主を求めよ、そして生きよ!【アモス書—主を求めよ、そして生きよ!】

中心思想:主を求めることによってのみ生きることができると、アモスは私たちに教えています。

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この記事のテーマ

「イスラエルが神に忠実であったなら、神は彼らに栄えとほまれとを与えることによって、みこころをなしとげることがおできになったのである。もし彼らが服従の道を歩いていたなら、神は彼らに『ほまれと良き名と栄えとを与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされ』たのである。『そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたをおそれるであろう』『彼らはこのもろもろの定めをきいて、「この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある国民である」と言うであろう』と、モーセは言った(申命記26:19、28:10、4:6)。しかし、イスラエルが不忠実であったために、神のみこころはうちつづく逆境と屈辱とを通してのみ達成されるよりほかなかった」(『希望への光』680ページ、『各時代の希望』上巻15、16ページ)。

今回は、アモス書についてもう少し詳しく学びます。主はなおも御自分の民に、自分たちの罪を捨てて、唯一の、まことの命の源である主に立ち帰るように訴えておられます。結局のところ、私たちはみな二つの選択肢—命か死か—しか与えられていません。中立的な立場はありません。アモスはこれらの選択肢の際立った違いについて教えています。

悪を憎み、善を愛せよ

堕落と抑圧、罪のゆえに、イスラエルの状態は非常に悪化していました。国家の存続そのものが危険な状況に陥っていました。それゆえに、アモスはイスラエルの来るべき死を嘆く挽歌を作ったのでした(アモ5:1~15)。預言書においてはしばしば、預言者の言葉と主の言葉が区別されていません。したがって、アモスの挽歌はイスラエルに対する神の挽歌でもあるのです。

アモス書5:1~15にある弔いの歌の目的は、直面している現実に人々を気づかせることにありました。もし彼らが自分の罪に執着するなら、彼らは必ず滅びるのでした。一方、もし悪を拒んで、神に立ち帰るなら、彼らは生きるのでした。彼らが神の御心に従うことを、主は期待しておられます。

問1

アモス書5:14、15を読んでください。どうしたら、私たちは「悪を憎み、善を愛する」ことができますか。ヘブ5:14、ロマ12:9、箴8:36参照

アモスは人々に対して、悪を求めるのを止めることだけでなく、悪を憎み、善を愛することをも求めています。この部分における命令は漸進的です。聖書にある「愛する」(ヘブライ語で“アハーブ”)、「憎む」(“サーネー”)という動詞は、単に感情や態度だけでなく、しばしば決定や行為をも意味します。言い換えるなら、人々の態度の変化は行為の変化につながります。

問2

これに関連して、イザヤ書5:20にはどんな警告が与えられていますか。

「来るべき悪しき日において、良心の命じるところに従って、恐れることなく神に仕えようとする者はすべて、勇気と堅実さと、神および神のことばに対する知識を持っていなければならない。神に忠実な者は、迫害を受け、その動機は疑われ、その最善の努力は曲解され、その名は悪しき者として除外される。サタンは、あらゆる欺瞞の力を用いて人々の心に働きかけ、理解力をにぶらせ、悪を善と見せかけ、善を悪と見せかけようとする」(『希望への光』1520ページ、『患難から栄光へ』下巻119ページ)。

日常の宗教

問3

アモス書5:23、24、ホセア書6:6、マタイ9:13、詩編51:17を読んでください。これらの聖句は何と述べていますか。どうしたら、セブンスデー・アドベンチストとしての私たちの今日の信仰生活にこれらの原則を適用することができますか。ひょっとしたら、ここで教えられている生き方と正反対の生き方をしてはいないでしょうか(私たちは容易に自己欺瞞に陥りがちであることを覚えてください)。

