キリストは平和をもたらされる
おもに戦争と破壊を扱ったゼカリヤ書9章の中心に、イエス・キリストの謙遜、平和、力についての美しい描写が見られます。彼は人々の心に霊的王国を建設するために、ろばに乗ってエルサレムに入城しておられます。これは、栄光の王国を建設するために天の雲に乗って来られるキリストの再臨の前ぶれとなっています。
メシヤ的な章
ゼカリヤ書9章はメシヤについて述べています。それはキリストの初臨と再臨に焦点を合わせています。メシヤがこの章の中心的なテーマです。ゼカリヤ書9:9の有名な預言は、明らかにメシヤを指し示しています。彼はこの預言のなかで、その初臨のあいだに平和と救いをもたらす柔和な王として描写されています。つづく10節は栄光にみちたキリストの再臨について述べています。彼は、平和をもたらし、全地に普遍的な主権を確立されます。
新約時代と現代におけるゼカリヤ書の意義
新約聖書の記者たちはしばしば、私たちの主の地上生涯の最後の週——受難週——に関連して、ゼカリヤ書を引用しています(マタイ21:5、26:31、27:9、マルコ14:27、ヨハネ12:15、19:37、黙示録1:7参照)。これらの聖句はとくに、」旧約聖書の預言をイエス・キリストの生涯と働きに関連づけた新約聖書の記者たちにとって意義深いものでした。それらはまた、栄光の王の出現を待ち望んでいる者たちにとっても霊的に意義深いものです。
ユダヤ国民はイエスに会う備えをしなかった
彼らはまた、この世をイエスの初臨に備えさせませんでした。今日のキリスト教会は霊的なイスラエルを構成しています。私たちは古代イスラエルの経験から教訓を学んでいるでしょうか。私たちは自分自身、また人々をイエスの輝かしい再臨に備えさせているでしょうか。願わくは、神がそうさせてくださるように!
神は私たちの防壁(ゼカリヤ書9章1節〜6節)
質問1 ゼカリヤ書9章はどんな言葉で始まっていますか。「託宣」という言葉はどういう意味ですか。
「託宣」とは、「神託」、「預言」、「預言の言葉」を意味するヘブル語から訳されています。字義的には、それは言葉あるいは歌によって声を上げるという意味です。この章はメシヤの来臨についての主の言葉を扱っています。主がご自分の民と世界のために何をされるかが、ここに明らかにされています。「託宣」という言葉は、9章から11章にかけての預言全体の序言と考えられます。
質問2 主はご自分の民を守るためにどうされますか。ゼカリヤ書9:2~4
ツロとシドンの運命
ツロとシドンはフェニキヤ人の繁栄した商業都市でした。これらの強大な都市は難攻不落と考えられていました。しかし、これらの町はアレキサンダー大王によって紀元前332 年に滅ぼされました(エゼキエル書26~28章参照)。
ツロの住民は有能で、商業の方面において成功しました。この町は海上貿易の中心として、その富と影響力のゆえに有名でした。ツロはとりでで守られていたので、古代世界のなかで最も強力で豊かな町の一つといわれていました。
神の預言の言葉は、ご自分の民であるイスラエルを含めて、いかなる国民の悪をも見のがすことがありません。富と力を誇りにしていたツロとシドンは、実際にはあまり賢明ではありませんでした。物は人や国を賢明に、また強力にするものではありません。物質主義という神も、苦難のときにツロとシドンを守ることができませんでした。
質問3 ペリシテ人の五つの町は、主の働きを見て、どんな反応を表しますか。それらの町にどんな三つのことが起こりますか。ゼカリヤ書9:5、6
全世界的な神の残りの民(ゼカリヤ書9章7節)
質問4 ゼカリヤ書9:7には、神の残りの民についてのどんな思想が見られますか。
残りの民は全世界的
ゼカリヤ書8章には「残れる者」という言葉が「この民」に関連して何回か用いられています。それはイスラエルとユダをさしていますが、またほかの諸国民をも含んでいます。残れる者には、神に応答するペリシテ人だけでなく、すべての国からの人々も含まれます。彼らは神の残りの民の一員として、新エルサレムをその霊的家郷とします(ゼカリヤ書14:16参照)。
質問5 ペリシテ人に関するゼカリヤの言葉のなかで、「血」、「憎むべき物」、「一民族」という言葉は何を意味しますか。ゼカリヤ書9:7
