中心思想:マラキ書は、御自分の民に対する神の献身の範囲と同時に、彼らの聖なる責任について教えています。
この記事のテーマ
マラキという名には、「わたしの使者」という意味があります。マラキ書は「小預言書」(または「12人の書」)と呼ばれる旧約聖書の部分を締めくくる書です。マラキの短い書から得られる情報以外には、マラキについてわかることは何もありません。マラキ書はまた旧約聖書の最後の書です。
マラキ書の中心的なメッセージは、神が御自分の民に対する愛を彼らの歴史を通して啓示されましたが、同時に、その愛は彼らを神に対して責任ある者としたということです。主は、選民とその指導者たちに御自分の命令に従うように期待されました。外見的には、公然たる偶像崇拝は見られなくなっていましたが(マラキ書はバビロン捕囚から帰還したユダヤ人のために書かれたと思われる)、民は契約の要件に従った生き方をしていませんでした。彼らは宗教的な儀式を守っていましたが、それは心からの確信の伴わない、無味乾燥な形式主義でした。私たちも教会として留意する必要があります。
主は大いなる方
問1
マラキ書1章を読んでください。預言者はどんな問題について語っていますか。どんな意味で、今日の私たちもこれと同じ過ちを犯す危険がありますか。
マラキは、御自分の民に対する神の愛を祭司たちの態度と対比しています。彼は、聖なる神の御名を汚した罪で祭司たちを訴えています。これらアロンの子孫たちは、神殿における務めを遂行するにあたって、足が傷ついた、目がつぶれた、病気の動物を主に対する犠牲としてささげていました。民はこのようにして、犠牲は重要なものではないという誤った考えに陥っていました。しかし、神は荒れ野においてアロンと彼の息子たちに、犠牲の動物は肉体的に完全で傷のないものでなければならないと教えておられました(レビ1:1~3、22:19参照)。
預言者は次に、神がイスラエルの民によって崇められ、尊ばれるべき三つの重要な理由をあげています。第一に、神は彼らの父です。子どもがその両親を敬うべきであるように、民は天の父なる神を崇めるべきです。第二に、神は彼らの主人、また主です。僕がその主人に従うように、神の民も神に仕えるべきです。第三に、主は大いなる王です。地上の王はだれでも、家臣からの傷ついた、病気の動物の贈り物を受け入れません。そのようなわけで、全世界を支配される方、王の中の王に、そのような動物をささげる理由について、預言者は民を問い正しています。
当然ながら、彼らの行為を神の目にいっそう忌むべきものとしていたのは、これらの犠牲がまさに汚れのない神の御子、イエスを指し示していたからです(ヨハ1:29、Iペト1:18、19)。犠牲の動物は傷のないものでなければなりませんでした。それは、イエスが私たちの完全な犠牲となるためには傷のない方でなければならなかったからにほかなりません。
「神の栄誉と栄光のために、神の愛された御子─保証また身代わり─は引き渡され、死の獄舎に下られた。新しい墓がその岩室に彼を閉じ込めた。もし一つの罪でも彼の品性を汚していたなら、石は決して彼の岩室の入り口から転がされることがなく、世はその罪責の重荷を負って滅びていたことであろう」(エレン・G・ホワイト『原稿集』第10巻、385ページ、英文)。イエスを指し示していた犠牲が完全なものでなければならなかったとしても、何ら不思議ではありません。
人を愛し、敬う
マラキ書の中に満ちている神の声は、自分の子らに訴える愛情深い父親の声です。民が疑いの声を上げ、不平を述べるとき、神は喜んで彼らと対話されます。神と神の民との間でなされる議論の大部分は、いくつかの基本的な態度をめぐるものです。
問2
マラキ書2章を読んでください。いくつかのことが問題となっていますが、主は特にどんな行為のゆえに民を断罪しておられますか。マラ2:13~16
すべてのユダヤ人が礼拝の中で神を自分の父また創造主と認めてはいましたが、すべての者が神を自分の人生の主と認めて生きていたのではありませんでした。マラキはお互いに対する忠誠と献身のなさを例示する実例として結婚を取り上げています。聖書によれば、結婚は神によって定められた聖なる制度です。イスラエルの民は異なった信仰を持つ者と結婚することのないように警告されていました。それによって、主に対する献身を危うくし、偶像崇拝に陥ることがないためでした(ヨシュ23:12、13参照)。
神の意図は、結婚が生涯にわたる献身となることにありました。しかし、多くの男子は、預言者の言うように、「若いときの妻」に対する先の誓いを破っていました。自分の妻が老いるのを見て、夫たちは妻を離縁し、より若くて魅力的な女性をめとっていました。それゆえに、神は離婚を憎むと言われます(マラ2:16)。この強い言葉のうちに、神が人間の軽視しがちな結婚の誓約をどれほど重視されるかが啓示されています。聖書にある離婚についての厳格な規定は、結婚がどれほど聖なるものであるかを明らかにしています。
離婚はイスラエルにおいては合法だったので(申24:1~4)、結婚の誓いを破ることをためらわない者たちがいました。旧約聖書時代の終わりにかけては、今日の多くの国々のように、離婚は普通に見られるようになったようです。しかし、聖書においては、結婚は一貫して神の前における聖なる契約として描かれています(創2:24、エフェ5:21~33)。
