【レビ記】犠牲とささげ物【1ー3章解説】#3

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キリストは私たちのすべて

燔祭、素祭、灌祭は、私たちの存在そのもの、また私たちの持ち物のすべてがキリストから来て、キリストのものであることを教えるためのものでした。

ささげ物はキリストのあがないを示している

レビ記にでてくる四つの重要なささげ物はキリストの苦難を示しています(詩篇40:6~8、ヘブル10:4~10参照)。それらは、キリストが罪人をあがなわれる方法を例示しています。それぞれ、次の三つの特徴を備えていました。(1)指定された献奉者、(2)決められたささげ物、(3)儀式を司る祭司。それらの中心はイエスでありました。献奉者としてのイエスは、完全な人としてその品性を私たちに示されます、ささげ物としてのイエスは、完全な身代わりとしてご自分のいのちを私たちに与えられます。祭司としてのイエスは、完全な神として私たちのためにご自分の勝利を主張されます。

今回は、燔祭(はんさい)、素祭(そさい)、酬恩祭(しゅうおんさい)について研究します。次回は、罪祭と愆祭(けんさい)について学びます。

レビ制度における清めは、血、水、火という三つの要素によってなされました。それらは互いにイエスを指し示していました。

血は罪を清める最高の要素でした(ヘブル9:22)。なぜなら、「肉の命」が血にあるからです(レビ記17:11)。血は犠牲の生命の象徴なので、最も貴重なものです。血は、すべてのものが、完璧にささげられたことを示しています。血は罪からの清めをもたらすキリストの犠牲を象徴していました。

水は痛みをともなうことなく表面的な汚れを清めるもので、キリストの裂かれた心臓から流れ出た「罪と汚れとを清める一つの泉」を示しています(ゼカリヤ書13:1、ヨハネ19:34、ヨハネ第I.5:5、6)。パウロはこの水を、再生をもたらす御霊によって心にそそがれる霊感の言葉にたとえています(エペソ5:26、テトス3:5)。

もう一つの要素である火は聖霊を象徴するもので、これ以上に汚れを消すのにふさわしいものはありません。イエスはご自分の火によって汚れを取り除かれます(マラキ占3:2、3、イザヤ書4:4)。神ご自身から下る祭壇の火(レビ記9:24)は、エデンでのアベルのささげ物、カルメルでのエリヤのささげ物の場合のように、ふさわしいものを受け入れられることのしるしでした。火、水、血は、聖所のささげ物を神に受け入れられるものとしました。なぜなら、それらかイエスの力を表していたからです。

全焼のささけ物—私の存在そのものはキリストのもの(レビ記1:1~17)

レビ記は全焼のささげ物についての記述で始まっています。これはイスラエルの犠牲のなかで最もひんぱんにささげられたものです。それはアベル、ノア、アブラハムなどの父祖たちによって、規則的にささげられました。それは、アダムとエバがエデンから追放されたときから、神が、シナイでご自分の民に救いの科学を教えられたときまでの2500年間にささげられてきた唯一のささげ物と思われます。

アブラハムの契約の犠牲と、イスラエルが年ごとにささげた過越の小羊は例外です。その他の犠牲によって教えられている原則の大部分は燔祭のなかに示されていました。

燔祭は人間に代わって死なれる救い主を表す一方で、礼拝者自身をも表していました。この儀式を通して、礼拝者は救いの大いなる真狸を学びました。礼拝者の罪は犠牲の上に置かれ、反対に、犠牲の潔白さが礼拝者のものとされました。

この儀式は礼拝者に対して、律法が不変であること、また罪の刑罰が死であることを思い起こさせました。「流され」、「注がれ」た身代わりの動物の血はそれをささげた者に対して、自分の罪が祭司によってゆるされ、あがなわれたことを確信させました。

全焼のいけにえを神にささげることは、神に完全に献身することを表していました。そのため、犠牲は祭壇の上で完全に焼かれました。礼拝者はその燔祭を通してこう宣言したのでした—「私の存在そのものはキリストのものである」と。

ささげ物 

燔祭と酬恩祭はともに「香ばしいかおり」のささげ物として描かれています(創世記8:21)。それは、満足させる香り、成就させる香りといった意味を暗示しています。

質問1 

次の聖句を読み、犠牲がなぜ神に対する「香ばしいかおり」なのかを調べてください。レビ記1:9、エゼキエル書20:40、41、コリント第11・2:15、エペソ5:2

神はご自分の民に対して、神に対する国民的献身のしるしとして、神の聖所で「継続的に」、「毎日」、朝夕の全焼の燔祭をささげるように求められました(出エジプト記29:38~42)。神はまた各人に対して、いつでも個人的なささげ物をするように求められました。

