黙示預言の完成【ダニエル書と黙示録—重要な黙示預言】#13

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キリストの再臨はクリスチャンとしての私たちの望みがかなう時です。私たちが信じてきたのはすべてこの日のためです。それはイエスを信じ、イエスのあがないを受け入れてきた私たちの希望が実現する時です。再臨がなければクリスチャンであることにどんな意味があるのでしょうか。私たちの信仰に意味と目的と方向を与えるのはキリスト再臨の希望です。

キリストは今も私たちに再臨に備えるように招いておられ、この招きを受け入れる方法も備えられています。聖霊はイエスの招きを受け入れる力を与えてくださいます。私たちがすべきことは、この招きを受け入れ、キリストの和解と義認の働きに従うことによって神と調和した生き方をすることです。そのとき私たちは恵みにおいて成長し、絶えず救い主と交わるようになります。ひたむきに信仰生活を送り、あがない主に会う備えをするようになります。イエスは私たちが天において永遠に生きる備えをするのを助けてくださいます。

招き

「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます」(Ⅰテサ2:12)。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(ロマ3:25)。

栄光の救い主に会う備えをせよという招きは十字架において神から直接来ます(Ⅰテサ2:12、ロマ3:25)。

福音は天国への招きであるばかりでなく、天国に入る唯一の手段なのです。福音は神から与えられますが、さまざまな方法で私たちに伝えられます。神は友人や親戚、またラジオ・テレビ番組や雑誌などを通して招きをお与えになります。神はこの聖書研究ガイドを用いても私たちが神に会う備えをし、救いの招きを受け入れるように招いておられます。

問1

この招きに聖霊はどのような役割を持っていますか。ヨハ16:8

人が神の招きを受け入れるのは人間的な推論や生まれながら持っている心の傾向によってではありません。むしろ人間の心は神の招きを拒否します。そこで神は超自然的な力によって、人が神の招きを受け入れるように促されます。それが聖霊です。聖霊は「世の誤りを明らかに」してくださいます(ヨハ16:8)。「誤りを明らかにする」と訳されているギリシア語の“エレンコー”は「責める、罰する、正す」を意味します。聖霊は良心を目覚めさせ、私たちのうちに罪悪感、孤立感、神からの断絶感、疎外感を呼び起こされます。次に聖霊は私たちを十字架のもとに導き、十字架のうちに解答を見いだすように招いてくださいます。

聖霊は私たちの真の状態を悟らせ、それに対処する方法も教えてくださいます。聖霊は誤りを明らかにされますが、決して強制されません。受け入れるか拒むかは個人にゆだねられています。

招きを受け入れる

「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を(バプテスマ)受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」(使徒2:38)。

人間の本質的な問題は人間の心と関係があります。それは皮膚にできたいぼを除去するような単なる外面的な問題とは異なります。ある人は霊的な問題に無関心で、キリストを自分に無関係と考えます。ある人は公然と神に逆らい、キリストの存在を否定し、キリストに従う人々を軽蔑します。人はみな内面の変化を必要とします。この変化が「悔い改め」です。ギリシア語の動詞“メタノエオー”は、「自分の心を変える」という意味です。再臨への備えは反逆が服従に変わることから始まります。悔い改めは神からの賜物ですが、それを拒むこともできるのです。

問2

罪を示されたダビデの反応はどうでしたか。サム下12:1~6、13

悔い改めの賜物を受け入れる人は自分の罪を告白します。罪を告白することは罪を捨てることであり、自分の罪がキリストに苦しみをもたらしたことを認めることです。私たちの告白に対する神の答えは赦しであって、それはすでにキリストの死によって与えられています。私たちが信仰と悔い改めをもってキリストのもとに来るとき、キリストはすべての罪を赦してくださいます(使徒2:38)。

問3

主は人にどのような招きをくださいましたか。マタ11:28

回心は悔い改めと告白の積極的な面も持っています。クリスチャンは何かを拒否すると同時に、何かを積極的に支持します。私たちは罪を拒否しますが、キリストを受け入れます。回心は神に立ち帰ることです。方向転換をして創造主・あがない主に帰ることです。

神との一致

「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(Ⅱコリ5:18、19)。

罪の問題を平和的に解決することが神の望みでした。神は私たちに和解を与えてくださいます。私たちが滅びる理由はないと神は言われます。神は私たちに罪の責任を負わせないで私たちの罪を赦してくださるのです。十字架がその証明です。神の赦しを受け入れる瞬間、それは私たちの生活において現実のものとなります。そのとき初めて再臨を迎える用意ができます。

