のことは忘れろ、規則を忘れろ、神を忘れろ。私のじゃまをするな。私にとって良ければ、私はそれを求め、今すぐ求め、今すぐ手に入れるのだ」(ウィリアム・ジョンソン『アドベンチズムの崩壊』24、28ページ)。
これと似た時代に住んでいたコリントのクリスチャンにとって、私たちがこれから学ぼうとしているパウロの勧告は衝撃的なものでした。たとえ自分では正しいと思っていても、またたとえ正しいことを行っていても、私はキリストに対して罪を犯しているかもしれないというのです!私たちは自分の良心に責められることのないようにするだけではなく、自分の「正しい」行為が他人の霊的献身を傷つけることのないように、十分注意する必要があります。これは現代に生きている私たちが真剣に考えなければならないことです。
偶像に供えられた食物(コリントの信徒への手紙一 8章1節~11章1節)
質問1 コリントⅠ・8:1~11:1を読んでください。ここで論じられている主要な問題は何ですか。
パウロはまず二つの問題について論じています。(1)クリスチャンは偶像に供えられた食物を食べるべきか(8:1〜8)。(2)クリスチャンは偶像礼拝にささげられた神殿の中で行われる祭りの食事に参加すべきか(8:9〜13)。パウロはここで、私たちの行動が人々に対する愛から出たものでなければならないと説いています。彼はこの主張の裏づけとして自分自身の模範をあげています(Ⅰコリ9章—10:31~11:1比較)。バプテスマと主の聖餐についての誤った見解を正したあとで(10:1~13—第8 課で扱う)、パウロは再び偶像と食物の問題にふれています。初めに、偶像の神殿における祝宴に参加することについて論じ(10:14~22)、次に、偶像に供えられた食物を食べることについて論じています(10:23~11:1)。
質問2 コリントのクリスチャンたちは再び、パウロの返答を求めて質問しました。コリントⅠ・8:1~13、10:14~30からすると、それらはどんな質問だったでしょうか。
自分たちの倫理的な悩みを解決しようとするコリントのクリスチャンの態度は、賞賛に値します。これは私たちの見習うべき模範です。自分自身の行動について正しい判断をしようと思うなら、私たちも祈りの心をもって神の御言葉を、またクリスチャンの友や先生の助言を求めるべきです。
コリント人の質問を理解するためには、偽りの神々を礼拝することが社会的、経済的生活の中心をなしていたことを知る必要があります。迷信に支配される時代にあっては、そのような礼拝は生活のあらゆる面にまで及んでいました。肉は特別な行事、たとえば結婚式、葬式、公の祭り、親睦の集い、神殿における祝宴のためのものであって、普通の食事には含まれていなかったことでしょう。したがって、一般に出回っている肉は異教の神々にささげられた犠牲の一部でした。こうした儀式においては、肉の一部だけが焼かれ、残りは祭司などが取り、余分なものは「肉市場」(Ⅰコリ10:25、新国際訳)で売られました。
食事と市場(コリントの信徒への手紙一 8章1節~9節、10章23節〜30節)
質問3 クリスチャンが偶像にささげられた食物の問題に直面するのはどんな場合であると、パウロは言っていますか。Ⅰコリ10:25、27
コリントのクリスチャンは市場と未信者の家庭においてこの問題に直面すると、パウロは考えていました。プルタルコス(紀元46~120)の一文は後者の場合について理解する助けになります。コリントの近くに住んでいたプルタルコスは、ある家での夕食について次のように記しています。「アリストンの調理人は、その料理の腕前だけでなく、食材のニワトリによっても来客の好評を博した。というのは、それがヘーラクレースへの犠牲として屠殺されたばかりなのに、まる1日たっているかのように柔らかかったからである」(ジェローム・マーフィ=オコナー『聖パウロのコリント』101ページに引用)。
質問4 このような状況においてクリスチャンはどんな態度をとるべきであるとパウロは教えていますか。Ⅰコリ8:1~9、10:23~30(ロマ14:13~23比較)。パウロの考え方の基礎となっているのは何ですか。
「世の中に偶像の神などはな」いのですから(Ⅰコリ8:4)、偶像にささげられた肉といっても、実際には汚れていません。したがって、市場で買った肉であれ、未信者の家で出された肉であれ、何ら気にする必要はないと、パウロは言っています。ただし、自分の行為がほかの人に及ぼす影響については考慮する必要があります。もし食事の途中で、その肉が犠牲の一部であったことがわかったなら、食べるのを控えるべきであると、パウロは言うのです。
パウロはこれらの聖句において良心を非常に重視しています。たとえ過度に敏感であったり、十分に啓発されていない良心であったとしても、私たちは人々に自らの良心に背く行為をさせてはならないと言うのです。パウロはさらに、もしだれかの良心が道徳的に中立のことがらについて「否」と言うなら、それに従うべきであると言っています。良心に背くことは悪となります。たとえ良心の基礎となっている基準が啓発される必要のある場合であっても、パウロは良心を犯すことを厳に戒めています。
すでに見てきたように、ここで言われているのは、偶像にささげられた肉かどうかをいちいち詮索する必要がないということでした。しかしながら、必要に応じて清い肉か汚れた肉かを見分けることは、今日でも適切なことです。
神殿での祝宴(コリントの信徒への手紙一 8章9節~13節、10章14節〜22節)
質問5 ほかのどんな場合に、コリントのクリスチャンは偶像にささげられた食物という問題に直面しましたか。Ⅰコリ8:10、10:14~22
これらの聖句は、セラピス神の祝宴に招待されたときなどに現実のものとなりました。「明日15日の9時よりセラピウム[セラピスの神殿]において開催されるわれらの主セラピスの祝宴に、あなたを招待いたします。カイレモン[主催者]より」。このような招待状が届いたらどうしますか。あなたはどのように対応しますか。それが「社交的な年中行事」だったらどうしますか。
コリントの遺跡はこの問題を理解する助けになります。アスクレピオスはギリシアの医術の神で、コリントにあるアスクレピオンの神殿で礼拝されていました。このアスクレピオン神殿は快適な場所にあり、広い庭と水泳用のプールを備えていました。いわばヘルスクラブと社交センターを兼ねたこの神殿には、立派な食堂が三つありました。もしここで異教徒の親戚の結婚式が行われ、ほかの[強い]クリスチャンがその祝宴に参加していたとしたら、「弱い」クリ
スチャンはどんな誘惑を受けるでしょうか(ジェローム・マーフィー=オコナー『聖パウロのコリント』英文161~167ページ参照)。
質問6 パウロの考えによれば、このようなときに偶像にささげられた肉を食べることは罪ですか(Ⅰコリ8:11、12)。パウロは自分の考えの裏づけとして何をあげていますか。
パウロによれば、私たちの神との関係は私たちの兄弟との関係と切り離して考えることができません。彼は私たちと神との関係という縦の関係を、私たちと兄弟との関係という横の関係に結びつけています。
「キリスト教の求めるところによれば、あなたには他人を誤らせる権利はないし、人間の良心という最も神聖にして繊細なものを犯す権利もない」(F・W・ロバートソン—ラルフ・P・マーチン『新約聖書を理解する—コリントⅠ、コリントⅡ、ガラテヤ』27ページに引用)。
偶像と偶像礼拝(イザヤ書44章9節~21節、コリントの信徒への手紙一10章14節〜22節)
質問7 イザヤは偶像礼拝について何と教えていますか。イザ44:9~21
パウロと同じく、イザヤも偶像礼拝が霊性を鈍らせる力を持つことを認めていました。「惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず『わたしの右の手にあるのは偽りではないか』とすら言わない」(イザ44:20)。
質問8 異教の神殿における祝宴に加わることに対して、パウロは何と述べていますか。Ⅰコリ10:14~22
クリスチャンは主の聖餐にあずかることによって、「一つの体」を象徴する「一つのパン」、すなわちキリストにあずかります。同様に、旧約聖書の供え物は深い意味を持った食物でした。それを食べることによって、イスラエル人は「祭壇とかかわる者」(Ⅰコリ10:18)となりました。偶像の祝宴もこれと同じであると、パウロは論じています。しかしながら、そのような祝宴にあずかる人は偶像にかかわるのではありません。偶像そのものは実在しないからです。むしろ、「悪霊の仲間にな」るということなのです(20節)。
質問9 新約聖書は偶像礼拝についての理解を深めることに関して何と教えていますか。コロ3:5、黙示2:14、20
「クリスチャンの名を持つ多くの者たちが、ほかの神々に仕えている。……創造主は私たちの最高の献身、第1の忠誠を要求される。神に対する私たちの愛を弱め、神への奉仕を妨げる傾向のあるものはすべて、それによって偶像となる」(『SDA聖書注解』第2巻1011、1012ページ)。
「異教徒の偶像が彼らを神から引き離し、彼らの目から神を隠してしまった。今日も同じである。サタンの巧妙な偽りによって、偽りの理論が神から離れさせる力となっている。人間の霊的理解力がサタンの論弁によって曇らされている。宗教は人を柔和で謙そんな者とする代わりに、人を宗教的狂信者、厳格で頑固な精神の持ち主にしている。彼らの思想が一貫していないからである。彼らの宗教思想が人を謙虚で熱心な神への信頼に導くことはない」(『原稿集』第12巻221ページ)。
弱い者と強い者(コリントの信徒への手紙一 8章1節~13節、10章14節~30節)
質問10 「強い」人々とはどんな人のことですか。Ⅰコリ8:1~6、10:14~30
強い人々は、偶像が実在しないという明確な知識を持っています。しかし、彼らはこの知識に基づいて、人々を誤りに導く方法で行動します。彼らは聖書の教理に関しては優秀ですが、実際的な敬けんさに関しては落第です。「強い」人々は自分で考えている以上に弱いのです。彼らは主の聖餐とバプテスマについての誤った理解(第8課参照)に基づいて、自分たちが無敵であり、神殿の祝宴に参加することができると考えます。
パウロの言葉は、教会員の中に2種類の「強い」人々がいることを暗示しています。「強くて弱い」人々は、自分の知識の惑わしに屈して、自分が正しいと「思う」ことを行い、それによってほかの人々を傷つけます。一方、「強くて強い」人々は、必ずしも悪い行為でなくても、ほかの人々を迷わせる可能性のある行為を控えます。
質問11 「弱い人々」とはどんな人のことですか。Ⅰコリ8:7~13、10:27~29
「弱い」人々がそのように言われるのには、二つの理由があります。第1に、弱い教会員は「弱い」あるいは過敏な良心を持っていて、不合理な理由に基づいて決断を下すからです。第2に弱い教会員はすぐに他人の例に見習ってしまうからです。
