【レビ記】罪のための犠牲【4ー7章解説】#4

目次

この記事のテーマ

予告され、記念されたキリストの犠牲

罪深く堕落的な汚れから人間の心を清めることができるのはイエス・キリストの血だけです。占代イスラエルの聖所の儀式で人々は動物の犠牲をささげましたが、それは彼らに来るべき救い主によってなされる働きの意味をより完全に理解させるためのものでした。古代の聖所におけるこの犠牲制度について学ぶとき、私たちはキリストの犠牲と天における働きをよりはっきりと理解することかできます。

犠牲の意味     

この宇宙は二つの大きな法則—物理的法則と道徳的法則—のもとで動いています。生命のない自然は物理的法則によって支配されていますが、神によって創造された知的生物は両方の法則に従っています。道徳律は天の住民と人間に対する創造主のみこころを示しています。それは創造主に対する最高の愛と同胞に対する公正な愛という二重の原則にもとづいています。神の道徳律は十戒というかたちで人間家族のために適応され、成文化されています。箇潔にして闘信砂、しかも権威を持った十戒は、創造主と同胞に対する人類の義務を規定しています(マタイ22:37~39、ローマ13:8~10参照)。

十戒の基礎となっている原則が破られたとき、この世に罪が入ってきました。その結果、人類は道徳的・霊的に堕落し、その肉体は次第に衰弱し、ついには死ぬ存在となりました(ヨハネ第I 3:4、ローマ5:12、8:6~8)。

聖所の儀式は私たちのためのキリストの働きの三つの面—犠牲、仲保、さばき—を強調していました。一般的に言って、聖所の三つの部分がこれら三つの働きに相当します。すなわち、犠牲は中庭で、執り成しは聖所で、そしてさばきは至聖所でなされました。聖所での犠牲と儀式は各時代の神の民に対して、神がどのようにして救いの計画を遂行されるかを教えています。

それぞれの犠牲は礼拝者に対して、罪の結果について、また来るべきあがない主によって与えられる永遠のいのちの賜物について思い起こさせるものでした。それらの犠牲はまた、礼拝者にとって、神を礼拝し、罪を告白し、献身と感謝を表すための目に見える媒体となりました。これらの犠牲はある意味で、祈りと同じように、礼拝者の信仰をあがない主に結びつけるものでした。

過失の罪(レビ記4章、5章、6:24~30)

罪はサタンの心の中で発生しました。罪の存在理由を追及することは罪に口実を与えることになり、罪の罪深さを否定することになります。私たちは罪の存在を認め、神の恵みによって罪の力と対決し、そして神がお与えになる力と方法によって罪に勝利しなければなりません。

罪祭は主イエス・キリストの犠牲と働きにおけるさまざまな側面を例示する実物教訓でした。この儀式の各場面で、イエスはご自身を罪人のための完全な犠牲としてささげられるおかたとして描写されています。彼はささげ物として、悔い改めた者の身代わりとなって死なれました。彼は祭司として、聖所でご自分の血を適用しておられます。彼はそれぞれの役割において、失われた者たちの救いのために、また罪の根絶のために働いておられます。神はイエスの死を表す罪祭を通して、失われた世界にイエスを身代わり・犠牲として、あがない主・仲保者として受け入れるように訴えておられます。

質問1

どんな四種類の罪人があげられていますか。彼らはそれぞれ、どんな罪祭をささげることになっていましたか。レビ記4:3、レビ記4:13、14、レビ記4:22、23、レビ記4:27

善と悪に対する影響力

「わたしたちの生活の中に、キリストの品性をあらわすことによって、わたしたちは、救霊の働きをキリストと共にするのである。わたしたちが、キリストと協力できるのは、わたしたちの生活に、キリストの品性をあらわすことによってのみである」(『キリストの実物教訓』316ページ)。

「人は神について知れば知るほど、宗教的影響力を持つようになる。……大きな光、尊い機会が与えられている者たちは、すべての人に働きをお与えになる神に対して責任を負う。彼らはこの聖なる信頼を決して裏切ることなく、世の光とならなければならない」(『牧師へのあかし』245ページ)。

質問2 

「過失の罪」とは何ですか。レビ記4:1、13、14、22、23、27、28、5:3

私たちは自分の思い、言葉、行為が罪である、とすぐに認めるとは限りません。罪を犯したあとで、自分のしたことが罪であったことを聖霊によって教えられることもあります。そのような光・自覚を受けるとき、私たちは自分の行為に対して責任があります。真にキリストに献身しているなら、ゆるしを求めるべきです。

質問3

自分の行為が神の前で罪であることを意識しないかぎり、その人にとって罪とはならないということをイエスはどのように教えられましたか。ヨハネ15:22、24

過失の罪とは故意でない罪、欠点、失敗のことです。それは私たちの弱くて罪深い人間性、鈍感な感受性から来ています。パウロはアテネの人々に対して、彼らの偶像礼拝が「無知の時代」の行為、つまり回心前の知らないで犯した罪であるが(使徒行伝17:30)、神は今、すべての人に悔い改めるように求めておられる、と言っています。クリスチャンは罪を犯すには及びません。弱いクリスチャンも真の悔い改めによって、ゆるしと回復にあずかることができます。神のみこころを知れば知るほど、より忠実に神のみこころに従うべきことがわかってきます。