「エクロンはエブスびとのようになる」という言葉がありますが、これは、古くからエルサレムに住んでいたエブス人がイスラエルに吸収され、ユダヤ国民の一部族のようになったことをさしています(サムエル記下5:6、24:18~25、ヨシュア記15:63、士師記1:8、21参照)。エクロンの住民もまた、もしイスラエルの神を受け入れるなら、イスラエルに吸収されていたかもしれません。
「またその口から血を取り除き、その歯の間から憎むべき物を取り除く」とは、宗教的犠牲を血のままで食べる異教の習慣をさしています(エゼキエル書33:25、レビ記17:10、12参照)。これら犠牲は偶像にささげられたものであって、神の前に忌むべきもの、また厳しく禁じられていたものでした。ペリシテ人がその偶像礼拝を離れて神に応答するなら、エルサレムに住んでいたもとのカナン人であったエブス人がイスラエルの一員となったように、彼らも残りの民の一員となっていたことでしょう。彼らもユダの生まれながらの家族として同じ特権にあずかっていたことでしょう。
神は見張りを置かれる(ゼカリヤ書9章8節)
質問6 神がわが家のために営を張るとはどういう意味ですか。「わたしが今、自分の目で見ているからである」とはどういう意味ですか。ゼカリヤ書9:8
アレキサンダー大王がイスラエル周辺の国々・町々を滅ぼしたとき、エルサレムとその神殿は滅びを免れました(ヨセフス『ユダヤ古代史』Ⅺ、8:4、5参照)。それまでと同じく、神はこのときもご自分の民を守られたのでした。この預言はイエスの再臨において、また千年期の終わりにおいて、最終的な成就を見ます。主がご自分のあがなわれた者たちを破壊者の手から守られるときです(テサロニケ第Ⅱ・1:5~10、黙示録20:7~10参照)。
用心深い見張り人である神は、苦しんでいるご自分の民の状態を知っておられます。神は民を救う方法とそのときを熟知しておられます(出エジプト記3:7、9参照)。
キリストの初臨(ゼカリヤ書9章9節)
質問7 ゼカリヤ書9:9には、キリストの生涯におけるどんな出来事が予告されていますか。マタイ21:1~11、ヨハネ12:14、15
イエスがエルサレムに来られるという知らせは大いなる喜びと賞賛をもたらしました。彼は待望された平和の君、各時代の希望として迎えられました。その到来は昔のへブルの預言者たちによって予告されていました。
ゼカリヤはイエスの時代を予見した
「キリストがお生まれになる500年前に、預言者ゼカリヤは、イスラエルの王がおいでになることをこのように予告した。いまこの預言が成就されるのである。長い間王としての栄誉をこばんでこられたおかたが、いまダビデの王位の約束された後継者として、エルサレムにおいでになるのである」(『各時代の希望』下巻1ページ)。
質問8 このメシヤについての預言は、キリストとその民との関係についてどんなことを示していますか。ゼカリヤ書9:9
質問9 イエスが「ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」とは、どういう意味ですか。イエスのこの行為には、どんな霊的な意味が含まれていますか。ゼカリヤ書9:9(創世記49:10、11比較)
ろばは柔和、平和、忠誠の象徴です。労働に使用されるこの動物は平和的な目的のために用いられます。ろばは高慢、腕力、暴力、征服、戦争の象徴である軍馬ときわめて対照的です。地上生涯のこの勝利の場面において、救い主は御使いたちに護衛され、神のラッパに案内されて現れることもおできになりました。しかし、そのような演出は彼の使命の目的に反するもの、彼の生涯を支配していた原則に反するものでした。
救いの王、イエス
「世界はこのような凱旋式をかつて見たことがなかった。それは世の有名な征服者たちの凱旋式のようなものではなかった。そこには、こうした場面の呼び物となる王の武勇を記念する捕虜たちの悲嘆に暮れた行列はなかった。救い主のまわりには、罪人に対する主の愛の働きによる輝かしい戦勝記念となる人たちがいた。主がサタンの権力から救い出された捕虜たちが、彼らの救いについて神を賛美していた」(『各時代の希望』下巻7ページ)。
質問10 私たちはキリストのどんな品性を見習うようにとくに勧められていますか。マタイ11:29、ピリピ2:5~8
利己的野心の消滅
