【ゼカリヤ書解説】勝利の幻#12 〜ほふられた子羊〜

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良い羊飼い キリストは私たちの望み

良い羊飼い、キリストはご自分の羊をかぎりなく愛しておられます。彼はその受肉によって私たちと一つとなられました。彼は私たちの弱さ、悩みを理解してくださいます。私たちの現在の、また永遠の幸福は、彼の導きに従うことにあります。

キリストはいのちを与えられた

私たちは先週の研究において、良い羊飼いと悪い羊飼いとを比較しました。悪い羊飼いは羊を無視し、虐待し、殺します。一方、良い羊飼いは最も弱い羊でさえ心にとめ、迷い出た羊をさがします。

さらに、彼は自らを羊と同一視することによって、羊と一体になられます。羊にいのちを与えるために、自らのいのちを羊にささげられます。ご自分に従う者たちを清め、あがなうために、彼は神の小羊としてカルバリーで自らの血を流されました。救おうとされた者たちによって裏切られ、傷つけられました。群れの上にくだるはずの神の正義のさばきがキリストの上にくだりました。彼は神の小羊として、恩知らずのご自分の民のために身代わりの犠牲となられました。

ウィリアム・クーパーの言葉はいつの時代にも真実です。「インマヌエルの血管から流れ出た血の泉がある。その湖に飛び込む罪人はあらゆる罪の汚れから清められる」。

契約の血(ゼカリヤ書9章11節)

質問1 「契約の血」とは何をさしますか。ゼカリヤ書9:11

この契約は広い意味において、女のすえ(イエス)がへび(サタン)のかしらを砕くという、エデンの園で人類に与えられた約束(創世記3:15)をさしています。この契約は、アダムとエバの裸をおおうために殺された罪のない小羊の血によって批准されました。彼らに与えられた着物は、カルバリーの犠牲を受け入れる者たちに与えられるキリストの義を象徴していました。

この契約は、神がイサクの代わりにほふられる雄羊を与えられたときにアブラハムとのあいだで更新されました(創世記22:10~19)。神とアブラハムとのあいだで更新された契約は、神の小羊キリストを象徴する雄羊の血によって批准されました。

さらに、この契約はシナイにおいてイスラエルとのあいだで更新され血をもって批准されました。モーセは民に血を注ぎかけたあと、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基づいて、あなたがたと結ばれる契約の血である」と言いました(出エジプト記24:8)。

批准された契約

神の小羊キリストが犠牲となり、象徴が実体と出会ったとき、永遠の契約は批准されました。この契約の条件は、過去において信じた者たち、また将来において信じる者たちすべてにあてはまります(コリント第Ⅰ・15:17~22参照)。イエスの血は神と神の民とのあいだの契約を永遠に批准したものでした(へブル8:8~12、9:11~15参照)。

神の契約はつねに新しい

「この契約はアダムと取りかわされ、て与えられたとはいえ、キリストの死によって初めて批准されたのである。これは、初めて磧罪の知らせがかすかながら与えられたときから、神の約束によって存在してい

アブラハムに与えられた契約は、キリストの血によって批准され、『第2の』または、『新しい』契約と呼ばれている。それは、この契約に印を押す血が、第1の契約の血のあとに流されたからである。新しい契約が、アブラハムの時代に効力をもっていたことは、そのとき、神の約束と誓いとによって保証されたことによって明らかである。『それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって』である(へブル6:18)」(『人類のあけぼの』上巻440ページ)。

質問2 贖罪の計画はいつ立てられましたか。黙示録13:8、ペテロ第Ⅰ・1:19、20、エペソ1:4

失われた者たちのためにキリストが死なれるという決定は、この世界の創られる以前になされ、カルバリーの十字架において確証されました。

キリストは保証人

「しかし、神の愛は、すでに、人間を贖う計画をたてていた。……罪を犯した人間を律法ののろいから贖い、再び、天と調和させることができるものは、キリストのほかになかった。キリストは、罪のとがと恥とをその身に負われるのであった」(『人類のあけぼの』上巻53ページ)。

銀30シケル(ゼカリヤ書11章12節、13節)

質問3 銀30シケルという考えは聖書のどこから来ていますか。このお金は何のために使われましたか。出エジプト記21:32

銀30シケルの現在の価値は、8.75ドル(約1150円)〜12.60ドル(約1650円)のあいだと考えられています(『SDA聖書注解』第1巻615ページ、同第4巻1111ページ参照)。奴隷ひとりの代価が、世界の創造主、メシヤのために支払われた代価でした。

質問4 良い羊飼い、キリストはなぜ、羊を飼うことに対して賃銀を要求されるのでしょうか。極端に安い代価は、ユダヤ国民とその指導者について何を語っていますか。ゼカリヤ書11:12

キリストが賃銀を求められるのは、人々にご自分の働きを評価してもらいたいからです。彼らの応答は完全なあなどりと忘恩を示していました。偽りの羊飼いとは対照的に、キリストは群れをおどしたり、強制したりすることはなさいません。彼はご自身とその働きの価値を彼らの判断にまかせられます。