コリントには古いクリスチャンはひとりもいなかったので、「弱い人々」と言われているのはその中でも特に新しい人々だったと思われます。あるいは、昔の生活への誘惑と闘っていた人々だったかもしれません。「多くの神々の実在を信じることに慣れていた人々にとって、長年にわたる確固とした宗教的確信を捨てて、急に一神教を受け入れることがいかに困難であったかは、想像に難くない」(クリントン・E・アーノルド『やみの権力』95ページ)。
これらの聖句は、信仰が浅く、以前の悪い交わりや習慣に逆戻りする危険のある人々に対して特に配慮すべきことを、私たちに教えています。このような人たちを見守ってあげることは教会員の責任です。私たちは、たとえ「正しい」行為であっても、昔の生活への誘惑を強めるような行動は慎まなければなりません。
まとめ
クリスチャンとして人々を助けるためには、相手の霊的幸福についての健全な知識と感受性が必要です。私たちは周囲の人々、とくにまだ信仰の浅い人々を励ますようにつねに心がけるべきです。
第8課 主の食卓で
第8課 主の食卓で
「来週の安息日に聖餐式を行います」。教会の週報にこのような発表が載るとき、あなたはどのように感じますか。あまりうれしくない、否定的な気持ちになり、「また聖餐式か、早いなあ」という思いになりませんか。私たちの多くは、いや大部分の人は、主と共に食卓につくことに対してもっと深い感謝の念を抱く必要があるでしょう。
コリントのクリスチャンが聖餐式に関して重大な問題をかかえていたという事実は、私たちに一風変わった慰めをもたらします。コリントⅠには、一部の食いしんぼうの信者が貧しい信者を悩ませていたことが記されていますが、それに比べれば、私たちに感謝の念が欠けていても大した問題ではないように思うかもしれません。しかしながら、パウロは私たちに、これらのどん欲な人々と共に二階広間に上がり、主が最後の晩餐においてどうされるかをよく見るように招いています。注意深く観察し、耳を傾けるなら、私たちは全く新しい人となるはずです。
昔の罪(コリントの信徒への手紙一 10章1節~13節)
質問1 パウロはコリントⅠ・10:1~13で、キリスト教の儀式に関するどんな誤った考えを正そうとしていますか。
聖餐式とバプテスマに関する誤った考えを正すにあたって、パウロは神の民の四つの罪を「してはならない」見本としてあげています。彼はそれぞれの罪に対して、荒野におけるイスラエルの特定の経験をあてはめています。
偶像礼拝(7節)……金の子牛を拝んだこと(出エ32:1~6)
不品行(8節)……ペオルのバアルを拝んだことに対して災いが下ったこと(民数25章)
キリストを試みる(9節)……忍耐を失ったことに対して蛇の災いが下ったこと(民数21:4~9)
不平(10節)……コラ、ダタン、アビラム、10人の斥候(民数16、13、14章)
これらの出来事は「時の終わりに直面している」人々のための前例として書かれています(Ⅰコリ10:6、11)。パウロが終わりの時に言及しているために、その教えがなおいっそう私たちにふさわしいものとなっています。
質問2 昔のイスラエルとコリントのクリスチャンとの間には、どんな共通点がありましたか。昔のイスラエルと私たち自身の間には、どんな共通点がありますか。
古代イスラエルの罪がコリントのクリスチャンの経験と比較されています。パウロはすでに偶像礼拝に言及しましたが(8:1~13)、のちに再びそれに言及しています(10:14~22)。同じように、彼は不品行に対して警告し、彼らがそれに関して「高ぶっている」と言っています(5:2、民数25:6)。コリントのクリスチャンは、主の晩餐に加わることを偶像の祝宴に加わることと同一視することによって、「キリストを試み」ていました(Ⅰコリ10:14~22)。さらに、彼らはパウロの指示に逆らい(Ⅰコリ5:9、13)、パウロの指導に不平を述べることによって、古代イスラエルと同じ反逆の精神を表していました。
「神は、今日の神の民が、古代イスラエルの経験した試練を、へりくだった心と教えを受ける精神をもってふりかえ……るように望んでおられる」(『人類のあけぼの』上巻338ページ)。
偽りの確信と真の確信(コリントの信徒への手紙一 10章1節~13節)
質問3 偽りの霊的確信に関するどんな特徴がコリントに見られましたか。Ⅰコリ10:1~5、12
一部の信者は、自分たちが霊的に無敵であるという強力で誤った確信を抱いていたようです。彼らは、バプテスマと主の晩餐に加わることが霊的な安全をもたらすと過信していました。たとえ不道徳であっても(6:12~20)、大胆に偶像の祝宴に加わっていても(8:10、10:14~22)、自分たちは「大丈夫」だと信じていました。パウロはこの偽りの確信の正体を明らかにしています。彼は、イスラエル人も「バプテスマ」を受け、霊的食物と飲み物にあずかったが、「安全」からほど遠い状態であったと述べています。
質問4 真のクリスチャンの確信はどのようなものですか。Ⅰコリ10:13 (Ⅰヨハ3:18~22、5:11~13比較)
パウロはクリスチャンの確信の真の源を明らかにしています。それはバプテスマや主の晩餐に加わることにあるのではなく、むしろ神の不変の誠意と救いの計画にあります。真のクリスチャンの確信は、私たちが誘惑に弱い者であることを絶えず意識させる一方で、神が忠実なお方であって、喜んで弱い私たちを助けてくださるという希望を与えてくれるものです。
パウロは決してバプテスマと主の晩餐の儀式を軽視しているわけではありません。彼はクリスチャンに対して、バプテスマを自分の経験の中心的な出来事と見なすように勧めています(ロマ6:3、4、ガラ3:27、コロ2:12)。彼はまた主の晩餐を重要視しています(Ⅰコリ10:14~22、11:17~34)。エレン・ホワイトは主の晩餐について次のように記しています。「それは、われわれのためのキリストの大いなるみわざがわれわれの心のうちに生きつづけるための手段である。……キリストがご自分の民に会い、その臨在によって彼らを力づけられるのは、主が自らお定めになったこのような式においてである」(『各時代の希望』下巻131、137ページ)。
「たとえ強い信仰であっても、信じる対象が頼りにならないものなら、それはあなたを滅ぼす。しかし、たとえ弱い信仰であっても、信じる対象がしっかりしていれば、それはあなたを救う」(ポール・リトル『信仰を捨てる方法」112ページ)。
主の食卓で飢える(コリントの信徒への手紙一 11章17節~22節、27節~34節)
質問5 コリントの「愛餐」や主の晩餐はどのようにしてなされていたと思われますか。Ⅰコリ11:17~22、33、34
パウロの時代の家がコリントで発掘されたことがあります。それは上流階級のコリント市民の家で、教会として用いられていたタイプの家です。食堂は9人くらいしか座ることのできない小さなものですが、隣接する中庭には30人から40人の人が座ることができます。主人はごく親しい友人たちと食卓を囲み、ほかの人々は中庭に座っていたと思われます。
これは場所の違いですが、食物も違っていました。ローマの習慣によれば、食物は社会的な身分によって異なっていました。上流階級に属する主人の友人たちは、暇を持て余していたので、早くやって来て、ぜいたくな食物をたらふく食べることができました。一方、下層の人々、とくに奴隷たちは、まず自分の務めを果たしてから、二流の市民として教会の集まりに参加したことでしょう(ジェローム・マーフィー=オコナー『聖パウロのコリント』153~161ページ参照)。
このような光景はあまり気持ちのいいものではありません。この世の階級制度が主の食卓まで侵入していたのです。一部の人たちがぜいたくな食物をたらふく食べる一方で、ほかの人たちは争って空腹を満たさなければなりませんでした。
質問6 コリントのこのような状況を打破するために、パウロはどんな提案をしていますか。Ⅰコリ11:22、27~34
パウロは次のように言っています。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」(Ⅰコリ11:27)。パウロが言いたかったことは、信者が「ふさわしくないままで」主の晩餐に参加してはならないということでした。彼は自己吟味を要求しています(28節)。このような吟味をするとき、自分がいかに神の恵みを受けるにふさわしくないかがわかってきます。神がふさわしいと見てくださらない限り、私たちは決してふさわしい者となることができません。自分がふさわしくない者であることを認めるときに初めて、私たちは主の食卓において主の恵みを求めるようになります。自分がほかの人よりも主の食卓に近づくにふさわしい者であると感じるときに、私たちはそうするにふさわしくない者となります。
主の記念として、主が来られるときまで(コリントの信徒への手紙一 11章23節~26節)
質問7 あなたも最初の晩餐の席にいる気持ちになって、コリントⅠ・11:23~26を読んでください。
コリントにおける状況は非常に深刻で、彼らの儀式はもはや「主の晩餐」の名に値しなくなっていました(Ⅰコリ11:20)。彼らがもういちど集まって本当の主の晩餐を持つように、パウロは望んでいます。この目的のために、パウロは彼らを二階広間に案内し、そこで食卓を囲み、イエスが最初の聖餐式を執り行われるのを見るように招いています。この儀式はその本来の形式において、聖徒たちが小羊の婚宴に加わる日まで、何度も繰り返される必要があります(黙示19:7~9)。
質問8 パウロは読者に対して、二階広間における出来事から何を学ぶように望んでいましたか。
パウロの言葉を前後関係から見るときに、私たちは二階広間における出来事をさらに深く理解することができます。コリント人の自己中心的な態度(Ⅰコリ11:21、22)は、キリストの死と再臨という二つの出来事のゆえに改めなければなりません。パンと杯を分かち合われたキリストの態度は、コリント人の利己的な行いと対照的です。キリストはただ食物と飲み物を分かち合われただけでなく、ご自身をもささげられたのです!さらに、キリストの再臨は将来におけるさばきを意味します。そのとき、私たちは自分の行いについて説明しなければなりません(Ⅰコリ11:29~32—マタ25:31~46比較)。
一部の団体とは異なり、セブンスデー・アドベンチストは、パンとぶとう液が実際にイエスの体と血になるとは考えません。むしろ、それらを意味深い象徴と考えます。その理由は簡単です。イエスが二階広間で弟子たちと晩餐を共にされたとき、彼は肉体的に弟子たちと共におられました。弟子たちがパンとぶどう液を誤ってイエスと受け取ることはありえませんでした!しかしながら、これらの要素は重要な意味を持っています。なぜなら、それらは復活された私たちの主の体と血を象徴しているからです。キリストは私たちをご自分の食卓に招き、この儀式を執り行うことによって、私たちにご自分の臨在とゆるし、力と命を与えてくださいます。
