【詩篇解説】失望から栄光へ#2 〜苦悩と救い〜

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私たちのサバイバル・キット(非常用携帯品)

1960年6月2日のことでした。カナダのマニトバ州にあるタートン湖から1キロほどのところにある岩の上で、8歳の少年が発見されました。父親と一緒に乗っていた飛行機が墜落したのです。父親は即死し、助かった少年は15日のあいだ燃えた飛行機のそばでひたすら救助を待っていました。少年は衰弱し、餓死寸前の状態でした。飛行機のそばには24日分の食料の入ったサバイバル・キットが落ちていました。墜落したときに放り出されたのでしょう。しかし、少年はその中に何が入っているのか知りませんでした。

今日、多くの人々が疑いと恐れの荒野で道に迷っています。そして、すぐ近くにサバイバル・キットがあるのに、魂は栄養失調で苦しんでいます。聖書には、私たちの必要とする毎日の霊的食料が詰まっています。しかし、私たちはしばしば、それが私たちの霊的必要を満たすものであることを忘れています。個人的、国家的苦難のときに、神と神のみことばに信頼することは救いをもたらしてくれます。

イスラエルの苦難(詩篇80篇)

詩篇80篇はイスラエルの大いなる苦難の時代を描写しています。詩篇作者は、自分の民がもういちど神の恵みにあずかることができるように祈っています。

質問1 詩人はイスラエル国家とその以前の栄光をどのように描写していますか。詩80:8〜11

「ユダヤ人はいつもぶどうの木を植物の中で最も高貴なもの、また力があり、すぐれていて、実をむすぶすべてのものの型とみなしていた。イスラエルは神が約束の地に植えられたぶどうの木として象徴されていた」(『各時代の希望』下巻162ページ)。その領土は地中海からユーフラテス川まで(11節)、また北は香柏で知られたレバノンまで(10節)広がっていました。

イエスのたとえの中で、神の民は実のならないいちじくの木にたとえられています(ルカ 13:6〜9)。使徒パウロは神の民を、枝を切り取られてほかの野生の枝をつぎ木されたオリーブの木にたとえられています(ロマ11:17〜24)。

質問2 詩篇80篇が書かれたころのイスラエルはどんな状態でしたか。詩80:5、6、12、13、16

くずされた垣やつみとられた果物は、国境を越えて侵入し、作物を荒らし、国民を虐待する軍隊を連想させます。ヒゼキヤ王はセナケリブのうぬぼれに満ちた手紙を主の前に広げたあとで、この詩篇の一節を引用して祈りをささげています(列王下19:9〜19、『国と指導者』上巻320〜323ページ参照)。

祈りが繰り返されていること、民の心を神に向け、繁栄をもとに返してくださいと一貫して訴えられていることに注目してください(詩80:3、4、7、14、19参照)。「われらをもとに返してください」という民の嘆願は、彼らが自らの霊的失敗を認めていたことを示しています。悔い改めは主の新たな祝福をもたらすものです。「わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす」(歴代下7:14)。

エルサレムの陥落(詩篇74篇)

質問3 エルサレムがバビロニア軍によって攻撃されたとき、どんな悲しいことが起こりましたか。詩74:3、4、7、8(詩79:1〜4、11、列王下25:7、9、10、13〜15比較)

ユダヤ人にとって、彼らの同胞が殺され、町が焼かれるのを見ることはつらいことでした。しかし、最大の災いは、彼らの聖所と会堂が汚されたことでした。どのようにして主を礼拝したらよいのでしょうか。

敵によって攻撃されたとき、イスラエルの民は主の助けを求めました。「神よ、なぜ、われらをとこしえに捨てられるのですか。なぜ、あなたの牧の羊に怒りを燃やされるのですか」(詩74:1—詩74:10、11、79:5、10比較)。その答えは彼ら自身がいちばんよく知っていました。彼らは神の品性を誤解していました。神は自分たちの神であるから、自分たちを助けてくださるはずだと信じていました。彼らは、変えられることを望む者たちだけを神が助け、いやしてくださるということを理解していませんでした。イスラエルの指導者と民は、リバイバルと改革を求める神の訴えをいつも無視していました。

