【詩篇解説】失望から栄光へ#8 〜霊とまこととをもって礼拝する〜

目次

忠実な礼拝者たち

イギリス政府は1916年、一定の年齢に達した男子に対して兵役を義務づけました。14人のセブンスデー・アドベンチストがこのとき良心的兵役忌避者とされ、フランスでの労働の任務につきます。しかし、彼らは安息日に働くことを拒んだため軍法会議にかけられ、6カ月の懲役刑となり、独房にいれられました。営倉の所長は彼らの考えを改めさせるために、別々によんで、仲間は全員、安息日に働くことに同意したので、愚かな考えを捨てるようにと告げました。しかし、彼らはみな神の聖日に働くことを拒否し続けました。彼らは自分の独房の中で安息日に働いている仲間のことを考えました。そんなとき、いちばん端の独房にいた一人が「わが霊のひかり、すくい主イエスよ」という賛美歌を口ずさみました。それは詩篇27:1にもとづいて作られた賛美歌でした。すると、向かいの独房にいた仲間の一人が次の数小節を静かに口ずさみました。このようにして賛美歌が次々と伝わっていき、各自が信仰を守っていることを知ったのでした。彼らは、どんなときにも霊とまこととをもって神を礼拝すべきことを学んだのでした。

捕囚時の礼拝(詩篇84篇1節〜4節)

この詩篇は、ダビデが捕囚となっていて聖所で礼拝をすることのできなかったときに書かれました。それは次の三つの部分に分けられます。(1)礼拝することのできない現状についての描写。(2)ほかの人々と礼拝をするためにシオンに上る光景の描写。(3)聖所に着いたときの描写。この短い詩篇の各部分、つまり第1部の終わり(4節)、第2部の初め(5節)、第3部の終わり(12節)に、それぞれ祝福が述べられています。

質問1 聖所から離れていたときにも、ダビデの心中にはどんな大いなる願望がありましたか。詩84:1、2

ダビデは自分の願望を、狩り立てられて渇きのために弱りはてたしかにたとえました(詩42:1参照)。人間は祝福を失うまではそのありがたさに気づかないものです。神の家で礼拝する自由は当然のことと考えられがちです。しかし、病気、迫害、その他の障害によってこの特権が奪われるとき、私たちはダビデの願望を理解するようになります。

質問2 ダビデはどんなたとえを用いて、聖所に来る人たちを描写していますか。詩84:3

アイザック・ウォッツは、詩篇84篇の思想を次のような印象的な言葉によって強調しています。

「すずめは休息のための場所を選び、

そのひなのために巣をつくる。

しかし、私の神はすずめたちに

ご自分の子らの求めるような楽しみを与えられるだろうか」

(『ダビデの詩篇』45ページ)

第1の祝福

最初の祝福は聖所の中で日ごとの務めをする者たちに対して与えられています(詩84:4)。聖所における日ごとの務めはいくつもの働きによって成り立っていました。それは次のようなものでした。門を守る者たち、宝を守る者たち、器を守る者たち、麦粉・油・ぶどう油・香料を守る者たち、せんべいを作る者たち、歌をうたう者たち(歴代上9:22〜33参照)。

礼拝の鼓吹(詩篇84篇5節〜8節)

質問3 第2の祝福は何ですか。それが私たちの信仰生活に欠かせないのはなぜですか。詩84:5〜8

ダビデは礼拝の場所に旅する力を神に求める巡礼者の姿を想像することによって自らを慰めています。アイザック・ウォッツはこれを次のように説明しています。「その心がシオンの門にいたる道に向けられている人たちはさいわいです」。

しかし、それは必ずしも安楽な道ではありません。巡礼者はバカの谷を通らなければならないからです。「バカは『バルサムの木』(サム下5:23)または『ヤマナラシ』(新英語聖書)と訳されている語の単数形であって、不毛の地にはえる木や低木をさすと考えられている。したがって、新英語聖書では『乾燥した谷』となっている」(デレク・キドナー『詩篇73〜150篇』305ページ)。文脈からは、疲れ果てた巡礼者の一団が泣いている情景が浮かんできます。旅に疲れた人たちが泉からわき出る美しい水を見つけることは、たしかにさいわいなことです。彼らは新たな力に満たされて、また旅を続けることができます。