ユダに銀貨30枚を支払ったユダヤの指導者たちの行為は、彼らがイエスをどのようにみなしていたかを如実に物語っています。彼らはイエスを完全に無視し、あなどり、ばかにしていたのでした(マタイ26:15、27:3、4)。銀貨30枚という値段は、奴隷のひとりが死んだときに支払う金額でした。彼らがユダの裏切りの報酬として銀貨30枚を支払ったということは、彼らが良い羊飼い、キリストのいのちを奪うつもりだったことを示しています。

質問5 イエスのために払われた代価とイエスが人類のために払われた代価とを比較してください。ペテロ第Ⅰ・1:18、19

人間はこの上なく尊いキリストを下劣な者として扱いましたが、キリストは価値のない人類を何ものにもまさる者、ご自分のいのちに匹敵する者として扱われました。銀貨30枚と、イエスが人類をあがなわれた代価とを比較してください。金銀をいくら積んでも、ひとりの人さえあがなうことができません。

ひとりの魂の価値

「富める者、 貧しい者、 高い者、 低い者、自由のある人もない人も共に神の財産である。人を救うために自分の生命をお与えになったキリストは人間のひとりびとりに測り知れぬ価値を認めておられる。十字架の奥義と栄光から人間の魂の価値に対するキリストの評価を認識しなければならない。そうするとき、どんなに堕落した人でも、冷淡にしたり、軽蔑したりするにはあまりにも高い価が払われていることを感じ、わたしたちと同じ人間を高く神のみ座にまで導く働きの重要性がわかるであろう」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』136ページ)。

質問6 ゼカリヤは銀30シケルをどこに投げ入れるように言われましたか。主がご自分に対して払われた代価を「尊い価」と呼ばれたのはなぜですか。ゼカリヤ書11:13

主の皮肉

主がここで用いておられる強い皮肉は、彼らが主に払った代価に対する主の嫌悪感を示しています。それは尊い価からほど遠いものです。全くの中傷です。まる1日かけて自分の家主の家を修理した大工の話が、このことをよく物語っています。つらい1日の仕事を終えた彼は賃金をもらうのを楽しみにしていました。ところが、立派にやりとげたにもかかわらず、受け取ったのはわずかな小銭だけでした。家主の低い評価に立腹した彼は、そのお金を地面に投げつけると、去って行ってしまいました。

その刺した者(ゼカリヤ書12章10節)

質問7 ゼカリヤ書12:10の預言はイエスの生涯の終わりにおいてどのように成就しましたか。ヨハネ19:34~37

ユダヤの指導者たちは安息日を守ることにあまりにも固執していたので、イエスの死を確実なものにするために、ピラトにたのんでイエスの足を折ろうとしました。彼らは金曜日の日没前にイエスの遺体を十字架から取りおろそうと思ったのでした。ここに、律法の精神ではなく律法の形式を守ろうとする思いがよく表されています。精神のともなわない律法の形式は人を殺すもの、律法主義は人を滅ぼすものです。ユダヤの指導者たちは外面的には安息日の戒めを守っていましたが、実際には安息日の主を殺していました。

人間の罪によって殺された

「しかしイエスの死の原因はやりで突かれたことでもなければ、十字架の苦痛でもなかった。死の瞬間にイエスが『大声』で叫ばれたことと、その脇腹から血と水が流れ出たことは、イエスが心臓の破裂でなくなられたことを物語っていた(マタイ27:50、ルカ23:46)。イエスの心臓は精神的な苦悩のために破裂したのである。彼は世の罪によって殺されたのであった」(『各時代の希望』下巻298ページ)。

質問8 イスラエルに恵みと祈りの霊がくだるとは、どういう意味ですか。彼らはなぜ嘆きますか。ゼカリヤ書12:10、11

罪を悲しむことはリバイバルをもたらす

「預言者ゼカリヤはここで、広範囲に及ぶ霊的リバイバルについて述べている。それは罪の恐ろしさを再認識することによって与えられるもので、人々はそれによってキリストの義を熱心に追求するようになる。『刺された』メシヤをながめることによって、彼のうちに旧約聖書のすべての型の成就を見ることによって、御子という賜物のうちに驚くべき神の愛をさらにはっきりと認めることによって、人々は過去の品性の欠点を深く悲しむのである。……〔使徒行伝2:36、37参照〕

しかしながら、この言葉はさらにもうひとつの成就を見るのである。マタイ24:30……および黙示録1:7……には、ゼカリヤ書12:10が言及されているように思われる。黙示録1:7で『胸を打って嘆く』と訳されている語は、マタイ24:30で『嘆く』と訳されている語と同じである。ここに述べられている嘆きは初臨においてキリストを拒んだ人たちの経験を描写している。再臨においてあらゆる栄光に包まれたキリストを見るとき、彼らは自分たちの行為の意味を十分にさとるようになる(『各時代の希望』下巻17ページ参照)。ほかの時代において、『キリストの真理とその民とに対して最も激しく反対した者たち』も明らかに、この預言に含まれる(『各時代の大争闘』下巻415ページ)」(『SDA聖書注解』第4巻1113ページ)。(『初代文集』304、305ページ参照)。

