被造物に対する神の関心
「哲学者たちは、啓蒙運動の始まり〔18世紀〕と共に、自然界が因果の法則によってひとりで動いてると次のように考えた。理性を備えた神が理性をもった人間に理解されるように合理的な世界を創造された。……いわば、神は天の時計職人であって、完全な時計を造り、そのねじを巻き、自然に動くままにされたのである。少しでも手を出すなら、その時計は狂うか、止まってしまうだろう。この哲学は大いに神の栄光をあらわすものと考えられた。万物の完全性と秩序は神の完全性と秩序を反映していた。しかしながら、実際には、この考えは正しく神を伝えてはいなかった。神は単なる『第1原因』とされ、代わって人間が、世界の支配者とまではいかなくても、少なくとも自らの理性によって世界を理解する者とみなされた。
しかし、聖書の神はこの地球に対して心からの関心を払っておられる。それが詩篇104篇の主題である」(ドナルド・M・ウィリアムズ『コミュニケーターズ・コメンタリー、詩篇73〜150篇』241ページ)。
無生物界(詩篇104篇1節〜9節、19節、20節)
質問1 詩篇作者はその創造についての情報をどこから得たのでしょうか。詩104:1〜9、19、20、創世1:1〜19
詩篇104篇は詩的な叙述であって、創世記1章の内容と完全に一致するわけではありません。この詩篇には、創造の働きに何日かかったかは明示されていません。しかし、創世記1章に述べられている1日は夜と朝、やみと光とからなる今日の24時間の1日と同じであることには疑問の余地がありません。
進化論が広く受け入れられている現代においては、週が順序正しく続いていること、また週が年、月、日と違い、天体の運行にもとづかない7日間からなっているということは、創造が神の権威によるという聖書の記録の真実性を裏づける一つの証拠となります。「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」(詩33:6)。
質問2 「神は自然の中におられる」ということと「神は自然である」ということとの決定的な違いは何ですか。詩104:24、ロマ1:20
前者は創造論の考えであり、後者は汎神論の考えです。「神が造られた自然の事物自体は自然界における神ではない。自然の事物は神の品性と力の表現であるが、わたしたちは自然を神と思ってはならない。……出来上がったものは製作者の考え方をいくぶん示しているが、それが製作者ではない。名誉の対象となるのは作品ではなく、製作者である。したがって自然界は神の思想の表現であって、あがめるべきものは自然ではなく、自然界の神である」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』385、386ページ)。
質問3 恵み深い神の造られたこの自然界にも多くの矛盾や問題があるのはなぜですか。マタ13:24〜30、イザ65:25
火事、洪水、地震、噴火、台風などは完全な世界の特徴ではありません。詩人テニソンは、「赤い歯と爪をもった自然」と言っています。自然界をこのように変えたのは神の敵であるサタンです。「地は、罪のために傷つけられ汚されたために、創造主の栄光をかすかにしか反映できない。しかし、神の実物教訓が地上から消し去られていないことは事実である。……自然は今もなお、その創造主を物語っている。しかし自然界の啓示は、部分的であり、不完全である」(『教育』6ページ)。
生物界(詩篇104篇10節〜18節、21節〜30節)
生命の神秘
長いあいだ支持されてきた自然発生の考え方に代わって、生命だけが生命を生み出すことができるという考えが支持されるようになったとき、生物学は大いに進歩しました。植物と動物が持っている生命は、それらを他のあらゆる無生物と区別するものです。
質問4 生命はこの地上にどのように発生しましたか。詩104:30、創世1:26、30、2:7
「生きた者」についての聖書の定義(創世2:7)によれば、土のちり+神の息=生きた者、となります。神の息が取り去られると、生物は死にます(詩104:29、エゼ18:4)。