質問4 神はローマに向かう使徒パウロをどのように力づけられましたか。個人的な励ましはどれほど効果がありますか。使徒28:15

「パウロは重い心で、長い間期待していた世界の首都〔ローマ〕への訪問に出発したのである。……

彼らが大通りにむらがる群衆をわけて進んで行くと、かたくなな顔つきをした犯罪人と一緒に鎖につながれた白髪の老人は、多くの人々の侮蔑的な流し目を受け、多くの無礼な嘲笑のまととなる。

突然歓喜の叫びがきこえたかと思うと、ひとりの男が通りがかりの群衆の中からとび出してきて、その囚人の首にしがみつき、あたかも息子が長い間留守をしていた父を迎えるかのように、涙とよろこびをもって抱きしめる。……

パウロの鎖を恥とせず、かえって同情して泣く信者の群れの真中にあって、使徒は声高らかに神を讃美した。彼の心にたれこめていた悲しみの雲は一掃された」(『患難から栄光へ』下巻139、141ページ)。

会衆の礼拝(詩篇84篇9節〜12節、103篇)

質問5 第3の祝福を受けるのはどんな人たちですか。詩84:12

信頼は証拠の上に成り立っています。神はご自身を信頼に値するおかたとして示しておられます。「主に信頼する」という表現は、詩篇だけでも60回ちかく出てきます。イザヤは信頼する理由について次のように述べています。「とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである」(イザ26:4、字義的には「ちとせの岩」—イザ12:2比較)。主が私たちの側に立たれるのですから、恐れることはありません。

巡礼者はついに聖所に到着し、心からの喜びをもって賛美と感謝をささげます。この喜びは詩篇103篇に表されています。

質問6 詩篇103篇にはいくつ不平が述べられていますか。ゆるしとあわれみへの言及はどうですか。

この詩篇はヘブル語アルファベットと同じ数の22節から成り立っています。しかし、その自発的な歓喜の表現は退屈な字並べだけに終わってはいません。その構成は個々の礼拝者(1〜5節)からイスラエルの子らへ(6〜18節)、またイスラエル国民(7節)から全天とその住民(19〜22節)による賛美の大合唱へと広がっています。

質問7 神に感謝すべき祝福がいくつあるか数えてください。詩103:3〜6、8〜13

「アレキサンダー・ホワイト博士はこの詩篇が好きであった。彼のような解釈をした人はあまりいない。彼によれば、これらの聖句のうちに法廷がある。—すべての不義をゆるし。病院がある—すべての病をいやし。奴隷市場がある—いのちを墓からあがないいだし。謁見室がある—いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ。大宴会場がある—良き物をもってあなたを飽き足らせられる」(W・G・スクロギー『聖書を知る—詩篇』第3巻24ページ)。これに、移植病院をつけ加えることができます—あなたは若返って、わしのように新たになる。

礼拝の場所(出エジプト記3章1節〜6節、ヨハネによる福音書4章24節)

質問8 礼拝の場所に欠かせない条件は何ですか。ヨハ4:24(出エ3:1〜6比較)

礼拝はふつう一つの場所に集まった仲間とともに行われるものです。これがいちばん望ましいかたちです。しかし、礼拝は特定の建物や団体に限定されるものではありません。

野外礼拝

「荒野の奥」(出エ3:1)は、礼拝をささげる場所としては最適のところではないかもしれません。ソロモンの神殿、ロンドンのウェストミンスター寺院などの有名な場所とはきわめて対照的なところです。しかし、モーセにとってそれは神の臨在によってきよめられた礼拝の場所でした。