私たちはキリストを拒んでいないか

「いまの世代に、不信のユダヤ人と同じ道を歩んでいる者が多い。彼らは神の力のあらわれを目に見た。聖霊は彼らの心に語った。しかし彼らは不信と抵抗をあくまでもやめない」(『各時代の希望』下巻26ページ)。

開かれた泉(ゼカリヤ書13章1節)

質問9 ゼカリヤ書13:1の出来事はいつ起こりますか。

ゼカリヤ書3:9は「1日」のうちに取り除かれるこの地の罪について述べています。それはゼカリヤ書13:1に言及されているのと同じ日、つまりキリストがすべての人のために一度だけ死なれた日をさしています。キリストは人間の罪のための刑罰を負われたので、彼のあがないの血によってすべての罪が信じる者たちから取り除かれるのです(コリント第Ⅱ・5:21、ローマ5:17参照)。ゼカリヤ書13:1の日は、イエスが刺された日です(ゼカリヤ書12:10)。ある意味で、一つの泉がつねにゆるしと清めのために開かれていたのです。なぜなら、イエスは「世の初めからほふられた小羊」だからです(黙示録13:8、欽定訳)。十字架以前には、人々は自分たちの罪のゆるしのためにその血を流される救い主を信仰によって待望したのでした。

神は感謝すべきかな!カルバリーにおいて一度ひらかれた泉は決して閉ざされることがありません。

清めの泉

「十字架上のイエスの脇腹を兵卒が突きさしたときに、二つのはっきりしたものが流れ出た。その一つは血であり、もう一つは水であった。血は彼の名を信じる者の罪を洗い去るためであり、水は、信じる者が生命を得るためにイエスから受ける生ける水を代表していたのである」(『初代文集』349ページ)。

背中の傷(ゼカリヤ書13章6節)

質問10 ゼカリヤ書13:6で質問を受けているのはだれですか。背中の傷とは何のことですか。ヨハネ20:25、27比較

「文脈からみれば、この傷についての質問は回心した偽りの預言者に対してなされているように思われる(ゼカリヤ書13:5、6)。ある注解者たちはこの聖句を、友であるべき者たちの手によって加えられた懲らしめと傷についての預言としてキリストにあてはめている(マタイ27:26、マルコ14:65、15:15、ルカ22:63、ヨハネ19:1、17、18参照)。(『SDA聖書注解』第4巻1115ページ)。

ゼカリヤ書13:6は新しい思想—メシヤの負傷—の始まりとなっているように思われます。6節と7節は連続しているようです。脇腹を刺され(12:10)、泉が開かれた(13:1)あとには、必然的に、「あなたの背中の傷は何か」という質問がきます(13:6)。キリストご自身、ゼカリヤ書13:7の預言をご自分にあてはめておられます(マタイ26:31、マルコ14 : 27)。

傷跡は残る

「彼らは、もう一度、真昼の太陽よりも輝かしいそのお顔を見て、そのみ前から逃れることを願うようになる。彼らは、あの野獣のような勝利の叫びのかわりに、彼のゆえに泣きわめくのである。

イエスは、十字架の傷がついた手をお示しになる。彼は、この残酷な行為の傷跡を永久におとどめになる。ひとつひとつの釘のあとは、人間の贖罪の驚くべき物語と、そのために払われた高価な値とを語るのである。生命の主のわき腹にやりをつきさしたその当人たちは、やりのあとを見て、彼の体を傷つけるために自分たちが果たした役割を、深く嘆くのである」(『初代文集』304、305ページ)。

「キリストの死のありさまさえもほのめかされていた。……『もし、人が彼に「あなたの背中の傷は何か」と尋ねるならば、『これはわたしの友だちの家で受けた傷だ』と、彼は言うであろう」(『患難から栄光へ』上巻243ページ)。

「当然キリストが受けられるべきとり扱いをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれが当然受けるべきとり扱いを受けられた。われわれのものではなかったキリストの義によってわれわれが義とされるように、キリストはご自分のものではなかったわれわれの罪の宣告を受けられた。キリストのものであるいのちをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれのものである死を受けられた。『その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ』」(『各時代の希望』上巻11ページ)。

まとめ

この世が造られる以前に、神はキリストの血によって私たちを救う道を備えてくださいました。神と人間との間の契約は、十字架において永遠に保証されました。罪人が聖にして罪を憎まれる神のまえで受けねばならないすべてのことを、キリス卜は経験されました。ゆるしと清めと回復のための泉が開かれました。私たちは小羊の血で清められているでしょうか。キリストは私たちを愛しておられます。天はキリストにおいて最大の賜物を与えてくださったのです。キリストに信頼しましょう!

*本記事は、フィリップ・G・サマーン(英:Philip G. Samaan)著、安息日学校ガイド1989年4期『勝利の幻 ゼカリヤ書』 からの抜粋です。

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