顕微鏡の発明後、ロバート・フックは1665年に、コルクの木の樹皮が比較的大きな仕切りからなっていることに気づきました。彼はそれを、修道院のあいている個室にたとえて細胞と名づけました。それから1世紀半すると、すべての動植物が細胞からなり立っていることがわかりました。植物の細胞はふつう丈夫な壁を持っていますが、動物の細胞はうすい膜を持っています。さらにこの「単細胞」をくわしく研究した結果、そこにDNA(デオキシリボ核酸)とRNA(リボ核酸)という大きならせん状の分子があることがわかりました。それらは「遺伝情報」を持っていて、生命体の細胞の成長と増殖を支配しているのです。
ダビデは限られた知識しか持っていませんでしたが、「わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている」と言っています。(詩139:14、新共同訳)。
質問5 自然界はそれ自身を支えることができますか。ヘブ1:3(コロ1:16、17、使徒17:28)
「しかし神の能力は、いまもなお、お造りになった物をささえるために働いている。脈拍がうち、呼吸がつづけられるのは、一度動きはじめた機械組織が、その固有のエネルギーによって活動をつづけるせいではない。呼吸の一つ一つ、心臓の鼓動の一つ一つは、われわれの生命と活動と存在の根源である神の守りの証拠である。…すべての世界を空間にささえ、宇宙の万物を整然たる秩序と倦むことのない活動の中に保つみ手は、われわれのために十字架に釘づけされたみ手である」(『教育』141、144ページ)。
最高のみわざ(詩100篇、104篇23節、30節〜35節)
質問6 人間はどんな点において動物よりもすぐれていますか。詩8:5〜8、創世1:26、28、9:2
聖書の影響を受けていない論理学者は、人間を理性的な動物と定義し、ほかの生物と区別しています。人間はまたその宗教的な本能からくる霊的な特性を持っています。
「神は、創造の最高作品である人間が、すべて人間より下等なものにまさって神の思想をあらわし、その栄光を示すように望んでおられる」(『ミニストリー・オプ・ヒーリング』 388ページ)。
(『人類のあけぼの』上巻 18、 20ページ参照)。
七十人訳聖書は、詩篇8:5を「神よりいくらか劣るもの」と訳しています。人間は宇宙の中の点にすぎません。しかし、人間は神のかたちに造られているので、考え、礼拝する能力を持っています。したがって、神の被造物の中で最もすばらしい作品です。地上の生き物の中で人間だけが、その創造主を理解することができます。
知識とへりくだり
「自然の神秘を深くさぐればさぐるほど、人間の無知と弱さを認めないではいられない。……まだ踏み入ったことのない広大な真理の分野が目の前にひろがっているのが認められる。『私は未知の真理の大海を前にして波打ちぎわで小石や貝がらをさがしている子供のようなものであったと自分自身が思える』と言ったニュートンの言葉は、そのままわれわれの言葉である」(『教育』146ページ)。
質問7 創造主はその権力と対照的にどのようなおかたですか。詩100:3
偉大さは必ずしも優しさを、また権力は必ずしも親切心をともなうものではありません。しかし、全能者は羊飼いのあらゆる特徴を備えておられます。「われわれはみな羊のように迷って」しまいましたが(イザ53:6)、良い羊飼いイエスは迷った羊をさがし、それを救うためにご自分のいのちを捨てられました(ヨハ10:11、ルカ15:4)。イエス・キリストは創造主であり、羊飼いであり、救い主です。
質問8 被造物は創造主に対してどのように応答すべきですか。詩100:1〜5、104:33〜35
私たちは喜ばしい歌をもって神をほめたたえるべきです。
創造の記念(詩篇92篇)
詩篇92篇の表題に示されているとおり、これは安息日のための歌です。それは今でも安息日にユダヤ人の会堂において歌われています。
質問9 この詩篇が安息日にふさわしい歌とされるのはどうしてですか。詩92:4、5