質問4 敵に敗れた民はどのようにして自らを力づけましたか。詩74:2、12〜17

彼らは、自分たちの先祖を追跡するエジプト人を滅ぼし、紅海やヨルダン川に道を開かれた神の力強いみわざを思い起こしました。神の創造の働き、また全地の王としての神の支配はそれ以上にすばらしいものでした。

彼らはバビロニアの侵略者たちをユダヤ人の敵、また神の御名を汚し、神の品性を中傷する神ご自身の敵とみなしました。

「天使たちは、へりくだって神の前を歩く者を助け保護する。主はご自分に信頼する者を裏切られることはない。主の民が、悪から保護されることを求めて主に近づくときに、主は彼らを愛しあわれんで、敵の前で彼らの上に旗を掲げられる」(『国と指導者』下巻177ページ)。

個人的捕囚における望み(詩篇102篇)

質問5 詩篇作者はどんな苦悩と不満について述べていますか。詩102:3〜11、23、24

詩篇作者は異国の捕囚となり、たえず支配者によるはずかしめを受けました。その上、彼は致命的な病気にかかっていました。パンを食べようとしても、それは口の中で灰のような味がするだけでした。彼の生きる望みはイザヤの言う草のようなものでした。「主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ」(イザ40:7)。

詩篇102:12からは、代名詞が変わっています。このことは、バビロン捕囚が70年つづくという預言を、作者が信じていたことを示唆しています(エレ25:11、12、29:14参照)。しかし、彼は自分がエルサレムに帰る前に死ぬと考えていました。

詩篇作者の信仰は失望をつらぬいて輝いています。彼が将来に目を向け、預言者の責任を負い、回復されたシオンの栄光について描写しているからです(詩102:3〜11、13〜17、23、24)。彼は再建されたエルサレムのことを考えていました。事実、それはエズラ、ネヘミヤをはじめとする当時の預言者の時代にある程度、再建されていました。

しかしながら、新エルサレムはまだ来ていません。それは、主ご自身が栄光のうちに現れ、罪を終わらせ、永遠の正義を確立されるときに実現します(詩102:22—黙示21:1〜3比較)。

質問5 詩篇作者はどんな苦悩と不満について述べていますか。詩102:3〜11、23、24

王の王としての主の栄光に満ちた来臨は、各時代の希望でした。希望は事実を予期させるもので、信仰を強めてくれます。過去の経験は将来の経験を反映するものです。

キリストは「有って有る者」、永遠から存在されるおかたです(ヨハ8:58)。その力は無限です。彼の創造された作品(とくに地球)は、新しい世界への道をひらくためにいつか滅ぼされます。ヘブル人への手紙の著者は詩篇102:25〜27を引用して、キリストの永遠の存在について語っています(ヘブ1:10〜12)。

祈り 主よ、私が悩みに直面するとき、あなたの約束が成就する将来に目を向けさせてください。

国家的捕囚における望み(詩篇137篇)

二都物語

詩篇作者は神の民の敵に対する報復を祈り求めています。しかしながら、この詩篇の主題は自分の罪を悔い改めた民の悔恨の念と、また自分たちの国民的遺産に対する強い忠誠にあります。

それはまた二つの都についての物語でもあります。これは、大淫婦バビロンに対するキリストの花嫁であるシオンの霊的勝利を象徴しています(黙示21:2、17:5参照)。

質問7 ユダヤ人がバビロンの捕囚となった根本的な理由は何でしたか。歴代下36:14〜21

それは彼らの背信、反逆、不信仰の結果でした。しかしながら、捕囚の民の中にも神の律法に従う忠実な者たちがいました。

質問8 捕囚の民がバビロンでシオンの歌をうたうことができなかったのはなぜですか。彼らはエルサレムのほかに何を思い出しましたか。詩137:2〜4、7〜9

「ユダ王国の終局を画した破壊と死の暗黒の時代に、もし神の使者たちの預言者的言葉の励ましがなかったならば、どんなに勇気のある人をも失望させたことであろう。主は、エルサレムにおけるエレミヤ、バビロンの宮廷におけるダニエル、ケバル川のほとりのエゼキエルなどによって、いつくしみ深くも神の永遠の計画を明らかにし、神は、モーセの書に記された約束を、神の民に喜んで成就してくださるという確証をお与えになった」(『国と指導者』下巻80ページ)。

