【詩篇解説】失望から栄光へ#1 〜人生は公平か〜

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人間の見方と神の見方

それは南半球における12月のある暑い夏の日のことでした。筆者は昼食をとるためにゆっくりと自宅に向かって歩いていました。そこへ、反対の方から重いかばんを持ってとぼとぼ歩いてくる同僚の一人に出会いました。彼は、「全く、理解できないよ」とこぼしました。彼の説明によると、支部の総理と総務の乗った車が知らぬふりをして自分を追い越して行ったというのです。

ちょうどそのとき、反対の方から一台の車がやってきて、砂ぼこりをあげて止まりました。先ほどの総務でした。「乗りなよ、家まで送るから」と、彼は言いました。わたしもその疲れた友人にこう言って別れました。「すぐにその理由がわかるよ」。

あとになって、支部総務が止まってくれなかったわけがわかりました。彼は総理を重要な約束に間に合わせるために急いでいたのです。それで止まらないで、また引き返して、遠回りなのにわざわざ彼を送ってくれたというわけです。

今回の課の教課は、私たちが困難に会うときによく口にする数多くのつぶやきに対して解答を与えてくれるでしょう。

悪人の栄え(詩篇73篇2節〜12節、94篇1節〜7節)

質問1 神の祝福はだれの上に注がれますか。マタ5:45(使徒14:15〜17比較)

神はすべての民族、部族、国民の父です。なぜなら、神はすべての人の創造者だからです。神はとくにアプラハムの子孫を選び、彼らを通してご自身の品性をあらわし、世界に福音を伝えようとされました。

「神は神に仕える者—ユダヤ人の考えに従えば、ラビの要求事項をみたす者—を愛されるのであって、この世のその他の者はみな、神の不興とのろいのもとにあるのだと、ユダヤ人は考えていました。ところがそうではない、世界全体は、悪しき者も良き者も、ともに神の愛の光の中にあるのだとイエスは言われました。神は『悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして』くださっているのであるから、この真理は自然界からも学ぶことができたわけです」(『思いわずらってはいけません』 96ページ)。

質問2 繁栄が神の力によるものであることを認めない者たちはどんな態度をとりますか。詩73:6〜11、94:3〜7

自分自身のわざによって救いを得ようとするクリスチャンは、神を拒む者たちと何ら異なるところがありません(ロマ 9:31、32参照)。神の必要を認めない未信者と同じく、あるクリスチャンたちは次のように言います。「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もない」(黙示 3:17)。

義人の悩み(詩篇73篇3節、77篇1節〜9節)

質問3 詩篇作者は悪人の栄えを見て、どんな思いを抱きましたか。詩73:3(ガラ5:19〜21比較)

ねたみは肉の働きの一つであって、人を天国から閉め出すものです。この罪は、外面的なことにのみ心をとらわれ、自分の人生を人の人生と比較することから生まれます。ステパノによれば、ヤコブの息子たちはねたみのゆえにヨセフをエジプトに売りとばしました。(使徒7:9)。このように、ねたみは家族の中でも起こりうるものです。ヨセフは父から長そでの着物をもらっただけでなく(創世37:31〜34参照)、兄弟たちが自分に服従する夢も見ました(8節)。「兄弟たちは彼をねたんだ」(11節)。

質問4 互いに比較することに関して、新約聖書はなんと教えていますか。Ⅱコリ10:12、18

互いに比較することは、たとえ信者同士のあいだであっても、ねたみとうぬぼれを引き起こすもとです。古代イスラエルが自分たちの王を求めたのは、周辺の国々をねたんだからでした(サム上 8:5参照)。イスラエルの最初の王、サウルはねたみのえじきとなり、彼の心はこのずる賢い罪によって食いつぶされました。しかしながら、サウルの心を苦しめたのは悪人の栄えではなく、英雄ダビデの勝利でした。

質問5 苦悩や失望のうちにある魂を悩ますのはどんな問題ですか。主はそのような魂を無視されますか、それとも答えてくださいますか。詩77:1〜9

「人生の困難と危険について考えたとき、それらがあまりにも恐ろしく見えたので、彼〔詩篇作者〕は自分の罪のゆえに神に見捨てられたと考えた。彼は自分の罪をはっきりと見たので、次のように叫んだのである。『主はとこしえにわれらを捨てられるであろうか。ふたたび、めぐみを施されないであろうか』。

しかし、泣きながら祈ったとき、彼は神の品性と特性についての明らかな光を与えられたのである」(『SDA聖書注解』第3巻1149ページ、エレン・G・ホワイト注)。

神の支配(詩篇73篇17節、77篇10節〜20節)

質問6 詩篇作者はどこに問題の解決を見い出していますか。詩73:16、17、77:10〜13

当然のことですが、人間は人生の問題や悩みに関して人間的な見方しかできません。そのような見方をするかぎり、私たちは神の愛を理解することができません。しかし、信仰によってキリストがご自分の民のために執り成しておられる天の聖所に入るとき、人間的、地上的な見方は、神の宇宙的な見方に変わります。神の性質・品性をめぐるキリストとサタンのあいだの大争闘が、人間の苦難の根本的な原因であることがわかってきます。神に対するサタンの不信、そしてそこからくる反逆のゆえに、「われわれのあらゆる苦悩がもたらされ、エデンの園が失われた」のでした。しかし、神は私たちの恐怖心を和らげ、ご自分の永遠の計画が最後には実現するという保証を与えてくださいます。

質問7 神の過去の祝福を思い出したとき、詩篇作者の心が不安に満たされたのはなぜですか。詩77:3、6、10〜12、15〜20

過去の祝福は現在と将来の祝福を示唆するものです。ダビデは過去における神の導きを思い起こしたとき、現在、神からの応答が途絶えたように思われることに不安を覚えました。