二階広間の物語は目的を持っています。クリスチャンにとって、それを繰り返すことは単なる儀式ではありません。それはキリストの自己犠牲を表すもので、私たちに自己否定と献身を求めます。それは再臨の主をさし示しています。主は私たちに隣人の扱いに関して責任を問われます。
かぶり物をとること(コリントの信徒への手紙一 11章2節~16節)
質問9 コリントⅠ・11:2~16を読んでください。パウロがこのような勧告を書いたのはどんな理由からですか。
パウロは、コリントのクリスチャンが自分の伝えた「教え」に従っていることに対して賞賛を与えています。しかし、彼は3~16節において、一つの問題について明確にする必要があると考えています。コリントの女性信者の中には、自分たちはも従う必要がないと感じていた人たちがいたようです。彼女たちはかぶり物をかぶらないで公の礼拝に出席していました。パウロの第1
の関心はキリスト教の評判を守ることにありました。彼は、生まれたばかりのキリスト教が世の人々から慎みがなく、不道徳であると見なされるような服装によって「侮辱」(5、6節参照)されるのを望みませんでした。
質問10 コリントⅠ・11:2~16を正しく現代に適用するとどうなりますか。
ほとんどの世界では、かぶり物をかぶることはもはや守られておらず、したがってこれらの聖句は意味を持たないように思われるかもしれません。しかしながら、ここに見逃してはならない思想があります。それはどの社会にも、どの時代にも当てはまる原則について教えています。クリスチャンは慎み深く、礼儀正しくあるべきです。それによって、イエスについての福音が彼らの行いを見ている人々に支障なく受け入れられるのです。
女性が礼拝において祈り、預言していたことにも注意してください(5、13節)。パウロが異議を唱えているのは、彼女たちのそうした行いに対してではなく、ただ一部の女性がかぶり物をかぶらないでそうしていることに対してでした。
さらに、パウロは男女の相互依存の原則を乱すことに対しても不快感を表しています。彼ははっきりとした調子で次のように述べています。「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです」(Ⅰコリ11:11、12)。主の晩餐においては、富める者たちが貧しい者たちを辱めることがあってはなりません。同じように、男も女も自らの優位を主張して、「異議を唱え」合うことがあってはなりません(16節)。
まとめ
私たちは孤立してではなく、共同体の中にあって信仰生活を送っています。礼拝と聖餐式において、主の家族は共に集まります。復活されたキリストは、こうした場において、ご自分の家族がお互いに対して、また社会に対してどのように振る舞うかを関心をもって見守っておられます。これらの重要な集まりは、教会員が互いに一致と愛を表し、宣教の働きを進める機会となるべきです。
第9課 一つの体、多くの部分
第9課 一つの体、多くの部分
「神はご自分の民に多様性の中の一致を求められる。自然界の生命は一様性を嫌う。ぶどうの木の枝には、多様性の中の一致がある。一本の木にも多様性がある—二枚の葉が全く同じだということはまずない。この多様性が木全体を完全なものとしている。人体にも、目から足まで多様性がある。これらすべての部分が互いに依存し合って、完全な全体を形成している。人体を構成する多様性の中にも調和した作用があって、全体を支配する法則に従って働いている。目に見えない意識的な隠れた一致があって人体の機能をつかさどり、各部分を互いに協調して働かせている」(エレン・G・ホワイト「多様性の中の一致」『アドベンチスト・レビュー』1994年2月17日、14ページ)。
今回の課の研究では、多様な霊的賜物を持った私たちが、どうしたら調和した働きによってキリストの体を築き上げることができるかを考えます。
多様な神の賜物(コリントの信徒への手紙一 12章8節~10節、28節〜30節)
霊的賜物に関するパウロの論述はコリントⅠ・12章に始まり、14章まで続きます。彼は12章において多様な賜物と働きの必要性を強調しています。それらはすべて聖霊の統一力によって教会に与えられるものです。次に、彼は読者に「最高の道」(12:31)である愛を示し、どちらかといえば一時的なものである霊的賜物を永続的な愛と対比させています(Ⅰコリ13章)。そして、14章において、コリントで特に問題になっていた異言の賜物について語っています。今週は12章について、次の2週は13章と14章について学びます。
質問1 コリントⅠ・12章に出てくる三種類の賜物の目録を比較してください。同じものと異なるものについて調べてください。Ⅰコリ12:8~10、28~30
8~10節 | 28節 | 29、30節 |
1.知恵 | 1.使徒 | 1.使徒 |
2.知識 | 2.預言者 | 2.預言者 |
3.信仰 | 3.教師 | 3.教師 |
4.いやし | 4.奇跡 | 4.奇跡 |
5.奇跡 | 5.いやし | 5.いやし |
6.預言 | 6.援助 | 6.異言 |
7.霊を見分ける | 7.管理 | 7.異言の解釈 |
8.異言 | 8.異言 | |
9.異言の解釈 |
コリントⅠ・12章の目録は決して完全なものではありません。もっと詳しく言えば、ローマ12:3~8にある賜物(奉仕、勧め、施し、指導、慈善)、エフェソ4:11にある賜物(福音宣教者、牧者、教師)、それにペトロⅠ・4:10、11にある賜物(語ること、奉仕すること)も含まれるでしょう。しかし、パウロの目的は完全な賜物の目録を作成することにあるのではありません。パウロの望みは、コリントのクリスチャンが多様な聖霊の賜物にあずかり、それによって教会が成長し、福音を宣べ伝えるにふさわしいものとなることでした。教会員の間には、いつでもある程度の対立はあるものです。しかし、それによって宣教における一致が妨げられてはなりません。
「すべての人は完全な調和を求めるべきである。自分は考えの異なる人々、自分の計画に従って働かない人々と共に働くことなどできないと思ってはならない。すべての人が謙虚で、素直な精神を持つなら、困難は生じない。神は教会に種々の賜物を与えておられる。これらは重要な役割を持っていて、それぞれが一つの民をキリストの間近い再臨に備えさせる上でそれなりの役目を果たすのである」(『福音宣伝者』英文481ページ)。
賜物を与えられた者(コリントの信徒への手紙一 12章)
質問2 コリントⅠ・12章における霊的賜物に関するパウロの思想の中で、今日最も重要なものは何だと思いますか。
パウロは霊的賜物をめぐって困難に直面していたコリントのクリスチャンに対して書いています。私たちは当時のこうした問題に対するパウロの処置に感謝すべきです。そこに多くの役に立つ考えが教示されているからです。今日、特に重要な思想は次の二つです。
(1)神の教会のすべての信者に、賜物が与えられている(Ⅰコリ12:11〜13、27—ロマ12:4~8、エフェ4:7、16比較)。
(2)一つの体としての教会が最も健全なのは、各部分が神の計画に従って働いているときである(18節)。
これらの思想には重要な含みがあります。それは、神が教会で活用するために私たちに与えておられる賜物を発見する努力をするということです。「霊的な賜物……を熱心に求めなさい」(Ⅰコリ14:1)。
質問3 自分の霊的賜物を発見する三つの方法について考えてください。
イギリスの説教家チャールズ・スポルジョンはあるとき、ロンドンの救貧院に住む一人の婦人を訪ねました。婦人の部屋の壁に額縁に入った1枚の文書が飾られているのを見た彼は、その由来について尋ねました。婦人によると、それは彼女が世話をした、病弱なある老紳士からの感謝のしるしとして贈られたものでした。彼女はその紙片を額縁に入れ、壁に掛けていたのです。スポルジョンは説得の末に、やっとその文書を銀行に持って行き、支店長に見せました。支店長は驚いた様子で言いました。「私たちはその老紳士の遺産相続人を捜していたのです!」。婦人は貧しさのあまり、それが財産の譲渡証書であることに気づかなかったのです。
同じことが私たちについても言えないでしょうか。私たちも聖霊から与えられた財産に気づかないで、そのままにしてはいないでしょうか。
私たちが「故意に(あるいは怠慢から)自分の賜物を認めることも、発達させることも、活用することもしなければ、その程度に応じて、教会も本来のあるべき状態、あるいは神の意図された状態から離れたものとなる」(ドン・ジャコブセン「私にとっての霊的賜物の意味」『アドベンチスト・レビュー』1986年12月25日、12ページ)。
識別の賜物(コリントの信徒への手紙一 12章10節)
パウロは青年牧師テモテに対して、「神の賜物を、再び燃えたたせる」ように勧めています(Ⅱテモ1:6)。テモテと同じように、私たちも神からゆだねられた働きを再び燃えたたせる、あるいは再認識する責任を負っています。自分の賜物を見つけ出すうえで有用なのは、種々の賜物に関する聖書の記述について詳しく調べることです。
1997年第1期の教課は霊的な賜物の研究に当てられていました。もう一度、これらの研究を復習してみるとよいでしょう。すべての霊的賜物について研究する余地はありませんので、ここでは一例をあげるにとどめます。
現代の世界においては、さまざまな霊的現象が見られます。そこで、今日の教会は「霊を見分ける」賜物の出現を特に必要としています(Ⅰコリ12:10)。あなたも神からこの賜物を与えられているかもしれません。これを定義すると次のようになります—霊を見分ける賜物とは、ある教えや行動が本当に神によって霊感され、承認されたものであるか否かをはっきりと知るために、聖霊が特定の教会員に与えられる特別な能力のことです。
質問4 識別の賜物が重要なのはなぜですか。この賜物を用いるうえで助けになる指針はありますか。Ⅰヨハ4:1、Ⅰコリ12:3、Ⅰヨハ4:2、3
質問5 コリントⅠ・2:14、11:29と共に、へプライ5:14を読んでください。もし霊的に円熟した人がみな善悪を見分ける能力を持っているとすれば、教会が「霊を見分ける」賜物を持った人々を特に必要とする理由は何でしょうか。
何かを見分けるというと、私たちはすぐ他人の行動に目を向けがちです。コリントⅠ・11:31によれば、識別の賜物は本来、だれに向けられるべきなのでしょうか(コリントⅠ・12:10にある「ディアクリシス」というギリシア語名詞は、どちらかと言えばこの識別の賜物をより厳密に描写するもので、さばきの思想を意味するものではありません。コリントⅠ・11:31、14:29では、対応する動詞形の「ディアクリノー」が用いられています)。
質問6 コリントⅠ・14:29によれば、この識別の賜物は初期のキリスト教の礼拝においてどのように用いられていましたか。
質問7 へブライ4:12によれば、識別の賜物の基礎となっていたのは何ですか。
パウロ自身、使徒言行録16:16~18でこの賜物を用いているように思われます。