質問2

次の聖句を読み、そこに登場する5人の人物がなぜ燔祭をささげたかを調べてください。

ノア(創世記8:20~22)         

アブラハム(創世記22:1~14)

ヨブ(ヨブ記1:4、5)

ヨブの友人たち(ヨプ記42:7、8)    

ヒゼキヤ(歴代志下29:27、28)       

人間はつねに訓練を必要とします。自分の思い通りにまかせられるなら、私たちは神を忘れ、自分の時間、財産、力を自分自身のために使い尽くしてしまうでしょう。神はご自分の忠実な者たちがこの傾向に打ち勝つために、毎日の務めを始める前に、また終える前に、日ごとに燔祭をささげるように求められたのです。これらの犠牲はイスラエルの生命を守る二本の腕でした。幕屋から離れた所に住んでいた人々は、ダニエルがバビロンでしたように、聖所の方向に向かって祈りました(ダニエル書6:10)。

犠牲 

主は燔祭として6種類の犠牲を定めておられます(レビ記1:3、10、14、14:4)。

次の聖句を読み、そこに示された犠牲がキリストのどんな特性を示しているか考えてください。

雄牛(蔵言14:4、黙示録4:6、7)     

羊・小羊(イザヤ書53:6、7)

やぎ・子牛(ヘブル9:12、13)

山ばと(マタイ10:16)

家ばとのひな(ルカ2:24)

すずめ(マタイ10:29)

祭司犠牲は罪人と救い主を表していましたが、祭司は礼拝者のために仕え、助け、励ましておられるキリストを表していました。祭司は、人間が自分自身のためにできないことを人間に代わってしていました。彼は犠牲の「流された血」を取り、聖所で仕えることによって、それを「注がれた血」に変えました。

質問3

神は聖なる火を送って祭壇の上の犠牲を焼き尽くされましたがこのことは何を教えていましたか。レビ記9:24、創世記15:17(『人類のあけぼの』上巻424、425ページ参照)

燔祭はイスラエル人の存在そのものがキリストとその犠牲に依存していることを教えていました。燔祭をささげることは神に完全に献身することを表していました。

あなたはすべてを祭壇の上に置いているでしょうか。あなたは人生のすべてをキリストにゆだねているでしょうか。

素祭(そさい)と灌祭(かんさい)—私の持ち物はすべてキリストのもの(レビ記2:1~16)

素祭と灌祭は、「私の持ち物はすべてキリストのもの」という礼拝者の誓約を表現していました。「食物のささげ物」を意味するヘブル語の「ミンハー」は、食物一般をさす言葉です。「素祭」には肉は含まれていませんでした。それで現代の翻訳者は「穀物のささげ物」という言葉を用いています。これら植物性のささげ物には、オート麦、大麦、小麦、米などがありました。ぶどう汁とオリープ油、乳香と塩がこれに加えられることもありました。

素祭はキリストに対する礼拝者の感謝と献身の気持ちを表していました。祭司は各素祭(ミンハー)の一部を取って、祭壇の前に掲げ、それを主にささげました。それから、祭司は神のものとなったこの素祭の一部を祭壇に投げ、「香ばしいかおり」として焼きました。主は礼拝者のささげた持ち物の代わりにこの「記念」のしるしを受け入れ、素祭の残りを祭司と礼拝者のために返されました。

質問4

油は何を象徴していましたか。レビ記2:1、ゼカリヤ書3:1~6’マタイ25:4

油は聖霊の象徴です。聖霊は7つの金の燭台に燃料を供給し(『SDA聖書注解』第6巻1118ページ参照)、恵みを与え(『SDA聖書注解』第7巻966ページ参照)、実を結ばせ(『牧師へのあかし』511ページ参照)、5人の賢明なおとめを啓発し(『キリストの実物教訓』386、387ページ参照)、弟子たちにキリストの義を与えてくださいます(『牧師へのあかし』234ページ)。

質問5

素祭に加えられた塩は何を象徴していましたか。レビ記2:13、マルコ9:49、50

「救いの塩」は「救い主の義」です(『各時代の希望』中巻218ページ)。それは神の義の象徴です(『教会へのあかし』第3巻559ページ)。それは、地域社会における神の真の民の影響力を表しています(マタイ5:13)。食物を保存し、味をつけるためには、塩はその中にしみこまなければなりません。