「人間の本性は、たえず自己を表現しようと戦い、競争しています。しかしキリストに学ぶ者は、自己、誇り、至上権を愛する心がなくなり、心の中はおだやかになります。自我は聖霊の指導に服従します。その時わたしたちは最高の地位を得たいと望まなくなります。わたしたちは他人をおしのけて自分に注目をひくことを望みません。わたしたちの最高の地位は、救い主の足下にあると思うのです」(『思いわずらってはいけません』19ページ)。
キリストの再臨(ゼカリヤ書9章10節〜17節)
質問11 ゼカリヤはキリストの再臨についてどんな預言をしていますか。ゼカリヤ書9:10
エルサレムに勝利の入城をされたあとで、イエスはエルサレムのために泣き、祭司やパリサイ人にこう言われました。「『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」(マタイ23:39)。
勝利の入城は再臨を予表した
「キリストの凱旋的なエルサレム入城は、天使たちの勝ち歌と聖徒たちのよろこびのうちにキリストが力と栄光をもって天の雲に乗ってこられるありさまをかすかに予表していた。キリストが祭司たちとパリサイ人たちに、『「主の御名によってきたる者に、祝福あれ」とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう』と言われたことばが、その時成就するのである(マタイ23:39)。ゼカリヤは、預言のまぼろしの中で、その最後の勝利の日を示された。彼はキリストの初臨のときに主をこばんだ人々の滅びを見た。『彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ』(ゼカリヤ書12:10)。キリストは、都をごらんになってこの町のために泣かれた時、この場面を予見された」(『各時代の希望』下巻17ページ)。
質問12 栄光の王はふたたび来られるときに何をされますか。ゼカリヤ書9:10〜17(黙示録6:14〜17、19:11〜21比較)
質問13 「望みをいだく捕われ人」とはだれのことですか。彼らはどのようにして解放されますか。ゼカリヤ書9:11、12
神の民の希望は、神と神の民との特別な契約を批准する契約の血あります。この契約はエデンにおいて血によって批准されました(創世記3:15、4:4)。のちに、それはアブラハムによって更新され(創世記22:18)、さらにモーセによって更新されました(出エジプ卜記24:7、8)。この血の契約は新しい契約として知られるようになりました。それは神の小羊の血によって批准されましたヘブル8:8~12、9:11~15参照)。
城と穴
自分の国に帰ったイスラエル人はなお罪の奴隷でした。彼らは永遠の契約の血によってのみ、その霊的束縛から解放されるでした。帰還した捕囚民は、自分たちを希望のない捕われ人だと考えました。しかし、主の臨在と血の契約が希望をもたらしました。
主の働きは人々を罪から解放することです。救いを待ち望み、神の召しに応答する捕われ人は、水のない罪の穴から助けられ、主の霊的な城に入れられるのです。
神の力によって解放される
「最も絶望的な状況のもとにありながらも、自己の力以上の何か大きな力によって救いと平和が与えられるように、信仰をもって祈っている者に神は常に天使を送っておられる。神はさまざまの方法によって自分を彼らに現し、……ご自身を贖いとしてすべての者のためにお与えになった方に対する信頼を確立するように、神の摂理の働きに彼らを触れさせられる」(『国と指導者』上巻346ページ)。
質問14 「冠の玉」はだれを象徴していますか。ゼカリヤ書9:16(マラキ書3:17比較)
「キリストの弟子はかれの宝石、彼の尊い特別の宝と呼ばれています。『彼らは冠の玉のように』なる、『わたしは人を精金よりも、オフルのこがねよりも尊くする』とキリストは言われています(ゼカリヤ書9:16、イザヤ書13:12、英語欽定訳)。キリストは純潔で完全な民を、ご自分の苦難と屈辱と愛の報い……とごらんになります」(『思いわずらってはいけません』116ページ)。
まとめ
ゼカリヤ書9章は初臨と再臨における飯屋の働きを描写しています。神の忠実な民はその霊的・肉体的敵から救われ、神の永遠の王国に回復されます。信じない者たちは永遠に滅ぼされます。
*本記事は、フィリップ・G・サマーン(英:Philip G. Samaan)著、安息日学校ガイド1989年4期『勝利の幻 ゼカリヤ書』 からの抜粋です。