詩篇137:9の意味

「昔の戦争における習わしであったとはいえ、罪のない子供たちを殺すことはあらゆる行為の中でもっとも残忍で、忌まわしいものの一つであった(列王下8:12、イザ13:16、ホセ10:14参照)。このような残忍な行為がバビロニヤ人によってなされていた事実を思い(エレ51:24参照)、詩篇作者はただ、『あなたがしたようにあなたもされる』(オバ15—マタ7:2比較)という生命の法則を宣言しているわけである」(『SDA聖書注解』第3巻923ページ)。

解放(詩篇126篇、76篇)

質問9 主がユダをその試みから解放されたとき、ユダの人々はどのような思いに満たされましたか。詩126:1〜3

永続的なあかし

ユダヤ人が神の奇跡的な働きをほめたたえたのはもちろんですが、周辺の異教徒の国々もエホバの働きを確信しました。「イスラエルの周辺の国々は、ご自分の選民のための神の奇跡をなす力をたえず思い起こした。このような力のあらわれが異教徒にまことの神を知らせる手段となることが、神の目的であった」(『SDA聖書注解』第3巻912ページ)。

詩篇126篇は、アッシリヤのセナケリブによる恐るべき侵略と、ユダの荒廃・エルサレムの包囲後における彼の信じがたいほどの敗北とを背景にして書かれています(イザ37:33、36参照)。

主はヨブの繁栄をもとに返されたように、祈っているご自分の民をアッシリヤ軍の手から助けられました。

質問10 この驚くべき救いは詩篇76篇の中でどのように描かれていますか。詩76:1〜3、5、6、12

アッシリヤの侵略軍を敗北に導くことになったのは、ヒゼキヤの熱心な祈りでした。「今われわれの神、主よ、どうぞ、われわれを彼〔セナケリブ〕の手から救い出してください。そうすれば地の国国は皆あなただけが主でいらせられることを知るようになるでしょう」(イザ37:20)。神はイザヤを通して、ヒゼキヤの祈りに直ちに答えられました。あなたは「アッスリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったゆえ、主が彼について語られた言葉はこうである、……彼はこの町にこない。またここに矢を放たない」(イザ37:21、22、33)。

主はご自身の預言を成就されました。詩篇作者は次のように述べています。「雄々しい者はかすめられ、彼らは眠りに沈み、いくさびとは皆その手を施すことができなかった。ヤコブの神よ、あなたのとがめによって、乗り手と馬とは深い眠りに陥った」(詩76:5、6)。

「『アッスリヤの高ぶりは低くされ、エジプトのつえは移り去る』(ゼカ10:11)。これは神に逆らった古代の国家だけでなくて、神のみこころを実現しない現代の国家においても同様である」(『国と指導者』上巻 334ページ)。

質問11 詩篇126:5、6は現在と将来の出来事にどのように適用することができますか。

まとめ

私たちはサタンのおもちゃではありません。私たち自身の愚かさのゆえである場合もありますが、彼はさまざまな苦しみを私たちにもたらします。しかし、私たちにはこの強い悪天使よりも力ある神がついています。神は私たちの祈りにこたえて、助けと力と勝利を与えてくださいます。

*本記事は、C・レイモンド・ホームズ(英:C. Raymond Holmes)著、安息日学校ガイド1992年2期『詩篇73-150篇 失望から栄光へ』 からの抜粋です。

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