神の慈愛に信頼する【ハバクク書—主を求めよ、そして生きよ!】

中心思想:たとえ悲劇の起こる理由を理解できなくても、私たちはつねに神に信頼することができます。

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この記事のテーマ

ある牧師が逆境の中にあっても共にいる神について説教しました。説教の後で、ある女性が牧師のもとに来て涙ながらに次のように尋ねました。「先生、私の一人息子が死んだとき、神さまはどこにいたのでしょうか」。彼女の顔に深い悲しみを読み取った牧師は一瞬、沈黙した後で、次のように答えました。「神さまは、御自分の独り子が私たちを永遠の死から救うために死なれた日にいたのと同じ場所におられたのです」

私たちと同様、ハバククは不法と暴虐、罪悪を目の当たりにしました。それどころか、御自分の約束に信頼するようにハバククに求められた神はどんなときにも沈黙しておられるように見えました。

預言者はその生涯において、これらの約束が実現するのを見ることがありませんでした。しかし、彼はそれらの約束に信頼することを学びました。ハバクク書は神に対する不平をもって始まっていますが、聖書の中でも最も美しい賛美の一つをもって終わっています。私たちもハバククのように、信仰をもって、次の聖句が実現するときを待たなければなりません。「水が海を覆うように大地は主の栄光の知識で満たされる」(ハバ2:14)。

困惑した預言者

問1

ハバクク書1章を読んでください。預言者は神に何と質問していますか。彼の置かれていた状況は私たちのそれと異なっているとはいえ、私たちもどんな意味でこれと同じ質問をすることがよくありますか。

ハバククは預言者の中でも独特の存在です。なぜなら、彼は神に代わって人々に語ったのでなく、むしろ人々について神に語ったからです。「主よ……いつまで」という困惑に満ちた叫びをもって、預言者は神の目的を理解するための闘いを開始しています。聖書においては、この質問は典型的な嘆きの表現です(詩編13:2—口語訳13:1、エレ12:4)。それは危機的な状況を暗示していて、話者はそれからの解放を求めています。

ハバククは社会に蔓延していた暴虐という危機から解放されることを求めています。「暴虐」(不法)を意味するヘブライ語の原語は“ハーマース”で、ハバクク書で6回用いられています。この語は他者に対して加えられる肉体的・道徳的な危害を意味します(創6:11)。

ハバククは預言者だったので、神がどれほど正義を愛し、暴虐を憎まれるかをよく知っていました。それだけに、神はなぜ不法が続くのをお許しになるのかを、彼は知りたいと望んだのでした。彼は至るところに暴虐と不法を見ています。悪い者たちが正しい者たちに勝利しているように思われます。アモスの時代のように(アモ2:6~8)、また今日もしばしば見られるように、正義は権力者によって歪められています。

神の回答は神の将来の計画を明らかにしています。主はバビロンの軍隊を用いて民を罰せられます。この宣言は預言者を驚かせます。神がそのような無情な軍隊を用いてユダを懲らしめるとは予想していなかったからです。8節で、バビロンの騎兵は豹、狼、鷲—素早く、力強く獲物に襲いかかって、非業の死に至らせる三つの捕食動物—にたとえられています。

バビロンの冷酷な傲慢さは、いかなる責任も認めず、いかなる悔い改めも求めず、いかなる償いも与えないものです。それは造られた者の最も基本的な秩序を侵害するものです。バビロンの軍隊は「わたし〔神〕の怒りの鞭」(イザ10:5)として用いられると、ハバククは言われています。この刑罰はハバククの時代に行われるのでした(ハバ1:5)。こうした状況は神の正義についてさらに難しい疑問を生じさせることになります。

信仰によって生きる

ハバクク1:12~17を見ると、ハバククの疑問に対する神の回答はさらに悩ましい疑問を生じさせています。正義の神は悪人を用いて、自分たちよりも正しい者たちを罰することができるのでしょうか。17節にあるハバククの疑問は神の正義について述べています。

ハバククが困惑したのは、自国民の堕落のためだけでなく、自分の国がそれよりも悪い他の国によって裁かれるということのためでもありました。預言者はユダの罪についてよく知っていました。しかし、どう見ても、自分の民の中の、特に正しい者たちは異教のバビロニア人ほど悪くはありませんでした。