弱い聖徒の望み          

「世にはキリストのゆるしの愛を知り、ほんとうに神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、いったい自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人があります。こうした場合に、決して失望、幕値してはなりません。私どもは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いて、イエスの足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ、拒まれたのではありません。いいえ、キリストは神の右に座して私どものために執り成しをしていたまいます」(『キリストヘの道』80ページ)。

質問4

次の聖句を読み、聖書が罪をどのように定義づけているかを考えてください。ヨハネ第I 3:4、5:17、ローマ3:23、14:23、ヤコプ4:17

質問5

聖所の儀式で、どんな二つの行為が罪人によってなされましたか。レビ記4:4、15、24、29

質問6

より重大な過失の罪を犯した場合には、ほかにどんな行為が悔い改めた者によってなされましたか。レビ記5:14~16、民数記5:7、8

愆祭(けんさい)をささげることによって、故意の罪はもちろんのこと、偶然に、知らないで犯したより重大な罪のあがないがなされました。この場合、悔い改めた罪人は罪祭として雄羊をささげなければなりませんでした。愆祭(けんさい)をささげる手順は罪祭をささげる場合と同じでした(レビ記7:7)。愆祭(けんさい)に新しい要素が加わるのは、犯した罪を償うという神の要求を満たすためでした。

質問7

犯した罪を償うという原則について、イエスは何と教えておられますか。マタイ5:21~24(ルカ19:8比較)

「真の告白はつねに、はっきり自分の犯した罪そのものを言い表わすのであります。神にだけ告白すべきものもありましょう。または、だれか害をこうむった人々に告白しなければならないものもありましょう。いずれにせよ、告白はすべてはっきりとその要点にふれていて、犯した罪そのものを認めねばなりません」(『キリストへの道』45ページ)。

祭司の働きがなければ、罪人の必要は聖所で満たされることがありませんでした。祭司の働きは罪人にとって非常に重要なもので、それは救いの計画におけるキリストの役割を示していました。もし天の聖所におけるキリストの大祭司としての働きがなければ、すべての人の救いは絶望的です(ヨハネ第I 2:1、2、ヘブル7.25、8:1~3、9:24参照)。

質問8

キリストの天での執り成しの働きで重要な意味を持つどんな儀式が、祭司によってなされましたか。

レビ記4:5、6、ヘブル9:12

レビ記4:6、7、30、ヘブル9:11、12

レビ記6:24~26、29、30、10:16~18、9:11~15

レビ記4:8~10、31、17:6、コリント第II 2:15

レビ記4:11、12、21、ヘブル13:11~13

祭司は罪を聖所に移します。悔い改めた罪人が罪祭をほふったあとで、祭司は二種類の働きをします。

(1)仲間の祭司または全会衆のために罪祭をささげる場合には、儀式を行う祭司はその血の一部を聖所の垂幕の前に7たび注ぎ、また薫香の祭壇の角にも塗りました。

(2)つかさまたは一般人のために罪祭をささげる場合には、儀式を行う祭司はその血を中庭の燔祭の祭壇の角に塗りました。彼はそれから聖所の中庭で罪祭の肉の一部を食べました(レビ記6:26)。祭司はこの肉を食べることによって罪を負う者となりました(レビ記10:17)。悔い改めた者の罪を負うことによって、祭司は毎日、聖所で働きました。彼はまた主の前に薫香をたきました(出エジプト記30:7、8)。このようにして、悔い改めた者の罪は祭司によって負われ、象徴的に聖所に移されました。

「血が聖所の中にたずさえられない場合もあった。そのときには、モーセがアロンの子らに命じて、『これは……あなたがたが会衆の罪を負(う)ため、あなたがたに賜わった物である』(レビ記10:17)と言ったように、祭司がその肉を食べなければならなかった。これらの儀式は、共に、悔い改めた者から聖所へと罪が移されることを象徴したものであった」(『人類のあけぼの』上巻419ページ)。

告白、犠牲、あがない

罪祭の犠牲と血の注ぎによって、悔い改めた罪人はゆるされました。レビ記第4章には4回、儀式を行う祭司によってなされた「あがない」がゆるしをもたらすことが強調されています(レピ記4:20、26、31、35)。犠牲なくして祭司によるあがないはなく、祭司によるあがないなくしてゆるしはありえませんでした。告白、動物の犠牲、祭司による血の注ぎのゆえに、「あがない」あるいは罪からの清めは悔い改めた者にとって現実の出来事になりました。