聖書のほかの大部分の書以上に、アモス書は不法や暴虐、非人間的な行為に言及しています。それはまた、そのような行為に対する神の見方にも触れています。アモスが説いたのは、民の空虚な形式主義にもとづいた無意味な儀式を神が嫌われるということ、また神が彼らに改革を求められるということでした。自分の利益のために人を抑圧していながら、神を崇める者たちの、形だけの空しい礼拝を、神はお喜びになりませんでした。彼らの生き方は、主に従うことの意味を全く理解していないことを示していました。彼らはまた神の律法の深い意味を全く理解していませんでした。

事実、神は彼らの宗教的な儀式を拒否されました。なぜなら、それらが信仰生活から湧き出たものではなかったからです。アモス書5:14、15にある中心的な言葉は、主を求めて生きるようにという命令です。主を求めることは、ベテルやギルガル、ベエル・シェバにある有名な宗教的中心地に巡礼することと対比されています(アモ5:5)。これら三つの町は聖所と共に滅ぼされる運命にありました。

神が真に望まれたことはその地に正義と義を行うことでした。「主を求めよ」という命令は、「善を求めよ」という命令に対応しています。主は残りの者たちに悪しき行いと宗教的な形式主義から遠ざかり、正義を川のように、義を尽きることのない小川のように流れさせるように求めておられます。正義は神の前に正しいことを行うことであり、義は神と隣人に対する関係における生活の質です。ここに描かれているのは、宗教を信じると言いながら、その宗教が真の信仰に見られる心の変化を伴わない、単なる形式と儀式に堕してしまっている人々のことです(申10:16参照)。私たちは十分に注意する必要があります。

預言者として召される

アモスの故郷はユダのテコアでしたが、神は彼をイスラエルで預言するために遣わされました。アモスは北王国に行き、力強く語ったので、「この国は彼のすべての言葉に耐えられません」と言われるほどでした(アモ7:10)。彼は多くのイスラエル人から疑いの目で見られ、神の使命者として受け入れられなかったようです。それにもかかわらず、彼は忠実に自分の預言者としての働きを遂行しました。

問4

アモス書7:10~17を読んでください。ここに、どんな慣れ親しんだ行動様式が見られますか。ほかにどんな実例を聖書の中に見ることができますか。これらの実例から、私たちはどんなことを学ぶべきですか。

アモスの説教を拒否した者たちの中に、ベテルの祭司アマツヤがいました。彼はアモスを、イスラエルの王に背いたと言って非難しました。ベテルは背信的な礼拝の中心である二つの王の聖所のうちの一つでした。もしイスラエルが悔い改めないなら、その王は剣によって死に、民は捕囚となると、アモスは公衆の面前で預言しました。アマツヤはアモスに向かって、イスラエルに対する預言が歓迎されるユダの地に帰るように命令しました。

アモスは祭司アマツヤに答えて、自分の預言者としての召しは神から与えられたものであると言っています。自分は奉仕のために雇われる職業的な預言者ではないと、彼は断言しています。アモスは自分自身を、利得のために預言する職業的な預言者と区別しています。

真理を語ることは決して受け入れられることを保証するものではありません。なぜなら、真理は時として不愉快なものであり、もし権力者を怒らせると、深刻な反対を招くことになります。アモスは神の召しによって、北王国の王と貴族の罪を公に、大胆に叱責したので、反逆罪に問われたのでした。

最悪の飢饉

問5

「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく水に渇くことでもなく主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り北から東へとよろめき歩いて主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない」(アモ8:11、12)。これらの聖句は何を意味していますか。

アモス書8章において、預言者は悔い改めないイスラエルの上に下る神の裁きの壊滅的な結果について描写しています。神は地に飢饉を送ることによって、民をその罪のゆえに罰せられます。しかし、預言者は11節と12節で、神の言葉に対する飢えと渇きについて語っています。悲劇の中でも際立っているのは、神の御言葉に対する飢饉です。なぜなら、神が沈黙されるからです。それは最悪の飢饉です。

イスラエルの民はしばしば大きな悩みを経験しましたが、そのような時には預言者の言葉に導きを求めて主に立ち帰るのが常でした。今回の神の回答は、神が沈黙されるということです。御自分の民に対する神の裁きには、主が御自分の預言者を通して御言葉を語るのをやめることが含まれます。