一つの体、多くの部分(コリントの信徒への手紙一 12章12節〜19節)
質問8 パウロは教会における「多様性の中の一致」をどのように例示していますか。Ⅰコリ12:12~19
パウロは読者によく知られた例話を用いています。それがギリシアやローマの文筆家によってよく用いられていたからです。これらの文筆家はイソップ寓話にある「胃袋と足」のことを知っていたようです。「胃袋と足が自分たちの有用性をめぐって議論していました。足が、『おれたちは強いんだぞ。何しろ、胃袋を持ち運んでいるんだから」と言うと、胃袋がやり返して言いました。『しかし、君たち、もしぼくが食物を消化しなければ、君たちは何にも運べないじゃないか』」(ロイド・W・デイリ『教訓のないイソップ』148ページ)。
パウロの例話はまた、ギリシアのいやしの神アスクレピオスを祭った、コリントのアスクレピオン神殿の特徴を表していたかもしれません。アスクレピオス神によって病気をいやされたと感じた人々は、いやされた部位をかたどった小さな粘土の像を神への供え物として携えて来ました。手、足、腕などの形をした多くの模型が、神殿の廃嘘から見つかっています。「切り離された」形のこれらの陳列された模型は、生きた、統一体としての体というパウロの例話に特別な効力を与えたことでしょう。
質問9 パウロがコリントⅠ・12:12〜19で強調しようとしたことは何だったと思いますか。
多くの人は「統一性」と「多様性」を相反する性質、両極端にある性質と考えます。統一性を強調ずれば、多様性が失われます。多様性を重視すれば、統一性が損なわれます。両者は微妙な均衡の上に保たれているのです。しかし、パウロの人体のたとえの素晴らしさは、そのような考えが霊的賜物や働きに関しては当てはまらないことを明らかにしている点にあります。あなたの教会に照らし合わせて、このことを考えてみればわかります。人体が驚くべき統一と信じがたい多様性を保っているように、キリストの体である教会も、理想的にはそうあるべきです。適度の多様性を育てなければ、かえって統一性が失われることになります(19節)。一つの体には多くの部分があります。さまざまな部分が一つに合わさって、一つの体が出来上がります(12節)。
「神の生ける教会は多くの部分を持つが、党派は一つも持たない」(ジェームズ・モファット『コリントの信徒へのパウロの第1の手紙』159ページ)。
見劣りのする部分を尊ぶ(コリントの信徒への手紙一 12章20節〜26節)
質問10 神はどんな考え方に従って、ご自分の体(教会)の各部分を配置しておられますか。Ⅰコリ12:20~26
電灯のコンセントはふつう、部屋の家具などの陰にあって見えません。一方、電灯はよく見える位置に飾られています。しかし、「目立たない」コンセントも、その重要性においては、よく目立つ電灯と少しも変わりません。コンセントの働きがなければ、まばゆいばかりの光も生まれてこないからです。電流が一方から他方に流れるためには、どちらも互いに欠かせない存在です。
質問11 見劣りのする部分を大切にする(Ⅰコリ12:23、24) ということから、どんな霊的教訓を学ぶことができますか。目立たないところで勤勉に働いている教会員に感謝の気持ちを表すためには、どうしたらよいですか。
残念なことですが、目立たないところでたゆまず働いている教会員が「表舞台」で働いている人たちからあまり感謝されていない場合があります。確かに、舞台裏ではいろいろな働きがなされなければなりませんが、そのような兄弟姉妹の働きを当然のことと考えてはなりません。さっそく今日、何らかの形で感謝の気持ちを伝えてみてはいかがでしょうか。安息日学校のクラスでこのことについて考えてみてもよいでしょう。
質問12 目立たない働きをしている人々を尊ぶことにはどんな霊的祝福があるとパウロは言っていますか。Ⅰコリ12:25、26
「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。……神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」(Ⅰコリ12:21、22、24)。
まとめ
パウロはコリントⅠ・12章において人体の統一性と多様性を強調し、それによって神の教会の中にも多様な霊的賜物と働きが必要であることを教えています。私たちはこの章に教えられているように、自分自身の賜物を発見し、それを活用するように努めるべきです。
第10課 最も大いなるものは愛
第10課 最も大いなるものは愛
コリントⅠ・13章の生き生きとした言葉は印象的です。世の作者は競ってこの章をたたえています。ある作者はそれを、「パウロの書いた中で最も偉大で、強力で、深遠なもの」と言い(アドルフ・ハーナック)、別の作者はそれを、「新約聖書全体の中で最も驚嘆すべき章」とたたえています。エレン・ホワイトは次のように勧めています。「主はご自分の民の関心をコリントⅠ・13章に向けるように私に望んでおられる。毎日この章を読み、そこから慰めと力を得なさい。……キリストのような愛は神から出るものであって、それがなければ、ほかのすべてのものは価値がないことを学びなさい」(『SDA聖書注解』第6巻1091ページ、エレン・G・ホワイト注)。毎日、このすばらしい章を味わい、学んだことを分かち合ってください。生活を変える愛の力を体験してください!
アガペーの愛(Ⅰコリ12:29〜31、13章)
質問1 新約聖書の愛の賛歌はどんな言葉をもって始まっていますか。Ⅰコリ12:29~31
「芸術家があらゆる技術に熟達し、あらゆる感覚に鋭敏になることを願うように、ぜひとも最高の賜物を熱心に求めなさい。とりわけ、芸術家が自分のあらゆる感情の隠れた源、また技を生み出す能力である自らのうちに息づいている純粋な審美眼を育てるように、愛を大事に育てなさい」(チャールズ・スポルジヨン『聖書の宝庫』第7巻196ページ)。
質問2 パウロはどこに「愛」の現れをはっきりと見ましたか。ロマ5:6~8、エフェ2:1~7
キリストの時代以前に生きた、偉大なローマの雄弁家キケロ(前106~43)は、次のような逸話を残しています。「わが友また客であるパキュビウスによる新劇の次の場面になったとき、劇場全体は歓呼に満たされた。王は、二人のうちのどちらがオレステスであるかを知らなかった。ピラデスは自らをオレステスであると名のり、死ぬのは自分であると言った。一方、本物のオレステスは自分こそオレステスであると主張した。観客は一斉に立ち上がり、拍手を送った」。キケロは次のように述べています。「これは作り話の一場面である。もしこれが現実の出来事であったなら、二人はどうしていたであろうか」(『ハーバード古典』第9巻16、17ページ)。
キケロはもちろん、この作り話が「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15:13)と言われたイエスの生涯と死において現実のものとなることを知りませんでした。パウロの愛の賛歌の基礎となっているのは、キリストの自己犠牲に表されたアガペーに関するパウロの理解です(パウロはコリントⅠ・13章において「愛」に対してアガペーというギリシア語を用いています)。キリストは友のためばかりでなく、敵、すなわち不信心な者また罪人(すべての人間はこの中に含まれる)のために死んでくださいました。キケロは何と言っていたでしょうか。
クリスチャンの考える愛は「十字架上に見られるあの特質である。それは全く価値のない者に対する愛、愛なる神から出る愛である。それは相手の価値の有無を全く考えないで人々に注がれる愛である。それは愛される者の魅力からではなく、愛する者の性質から出るものである」(レオン・モリス『コリントⅠ』改訂版、177ページ)。
愛と霊的賜物(コリントの信徒への手紙一 13章、特に1~3節)
パウロの愛の賛歌は三つの部分に分けられます。1~3節は愛と霊的賜物とを比較し、愛の大切さを強調しています—どんな霊的賜物であっても、もし愛がなければ無価値です。4~7節は愛のわざを描写し、どんなことが愛であり、どんなことが愛でないかを教えています。8~13節も愛と霊的賜物とを比較し、ここでは特に賜物の一時性と愛の永続性とを対比しています。
この偉大な章をさらに深く理解するためには、この章が書かれた背景について知る必要があります。パウロは10年も20年も社会から遠ざかった状態にいて、急にこの愛の賛歌を書いたわけではありません。パウロは特別な背景において、つまり分裂し、時には紛糾するコリントの教会に対してこの霊感の言葉を語っているのです。コリントⅠ・13章は理論のために書かれたものではありません。それは非常に現実的な問題を扱っていて、今日の私たちの生活にも訴えています。
質問3 愛がなければ「無に等しい」ものの中に、どんな賜物や行為があげられていますか。Ⅰコリ13:1~3
「最高の道」である愛は永遠です。なぜなら、神は永遠であられるからです。どんな賜物や行為も、愛のうちに表されなければあまり価値がありません。愛は賜物を活用させる推進力です。愛は私たちの心と関係がありますが、賜物は私たちの行いと関係があります。心にあるキリストの愛だけが、存在する者から行動する者へと私たちを変えることができます。
質問4 パウロが1~3節においてあげている賜物の中で、「異言」と「知識」はコリント人によって特に重要視されていたようです。愛のすばらしさを忘れてしまうほどあなたがとても重要視している賜物や長所が何かありますか。
才能のある伝道者が説教をするときは雄弁に愛について説くのに、人との交際においては冷淡で無関心なのを見ると、あなたはどんな気持ちになりますか。私たちはみな聖霊によって心を清められ、口で言うのと同じ愛を実践する力を与えていただく必要があります。そして、次のように祈りたいものです。「愛する神よ、私はあなたから与えられた賜物をお返しいたします。私はときどき間違った動機からそれらを利用しようとしていることがあります。利己的な野心によって聖霊の導きを拒んでいることがあります。どうか、カルバリーにおいて明示された無我の愛に よって心を清め、あなたから与えられた賜物を適切に用いることができるようにお助けください。アーメン」。
愛の働き(コリントの信徒への手紙一 13章、特に4~7節)
1~3節は、私たちがどんな動機から行動し、霊的賜物を使用しているかを吟味するように要求します。4~7節の要求はこれとは異なります。すべての人はこれらの短い聖句に示されている標準の前ですくんでしまいます。愛は自分の要求を押し通しません。しかし、私たちはよくそうします。愛はいらだったり、恨みを抱いたりしません。しかし、私たちは時々そうします。愛はすべてを望みます。しかし、私たちはよく希望を失います。私たちは真の愛の高遠さに感動しますが、それを実践するとなると失望します。
質問5 高遠な愛についてのパウロの描写(4~7節)は、私たちを失望させるものですか、勇気づけるものですか。