聖所の儀式がさし示していたキリストの犠牲、罪人の告白、キリストの天における執り成しはすぺて、罪のゆるしのために欠かすことのできないものです(ヨハネ第I 1:9、ヘブル4:14~16、6:19、20、7:23~28、8: 1~6、10:19~23、『各時代の大争闘』下巻222、223ページ参照)。

象徴的に、悔い改めた者の罪のゆるしは聖所に記録されました。このゆるされた罪が聖所から取り除かれるためには、贖罪の日の儀式を待たなければなりませんでした。

故意に犯した罪(レビ記6:1~7)

神に対する反逆の心で犯した罪に対しては、犠牲はありませんでした(申命記17:2~6、民数記35:30、出エジプト記31:15、民数記15:30~36、ヘブル10:26~31参照)。しかし、神のみこころに対する意識的な反逆の心で犯したものでない故意の罪は、あがなうことができました。

レビ記第6章には、偽証、略奪、詐欺といった故意の罪が述べられています(2~7節)。悔い改めた罪人は愆祭(けんさい)として雄羊をささげるように教えられていました(6節)。愆祭(けんさい)は故意の罪のほかにも、より重大な過失の罪をもあがなうことができました(レビ記5:14、15―レビ記6:1~7、19:20~22、エズラ記10:19比較)。

質問9

ここにどんな新しい原則が述べられていますか。レビ記6:4、5(エゼキエル33:15比較)。そのほかに被害者が亡くなっていて、しかもその親戚が見つからない場合には、加害者はとうしなければなりませんでしたか。民数記5:5~8

愆祭(けんさい)はイスラエル人に償いの原則について教えていました。彼は被害者にすすんで償いをしなければなりませんでした。神に対する悔い改めと罪の告白は、被害を受けた同胞に対する告白と償いとなるのでした。クリスチャンは可能なかぎり、過去の過ちを正すためにあらゆる努力をします。

過ちを正す

「これはほとんどの場合、賠償すること、盗んだ物を返すこと、過ちを正すためにあらゆる努力をすることを含む。疑わしい商取引、価値を偽ること、利己的な動機を隠すこと、あからさまな不正行為は罪である。貧しい者の弱みにつけこんで厳しい要求をすること、貧しい者をしえたけて利益を得ることも罪である。法外な請求をすること、過度の利子をとること、賃金に見合う仕事をしないことも罪である。人の不幸を利用すること、相手の弱みにつけこんで実際の働き以上の報酬を請求することも罪である」(M.L・アンドレアセン『聖所の儀式』第2版167、168ページ)。

質問10

愆祭(けんさい)をささげる手順と罪祭をささげる手順とを比較してください。レビ記7:1~7

聖所での罪祭と愆祭(けんさい)は、私たちの罪に対するキリストのゆるしの方法を象徴していました。キリストは「わたしたちの罪のために……罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリント第Il 5:21、イザヤ書53:6、ペテロ第I 2:24、コリント第Il 9:15比較)。

キリストの犠牲のゆえに私たちは確信をもって恵みの座に近づき、ゆるしと霊的カを受けることができるのです(ヨハネ第I・1:9、ヘブル10:22参照)。祭司は象徴的に血を注ぎ、悔い改めた者の罪を負って聖所に移しましたが、私たちの天の大祭司としてイエス・キリストは今、型としてではなく、本物のとりなしをしておられます(ヘブル9:11~14、24、テモテ第I 2:5、ヨハネ第I 2:1)。キリストの犠牲、私たちの告白、そしてキリストの大祭司としての執り成しによって、私たちの罪はゆるされます。私たちは罪に定められることがありません(ローマ8:1、ミカ書7:19、ヨハネ第I 2:2、4:10、ヨハネ3:18、5:24参照)。イエスはカルバリーにおいて私たちの罪を負ってくださいました。このイエスを自分の罪祭として受け入れるとき、私たちはあらゆる罪の宣告から解放されます。

私たちのゆるされた罪の記録は、贖罪の日が示していた再臨前のさばきで最終的に除去されるまで、天の聖所に残ります(ダニエル書7:10、12:1、黙示録3:5、19:7、8参照)。すでにゆるされた罪の記録は贖罪の日に聖所から除去されました。これと全く同様に、すでにゆるされた人々は再臨前のさばきで最終的に、永遠に勝利します。再臨される主に会う備えは、私たちの罪祭であり大祭司である主イエス・キリストとの日ごとの関係を含みます。日ごとにキリストにゆるしを求め、彼の恵みによって絶えず罪から遠ざかるとき、私たちは霊的に清められ、最後のさばきに備えることができます。

まとめ

罪祭と愆祭(けんさい)において、罪のない犠牲のいのちが人間の罪の身代わりとしてささげられました。聖所の「注がれた血」によって、また祭司を通して、罪人の罪は聖所に移され、神の定められた時と方法によって処理されるのを待ちました。罪人が海い改め、罪を告白し、身代わりの死を受け入れたとき、彼はあわれみ深い神の栄光のために平和な生活を送ることができました。

*本記事は、安息日学校ガイド1989年1期『レビ記と生活』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次