質問6

灌祭にはどんなものがありましたか。レビ記23:13、18、民数記28:7、8

『ミシュナ』によれば、オリーブとぶどうの液だけが祭壇にささげられるものでした。

灌祭は決して飲むべきものではありませんでした。ぶどう液の一部はすでに祭壇の上で焼かれている犠牲の上に注ぎかけられました(出エジプト記29:40、レビ記23:13、18、民数記15:5、7、10、24)。

血が犠牲の本質である生命を表していたように(レビ記17:11)、ぶどう液はまことのぶどうの木の実の本質を表していました。それはキリストの血の象徴でした。

使徒パウロは、愛するテモテヘの手紙の中で、灌祭に言及しています。パウロはネロの前における裁判で死刑を宣告されていました。自分の死を予期した彼は、次のように言っています。「私はすでに喜んで自分自身を灌祭として注ぎ出している」(テモテ第II 4:6参照)。「ささげている」というギリシア語は、「灌祭をささげる」という意味です。その動詞の形にパウロの自発的な気持ちが表されています。

酬恩祭—私の喜びはすべてキリストのもの(レビ記3:1―17)

罪は人間の心に疎外と反逆、混乱と戦いを引き起こしました。この敵意は神、同胞、そして環境に向けられています。怒りはほとんど世界的に人間の心を支配しています。救いの計画は、キリストの死によって、この反逆した世界と神の政府とのあいだに調和を取り戻すことを目的としています。

神が酬恩祭の犠牲を定められたのは、カルバリーの十字架が争いを終結させるものであることを礼拝者に教えるためでした。四つの重要なささげ物のうちで酬恩祭だけが、宴会のための食物を提供しました。そこで、目に見えない主人である神が祭司、悔い改めた者と共に、「供え物の食物」にあずかられました。主が受け入れられた食物の一部は蒸発して、「香ばしいかおり」として天に昇りました。

罪のない犠牲の死によってのみ備えられるこの食事を通して、すべての参加者は新しい契約によって一つに結ばれました。キリストご自身の犠牲は、真の平和、永続的な幸福の基礎です。

質問7

酬恩祭の犠牲として三種類の犠牲が認められていました。以下の聖句を読み、それぞれの犠牲が予表するイエスの犠牲について考えてください。レビ記3:1 、レビ記3:6、レビ記3:12    

質問8

礼拝者が酬恩祭をささげる場合、どのような規定に従いましたか。レビ記3:1、2、6、8、12、13、7:28~30

血は神にささげられたものだったので、それは決して食べてはならないものでした(レビ記17:10~14)。一部を祭壇にふりかけたのち、祭壇に注がれました(レビ記7:14)。

流された血と注ぎかけられた血

悔い改めた者の手によって「流された血」と祭司の指によって「注ぎかけられた血」との相違に注目する必要があります。もし小羊の血をただ「流して」いただけなら、エジプトにおいて長子たちは生きのびていたでしょうか。

質問9

イエスがご自分の死後になさったどんな行為が、私たちの救いにとって重要な意味を持っていますか。コリント第I・15:12~18

イエスは死んで、よみがえり、昇天されたのち、ご自分の「流された血」(死)を天の聖所で父なる神にささげられました。彼が祭司としてその血を悔い改めた罪人の必要のために用いられたとき、それは「注ぎかけられた血」(執り成し)となりました(ヘブル9:11、12参照)。あがないの手続きが完了するためには、これら二つの過程が必要でした。「注ぎかけられた血」の重要な意味を決して忘れてはなりません。

質問10

主はどんな場合に酬恩祭をささげるように勧められましたか。レビ記7:12、13、22:21~25、7:16、18

酬恩祭は次の三つの場合にささげられました。(1)礼拝者が神のいつくしみと力に対して賛美をささげたいと望んだとき、(2)神の特別な賜物や祝福に対して感謝をささげたいと望んだとき、(3)主のために何かを断ったり、実行したりする誓約を果たしたとき(詩篇116:12~19参照)。この契約の食事にあずかることによって、神と祭司と礼拝者は交わりのきずなによって一つに結ばれました。この宴会は犠牲をほふることによってなされましたが、このことはその犠牲が予表しているメジャの死がすべての幸福の基礎であることを教えていました。

まとめ

燔祭、素祭、灌祭、酬恩祭は、自分自身と自分の才能・所有物が神のものであることを認めるしるしとして、またメシヤの死によって神と人とのあいだに完全な和解がなされたことに対する感謝の念の表現として、神にささげられました。これらの儀式を行うことによって、イスラエル人は神に対する献身を新たにしたのです。

*本記事は、安息日学校ガイド1989年1期『レビ記と生活』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
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