賜物や奉仕が聖霊によって与えられるように、愛も聖霊によって与えられます。私たち自身のうちには、このような高遠な愛を生み出す力はありません。霊的賜物もそうですが、私たちは愛を生み出すのではなく、受け取るだけです。パウロはコリントのクリスチャンに対して、自分のうちにない愛を生み出すように要求しているのではありません。彼が求めているのはむしろ、彼らの行動が神の最大の賜物である「最高の道」としての愛によって促されることです。愛についてのパウロの力強い言葉に対する正しい応答は、失望することではありません。正しい応答は、第一に、私たちがそのような愛を表すことのできない者であることを正直に認めることです。第二に、周囲の人々の祝福となることができるように、私たちの心を開いて、神の愛の賜物を受け入れることです。
質問6 4~7節に描かれている「愛のわざ」のうちで、あなたがいま最も必要としているのはどれですか。どうしたらそれを今日からあなたの生活に実践することができますか。
「愛は恨みを抱かない」というパウロの言葉に関連して、ルイス・スメデスは次のように述べています。「アガペーの愛の力は私たちに新たな出発をさせてくれる。愛は過去を忘れさせる。愛は過去を清算することなしに人を新たな出発に導く。……
私たちは記録をつけない愛によって力を得る。なぜなら、記録は十字架においてキリストによって清算されているからである。十字架から、神は新たな歴史へと進まれる。……
愛は私たちを、自分に害をなした相手に向かわしめる力である。なぜなら、愛はすべての道徳的な記録を帳消しにするからである。これが和解であり、この和解は愛の最終的な目標である和解である」(『適度な愛—ある現実主義者の見たコリントⅠ・13章』71、72ページ)。
愛の永続性(コリントの信徒への手紙一 13章、特に8~13節)
この偉大な章の最後の部分において、パウロは永続的な愛を、どちらかというと永続的でない霊的賜物と比較しています。霊的賜物の使用にぱかり心を奪われ、はるかに大事な愛を見落としていた人々にとって、これはすばらしい方法です。
質問7 8~13節によれば、クリスチャンは「一時的なもの」と「永続的なもの」に対してどんな態度をとるべきですか。どちらか一方にのみ心を奪われることはどんな結果をもたらしますか。マタ24:36~44比較
クリスチャンは一時的なものである霊的賜物を忘れるべきであると、パウロは言っているわけではありません。むしろ彼は、一時的な目的のために与えられた神の賜物を永遠の目的のために与えられた大いなる愛の賜物によって確実なものとするように言っているのです。私たちは神の永遠の王国を第一の目標とすべきです。しかし、このことは、現在のために与えられた賜物を軽視することを意味するものではありません。私たちは現在を神の将来に備えるために用いるべきです。それは、イエスの来られるときまで愛の奉仕をすることを意味します。
質問8 私たちの現在の知識は神の永遠の将来において与えられる知識に比べればどのようなものですか。Ⅰコリ13:9~12
コリントは質のよい青銅の鏡の産地として知られていました。パウロは、「鏡におぼろに映ったものを見ている」(12節)と言っていますが、これはおそらくゆがんだ像や間接的な像のことを言っているのではありません。キリストにおける神の啓示は決して不正確なものではありません。ただ私たちの理解力が足りないのです。
質問9 私たちが現在知ることのできるものは何ですか。エフェ1:18、19
クリスチャンは神の啓示以上のものを知ろうとしてはなりません。逆に、神が啓示してくださった尊い真理を低く評価したり、軽視したりしてもいけません。「知ることができるということは感謝すべきことである。しかし、うぬぼれてはならない。私たちの知っているのはほんの一部にすぎない。愛する者たちよ、私たちの見るものは遠くにあり、しかも私たちは近視である。神の啓示は豊かで、深遠であるが、私たちの理解力は弱く、浅い」(チャールズ・スポルジョン『聖書の宝庫』第7巻196ページ)。
職場と家庭におけるアガペーの愛(コリントの信徒への手紙一 13章)
愛についてのパウロの気高い言葉は、ともすれば的はずれになりがちです。彼が望んでいるのは、イエス・キリストにおいて表された神の永遠の愛が私たちの人間関係において実際に表されることです。私たちは聖霊の助けによって、これらの言葉を実際の生活に適用する必要があります。コリントⅠ・13章はただ静かに瞑想するためにだけあるのではありません。むしろ、それは多忙な毎日の生活の中で実践されるべきものです。
質問10 どうしたら私たちは神の愛によって変えられますか。どうしたら私たちの怒りと恨みを神の忍耐と優しさに変えることができますか。
この1週間、毎日コリントⅠ・13章を読むことによって、良い習慣を培うことができたと思います。
1.もう一度、4~7節を読んでください。
2.あなたを今、最も悩ませている愛の障害物(ねたみ、尊大さ、高慢、無礼など)を乗り越えることができるように祈ってください。
3.あなたが今、最も必要としている積極的な愛の特性(忍耐、親切など)が与えられるように祈ってください。
4.1日の終わりに、神の愛によって守られた経験について瞑想してください。神がキリストにおいて示してくださった大いなる愛を感謝しましょう。私たちのうちに生きてくださるキリストによってのみ、私たちは神の愛を表すことができます。
「私たちの多くの家庭に、頑迷で、闘争的な精神が見られる。批判的な言葉、不親切な行為は神に敵対するものである。尊大な命令、横柄で威圧的な態度は神に受け入れられない。……私たちの心はキリストの愛によって支配されなければならない。そうすれば、神の平和が私たちの家庭に満ちるであろう。砕けた、悔いた心をもって神を求めなさい。そうすれば、あなたは兄弟に対する思いやりに満たされるであろう。あなたは兄弟のような親切、慈愛、愛を身につけるようになる。慈愛がなければ、私たちは『騒がしいどら、やかましいシンバル』のようなものである。私たちの最高の告白はむなしく、不誠実なものである。しかし、『愛は律法を全うするものです』。もし忍耐強く、親切な愛、自らを誇ったり、自らの利益を求めたりしない愛を持たないなら、それは私たちに足りないところがあるということである」(エレン・G・ホワイト『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド」1888年2月21日)。
まとめ
十字架はご自分の敵のために働く神の大いなる愛を示しています。この愛は私たちを十字架に引き寄せ、人々に神の愛の光を輝かすために私たちを再び世に送り出します。コリントⅠ・13章について瞑想し、祈ることは、私たちがこの尊い愛の働きを推進するうえで大きな力となります。
第11課 価値のある礼拝
第11課 価値のある礼拝
1994年の夏以来、いわゆる「トロントの祝福」が多くのキリスト教会に広まっています。この運動の特徴は多様な現象、たとえば発作、「霊による休息」、異言、動物のような声、そして特に伝染性の笑いです。ロドニー・ハワード=ブラウンはこの「笑いのリバイバル」の指導者です。ハワード=ブラウンは自らを「聖霊の給仕人」と呼び、「聖なる笑い」の「新しい酒」を供しています。ハワード・ブラウンの酒を飲んだ牧師たちは、特異な身ぶりを用いて、人の頭の上で両手を上下に振ったり、「祝福」を受けたと思い込んでいる人に手で空気をすくってかけたりして、祝福をほかの人に伝えていきます。多くの人がそれによって祝福を受けると考えています。
もし聖霊が礼拝においてご自身を現されるとすれば、どんな結果が期待されるのでしょうか。会衆は自分たちが聖霊に導かれた礼拝に参加していることをどのようにして知るのでしょうか。聖霊が私たちの生活に臨在されることの真のしるしは何でしょうか。パウロの勧告は、今日の私たちにとって重要な意味を持つこれらの質問に解答を与えてくれます。
異言の問題(コリントの信徒への手紙一 14章、特に1~5節)
質問1 異言の賜物は預言の賜物とどのように比較されていますか。Ⅰコリ14:1~5
コリントⅠ・12~14章において、パウロは特に異言の賜物の誤用について憂慮しています。直接、問題にふれるのは14章においてですが、パウロの矯正的な言葉はその前からすでに始まっています。賜物に対するパウロの最初の言及は祝福に満ちたもので、それが後の議論に肯定的な性格を与えています。コリントのクリスチャンは「賜物に何一つ欠けるところがなく」(1:7)と言われています。パウロは12章で霊的賜物について述べていますが、その中で多様性の原則を強調しています。つまり、教会は多様な賜物を必要とします。一つの賜物がすべての人に要求され、それが信仰の基準となるのではありません(パウロによれば、コリントでは異言の賜物がそのように用いられていたようです)。
重要なことに、パウロは異言を賜物の目録の最後にあげています(Ⅰコリ12:10、28、30)。三つの目録のうちの二つにおいて、彼は異言の賜物を「異言を解釈する」賜物と結びつけています(Ⅰコリ12:10、28、30)。彼はのちに、公の礼拝において異言が語られるときにはいつでも、異言を解釈する賜物を用いるように要求しています(Ⅰコリ14:27)。最後に、異言の賜物を使用する際には愛が必要であると説き、異言の賜物が永続的ではなく一時的なものであると言っています(Ⅰコリ13章)。
質問2 コリントⅠ以外の数か所で、新約聖書は「異言を語る」ことに言及しています。それらの聖句は何を主眼としていますか。
マル16:14~18
使徒2:1~12
使徒10:44〜48
使徒19:1〜7
現代の異言をためす—(コリントの信徒への手紙一 12章〜14章)
質問3 霊的賜物の取り扱いに関連して、パウロはどんな原則によって偽りの霊の働きを識別するように教えていますか。Ⅰコリ12~14章
コリントⅠ・12~14章において、パウロはコリントにおける異言の賜物の使用に関して指示を与えています。多様性の原則(12章)と愛の律法(13章)に加えて、パウロは八つの有益な指示を与えています。今日はそのうちの三つについて、明日は残りの五つについて考えます。
1.預言の賜物を重視すべきです(Ⅰコリ14:1、5—12:23〜31参照)
質問4 パウロが預言を高く評価しているのはなぜですか。Ⅰコリ14:1~5、23~25
質問5 黙示録は、終わりの時代の神の民のうちに預言の賜物が見られることについて何と教えていますか。黙示12:17、19:10
預言の霊的賜物は単に将来を予告するだけのことではありません。それはまた、神の民に神の励まし、教え、勧告の言葉を伝えることでもあります。この賜物は、教会がキリスト中心かつ聖書中心と認める確実な方法で現され、キリストの体である教会の霊的成長、一致、建設に役立ちます。パウロがコリントのクリスチャンに対して特にこのような賜物を求めるように勧めているのも不思議ではありません。