安息日の戒め(出エ20:8〜11)は、この日が神の創造力を記念するものであることを覚えるように私たちに求めています。
創造主との交わり
「安息日はわれわれの思いを自然に向けさせ、われわれを創造主とのまじわりにはいらせる。……こうしてわれわれは、自然界の中に神の力を見るとき、そこに慰めを見いだすのである。なぜなら、万物をおつくりになったみことばは、魂にいのちを語ることばだからである」(『各時代の希望』上巻361ページ)。
安息日はなまけるときではなく、私たちを創造主とのより深い交わりに入らせるものです。安息日は私たちに神の創造力とあがないの力を思い出させるものです。
質問10 使徒パウロは物的なものと霊的なものとをどのように比較していますか。Ⅱコリ4:16〜18
パウロの苦しんだ「軽い患難」、つまり肉体的な苦しみと霊的な苦悩は、コリント第Ⅱ・11:23〜28でさらに説明されています。回心から死にいたるまでパウロを苦しめたこれらの重荷は、救い主についての幻と義の冠に比べるなら取るに足らないものでした(Ⅱテモ4:8)。
質問11 主に仕える人たちに対してどんな約束が与えられていますか。詩92:12〜15
私たちは安息日には主の家に行くべきです。私たちはそこで、岩なる主について、その救いの力について、その再臨について、そのみこころについて、その聖霊による臨在について学ぶことができます。主は私たちをなつめやしの木のように栄えさせてくださいます。生ける水の泉にまで根をおろすことができるからです。
不変の戒め(詩篇111篇)
詩篇111篇の半分に「わざ」または「みわざ」という言葉が出てきます。これは私たちに、神が「その作業を終え」て、休まれた最初の安息日を思い起こさせます(創世2:2)。
質問12 この詩篇のどんな言葉がシナイで与えられた律法を思い出させますか。詩111:4、5、7、9
創造のほかにも、主のすばらしいみわざはたくさんあります。それらはたとえば、神の民のエジプトからの解放、荒野において40年間、マナが与えられたこと、約束の地の征服、神の民の捕囚からの解放などです。過越しの祭りはこれらを思い出すための祭りです。しかし、契約という言葉はシナイと十戒を思い起こさせます。「覚えて」という言葉は十戒の中で1回だけ、安息日を守るようにという戒めの中に出てきます。
質問13 キリストは安息日に対してどのような態度をとられましたか。マタ5:17〜19(ルカ4:16、マル1:21、2:27、28比較)
キリストは安息日の戒めを含む神の律法を支持されました。そして、律法学者によって付加された人間の規則を嘆き、非難されました。それらは多くの世俗の伝承によって安息日を乱していました。安息日が初めに制定され、それから人間がそれに順応するために造られたのではありません。人間は6日目に造られ、安息日は人間の祝福となるために7日目に制定されました。
「キリストの時代に、安息日はまったくゆがめられていたので、安息日を守ることは、愛に富まれる天父のご品性よりはむしろ利己的でわがままな人間の品性を反映していた。……彼ら〔ラビ〕は、人々に、神を暴君としてみさせ、神のご要求通りに安息日を守るときに、人は無情になり残酷になると考えさせた。このような誤った観念をとり去ることがキリストの働きであった。ラビたちは冷酷な敵意をいだいてキリストについてまわったが、キリストは彼らの規則に一致しようとする様子さえお見せにならないで、神の律法に従って安息日を守りながらまっすぐ進まれた」(『各時代の希望』上巻364、365ページ)。
まとめ
週ごとの安息日は神から私たちに与えられたものです。それは神の完全な創造の記念です。安息日を忠実に守ることは、神の印を受ける民の特徴です。それは再創造、つまりあがないについての神の計画を受け入れることを意味します。そのとき罪と罪人は永遠に滅ぼされ、完全な調和、平安、安息があがなわれた人類に回復されます。
*本記事は、C・レイモンド・ホームズ(英:C. Raymond Holmes)著、安息日学校ガイド1992年2期『詩篇73-150篇 失望から栄光へ』 からの抜粋です。