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*本記事は、白石尚『そこが知りたいSDA57のQ&A』からの抜粋です。
人はすぐと天国か地獄に行くのではないですか?
1.聖書の人間観―魂と霊
聖書は動物と違って人間だけが神に似せて神のかたちに創造されたと告げています。その描写として創世記2章7節には、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」と記されています。
人間の体を構成している成分は土とほぼ同じですが、そこに神からのいのちが吹き込まれて「生きもの」になったのです。物質である体と、神からのいのちの統一体が生きた人間であって、物質である体から分離した何かが人間として存在するわけではありません。この「生きもの」という言葉はヘブル語のネフェシュですが、これはいのちとも、魂とも訳され用いられている言葉ですし、人間固有のものではなく、1章20節に「水には生き物(ネフェシュ)が群がれ」とあるように、動物と共通のいのちであり、魂でもあるわけです。
新約聖書で「魂」と訳されている言葉はギリシャ語のプスケーですが、この言葉はいのち、息という意味を持っています。「ネフェシュ」にしても「プスケー」にしても、これらの言葉には、肉体から離れて存在するとか、まして肉体の死後まで残る知覚のある実体をほのめかすような意味はありません。
伝道者の書12章7節には「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」とありますが、この聖句中の「霊」という言葉は、ヘブル語のルアハ(ruah)から訳されたもので、息、風、霊というような意味を持っています。「霊(ルアハ)が出て行くと、人はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる」(詩篇146:4)とありますが、この言葉は人間や動物の中の生の本質を表すものとして用いられています。創世記7章21、22節はノアの洪水の時の滅亡を描写していますが、動物も人も「いのちの息(ルアハ)を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ」と記しています。聖書にはルアハが、特に人間の中に肉体を離れて意識的に存在できる別個の実体があることを示している例はありません。前述の伝道者の書12章7節にしても、神に帰るものとは、神から人間に授けられる生命の本質のことであると理解することができます。
新約聖書で「霊」と訳されている言葉はギリシャ語の「プニューマ」ですが、この言葉も風、息という意味を持っています。ルカの福音書8章には会堂管理者ヤイロの娘の甦りの奇跡が記されていますが、キリストが「子どもよ。起きなさい」と命じられると「娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった」とあります。プニューマもルアハと同じくいのちの本質を表す言葉で、肉体から離れて存在する意識を持った実体というような概念は全く含まれていません。ましてその人間の「魂」にしろ「霊」にしろ、それが本来的に不滅で永遠性を持っているなどという概念は聖書にはありません。
2.被造物である人間に本来的な永遠性、不死はない──条件的不死
聖書においては「不死」「不滅」という言葉は神にのみ当てはまります。「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり(口語訳「ただひとり不死を保ち」)」(Iテモテ6:15,16)、「世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に誉れと栄えとが世々限りなくありますように」(Iテモテ1:17)とあるように、神は永遠の存在であり、神に終わりや死はありません。
人間は自分の中にいのちと存在の根拠を持っておらず、与えられたいのちを生きる存在です。人間は永遠を求めますが、その可能性はただいのちの根源である神に結びつくときにのみ与えられます。聖書は人間にそれを求めるように勧めていますが、それは人間が不滅ないのちを持っていないからです。もし、人間がそれを持つとすれば条件があります。神が「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え」(ローマ2:7)てくださることを信じることです。
「偽りの父」といわれる存在が人間に信じ込ませようとしたそそのかしは、たとえ神に背いても、「あなたがたは決して死にません」ということでした(創世記3:4)。神の愛を疑い、神からの自立を求めた人間は、神のご命令に背けば「必ず死ぬ」と言われた神の言葉より「決して死ぬことはない」と言うサタンの言葉を信じたのでした。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とあるように、死は決して自然なこと、神の計画でなく、罪の結果であり、罪に堕ちた人類は死すべき存在となったのです。
もし人間に死を超えた希望があるとすれば、人間が本来的に持っていると思われている不滅な霊魂や不死によってではなく、死を打ち破る力を持っておられるキリストによって、統一体である人間の全存在にいのちが吹き込まれる復活以外にないというのが聖書の教えです。人間が不死なる者に変えられるのは、個々の人間の終わり(死)においてではなく、この罪と死が支配する世界そのものが終わり、新しくされるキリストの再臨においてです。キリストは人間の死を意識のない眠りに例えられましたが、復活のキリストの証人であるパウロは次のように言っています。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく(口語訳「眠り続けるのでなく」)変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか』」(Iコリント15:51〜55)。
パウロのこの朽ちないもの、不死に変えられるという希望の根拠は唯一つ、イエス・キリストの復活の事実でした。パウロの考えの中には、霊魂の不滅に基づく希望といったものはありません。それどころか復活によらない、霊魂の不滅性に基づく、死と共に直ちに神の永遠のみ国に昇天するといった救いを明確に否定しています。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです」(17,18節)。
キリストにあって眠った者に、例えばキリストを見るまでは決して死なないと聖霊のお告げを受けていたシメオンがいます。彼は幼子イエスを見たとき腕に抱き、神をほめたたえて、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」と言いました(ルカ2:29)。あるいはパウロ自身が関わって死に追いやったステパノがいます。彼は聖霊に満たされて天を見つめ、神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒7:56)と言いました。そして最後に石で打たれながら主を呼んで、「主イエスよ。私の霊をお受けください」と言って眠りについたのです(使徒7:59,60)。パウロの理解によれば、このようにまさにキリストにあって眠った者たち、シメオンもステパノも、もし再臨のときの復活がないならば、死の直前に見たイエスに天で再会できるどころか、死とともに滅んでしまったことになるのです。