問4

神の赦しについての聖句を読みましょう。イザ53:5、マル10:45、Ⅱコリ5:21

神には一つの問題がありました。“いかにして罪人を滅ぼすことなく罪を滅ぼすか”でした。十字架において神はこの問題を解決されました。「罪と何のかかわりもない方〔イエス〕を、神はわたしたちのために罪となさいました」(Ⅱコリ5:21)。

神は私たちの罪をキリストに負わせ、キリストは私たちの代わりに私たちの罪の身代金となって死なれました(イザ53:5、6、マコ10:45)。つまり神はイエス・キリストにおいて私たちの罪を罰せられたのです。それゆえに神はキリストを信じる人たちを義なる者、潔白な者、罪責のない者と宣言してくださるのです(ロマ3:23、24)。私たちが自分自身のゆえにではなく、イエスのゆえに希望と確信をもって再臨を迎えることができるのはそのためです。キリストの再臨を待ち望む人たちは唯一の救いの手段としてキリストを信じます。

問5

十字架でキリストがしてくださったことについての聖句を読みましょう。ガラ2:20、Ⅰペト2:24

キリストにあって成長する

問6

次の聖句を読んでください。Ⅰコリ1:2、フィリ3:12、Ⅱペト3:18

信仰によって義とされるとき、私たちは聖霊の賜物を受け(ガラ3:2)、ここから聖化が始まります。この聖化の過程を理解するにあたって次の点に留意する必要があります。

①聖化あるいは清めはクリスチャンの生活状態を表し、私たちが信じたときにスタートします(Iコリ1:2、6:11)。キリストを受け入れたとき、私たちはキリストのために聖別され、罪から清められたのです(エフェ5:25、26)。

②聖化はまた霊的・道徳的成長の過程でもあります(ヘブ12:14)。私たちは絶えず霊的に成長してゆきます(フィリ3:12)。

③聖化の大きな2つの目的は、(1)私たちのうちに神の姿を回復すること(コロ3:9、10)、(2)私たちの生き方を通して人々に神の愛、慈しみ、知恵を伝えることです(エフェ3:10、Iヨハ4:7~13)。

④聖化は、私たちが神の御心を受け入れることを要求します。それは決して功績となりません。聖化は神の恵みに成長することであって、それ以外の何ものでもありません(ヘブ13:20、21、Ⅱぺト3:18)。

問7

恵みに成長する段階での私たちの罪についてどのような勧告がありますか。Ⅰヨハ1:9

クリスチャンとは聖霊によって導かれ、もはや罪の奴隷でない人のことです(ロマ8:9)。聖霊によって私たちは自分のうちにある罪に勝利することができます(ガラ5:16)。神の律法に従うことは、救い主なるキリスト(ヨハ14:15)と隣人(ロマ13:8~10)に対して私たちの愛を表すことです。服従は神に受け入れられるために律法に従うことではなく、信仰によって義とされた人たちを通して、神ご自身が自らの愛を表されることです。その過程で倒れるようなことがあれば、悔い改めて罪を告白しなさいと聖書は教えています。聖化とは絶えず悔い改めと告白の精神をもって全的に神に従うことです。

神と共に歩む

問8

エノクの生き方は当時の人たちとどういう点で違っていたのでしょうか。創世5:18~24

生きたままキリストの再臨を迎える“14万4000人”をめぐって、教会の中に多くの議論があります。その多くは無用な議論、あるいは根拠のない推測に過ぎません。神を愛し、清めを求める人たちにとって重要なのは、日ごとに神と共に歩むことです。生きたままで栄光の雲に乗って来られるキリストを迎えようが、あるいは死よりよみがえり、主にお会いしようが、重要なことはエノクのように主と共に歩むことです。

問9

「神とともに歩く」とはどんな経験なのでしょうか。考えたことがありますか。神とともに歩いていながら時につまずくということがあるでしょうか。

聖書はいくつかの方法で「神」という語と「歩む」という語とを関連づけています。その1つが「主の前を歩む」です(例、創世24:40)。この表現はご自分の民のための神の摂理的な保護を表しています。あたかも小さな子どもがひとりで歩くのを優しく見守る父親のようです。父親の目の前を子どもが歩いているので、危険なときにはいつでも助けることができます。

2番目の表現は「主の後を歩む」です(例、申命13:4)。昔、人々は神々の像を担ぎ、その後に行列を作って歩く習わしがありました。神々の後を歩くことが礼拝行為と見なされていたのです。イスラエル人は主の後を歩くように求められていました。