問2

ハバクク書2:2~4を読んでください。ここに、どんな希望が語られていますか。

ハバクク書2:2~4は聖書の中でも最も重要な聖句の一つです。特に4節は福音の真髄であって、明らかにプロテスタント宗教改革の出発点となった聖句の土台となるものです。イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは神の義を受けます。私たちは神御自身の義を持つ者と見なされます。神の義は私たちの義となります。これが、いわゆる信仰による義認です。

問3

ハバクク書2:4は救いの方法を、また信仰による義認についての聖書の教えを要約する言葉です。新約聖書の記者たちはこの聖句をどのように用いていますか。ロマ1:17、ガラ3:11、ヘブ10:38

悪と正義、救いについての混乱と疑問の中にあって、ハバクク書2:4は忠実な者と高慢な者とをはっきりと対比させています。それぞれの行動はその運命を決定します。正しい者は信仰によって生きますが、高慢な者はそうではありません。「信仰」を意味するヘブライ語の原語(“エムーナー”)は「忠実であること」、「不変であること」、「信頼できること」を意味します。信仰によって生きる者はその行いによって救われるのではありません。しかし、その行いは、彼が信仰によって生きることを示しています。彼の信仰はその行いにおいて現され、こうして彼は永遠の命を約束されるのです。

大地は満たされる(ハバクク書2章)

ハバクク書2章は、同1:17にあるハバククの質問に対する神の答えです。それは高慢な圧制者をあざける歌の形式をもって記されています。バビロンの滅びが確実なものとなったというメッセージが、少なくとも五つの嘆きによって確認されています(ハバ2:6、9、12、15、19)。敵に対する刑罰は「尺には尺を」(目には目を)の原則にもとづいて下されます。彼らは自分の蒔いたものを刈り取ります。なぜなら、神は高慢な人間から侮られるような方ではないからです(ガラ6:7)。

最後には神によって裁かれる圧制者とは対照的に、正しい者は、たとえこの世でどんな目に遭おうとも、キリストにある永遠の命を約束されています。終わりの時の忠実な残りの者たちを描写するにあたって、黙示録は「聖なる者たちの忍耐」という表現を用いています(黙14:12)。事実、正しい者は一貫して神の介入を待ち望みます。たとえ、それが再臨の時になっても、です。

問4

ヘブライ11:1~13を読んでください。これらの聖句は、私たちがそれぞれの立場でハバククと同じ問題に悩むときに、どんな助けを与えますか。

ハバククの質問に対する神の最終的な答えは、神がどんなときにも共におられるということです。どれほど状況が不利に見えるときにも、神の臨在に信頼し、神の裁きを確信すること—これが、聖書のあらゆる啓示のメッセージであり、ハバクク書のメッセージです。預言者の信仰とは、主と主の変わることのない品性に信頼することです。

「あの大いなる試練の時代に、ハバククおよびすべての聖徒たちとすべての義人たちを力づけた信仰は、今日、神の民を支えるのと同じ信仰であった。キリスト信者は、最も暗黒で最も険悪な状態のもとにあって、すべての光と力の源に寄り頼んでいることができる。日ごとに神を信じる信仰によって、希望と勇気を新たにすることができる」(『希望への光』534ページ、『国と指導者』下巻6ページ)。

神の名声を覚える

問5

ハバクク書3章を読んでください。ハバククはそこで何をしていますか。彼が直面していた厳しい状況と難解な問題に照らして考えるとき、そうすることが特に重要なのはなぜですか。

ハバククは伴奏付きの祈りによって、自分が神の道を受け入れたことを表現しています(ハバ3:19)。彼は全面的に神の力を認めて、裁きの始まるときに御自分の憐れみを覚えてくださるように主に求めています。預言者は過去における神の大いなる御業を思い起こし、いま救いを与えてくださるように神に祈っています。彼は時間と時間の間に立っているかのようです。一方の目で出エジプトの出来事を振り返り、もう一方の目で主の日を眺めています。神の力が現在の状況において現されることを、彼は切望しています。

ハバクク書3章の賛歌は、神がイスラエルをエジプトの隷属から救出されたことを詩的に描写しています。出エジプトのときに起こったことは大いなる裁きの日を予示するものです。信心深い者たちは主の日を恐れるのではなく、与えられている希望を待ち望み、忍耐し、喜ばなければなりません。

この賛歌はまた、神の力と栄光、勝利をたたえています。主は全地の支配者として描かれています。主の栄光の現れは日の出の輝きにたとえられています(ハバ3:4)。

神は抑圧的な国民を裁かれます。しかし、同時に、神は「勝利の戦車」を駆って(ハバ3:8)、御自分の民を贖われます。表面的には、神の力は必ずしも目に見えるとは限りませんが、信仰の人はどのようなときにも、神がそこにおられることを知っています。