もし神の民が背き続けるなら、と預言者は言います。彼らが神の御言葉に飢えるときが来ます。しかし、裁きを逃れるために神の御言葉に立ち帰ろうとしても、すでに遅すぎます。それは、イスラエルがアモスによって与えられた神の言葉に従うことを執拗に拒み続けた結果です。最後の戦いの前のサウルのように(サム上28:6)、人々は神の御言葉に対する自らの大きな必要を認めるようになります。

人々はみな神の御言葉を死に物狂いに求めるようになります。それは、彼らが預言者の時代に軽んじていた御言葉そのものです。特に影響を受けるのは若者たちです。先の世代は神の御言葉を聞き、それを拒みましたが、若者たちは一度も預言者の言葉を聞く機会が与えられません。

問6

次の聖句は、神の沈黙がもたらす重大な影響についてどんなことを教えていますか。サム上14:37、詩編74:9、箴言1:28、哀歌2:9、ホセア書5:6、ミカ書3:5~7

ユダの廃虚が回復される

預言者の言葉は、民の罪深さと、それにともなう裁きについての暗い描写から、将来の回復についての輝かしい約束に変わります(アモ9:11~15)。先には刑罰の日として描かれていた主の日は、今や救いの日となります。刑罰ではなく、救いが、御自分の民に対する神の最終的な計画だからです。しかしながら、救いは刑罰の代わりとしてではなく、刑罰の後に来ます。

すべてが暗澹とした中にあって、アモスは希望の言葉をもってその書を結んでいます。捕囚の日が切迫している中にあって、ダビデの王朝はもはや家ではなく小屋と呼ばれるまでに衰退していました。しかし、ダビデの王国は一人の支配者の下で再生され、統一されることになるのでした。イスラエルの国境の向こうでは、ほかの国民が神の御名を呼び、イスラエルと共に神の祝福にあずかります。アモス書はこのような幸福で、希望に満ちた言葉をもって終わります。

聖書の預言者たちは、神の刑罰が刑罰のための刑罰であるとは教えていません。ほとんどすべての警告の背後に、贖いの呼びかけがあります。捕囚の脅威が迫っていましたが、主は国を回復するという約束をもって残りの者たちを励ましておられます。残りの者たちは契約の更新にあずかるのでした。裁きを経験する者たちは、神が救いと回復のために働かれるのを見るのでした。

問7

神の民の回復についてのアモスの約束は、最終的にどのように実現しましたか。ルカ1:32、33、使徒15:13~18

多くのユダヤ人教師はアモス書9:11を、アブラムに与えられ、ダビデに対して再確認され、旧約聖書全体に表されたメシアについての約束と考えました。ダビデの家系の新しい王が、アブラムに対する神の約束の実現として多くの国民を支配するようになるのでした(創12:1~3)。このメシアはエドムのような敵でさえ支配するのです。神の民の回復された廃虚は、二度と滅ぼされることがありません。

大いなるダビデの子、イエス・キリストの来臨を通して、神は御自分の恵み深い約束を堅持されたのでした。ヤコブはアモス書の聖句を引用して、救いの扉が異邦人に対して開かれたと言いました。異邦人も教会に託された契約の特権にあずかるためでした。神はアブラムとダビデの子孫、約束のメシアにおいて、御自分の贖いの祝福をユダヤ人と異邦人にお与えになるのでした。

さらなる研究

「神の前におけるわれわれの立場は、われわれが受けた光の量によって決まるのではなくて、われわれが持っているものをどう用いるかによって決まるのである。だから、たとえ異教徒であっても、認めることができるかぎり正しいことを選ぶとき、彼らは、大きな光を与えられて、神に仕えると公言しながらその光を軽視し、その日常生活が告白と矛盾しているような人たちよりも、好ましい状態にあるのである」(『希望への光』786ページ、『各時代の希望』上巻295、296ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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