3番目の「神と共に歩む」という表現は親しい交わりを表しています。神がそれぞれ個人の生活の中心に置かれています。この表現は市場、通り、学校、教会、リクリエーションの場、家庭、職場などでも、神が人と共におられることを暗示します。人生は旅であり、私たちは巡礼者です。キリストは私たちの道連れ、同行者なのです。神の民はキリストとの強いきずなで結ばれ、たとえ途中でつまずくことがあっても、エノクのように日ごとに神と共に歩みます。

まとめ

キリスト再臨の日、主にある備えは私たちのために死なれた救い主に全生涯をお捧げすることを含みます。そうした信仰から神と人々に愛と感謝をあらわすように人生が変えられてゆきます。日ごとに主と歩むとき、神の愛をあらわすものとして神がお用いくださる度合いが深まってゆくでしょう。

今回の研究を終えるにあたって、次の点に留意してください。

キリストとの交わり

「祈りと神のみ言葉の研究と神のたえざる臨在を信ずる信仰により、最も弱い人間も、生けるキリストと共に生きることができ、キリストはその手の中に彼らをささえ、決して離されない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』157ページ)。

「毎朝、神におのれをささげ、これを最初の務として、次のように祈りましょう。『主よ、しもべを全くあなたのものとしてお受け入れください。私のすべての計画をあなたのみ前におきます。どうか、しもべをきょうもご用のためにお用いください。どうか、私と共にいましたもうて、すべてのことをあなたにあってなさせてください』と。これは毎日のことです。毎朝、その日一日、神に献身して、すべての計画を彼にお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに生涯を神のみ手にゆだねるとき、次第にあなたの生涯がキリストの生涯に似てくるのであります」(『キリストへの道』93、94ページ)。

ミニガイド

【罪】

クリソストムは4世紀のコンスタンチノープル大司教でした。東ローマ皇帝の不興をかった彼は「信仰を捨てないなら牢屋に入れる」と脅されました。彼は「毎日忙しいので牢屋に入れば瞑想ができます」と答えました。皇帝は次に「それなら首を切って殺す」と脅しました。「天国に行けるとはなんというしあわせ」との返事です。皇帝はあきれて「彼はいったい何を恐れ、怖がっているのか」と使いの者に尋ねさせました。使いは戻って報告しました。「クリソストムは罪を犯すことが一番恐ろしいと言っております」。

罪とは悪いことをしてしまった、すべきことをしなかったというようなこと以上を意味します。罪とは神の律法や刑法に書かれている条項に違反したのでなく、十戒を与えた神ご自身の人格、心、み旨、ご意志を傷つけ、その愛を信じないことです。私たちの愛する父や母、あるいは夫、または妻への不信、裏切り、反逆と同じです。

罪の結果が死であり、その実体は神との離反でした。罪は神と私たちを隔て、離反させ、み顔から遠ざけさせました。キリストがゲッセマネで「この杯を取り去らせてください」と3度も祈り、十字架で「わが神、わが神、何ゆえ私を見捨てられるのですか」と絶望的に叫ばれたのも罪がもたらす神との断絶の苦痛そのものをあらわしています。

【愛】

神の国が回復する日、恐るべき罪はすべて救い主の恵みによって処理され、もはや聖書や祈りという間接的な交わりでなく、私たちは神と直接顔を合わせてあいまみえる特権、喜びを受けるのです。互いに愛し合う男女が時々デートをするだけで、また手紙で交わるだけで満足することはありません。2人はいつか結婚し、一緒に住みたい、家庭をつくりたいと思うのは当然で、キリストを愛する信仰者も天国での永遠の愛を自然に祈り求めるでありましょう。罪は離しますが、愛はいつまでも結びつけます。天国はそういう場所です。1人で天国を楽しむことなど考えられません。聖徒たちは愛の雰囲気の中で愛し合う感動を経験するでしょう。エレン・ホワイトの天国への動機です。

「天国はよい所である。わたしはそこへ行って、わたしのために生命をお与えになった愛するイエスを仰ぎみて、彼の栄光のお姿に変えられることを熱望する。ああ、来たるべき輝かしい世界の栄光を表現する言葉がないものだろうか」(『初代文集』101ページ)。

*本記事は、神学者アンヘル・M・ロドリゲス(英: Angel Manuel Rodriguez)著、安息日学校ガイド2002年2期『重要な黙示預言』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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