ハバククは私たちに主の救いを待ち望むように言っています。それは、主が地上に御自分の義を打ち立て、世界を御自分の栄光で満たされるときです。主に賛美をささげることによって、神の民は過去における神の御業を瞑想し、輝かしい将来を待望するように互いに励まし合うのです(エフェ5:19、20、コロ3:16)。ハバクク自身の経験は、人が希望的幻をもって生きることによって忍耐することができることの実例です。

神は私たちの力

問6

「いちじくの木に花は咲かずぶどうの枝は実をつけずオリーブは収穫の期待を裏切り田畑は食物を生ぜず……。しかし、わたしは主によって喜びわが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし聖なる高台を歩ませられる」(ハバ3:17~19)。ここに見られる預言者の態度の素晴らしい点はどんなところですか。私たちもどうしたらこのような態度を養うことができますか。フィリ4:11参照

ハバクク書の結びの言葉(ハバ3:16~19)は、神の力と慈愛の啓示に対する預言者の応答です。新たな視点から神の救いの御業を眺めたとき、敵の攻撃を受けようとしているハバククに勇気が与えられました。自国民に神の裁きが下ることを思ったとき、彼の心は恐怖で満たされました。侵略はいちじくとオリーブの木を枯らしてしまうかもしれません。パレスチナでは、それらはぶどうや穀物、家畜と同じくらい貴重なものでした。しかし、預言者は生ける主の幻を受けていたので、その不動の信仰は揺らぐことがありませんでした。

ハバククは自分自身の過去の経験から、神が絶対的に忠実な方であることを知っていました。彼が神の現在の目的に従ったのはそのためでした(ハバ3:16~19)。状況がどれほど不利で、絶望的に見えようとも、預言者は主と主の慈愛に信頼する決意でした。

たとえ間近に救いの徴が見られなくても、ハバククは変わらない信頼を待っています。預言者ハバククは対話と皮肉、賛歌をもって、各時代の忠実な者たちに、贖い主に対する深い、生きた信仰を養うように教えています。彼は自分自身の模範を通して、苦しいときには神と対話をし、神に対する自分の忠誠心を試し、主に対する希望を養い、主を賛美するように信心深い者たちに勧めています。

ハバククは美しく表現された信仰の態度をもってその書を結んでいます。人生がどれほど苛酷なものになっても、人は神のうちに喜びと力を見いだすことができます。ハバクク書の根底にある教えは、終わりの見えない苦難のときにも忍耐して神の救いを待つ必要があるということです。ハバクク書全体に流れているテーマは、「主を待ち望む」ということです。このテーマは私たちセブンスデー・アドベンチストにこそふさわしいものです。私たちの名そのものがイエスの再臨に対する信仰を表しているからです。

さらなる研究

次の引用文を読み、それらがハバクク書のメッセージをより深く理解する上でどんな助けになるか話し合ってください。

「ハバククの質問には答えがある。それは思想を通してではなく、出来事を通して与えられる答えである。神の答えは起こるものであるが、それを言葉によって表すことはできない。神の答えは必ず実現する。『たとえ、遅くなっても、待っておれ』〔ハバ2:3〕。確かに、待つ間はつらいものである。正しい者は自分の見るものによって恐れを抱く。これに対しては、大いなる答えが与えられている。『神に従う人は信仰によって生きる』〔ハバ2:4〕。これもまた思想を通してではなく、実在を通して与えられる答えである。預言者の信仰は主に信頼することにある。主の臨在においては、静寂は悟りの一形態である」(エイブラハム・J・ヘスケル『預言者』143ページ、英文)。

「われわれは預言者たちや使徒たちが証しした信仰を抱いて、それを強めるようにしなければならない。それは神の約束をしっかりと把握して、神がお定めになった時と方法によって救いをお与えになるのを待つ信仰である。預言の確かな言葉は、われわれの主、救い主イエス・キリストが、王の王、主の主として栄光のうちに再臨なさるときに、完全に成就するのである。待望の期間は長く思われるかもしれない。心は失望的状況下に圧倒されるかもしれない。また、信頼されていた多くの人々が、途中で倒れてしまうかもしれない。しかしわれわれは、未曽有の背信の時代にあって、ユダを励まそうと努力した預言者と共に確信をもって次のように言おう。『主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ』(ハバクク2:20)」(『希望への光』534ページ、『国と指導者』下巻6、7ページ、一部改訳)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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