2.公の礼拝で用いられる霊的な賜物は人々を造り上げ、励ますものでなければなりません(Ⅰコリ14:1~5—13章比較)
3.公の礼拝は理解できるものでなければなりません(Ⅰコリ14:6~12)
質問6 イエスによれば、クリスチャンの祈りは異邦人の祈りとどこが異なっていますか。マタ6:7、8
偽りの霊的賜物を警戒しすぎるあまり、真の霊的賜物を十分に受けられなくなることがあるのは確かです。しかし、サタンの偽りはこれまでになく巧妙になってきています。私たちは聖霊によって真の霊的識別力を与えられる必要があります。
エレン・G・ホワイトの次の言葉に留意してください。「神からつかわされた牧師であると言って、あちらこちらと安息日について説いて回る者たちがいるが、彼らは真理を虚偽と混ぜ合わせ、多くの一貫性のない教えを説いているのである。サタンはこのような者たちを用いて、賢明で理解力のある未信者をうんざりさせる。これら偽教師たちは賜物について多くのことを語り、しばしば賜物が特別に用いられます。彼らは荒々しい、興奮しやすい感情に身をゆだね、自ら異言の賜物と呼ぶ理解できない音声を発する。一部の人々はこれらの奇妙な現象に魅了されているように思われる。奇妙な霊がこれらの人々を支配していて、それは反対する者を圧倒する。聖霊はこの働きの中にはおられないし、そのような働きをする人たちに援助を与えられない。彼らは別の霊に従っている」(『教会へのあかし』第1巻414ページ)。
現代の異言をためす—2(コリントの信徒への手紙一 14章)
4.公の場で用いる場合には、異言の賜物には解釈が必要です(Ⅰコリ14:5、13、27、28) 。
5.異言を語る人は自制心のある人でなければなりません(Ⅰコリ14: 13~19、28)。
6.解釈の伴わない異言の賜物は伝道を妨げるものです(Ⅰコリ14:16、17、20~25)。
「この世でなされねばならない大きな働きがある。男も女も、異言の賜物や奇跡のわざによってではなく、十字架につけられたキリストについての説教によって回心すべきである。世界を良くする努力を遅らせてはならない。何かすばらしいことが行われるのを待っていてはならない。高価な器具が備えられるのを待っていてはならない」(『私の今日の生活』219ページ)。ある人たちは、「わけのわからないことを話して、それを異言と呼んでいるが、それは人間にも、主と全天にもわからないものである。このような賜物は、大いなる偽り者の助けによって、人間が作り出したものである」(『教会へのあかし』第1巻412ページ)。
7.異言を語る人の数は限定されるべきです(Ⅰコリ14:27)。
パウロはコリントⅠ・14:23で、「皆が異言を語っている」礼拝を批判しています。この状況は仮定的なものですが、あるいはコリントにおける異言の誤用を表しているのかもしれません。パウロは次のように規定しています。
(1)2人だけ(特別な場合は3人)が異言を語るべきです。
(2)彼らは一斉にではなく、順番に語るべきです。
(3)異言で語られたことは解釈されるべきです。
パウロは預言の賜物についても同じような指針を与えています(29~33節)。
8.クリスチャンの礼拝には、秩序と平和が見られなければなりません(Ⅰコリ14:33、40)。
質問7 霊的賜物についてのパウロのほかの目録の中に、異言の賜物が含まれていますか。ロマ12:6~8、エフェ4:11
パウロにとって、異言の賜物は絶対に必要なものでもなければ(Ⅰコリ12:30)、禁じられるべきものでもありませんでした(14:39)。
コリントにおける異言の賜物(コリントの信徒への手紙一 14章)
質問8 次の二つの見解のうち、どちらが正しいと思いますか。その理由を説明してください。
1.コリントⅠにある異言の賜物は、使徒言行録にある異言の賜物、つまり学んだことのない人間の言語を話す、聖霊によって与えられた能力と同じものです。パウロは過度に強調され、誤用されていたこの賜物に関して、コリント人に勧告を書き送っています。コリントⅠ・14章は使徒言行録2章に従って解釈されるべきです。
2.コリントⅠ・14章にある異言の賜物は、聖霊によって与えられる、恍惚的な発生の賜物です。パウロは公の礼拝におけるこの賜物の使用を肯定し、同時に規制しています。この賜物はコリントにおいて一時的に用いられたものであって、現代の異言とは異なるものであったかもしれません。コリントⅠ・14章を使徒言行録2章と比較する場合には、その前後関係に十分注意を払う必要があります。
故ゲルハルト・ハーゼルは、その著『異言—聖書の異言と現代の異言』において、第1の見解を支持しています。ローランド・ヘイグスタッドも、『扉をたたく音』の中で異言の問題を扱っています。彼は公平な立場で議論を進めていますが、コリントにおける異言の賜物の性質に関しては不明であるとしています(53~77ページ)。しかし、彼は次のような注目すべき発言をしています。この賜物の性質が不明であったとしても、「そのことは決して、現代の異言が聖書的か非聖書的かを判断する基準がないことを意味するものではない」(69ページ)。火曜日の研究のところで引用されていたエレン・ホワイトの言葉(『教会へのあかし』第1巻412ページ)に留意してください。
パウロが与えている改善策について熟考することに比べれば、コリントにおける異言の賜物が何であったのかを決定することは、それほど重要でないかもしれません。私たちはこれらの改善策によって誤用や偽りを判断し、公の礼拝を評価する基準について知ることができます。
ふさわしい礼拝(コリントの信徒への手紙一 14章)
質問9 コリントⅠ・14:26~33は、最も初期の礼拝についての記述であると言われています。この記述から、当時の礼拝についてどんなことがわかりますか。
公のキリスト教の礼拝に関するパウロの記述には、二つの重要な特徴が明らかにされています。
1.積極的な礼拝への参加(Ⅰコリ14:26)
実際には、それは手にあまるほどの状態になっていたかもしれません。たとえそうであっても、広く参加を呼びかけることは重要なことです。礼拝において、あなたは傍観者ですか、それとも参加者ですか。
2.「外来者」に対する積極的な関心
質問10 解釈の伴わない異言は「外来者」に対してどんな消極的な効果を及ぼしたと思われますか。Ⅰコリ14:13~17、23
質問11 預言は「外来者」に対してどんな積極的な効果を及ぼしたと思われますか。Ⅰコリ14:24、25
パウロはキリスト教の礼拝に参加する訪問者を心から歓迎しました。彼の望みは、そのような訪問者が「皆から罪を指摘され」(24節)、共に神を礼拝するようになることでした。私たちも礼拝に対してそのような目標を持っているでしょうか。私たちの礼拝が未信者に神を礼拝する喜びを伝える機会となるように努力しているでしょうか。私たちの礼拝が未信者にも歓迎されるものとなるように計画しているでしょうか。それとも、礼拝は自分たちだけの必要を満たす場であるとお考えでしょうか。
「われわれの集会は特に興味深くなければならない。それらの集会はまさに天のふんい気をかもし出すものでなければならない。ただ時間をつぶすような、無味乾燥な長たらしい説教や、形式的な祈りをしてはならない。すべての者は自分のなすべき事をむだなくする用意をしていなければならない。そして、自分のなすべき義務が終わったら、その集会を終えなければならない。こうして集会の終わりまで興味を保たせることができるであろう。これが神に受け入れられる礼拝をささげることなのである。礼拝は興味深く、魅力のあるものでなければならない。そして無味乾燥な形式に退化させてはならない。われわれは1分ごとに、時間ごとに、また、日ごとにキリストのために生活しなければならない。そうする時キリストはわれわれの内に住まわれるのである。そして、われわれが共に会う時、キリストの愛がわれわれの心に宿り、さばくの中の泉のようにわきいで、すべてのものを生きかえらせ、滅び行く人々にいのちの水をしたい求めさせることができるようになるのである」(『クリスチャンの奉仕』305、306ページ)。
まとめ
パウロは霊的な賜物について教えていますが、これはクリスチャンが現代の霊的賜物を評価する上で重要な基準となります。パウロの教えはまた、私たちが聖霊によって公の礼拝を刷新するように求めています。
第12課 復活の現実
第12課 復活の現実
人間は不死に対する強いあこがれを持っています。アリゾナ州スコッツデールに本部を置くCBJ (創始者であるチャールズ、バーナディーン、ジェームズの頭文字)という団体は、会員のために永遠に生きる訓練を行っています。CBJの会員はほとんどが大学教育を受けた30代と40代の人たちで、毎年かなりの金額を支払って、不死を追求する「修養会」に出席しています。彼らはそこで「永遠に生きるために意志を働かせる」ことを教えられ、「細胞の目ざめ」と肉体の不死を自覚します。18か国に1万2000人の会員を持つこのCBJは、急速に成長しています。
コリントのクリスチャンの中にも、これと同じ不死を求める思いから、復活に対する彼らの考え方を根本から変える人たちがいました。彼らは「死者の復活などない」(Ⅰコリ15:12)と主張して、別のところに不死を求めようとしました。パウロは死者の、将来における肉体的復活を論証することによって、この考えを正そうとしたのでした。
最も重要なこと(コリントの信徒への手紙一 15章、特に1~11節)
質問1 将来の復活に対するクリスチャンの望みの基礎として、パウロはどんな出来事をあげていますか。Ⅰコリ15:1~11
コリント人への第1の手紙が終わりに近づくと、パウロはもう一つの難題、すなわち復活を取り上げます。「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(Ⅰコリ15:12)と、彼は問うています。
このような考えがどうして出てきたのかはわかりません。それは、霊魂が不滅であって、肉体の復活などありえないとするギリシア思想への回帰であったかもしれません。あるいは、復活の思想を精神的意味に解釈する立場であったかもしれません。彼らは、キリスト教信仰への回心は一種の「復活」であり、バプテスマを受けた者は新しい命に生きるために復活したのであると信じていました。(ロマ6:1~4)。このような考えに基づいて、彼らは復活がすでに起こったのであると主張しました。
パウロの応答は十分なもので、私たちはこの徹底的な論述に恩を受けています。どれだけ多くの人々がクリスチャンの希望に対するパウロの深い確信によって励まされてきたことでしょう。
質問2 パウロが描いている復活された主についての記述(Ⅰコリ15:5~8)は、福音書のどこに言及されているものですか。マタ28章、マル16章、ルカ24章、ヨハ20、21章比較