死の直後に与えられる永遠の報い、本来的な人間の霊魂の不滅などの考えは、キリスト教の基本的な信仰である体と魂の統一的人間観、最後の審判、再臨、復活などをあまり意味のないものにしてしまう非聖書的な教えと言えるのではないでしょうか。パウロはさらに続けて、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。‥‥しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。‥‥最後の敵である死も滅ぼされます」(Iコリント15:19,20,23,24,26)とキリストの再臨における復活がキリスト者の希望であると述べています。
パウロにとってはこのように主との再会の希望である再臨こそが待ち望む最高の「祝福された望み」(テトス2:13)であり、自分も「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」(ピリピ3:11)とその願いを述べています。
3.死は復活までの意識のない眠り
聖書の人間観は、精神と肉体との統一体としての人間であり、死後肉体を離れて存在する実体としての霊魂という考えがないことを旧新約聖書の原語から検証しました。キリストが死後の状態を表す言葉としてしばしば用いられたのが、意識のない「眠り」という表現です。肉体の活動の停止と共に精神の活動も停止した状態です。
キリストは親しい関係にあったラザロが重い病に倒れたとき、弟子たちに、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです」と言われました。弟子たちが、「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう」と言ったとき、今度ははっきりと、「ラザロは死んだのです」と言われました。
ラザロの姉妹であったマルタとマリヤの住むベタニヤの村に着いた時には、ラザロはすでに墓に葬られ、死後4日が経過していました。キリストは嘆き悲しむマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります」と言われ、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」宣言されました。ほら穴の墓石を取り除けるように命じられた時、マルタは、「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」と止めようとしました。しかしイエスが大声で、「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれると、死んでいたラザロが手足や顔を布で巻かれたまま出てきたのです。イエスは人々に、「ほどいてやって、帰らせなさい」と言われました(ヨハネ11:1〜44参照)。
このことを目撃した多くのユダヤ人がイエスを信じたのです。再びイエスはベタニヤ村を訪れた時、大勢のユダヤ人がやってきましたが、「それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった」(ヨハネ12:9)と聖書は記録しています。
いつの時代も人間の大きな関心は、人は死んだらどうなるのか、死後の世界はあるのかです。当然ユダヤ人たちの関心は一度死んだ人の顔を見るだけでなく、死後の世界についてラザロは何を語るかであったことでしょう。ところが4日間も死後の世界を体験して戻ってきたはずのラザロが何も語っていないのは不思議です。もし死と共に人間の霊魂が天国か地獄に行き、報いを受けるのであれば、ラザロもすばらしい天国からこの世に帰るのは望まなかったとか、地獄の様子について語ることがあるはずです。ラザロの他、ナインのやもめの息子とかヤイロの娘とか、死の世界からいのちによみがえった事例が聖書には多く記されているにもかかわらず、死後の世界を語った記録は一つもありません。それはイエスの言われた通り死は眠りであって、ラザロもイエスによって4日後、眠りから呼び覚まされるまで何も知らなかったからだと思われます。
死後の人間の状態に関する聖書の多くの聖句もそのことと一致します。終末における復活の希望以外に、聖書は死後の希望について語っていません。関連する聖書の言葉を見てみましょう。
「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる」(伝道者の書9:5)。
「死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう」(詩篇6:5)。
「私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか」(詩篇30:9)。
「死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者もそうだ」(詩篇115:17)。
「霊が出て行くと、人はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる」(詩篇146:4)。
「よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです」(イザヤ38:18,19)。
「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです」(Iコリント15:17,18)。
4.死後直後の報いでなく、復活と最後の審判による報い
聖書は終末とキリストの再臨における報いについて明確に述べていますが、死とともに個々に永遠の報いが与えられるとは教えられていません。「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします」(マタイ16:27)とキリストご自身は約束されました。
死は眠りであるとキリストは言われましたが、それは死がすべての終わりではなく、眠りから覚める時があることを示しています。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハネ5:28,29)。
キリストを受け入れた者に対する約束はこれです。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(ヨハネ6:39,40)。
使徒パウロも自分の死が近いことを自覚しながら、キリストの再臨を待望する者として死の直後ではなく、「かの日」における報いに対する信仰を表明しています。「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモテ4:6〜8)。
黙示録によれば、復活にも二つあり、千年期に先立って義人があずかる第一の復活(20:5)と、千年期の後に起こる第二の復活です。「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない」(20:6)とありますが、千年期の終わりに悪魔と彼に従う者が永久に滅ぼされるのが第二の死です(20:14)。
へブル人への手紙9章27節は人間の死と死後の裁きについて述べていますが、28節にはそれは個々の人間がそれぞれ死後、個別に天国と地獄に分けられるのではなく、再臨においてなされる裁きであり、そのとき初めて実現する救いであることが明確に示されています。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」
このように霊魂が不滅であって死とともに個々の魂が天国の至福にあずかるという教えは、聖書以外の思想からキリスト教の中に入ってきたもので、聖書の中心的な教えである復活、再臨、最後の審判を無効にしてしまうものなのです。