王の王を選ぶ
1620年、ピルグリム・ファーザーズは新世界における新しい生活を夢みて、ヨーロッパを後にしました。とくに最初の冬の開拓生活は過酷なものでしたが、彼らの良心は晴ればれとしていました。彼らは王も法王も、政治的、宗教的独裁者もいない土地に家郷を求めたのでした。そして、議会や教会の妨害を受けることなく、神に感謝をささげることによって最初の収穫を祝いました。当時のヨーロッパの国々にはそれぞれの君主がいましたし、その最大の宗教は独裁主義者の法王を持ったローマ・カトリックでした。私たちは独裁主義者による支配を経験していないかもしれませんが、過去には国民を社会的、宗教的に虐待した絶対権力があったことは記憶に新しいところです。しかし、王の王なる神は独特なおかたです。神は無限で絶対的な権力を持っておられますが、それを乱用されることは決してありません。神は思いやりと恵み、あわれみに満ちたおかたです。その王国は平和に満ちた永遠の王国です。
創造主なる王(詩篇93篇)
質問1 主の特性としてどんなことがあげられていますか。詩93:1、2、5
最も偉大な王である主は、比類のない力を持っておられます。主はすべてのものを創造し、時間的にも、また地位においても、万物より先にあられました(コロ1:17)。主は時間と空間を超越した永遠のおかたであり、聖にして信頼できるおかたです。
質問2 主に逆らうことはどれほどむなしいことですか。詩93:3、4(イザ8:7、8、17:12、13、エレ46:7、8、10比較)
神が海に境を定められるのは事実ですが(詩104:9)、大水(川)や海が象徴的な意味を持つこともまた確かです。主の許しによってアッシリヤの王はユダを侵略しました。イザヤは彼を破壊的な激流にたとえています。「ここまで来てもよい、越えてはならぬ、おまえの高波はここにとどまるのだ」(ヨブ38:11)。
「大波も、海と地と空の主のおられる船を飲み尽くすことはできない。それらはみな主のみこころに喜んで従う」(メアリー・A・ベイカー『教会賛美歌』677番)。(マル4:37〜41参照)。
質問3 詩篇95:1、5〜7には、ほかに王なる神のどんな特性が描かれていますか。
主は私たちの救い主、岩のように堅固で信頼できるおかたです。主のみ手は地を造り、これを支えておられます。主はまた人間を創造し、羊飼いがその羊を守るように私たちを守ってくださいます。
長年にわたって主に養っていただきながら、神の民が主の思いやりを心にとめなかったために、主はその祝福を取り去られました(詩95:8〜11)。この終わりの時代にあって多くの祝福を受けている私たちにとって、これは大きな警告です。
保護者なる王(詩篇97篇)
詩篇97篇において、詩篇作者は自分自身の民(8節)について、また主の支配の及ぶ異邦人について語っています。主は全地の王です(1、5節)。
質問4 神の栄光が具体的にどのように描写されていますか。詩97:2〜6
雲、雷、いなずま、煙、火、地震などの自然現象は霊的な存在者について考えさせるものです(出エ19:16、18参照)。正義とさばき(詩97:2、6、8)は王なる神の特性であって、それらは神の栄光をあらわしています。主はその聖なる品性のゆえに、ご自分の臨在によって神の民を守られます。神の臨在は敵にとっては焼きつくす火です(3節)。
質問5 神のしもべの特徴は何ですか。詩97:9〜12
正義は悪と対立するものです。10節はこのことをよく示しています。神のしもべは神を愛し、悪を憎みます。キリストとサタンとの大争闘は各人の心の中でなされています。
正義や心の正しさ(11節)は善行によって得られるものではありません。年老いて子のないアブラハムは、彼の子孫が星のようにふえるという神の言葉を信じました。「アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世15:6)。使徒パウロはガラテヤ人への手紙3章において、この原則について詳しく述べています。それによれば、異邦人も私たちの義であるキリストを信じる信仰によって神の家族の一員となります(ガラ3:6、7、9、14参照)。
真理を求めている人たちは、「光は正しい人のために現れ」ることを発見します(詩97:11)。一歩一歩、彼らに安全な道が示されます。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩119:105)。詩篇97篇は光を種にたとえています(詩97:11、新改訳参照)。クリスチャンが神に近づくとき、それは芽を出し、やみを貫き通します。
「祈りの精神をもって聖書を学ぶすべての者に、神のみ言葉は明らかに示され、真に誠実な者はだれでも、真理の光にくることができる。『光は正しい人のために現れ……る』(詩篇97:11)」(『各時代の大争闘』下巻265ページ)。
聖なる王(詩篇99篇)
詩篇99篇には、聖という言葉が4回出てきます。神と神の住まれる場所が聖なるものとして描かれています。この詩篇は「ケルビムの上に〔あいだに—英語欽定訳〕座せられる」王にまず言及しています。この黄金のケルビムは、石の板を納めた箱をおおう金の贖罪所の上に、互いに向き合うかたちで置かれていました(出エ25:10、11、16〜22)。このあかしの箱は聖所の中にある至聖所に備えられていました(出エ26:33、34)。
質問6 神を礼拝するとき、私たちは神のどんな品性を思い起こすべきですか。詩99:2〜5
質問7 ゆるしのあとに報復が続いているのはなぜですか。詩99:6〜8
モーセ、アロン、サムエルに共通していたことは、彼らがみな仲保者であったということです。モーセは自分の民を救うために永遠のいのちに対する自らの望みを喜んで捨てようとしました(出エ32:32)。コラ、ダタン、アビラムの反逆のあと、大祭司アロンが「すでに死んだ者と、なお生きている者との間に立つと、疫病はやんだ」(民数16:48)。サムエルはミヅパで自分たちの罪を告白した民のために祈りました(サム上7:8〜12)。こうして、ペリシテ人は滅ぼされました。