エゼキエルとイザヤは、神が自分たちの人生を、またイスラエルの国家を支配しておられることについての保証を求めました。彼らはそのとき、御座に座しておられる神についての幻を与えられました(エゼ1:26〜28、イザ6:1〜8参照)。

神は今も支配しておられる

「人類歴史の記録の中では、世界の諸国民の発展や諸帝国の興亡は、人間の意志や勇気に左右されているかのようにみえる。いろいろな事件の形成は、その大部分が人間の能力や野心やあるいは気まぐれによってきまるかのようにみえる。しかし、神のみ言葉である聖書の中には幕が開かれていて、われわれはそこに、人間の利害や権力や欲望の一切の勝ち負けの上に、また背後に、あるいはそれを通して、あわれみに満ちた神の摂理が、黙々と忍耐づよくご自身の目的を達成するために働いているのをみるのである」(『教育』205ページ)。

悪人の運命(詩篇73篇18節、19節、27節、94篇20節〜23節)

質問8 悪人はどんな危険な場所に立っていますか。詩73:18、19、27

悪人の繁栄を疑い、ねたんだとき、詩篇作者はもう少しでつまずくところでした(詩73: 2、94:18)。疑うこと、不平を言うこと、霊的誠実さを捨てることは、霊的堕落の危険性を大いに高めます(エレ23:10〜12参照)。

罪に対する対照的な態度

木曜日の夜にもたれた主の晩さんの後、ペテロとユダは共に危険な場所に立っていました。ユダはわいろをとって主を裏切る決意をかためていました。

「過越の晩餐の時に、イエスは反逆者の意図をばくろすることによってご自分の神性を証明された。イエスは、弟子たちにお仕えになったときに、やさしくユダもその中に加えられた。しかし最後の愛の訴えは無視された。その時ユダの問題は決定した。そしてイエスが洗っておやりになった足は、裏切り者の仕事へと出て行ったのである」(『各時代の希望』下巻 221ページ)。

ペテロもまた危険な場所に立っていました。彼は敵の誘惑を招きました。ペテロがイエスを拒んだとき、「主は振りむいてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。

「青ざめた苦難の顔、ふるえる唇、あわれみとゆるしの顔つき、—そうした光景がペテロの心を矢のように刺し通した。良心がめざめ、記憶がよみがえった。……

イエスが苦悶のうちに天父に魂をそそぎ出されたその場所にうつぶせに倒れて、ペテロは死んでしまいたいと思った」(『各時代の希望』下巻210、211ページ)。

質問9 主は悪人をどうされますか。詩94:23(箴5:22、23、イザ33:14、15比較)

主は地上の旅人がたどる二種類の道について語っておられます(マタ7:13、14)。罪深い生活を送る者たちにとって、神は「焼きつくす火」です(ヘブ12:29、10:26〜30)。自分の罪を告白し、ゆるされている者たちだけが、神の栄光のうちに生きることができます。罪のうちに生きる不信心な者たちは自らの上に滅びを招いています。彼らは自分を支配する罪によってほろぼされるのです。

義人の信頼(詩篇73篇20節〜26節、28節、94篇8節〜19節)

質問10 詩篇作者が自分自身を、また人々を獣にたとえているのはなぜですか。詩73:22、94:8

「わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」(詩73:22)。「民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか」(詩 94:8)。聖所における神の働きについて学ぶとき、クリスチャンはある程度、神の計画を理解するようになります。動物は理性の力も、見えない神についての観念を持ちません。しかし、クリスチャンは神の完全な理解力を認め、神に心から信頼することができます。

パウロには不正や不公平を非難する十分な理由がありました(Ⅱコリ11:18〜30参照)。しかし、彼は内なるキリストの力によって、どんな苦難のもとでも平安を保つことができました。詩人であり賛美歌作者でもあったウィリアム・クーパー(1731〜1800)は、しばしば失望を味わい、ときには死を望んだことさえありました。しかし、彼はいつでも神の導きに対する信頼を失いませんでした。そして、「やみに輝く光」という題のもとで、「くすしき神のみむね」という賛美歌を作りました(讃美歌89番)。

質問11 勝利した詩篇作者は「すべりやすい場所」とは対照的などんな場所について述べていますか。詩94:22、73:24、26、28

かつては失望していたダビデでしたが、今は全的に信頼することのできる助け主(詩 94:17)、保護者、堅固な岩によりたのんでいます。彼は今、確かな導き手、力のみなもとであるキリストに信頼しています。私たちは滅びにすべり落ちるかわりに、信仰の目をもって将来の栄光をながめることができます。

「神は道を知り、鍵をにぎり、たしかな御手をもって私たちを導かれる。私たちは涙の枯れた目をもって見るが、そのわけは、天国に入ってからわかるのだ」(マックスウェル・N・コーネリアス)

まとめ

神は、「神の民のたしかな避け所、のがれの岩であって、悪をなす者たちを滅ぼされるかたである。あらゆる歴史の底流には義の原則があり、たとえ状況が正反対に見えたとしても、悪は決して勝利することがなく、正義は決して敗北することがないのだ。もしこれがキリストのお生まれになる何世紀も前において真実であったとすれば、カルバリーの光のもとにある私たちにとってもたしかに真実であるはずである」(W・グラハム・スクロギー『あなたの聖書を知りなさい—詩篇』第2巻271ページ)。

*本記事は、C・レイモンド・ホームズ(英:C. Raymond Holmes)著、安息日学校ガイド1992年2期『詩篇73-150篇 失望から栄光へ』 からの抜粋です。

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