【詩篇解説】失望から栄光へ#3 〜神の民の特徴〜

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諸帝国の興亡

私たちはイスラエルをはじめ、さまざまな国々の歴史から多くの教訓を学ぶことができます。過去におけるさまざまな帝国の興亡は、どんなに良く統治された国でもさらに強い権力によって必ず滅ぼされるという事実を例示しています。こうして、弱い国は優位を占めようとする別の野心的な権力者の犠牲となるのです。

「つぎつぎに現われては、割りあてられた時と場所を占めて、自分では意味のわからない真理を無意識のうちに証明した各国の歴史はわれわれに物語っている。神は、今日どの国家にもどの個人にも、ご自分の大いなるご計画の中にそれぞれの立場を割り当てておいでになる。今日、国家も個人も誤ることのない神のみ手にある『はかりなわ』で測られているのである。われわれはみな自分自身の選択によって、自らの運命を決定しているのであって、神はご自身の目的の成就のためにすべてを支配されている」(『教育』211ページ)。

歴史の教訓(詩篇78篇)

質問1 イスラエル人が自分たちの歴史を子孫に伝えたのはどんな動機からでしたか。詩78:4〜8(出エ10:2、申命4:9、10、6:6〜9、20比較)

神はモーセとエジプトを出た人々に対して、出エジプトの出来事を心にとめるように教えられました。彼らは自分の子供と孫に出エジプトの出来事とその意味を話して聞かせなければなりませんでした。

イスラエルの歴史はモーセやヨシュアの業績をたたえるためのものではありませんでした。それが記録されたのは、人々が神からモーセに与えられた律法を守り、指導者たちの柔和というすぐれた資質に学ぶためでした(民数12:3)。主が民とお会いになった聖なる箱は、罪深い民を救うためのものではありませんでした(詩78:60)。神によって選ばれた彼らの王は民を養う牧者であって(70〜72節)、自分の力で戦い、ペリシテ人に勝利した王ではありませんでした。

質問2 詩篇作者はイスラエルの歴史を要約するにあたって、どんなめざましい出来事に注目していますか。

詩78:9〜11、61〜67
詩78:12、13、43〜51
詩78:14〜29、52〜55

詩篇 78篇に記された歴史は出来事を年代順に述べたものではありません。この詩篇はパレスチナにおける定住と君主制の確立をもって終わっていますが、サウルについての言及はありません。意義深いことに、それは民の反逆、欲望、強情さ、不信仰について詳しく述べています。

イスラエルは彼らの肉体的、霊的必要に対する神の配慮に対して悲しむべき応答をしています(詩78:8、10、11、17、19、22、32、40〜42、56〜58参照)。その告白と悔い改めでさえ、しばしば真の誠意が欠けていました(78:34〜37参照)。へつらいの言葉や不まじめな態度は悪を正すどころか、むしろそれを助長します。

イスラエルに対する神の態度(詩篇105篇)

詩篇105篇の最初の15節はダビデによって作られ、契約の箱がエルサレムに移されるときに儀式の一部として歌われたものです(歴代上16:1、2、7〜22参照)。

質問3 この詩篇は歴史のどの時期を扱っていますか。詩105:8、9、42〜44 

11節はカナンの地についての約束を、44節はその約束の成就について述べています。族長のイサクやヤコブのことが、また試練のときにも忠誠を保ったヨセフのことが語られています。エジプトの災害のこと、またイスラエルの荒野における経験のことも記されています。通算して 450年間のことが述べられています。

詩篇105篇は神の恵み、約束、守り、奇跡についての賛美の歌です(1、2、5、7、8、14、15、39〜44参照)。

質問4 神がイスラエルをカナンに定住させようとされた最終的な目的は何でしたか。詩 105:7〜11、45

主要な交易ルートの十字路にあって、イスラエルは北、南、東の諸国民と接触することができました。もし神の定めを忠実に守っていたなら、彼らは霊的に、また物的に豊かな祝福にあずかっていたはずです。エホバの神は異教徒の拝む木や石の神々をはるかに超越したおかたであることが明らかになっていたはずです。

たえず更新される契約

神の永遠の恵みの契約は「よろず代」に与えられたものです(詩 105: 8)。アダム、エバ、アブラハムに与えられたのと同じ救いの方法が、旧約時代の全人類に与えられていました。主はシナイにおいてもこれと同じ条件、つまり来るべきメシヤに対する信仰によって救われるという永遠の契約をイスラエルに与えられました(出19:5、ガラ3:15〜17参照)。申命記5:3には、すべての人が永遠の契約の条件のもとで神との個人的な関係に入らなければならないと強調されています。私たちは自分の先祖の霊的経験によって救われるのではありません。

神に対するイスラエルの態度(詩篇106篇)

この詩篇は「主をほめたたえよ」という言葉をもって始まり、終わっていますが、その内容は必ずしも賛美にふさわしいものではありません。同じ賛美をもって始まり、終わっている詩篇 105篇と全く対照的です(ギリシャ語の旧約聖書である七十人訳では、詩篇104篇の最後の言葉が105篇に来ています)。105篇と同じく106篇も、内容に多少の違いがありますが、やはりイスラエルの歴史について詳しく述べています。