しかし、完全な人はだれもおらず、各人が神のゆるしを必要としました。ゆるしはすぐに与えられましたが、彼らの悪には当然、報いと結果がともないました。モーセはメリバで神の権威を奪い(申命32:51)、アロンはシナイで民の圧力に屈し(出エ32:21〜24)、サムエルは自らの息子たちをさばきづかさとすることによって(サム上8:1、3〜5)、正しいさばきを曲げました。
神はこれらの人物の服従を尊び(詩99:7)、その罪をゆるされましたが(8節)、罪によって生じた結果と傷跡までは取り除かれませんでした。
質問8 礼拝することと聖であることとの関係がどのように強調されていますか。詩99:3、5、9
来るべき王(詩篇96篇、98篇)
詩篇96篇と98篇は共に同じように始まり、同じように終わっています。それらは「イスラエルの家」という狭い次元をこえて、「全地」にまで及んでいます。
質問9 詩篇96:1の「新しい歌」は何を意味しますか。歴代上16:23〜33、詩98:1
詩篇96篇は、契約の箱をオベデ・エドムの家からエルサレムの幕屋に移すときにダビデがささげた詩篇の後半部分とほぼ同じです(歴代上13:13、14参照)。この新しい歌は、契約の箱が安置されること、つまり神の選ばれたエルサレムに神の地上の会見所が設けられるという新しい経験を祝うものでした(歴代下6:6)。ダビデのこの新しい歌は、啓示者ヨハネが聞いた「新しい歌」(黙示5:9)についての預言でした。ヨハネの幻は、地上からあがなわれた者たちが新エルサレムにおいて王や祭司になるというものです(黙示5:10)。
質問10 詩篇96篇および98篇の影響と効果はどれほど広範囲に及ぶものですか。詩96:1、3、9、13、98:2〜4、9
ここでも預言的な調子が強調され、神の民が一つの孤立した選民ではないことを思い起こさせています。異教徒は偶像を礼拝しますが、彼らも主が力ある創造者であって、自分たちの神々が全く神ではないことを知らなければなりません。神の御名は詩篇96篇に11回、98篇に6回、言及されています。異教徒は、「主は王となられた」こと(詩96:10)、また主が「王なる主」であられること(詩98:6)を知らなければなりません。
質問11 これらの詩篇は喜びの賛美をもって終わっていますが、それはなぜですか。詩96:11〜13、98:4〜9
ここには、大いなる喜びが楽器によって、人間の声によって、山山にこだまする賛美の声によって、岸に打ちつける海の波によって表現されています。それらはみな、正義と公平と真実をもって地をさばかれる王の出現に対する心からの喜びを表明しています。それは、栄光のうちに報いをもって来られるキリストの再臨についての預言です。
祭司なる王(詩篇110篇)
聖句と聖句を比較する
新約聖書は詩篇110篇の解釈を助けてくれます。というのは、マタイ、マルコ、ルカはそれぞれイエスによってなされた手ごわい質問についての記事をのせているからです。この質問はパリサイ人を沈黙させました(マタ22:41〜46、マル12:35〜37、ルカ20:41〜44)。
ペンテコステの日における説教もまた詩篇110:1の後半を、キリストのよみがえり後に成就した預言として引用しています(使徒2:34、35)。ヘブル人への手紙は同じく4節を引用して、キリストの祭司としての務めについて述べています(ヘブ5:6、7:17、21)。
質問12 パリサイ人が詩篇110:1についてのキリストの質問に答えられなかった、あるいは答えようとしなかったのはなぜですか。マタ22:43〜46
イエスの議論の要点は、ダビデの子がだれをさすかということでした。「これは預言の中でメシヤについていわれた肩書きであった。イエスがその偉大な奇跡によって神性をあらわされたとき、また病人をいやし、死人をよみがえらせられたとき、人々はお互いに、『この方はダビデの子ではないか』とたずねた」(『各時代の希望』下巻59ページ)。
カナンの女はイエスに、「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけています(マタ15:22)。盲目のこじき、エリコのバルテマイもイエスを、「ダビデの子イエスよ」と呼んでいます(マル10:47)。ガリラヤのほかの二人の盲人も、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と言っています(マタ9:27)。エルサレムヘの勝利の入城の際には、子供たちでさえ、「ダビデの子に、ホサナ」と叫びました(マタ21:15)。彼らはキリストの行列に従う群衆の叫びを繰り返していたのでした(9節)。それは詩篇118:25、26の預言の成就でした。ホサナという言葉は、「今、救ってください」または「どうか救ってください」を意味する言葉の短縮形です(ルカ1:32比較)。
「しかしイエスをダビデの子と呼んだ多くの者は、イエスの神性をみとめなかった。彼らはダビデのみ子が神のみ子でもあることをさとらなかった」(『各時代の希望』下巻59ページ)。
質問13 「右手」の位置はどんなことを示唆していますか。詩110:1〜3、5〜7(マタ26:64、エペ1:20〜22、黙示3:21比較)
まとめ
私たちを造り、いのちを与えてくださった王なる主は、サタンと罪に対する戦いにおいて私たちを守ってくださいます。主は私たちを聖潔の道に導き、御座の前でとりなしてくださいます。そしてその働きの仕上げとして、私たちを再臨において回復されたエデンに入らせてくださいます。
*本記事は、C・レイモンド・ホームズ(英:C. Raymond Holmes)著、安息日学校ガイド1992年2期『詩篇73-150篇 失望から栄光へ』 からの抜粋です。