復活後におけるキリストの出現についてのパウロの記録は、おそらく新約聖書の中で最初のもので、貴重な発見物と言えます。それは「五百人」に現れたことに言及しています(これはマタイ28:16~20と同じ出来事でしょうか)。福音書には書かれていないことですが、それはヤコブに現れたことに言及し、またルカ24:34に短くふれられているように、ケファ(ペトロ)に現れたことに言及しています。パウロは自分自身も復活された主を見たと言っています。彼の言葉は、イエス・キリストが本当に死から復活されたことの確かな証拠となります。
ヤコブに現れたとあるのは、おそらく主の兄弟で、のちに立派な指導者になったヤコブのことだと思われます(使徒15:13~21)。キリストが働きを開始された当初、彼はまだ信者ではありませんでした(ヨハ7:5)。キリストがお現れになった結果、彼は信者になったのかもしれません(使徒言行録1:14では、イエスの兄弟たちがすでにほかの信者と共に礼拝しています)。
復活がなければどうなるか(コリントの信徒への手紙一 15章12節〜19節)
質問3 職場の同僚から、「死んだクリスチャンが生き返ると本当に信じているのですか」と言われたとします。あなたは何と答えますか。パウロはコリントⅠ・15:12~19で何と言っていますか。
パウロはクリスチャンの回心者に語っているので、復活についての彼の議論は回心者の必要に適応したものになっています。もし信者の将来における肉体的な復活がなければ、次のようになると、パウロは主張しています。
1.キリストは復活しなかったことになります(13~17節—前の聖句にすでにパウロの反証が述べられています)。
2.パウロ(また、ほかの宣教者たち)の働きは無駄で、偽りであったことになります(14、15章)。
3.彼ら(回心者)自身の信仰はむなしく、今もなお罪の支配下にあることになります(14、17、19節)。
4.はっきり言って、眠りについた信者には何の希望もないことになります(18節)。
このようなことは読者にとって何の利益にもならなかったはずです。パウロが望んだのは、読者がこのことを認識することによって自分の考えを改めるようになることでした。
洪水のようなテレビ番組や映画が、巧妙で偽りの方法で、世に輪廻転生説の教えを宣伝しています。この教えは東洋の諸宗教、古代の伝承、ニューエイジ思想の入り混じったもので、人間の生命に終わりはなく、絶えず再現すると説きます。用心していないと、この輪廻転生説はクリスチャンの希望に対する私たちの信仰を堕落させる危険性があります。輪廻転生説の思想は、復活の思想と真っ向から対立するものです。
反対に、非宗教的な人本主義に立って、死が終局であって、それ以外の何ものでもないという考えを堅持する人たちがいます。ほかにも、多くのクリスチャンの兄弟たちが、霊魂不滅と永遠に燃える地獄についての見解に基づいて、聖書的でない教えを受け入れています。
初穂としてのキリスト(コリントの信徒への手紙一 15章20節〜34節)
質問4 パウロはなおも信者の将来における肉体の復活を説いて、キリストを「初穂」(20節)と呼んでいます。これは何を意味しますか。
パウロは旧約聖書にある、収穫物の初穂のささげ物に言及しています。「わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。祭司は、それを主に受け入れられるよう御前に差し出す」(レビ23:10、11)。キリストは「初穂」、すなわち将来の収穫についての約束です。キリストが死から復活されたということは、彼にあって死んだすべての信者も同じように復活するということの保証です。収穫はキリストにおいて始まりましたが、まだ終わっていません。
質問5 パウロが「死者のため」のバプテスマに言及しているのはなぜだと思いますか。Ⅰコリ15:29
コリントⅠ・15:29については、いろいろな説明がなされています。しかし、この聖句を言葉と文脈から注意深く検討すると、次のような解釈が成り立ちます。すなわち、コリントの住民のあいだには明らかに、死者に代わってバプテスマを受ける習慣があり、パウロはこの事実を用いて復活についての自分の論述を裏づけようとしたのです。彼らが死者に代わってバプテスマを受けていたという事実は明らかに、彼らが何らかのかたちでの死者の復活を信じていたことを示しています。パウロはすでにそのような信仰を持っていた彼らを、キリストとキリストに従う者たちの輝かしい復活を信じる信仰に再び導こうとしたのでした。
パウロは決して死者の代わりのバプテスマを支持しているわけではありません。それはコリントⅠ・15章の文脈また聖書全体と相いれないものです。バプテスマには、個人の意志による罪の悔い改めとキリストに対する信仰が要求されます(マル16:16、使徒2:38〜41、エゼ14:14、16参照)。同様に、イエスが金持ちとラザロの話をされたのは、霊魂不滅の誤った教えを支持するためではなく、来世への備えをするのはこの世においてだけであることを教えるためでした〔ルカ16:19~31参照〕。
質問6 復活についての正しい信仰はクリスチャンの生き方にどんな影響を及ぼしますか。Ⅰコリ15:32~34
「終末」に対する私たちの理解は、今の生き方に影響を及ぼします。もし勝ち取るべき復活も天国も、避けるべき地獄もないのなら、「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」(イザ22:13)と言って、一生を終えるのもよいでしょう。しかし、もし復活を信じるのなら、信仰的な交わりをし(Ⅰコリ15:33)、誠実に生きる必要があります(34節)。この世の終わりを正しく理解するなら、今どのように生きるべきかがわかってきます。
朽ちない体(コリントの信徒への手紙一 15章35節~50節)
「復活などない」と言う人たちは、次のように主張したかもしれません—このような罪深い、醜い肉体が復活することなど、だれが望むものか。彼らにとって、復活のいのちは苦しみに満ちた現在のいのちを長びかせるだけのものでした。
質問7 パウロは現在の体と復活の体との相違を例示していますが、あなたはどちらが望ましいと思いますか。Ⅰコリ15:35~41
続く42~50節において、パウロは現在の体と復活において神から与えられる体とを対比しています。復活するときには、神の聖徒たちは肉体を持っています—来世は肉体を離脱した霊の世界ではありません! しかし、来世における肉体には現世のような限界や苦痛がありません。神の用意しておられる世界は全く異なった世界です。42~50節で強調されている相違点に注目してください。
現在のいのち・体 | 復活のいのち・体 |
朽ちるもの | 朽ちないもの |
卑しいもの | 輝かしいもの |
弱いもの | 力強いもの |
自然の体 | 霊の体 |
最初のアダム | 最後のアダム |
地に属する者 | 天に属する者 |
これらは、たとえて言えば、ガタガタの中古車と最新型の新車のどちらがほしいかを聞かれるようなものです。答えはわかりきっています。パウロの目的も、まさにこれと同じでした。彼は、一部の人たちが忘れていた復活のすばらしさを再認識させようとしたのです。
「わたしは、彼ら(死んだクリスチャン)がすでにキリストのような、あるいは、神に選ばれた天使たちのような、完全な栄光に入っているとは考えていないことを、はっきり申し上げる。わたしは信仰の上から、そうは思わないのである。なぜならば、もしそうであるとすると、肉体の復活を説くことはむだであるとしか思われないからである」(ウィリアム・ティンダル、『各時代の大争闘』下巻298ページに引用)。
「死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリントの信徒への手紙一 15章51節~58節)
質問8 現在のいのちから復活のいのちへの劇的な変化はいつ起こりますか。Ⅰコリ15:51~57
パウロは読者に、現在の朽ちるべき人間の体が復活の朽ちない体に変えられる時について語っています。クリスチャンが朽ちるべき、死すべき体を脱ぎ捨てて、朽ちない、不死の体を着ることに見られる最高潮の変化は、「最後のラッパが鳴る」ときに起こります(Ⅰコリ15:52、53—Ⅰテサ4:13~18参照)。信者が復活の体を受けるのはキリストの再臨においてです。
質問9 パウロは復活に対する力強い確信をしめくくるに当たり、再びクリスチャンにふさわしい生き方をするように訴えています。彼はどんな言葉によって、クリスチャンに復活を待ち望む民にふさわしい生活をするように勧めていますか。Ⅰコリ15:58
質問10 以下の聖句は、復活という祝福に満ちた希望を待ち望むクリスチャンにどんな応答を求めていますか。
テト2:11~14
使徒24:15、16
フィリ3:10
Ⅰペト1:3~9
「地がよろめき、いなずまがひらめき、雷がとどろく真っただ中で、神のみ子の声が、眠っている聖徒たちを呼び起こす。イエスは義人たちの墓をごらんになり、それから両手を天のほうへ上げて、『目ざめよ、目ざめよ、目ざめよ。ちりの中に眠る者たちよ、起きよ』と呼ばれる。地の全面にわたって、死者はその声を聞き、聞く者は生きる。そして、全地に、あらゆる国民、部族、国語、民族からなる大群の足音が鳴り響く。『死よ、おまえの勝利は、どこにある
のか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』と叫びながら、彼らは死の獄屋から、不死の栄光をまとって現われる(コリント第Ⅰ・15:55)。そして、生きていた聖徒たちとよみがえった聖徒たちとはともに声をあわせて、勝利の長い喜びの叫びをあげる」(『各時代の大争闘』下巻423、424ページ)。
まとめ
復活についての聖書の教えは、人間の必要とかけ離れた、無意味な教理ではありません。むしろ、それは神の計画された方法に従って、不死に対する私たち人間の願望を満たす者です。また、なつかしい人々との再会の日を待ち望む私たちに、復活の主に忠実に従う力を与えるものです。
第13課 賛美と約束
第13課 賛美と約束
毎年、春になると、北に向かう何十万羽というカナダヅルが、米国ネブラスカ州のプラット川で羽を休めます。これらのツルの保護にあたる生物学者には、夜間に川に集まってくる何万羽ものツルを見る目が必要です。そこで、ネブラスカ州のエアー・ナショナル・ガード(航空自衛隊のような組織)の出番となります。赤外線を装備した航空機には、ツルの姿が「見える」ので、ツルの習性を調べることができるのです。
この暗黒の時代にあって、クリスチャンにもまた、肉眼では見えない現実、つまり私たちの魂や、神が与えて下さる戦いの武具に襲いかかる「夜の戦い」を見る視力が必要です。神を賛美し、神の約束に頼ることは、クリスチャンにとっての「赤外線感知器」です。それによって、私たちは霊的世界を見ることができます。コリントには様々な問題があったにもかかわらず、パウロは神を賛美し、神の恵みについての力強い約束を分かち合おうとしています。そうすることによって、彼は私たちに見えないものを見る「夜間視力」を与えてくれています。どんなに暗い夜であっても、私たちには光を見る能力が与えられています。