質問5 ここにはイスラエルのどんな罪があげられていますか。詩106:6、7、13、14、16、19

紅海における奇跡がたたえられたと思うまもなく、すぐにそれが立ち消えになっています(13節)。やはり年代順にはなっていませんが、イスラエルの罪として、たとえば金の子牛を拝んだこと(19〜23節)、コラの反逆(16〜18節—民数16:1〜35比較)、モアブの境界における背信(28〜31節—民数25:1〜8比較)があげられています。モーセの一時的な悲しむべき過失に対しては、民にも責任がありました(32、33節)。彼らはカナンの巨人を打ち破る神のカを信じなかったために、約束の地に入る特権を失いました(24〜27節—民数13:31、14:1〜13比較)。

質問6 主は民の不従順にどのように応答されましたか。詩106:8〜10、43〜46(23、26、27、40、41節比較)

神のあわれみと正義は表裏一体のものです(詩101:1参照)。あわれみが与えられているからといって、罪人は故意に罪を犯しつづけてもよいわけではありません。

詩篇106:6の告白を最後の47、48節と比べてください。真心からの告白には主のゆるしと助けがともないます。主の優しいあわれみは何とすばらしいのでしょう。「だれがあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか。神はいくつしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ〔られる〕」(ミカ7:18、19)。

神のあわれみ(詩篇136篇)

この詩篇は「大ハレルヤ詩篇」と呼ばれるもので、ユダヤの典礼文の一部でした。それは交唱や交読にふさわしいものです。

質問7 神に対してどんな種々の称号が与えられていますか。詩136:1〜3、26

「主」は、過去・現在・未来を支配される永遠のおかた、ヤーウェの訳語です。「もろもろの神の神」は、神の創造力、絶対権を示しています。「もろもろの主の主」は、神の支配と権威を意味しています。「天の神」は、全能の神を表しています。

歴史の回顧

詩篇作者はアダムの造られていなかったとき、ユダヤ人のいなかったときから歴史を語り始めています。彼は5〜9節において、創造の日々にふれ、神のいつくしみをたたえています。神は人類に最適の住まいを備えることによって大いなる愛を示されました。

質問8 神のあわれみはどんな歴史的な出来事のうちにも表されていますか。詩136:10〜22

紅海のかわいた道を導かれたときの、また荒野の放浪生活において民の健康を守られたときの神の救いの摂理と優しい守りは、私たちにもよく理解できます。しかし、エジプトの初子の殺害、エジプト人の水死、アモリ人の殺害はどう考えたらよいのでしょうか。

この地上は、キリストとサタンとの、善と悪との大争闘が繰り広げられている宇宙の舞台です。パウロは、「わたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ」と言っています(Ⅰコリ4:9)。

全能者なる神は、恵みの限度をこえて罪を犯し、しかも悔い改めない人間を滅ぼされます。これも神のあわれみの一面なのです。神はからだ全体を救うために悪い細胞を除去されます。

更生したイスラエル(コリントの信徒への手紙一 10章1節〜13節)

質問9 イスラエルの歴史は今日のキリスト教会とどんな関係がありますか。Ⅰコリ10:1〜13

「使徒によってここ〔Ⅰコリ10:1〜5〕に語られ、詩篇105、106篇に記されたイスラエルの経験は、終末時代の神の民にとってとくに学ぶ必要のある警告についての教訓を含んでいる。私は、これらの章を少なくとも週に一回、読むようにお勧めする」(『牧師へのあかし』98ページ)。

霊的イスラエルとはだれのことか

イスラエルの民が紅海を渡ったことや荒野において神にそむいたことなどは、コリントの信者にはあまりよく知られていませんでした。この悪徳の町コリントには、キリストに回心したユダヤ人もいましたが(使徒18:1、2)、同時に、ユダヤ民族の歴史を教えられたことのない非ユダヤ人もいました。これらの人たちは共に「霊的イスラエル」を構成していました。

「コリントにおけるパウロの努力には、成果がなかったわけではない。多くの者が偶像礼拝を離れて生ける神に仕えるようになり、一つの大きな教会がキリストの軍旗の下に編入された。異邦人の最も放縦な者たちの中からも、救われる者たちがいて、神のあわれみと、罪からきよめるキリストの血の効力についての、記念碑となった」(『患難から栄光へ』上巻273ページ)。

異邦人伝道は神の本来の計画であり、パウロはそれに従ったのでした。パウロはこのコリントで次のように言っています。「今からわたしは異邦人の方に行く」(使徒18:6)。

このようなわけで、「イスラエル」という言葉は広い意味を持っています。今や、それは信仰によってキリストを救い主として受け入れるすべての人を含むのです。初期のエルサレム会議もこのことを認めています(使徒 15: 17参照)。

ヘブル人の中のヘブル人であったパウロ自身、はっきりと述べています。「救いが異邦人に及んだのです」(ロマ11:11、新改訳)。彼はまた異邦人にこう書き送っています。「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラ3:29­—ロマ3:29比較)。

神のみことばによって生きる者たちは今や、神の最初の選民の霊的後継者となったのです。イスラエルの歴史は、約束の地の境界に立つ残りの教会にとって非常に重要な教訓を与えています。

まとめ

今日の教会は新しい教会員、若い教会員に過去の経験についてもっと教える必要があります。神が奇跡的な摂理によってご自分の民を導いてこられたことを学ぶとき、信仰が強められ、キリストの賜物をしっかりと自分のものにすることができます。

*本記事は、C・レイモンド・ホームズ(英:C. Raymond Holmes)著、安息日学校ガイド1992年2期『詩篇73-150篇 失望から栄光へ』 からの抜粋です。

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