同じように、エサウの怒りから逃れてきたヤコブは、「自分が放浪の身に陥ったことを感じた。……その極度の寂しさのなかで、これまでになかったほどに神の保護の必要を痛感した。……彼は、神が自分と共におられるという厳粛な感に打たれた。見えない臨在が寂しい場所に満ちていた」(『人類のあけぼの』上巻198、200ページ)。彼は告白して言いました。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世28:16)。彼はその所の名をベテル(神の家—17節)と名づけました。

ステパノもその弁明の中で同じ心理を強調しています。彼はソロモンの神殿に言及したあとで次のように述べています。「いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない」(使徒7:48)。そのあとで、イザヤ書66:1を引用しています。

質問9 団体で礼拝することにはどんな利点がありますか。ヘブ10:24、25

礼拝は単なる個人的な問題ではありません。終わりの時代においては信者同士の相互の励ましがとくに必要とされます。

公同の礼拝の祝福

「神に仕えて、お互いを力づけ励まし合うために、共に交わる特権を怠るときに、われわれは損失をこうむる。神の言葉の真理は、われわれの心の中で、その活気と重要性を失ってしまう。われわれの心は、清めの力によって、啓発覚醒されなくなり、霊的に低下する」(『人類のあけぼの』下巻184ページ)。

絶えざる礼拝(詩篇134篇)

ジョン・エラトンはその賛美歌「み神のたまいし、この日も暮れけり」の中で、クリスチャンはまるい地球の上でたえず神を賛美しているという遠大な思想をうたっています。「光に向かいてめぐる地とともに」、朝の賛美がたえずどこかの国でささげられています。

この意味で、「地にあるみ民はみわざにいそしむ」と言えます(『ニュー・アドベント・ヒムナル』323番)。

質問10 聖所においては、どのようにしてたえず礼拝がささげられていましたか。詩134:1

多くの祭司・レビ人が日ごとに聖所の務めに携わっていました(歴代上9章参照)。彼らは「みな神の宮の務をするのに、はなはだ力のある人々であった」(歴代上9:13)。これらの務めはすべて礼拝の一部でした。神の家を守る者たちは「そのまわりに宿」り(27節)、歌うたう者たちは「日夜自分の務に従」いました(33節)。

詩篇134篇は3節からなっており、一日の終わりを描写しています。礼拝者たちは門を閉じる前に聖所を去っていきます。彼らは夜の務めをするために神殿にきたレビ人をふりかえり、詩篇134:1、2の言葉をうたいます。これに対して、夜の見張人たちは会衆の上に神の祝福があるようにとうたいます。

質問11 クリスチャンは物をささげるほかにどんなささげ物をすることができますか。詩119:108(ヘブ13:15比較)

賛美はダビデの「自発のささげ物」でした(英語欽定訳)。

「イスラエルの子らが、先祖のために行われた神の救済とエジプトからの旅の間の奇跡的保護とを祝ったように、われわれは、神があらゆる方法を講じて、われわれをこの世と誤りの暗黒の中から救い出して神の恵みと真理の尊い光の中に入れてくださったことを思い出して感謝すべきである」(『人類のあけぼの』下巻183ページ)。

「朝に昼に夜にかおり高い香水のように感謝を天に上らせなさい」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』230ページ)。

意気消沈したときには、主のあわれみを思って主を賛美するようにしなさい。そうすれば、驚くほどの肉体的、心理的、霊的祝福を受けます。

まとめ

人間は知的能力と共に霊的能力を与えられていて、それは創造主を礼拝することにおいて表されます。礼拝は霊的な瞑想において、聖書研究や祈りにおいてばかりでなく、同じ信者と共にささげることもできます。神の栄光をたたえる賛美をささげ、私たちの魂を神の臨在で満たすことも礼拝です。

*本記事は、C・レイモンド・ホームズ(英:C. Raymond Holmes)著、安息日学校ガイド1992年2期『詩篇73-150篇 失望から栄光へ』 からの抜粋です。

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