神は真実な方(コリントの信徒への手紙一 1章4節~9節)
パウロは『コリントの信徒への手紙Ⅰ』を書き始めるに当たって、自分が手紙の中で取り上げようとする問題、すなわち分裂、霊的優越感、不道徳、信者間の訴訟、主の晩餐の乱用、霊的賜物の誤用、復活についての誤解などについて十分知っていました。彼がこの手紙を書いたのは、さまざまな問題に直面しているクリスチャンに正しい物の見方を示すためでした。彼は神を賛美することによってこれらの問題を解決しようとしています。
質問1 パウロは再臨に目を向け、その日にはコリントの悩める信者たちも「非のうちどころのない者」とされると言っています。パウロのこの確信はどこから来ていますか。Ⅰコリ1:4~9
コリント教会にある様々な根深い問題を見て、パウロは自分の働きが無意味であったという思いにかられたにちがいありません。しかし、彼は自分自身の判断を神の判断にゆだねています。なぜなら、彼はコリント人に対する神の祝福と恵みを否定することができなかったからです。彼がどのような思いにかられたにしても、コリント人に対する神の恵みと賜物は、神が彼らの価値を認めておられたことの確証でした。
このような確信があったからこそ、パウロは勇気と希望をもってなおも彼らに勧告と改善を与え続けることができたのであり、またコリントのクリスチャンが神の永遠の王国の市民として選ばれているのだと信じることができたのです。「神は真実な方です」。
パウロは神の真実に対する賛美と確信の理由を述べています。たとえ人々が反逆と背信に陥ることがあっても、神は初めから信者と共にいて(9節)、現在も彼らを支え(7節)、キリストの再臨まで彼らを力づけると約束しておられます(8節)。
質問2 新約聖書にはこれと似たどんな約束が与えられていますか(フィリ1:6、Ⅰヨハ3:1~3)。ほかにあれば、付け加えてください。
「私たちは自分が神に受け入れられていることの証拠を自分のうちに求めるべきではない。私たちがそこに見いだすのは自分を失望させるものだけである。私たちの唯一の希望は、『信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ』ることにある(ヘブ12:2)。イエスのうちには、希望と信仰と勇気を吹き込むあらゆるものがある」(『教会へのあかし』第5巻199、200ページ)。
一切はあなたがたのもの(コリントの信徒への手紙一 3章21節~23節)
質問3 コリントのクリスチャンは特定の教師に追従していました。パウロはこのような党派的な考えの代わりにどんな考えを持つように彼らに勧めていますか。Ⅰコリ3:21~23
コリントⅠ・3:21~23ほど、クリスチャンの特権について堂々と述べている聖句はあまりありません。パウロのこの楽天的な言葉の背景に何があったのでしょうか。彼は、コリントのクリスチャンたちが自分の好きな教師の旗の下に団結しているという知らせを聞いていました(Ⅰコリ1:11)。彼らは自分たちの一致を犠牲にして、それぞれの選んだ指導者に忠誠を誓っていたのです。そして、優越感をもって、ほかの指導者に従った人たちを見下していました。
どんな悪いことにも何か良いところがあるものです。パウロは神学的な派閥を、クリスチャンの特権について教える材料にしようと考えました。彼は賢明にも、コリント人の主張を逆手に取ります。彼らは、「私はだれそれ先生につく」と主張しました。しかし、パウロは言いました。「それは全く逆である。あなたがたが特定の先生につくのではない。その先生が、またすべての先生があなたがたにつくのである」。彼らは特定の教師に追従することによって、クリスチャンとしての特権を失っていました。
質問4 「一切のもの」(「すべてのもの」)という表現は、聖書の多くの約束に見られるものです。次の約束について調べてください。
『コリントの信徒への手紙Ⅰ』で明らかになるように、「一切のもの」に対する要求は乱用される可能性がありました(Ⅰコリ6:12、10:23参照)。パウロによれば、すべてのものが信者のものであるのは、彼らがキリストのものだからです。キリストに属する人たちにとって、パウロの約束は広範囲に及ぶものです。パウロの言う「一切のもの」が広い領域に及ぶことに注意してください。
内住される聖霊(コリントの信徒への手紙一 6章19節、20節)
パウロがコリントⅠで取り上げている問題の中には、性的不道徳のようにむずかしい問題があります。しかし、彼は神の恵みと力をはっきりと理解することによって、むずかしい状況においても霊感を受けることができました。彼は目に見えないものを見る視力を神から賜物として与えられたのです! 約束そのもののほかにも、私たちはこのような信仰から多くのことを学ぶことができます。
質問5 パウロは過ちに陥っているクリスチャンにどんな驚くべき忠告を与えていますか。Ⅰコリ6:19、20
コリントのクリスチャンの中には、肉体を軽んじ、肉体をどう扱おうと、それは問題ではないと言う人たちがいました。しかし、パウロの見方はこれと全く対照的です。クリスチャンの体は価値がないどころか、計り知れない価値を持つものです。それは買い取られた聖霊の住まいです。パウロが個々の信者を聖霊の神殿として言及しているのはここだけです(Ⅰコリ3:16、17、Ⅱコリ6:16、エフェ2:21比較)。
この約束を理解するためには、聖霊がどのようなお方であるかを改めて知っておく必要があります。「聖霊の神は、三位の神の第3の構成員として、永遠の昔から存在されました。父と子と聖霊は、等しく自存されます」(『アドベンチストの信仰』101ページ)。聖霊といのちを共有するという信じがたい特権を本当に理解することができたなら、どんなにかすぱらしいことでしょう。
質問6 ほかにどんな聖句が聖霊の内住を強調していますか。ヨハ14:16、17、ロマ8:9~11、エフェ5:18
クリスチャンの生き方に見られる逆説的な性格について、ある著者は次のように述べています。「クリスチャンは全く見たことのないお方を最高に愛する。彼自身は貧しく、卑しい者であるが、王の王、主の主なるお方と親しく語り、そうすることが不適当とは思わない」(ウォレン・W・ウィースビー編『A・W・トウザー珠玉集』9ページ)。クリスチャンは万物の支配者なる神と完全にいのちを共有しているので、神は私たちのうちに宿るお方として描写されているのです。
夜間視力(コリントの信徒への手紙一 10章13節)
質問7 試練の中にあるクリスチャンはどんな約束によって力を受けることができますか。Ⅰ コリ10:13
パウロはコリントⅠ・10:13を、実際の誘惑が何もない、いわば真空の霊的状況の中で書いているのではありません。彼は読者を目の前にしてこの約束を書いているのです。しかも、その読者の多くが現実に「誘惑」と闘っていました。悪戦苦闘の毎日の生活の中で、彼らは分裂と霊的優越感に引き込まれていました。さらに、相手の徳を高めるよりも批判する誘惑、性的な誘惑、偶像崇拝に対する誘惑がありました。この約束は、象牙の塔、つまり実社会から隔絶された世界に住む人々ではなく、霊的戦闘の最前線にあって闘っている人々に与えられたものです。
質問8 次の聖句には、これと似た思想がどのように表現されていますか。Ⅱテサ3:3、ヤコ1:2、12、Ⅰぺト4:12、13
コリントⅠ・10:13には、新約聖書のほかの聖句と同様に、神の聖徒たちにかかわる大争闘の姿が明らかにされています。サタンの誘惑に遭うときには、神の支配力に目を向けるように、パウロは読者に勧めています。サタンは相手の霊的力と無関係に誘惑してきます。彼は火をつけ、それから出口をふさぎます。しかし、神は逃れる道を用意してくださいます。「神は人生の諸事件をただ傍観するお方ではない。神は関心をもって活動しておられる。信じる者たちは神の助けに頼ることができる。神はいつでも逃れる道を備えてくださる。この語(エクバシス)は狭い谷あい(峡谷)を意味するかもしれない。山岳地帯に追い込まれた軍隊が、山道を通って不可能な状況から脱出するようなものである」(レオン・モリス『コリント人へのパウロの手紙』142ページ)。
コリントⅠ・10:13は、誘惑に対抗するためのクリスチャンの武器庫のようなものです。抵抗が不可能なように思われる誘惑の中にあっても、この約束は抵抗可能だと宣言します。逃れる道は目に見えませんが、確かに備えられています。真っ暗な魂の夜戦においても、私たちには神の約束という赤外線視力があります。サタンは魔力によって神の恵みをおおい隠そうとしますが、私たちは神の恵みをはっきりと見ることができます。
「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」(Ⅱテサ3:3)。
完全に知られている(コリントの信徒への手紙一 13章12節)
神の愛に関するパウロの賞賛の言葉には、もう一つ重要な約束が含まれています。
質問9 パウロはコリントⅠ・13:12の中で、どんな励ましに満ちた思想を述べていますか。
コリントⅠ・13:12にある励ましに満ちた思想の一つは、来るべき世界においては不完全な知識に苦しめられることがないということです。そのときが来れば、私たちは危険、けが、苦痛、不正などに悩まされることがありません。完全な知識が与えられるときには、これらの苦しみはどのように見えるのでしょうか。
コリントⅠ・13:12は、ただ私たちの将来における知識について希望に満ちた約束を与えているだけではありません。それは神の現在の知識についても語っているのです。私たちの現在の知識は限られていますが、神の知識はそうではありません。私たちは神を完全に知ることはできませんが、神は私たちを完全に知り、その知識を私たちのために用いてくださいます。
質問10 次の各聖句は私たちに関する神の知識についてどんなことを教えていますか。
ヨブ7:17、18
マタ10:29~31
Ⅰヨハ3:18~20
「人が一日の働きに出て行くときも、祈るときも、夜休むときも、朝起きるときも、または、金持ちが宏壮な邸宅でふるまいをするときも、貧しい人が子供らを集めて粗末な食事をするときも、その一つ一つを天の父はやさしく見守っておいでになります。どんな涙も神の目にとまらぬものはなく、どんなほほえみも見過ごしにされることはありません」(『キリストへの道』116、117ページ)。
神が私たちを完全に知っておられるのに、なおも私たちを天国に招いてくださるということは驚くべきことです。歌にもあるように、「私を最もよく知っているお方は、私を最も愛してくださるお方」です。
まとめ
現代のクリスチャンは終末の薄暗がりの中で信仰生活を送らなければなりません。しかし、そのような困難を乗り越えることができるように、神は私たちに力強い約束と賛美する力とを与えておられます。これらを用いることによって、私たちは万物の主の力を受け、さまざまな問題や困難を克服することができます。