倉の中の十分の一
問3
マラキ書3:1~10を読んでください。神はここで御自分の民に何と言っておられますか。これらの聖句にどんな新しい要素が見られますか。それらがみな一つに結びついているのはなぜですか。それらはどんな意味で互いに関連していますか。
神はこれらの聖句において、小預言者たちによって与えられた基本的なメッセージを繰り返しておられます。神の愛は不変で、揺らぐことがありません。7節で、神は再び訴えておられます。「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰る」。民は尋ねます。「どのように立ち帰ればよいのか」。この問いかけは、神に献げ物を携えてくることについての、ミカ書6:6の問いかけに似ています。しかしながら、マラキ書の場合は、特定の答えが与えられています。驚くべきことに、それは彼らの十分の一の献げ物、または十分の一が不足していることと関係があります。
事実、彼らは神の物を盗んでいるとして非難されています。それは、彼らが忠実に十分の一と献納物を神に返していないからです。
十分の一の献げ物、つまり収入の10パーセントをささげる慣習は、神がすべてのものの所有者であり、人の持ち物のすべてが神から来ることを思い起こさせるためのものとして聖書に教えられています。イスラエルにおいては、十分の一は神殿で奉仕するレビ人を支えるために用いられました。マラキ書によれば、十分の一を返さないことは神から盗むのと同じです。
マラキ書3:10は、神が人々に御自分を試すように言われるまれな聖句の一つです。イスラエルの子らは荒れ野のメリバの水場で、何度も神の忍耐を「試し」ましたが、これは神の憎まれることでした(詩編95:8~11)。しかし、ここで、神はイスラエルに御自分を試すように言っておられます。この件に関しては神に信頼するように、神は彼らに望んでおられます。聖句によれば、これは霊的に深い意味を持つことです。
記録の書
人々はマラキ書3:13~18で、主が、国民の罪を心に留められないことに不平を述べています。悪と不正を行う者たちが見過ごされていました。それゆえに、多くの人々は、悪が罰せられないで放置されているのに、自分たちが主に仕え、正しく生きねばならないのはなぜかと考えました。
問4
マラキ書3:14、15を読んでください。この不満がよく理解できるのはなぜですか。
問5
主は何と答えておられますか。マラ3:16~18
あまりにも不正が多いこの世界にあっては、果たして正義が行われるのだろうかと疑いたくもなります。しかし、ここに言われているように、神はこれらすべてのことを知っており、御自分に忠実な者たちに報いられます。
問6
聖書の中で「記録の書」という表現が出てくるのはマラキ書3:16だけです。次の聖句は人々の名前や行いを記した神の種々の記録について何と教えていますか。出32:32、詩編139:16、イザ4:3、65:6、黙20:11~15
重要なのは、主がすべてのことを知っておられるということです。主は御自分の者たちとそうでない者たちとを知っておられます(IIテモ2:19)。私たちが罪人としてできることのすべては、神の義を求めること、赦しと力についての神の約束に頼ること、そして─キリストの功績に信頼して─私たちの唯一の希望が神の恵みにあることを認めて、自己に死に、神と人々のために生きることです。もし自分自身に信頼を置くなら、遅かれ早かれ、私たちは必ず失望します。
義の太陽
人々は先に、「裁きの神はどこにおられるのか」と尋ねていました(マラ2:17)。マラキ書3:19には、神が世界に裁きを行われる日が来るという厳粛な約束が与えられています。その結果、わらが火で焼かれるように、高慢な者たちは悪人と共に滅ぼされます。わらは穀物の不要な部分であって、燃える炉に投げ込まれると、数秒と持ちません。主の日には、ノアの時代の水のように、火は滅びの手段となります。
問7
マラキ書3:19~24(口語訳4章)を読んでください。ここに、救われる者たちと滅びる者たちがどのように対比されていますか。申30:19、ヨハ3:16参照
マラキ書3:19には、悪人の運命が描写されていますが、20節には、義人の将来の祝福が描かれています。「裁きの神はどこにおられるのか」という質問に対する答えがここでも与えられています。しかし、ここでは、義の太陽がその翼に癒しを携えて昇る日の到来についての約束をもってです。「義の太陽」が昇ることは、新しい日、つまり救いの歴史における新たな時代となる日の始まりを表す比喩です。このとき、最終的に、悪は永遠に滅ぼされ、救われた者たちはキリストによって完成された究極的な結果にあずかります。宇宙は永遠にわたって安全なところとなります。
マラキは聖書の信仰を特徴づける二つの勧告をもってその書を締めくくっています。第一は、モーセによって与えられた神の啓示を思い起こすようにという訴えです。それは聖書の最初の五つの書であって、旧約聖書の基礎となるものです。
第二の勧告はエリヤの預言者としての役割について述べています。この預言者は聖霊に満たされて、人々に悔い改めて、神に立ち帰るように訴えました。イエス御自身はバプテスマのヨハネをこの預言の成就と見ておられます(マタ11:13、14)。しかし、私たちはまた、それが終わりのとき、つまり神が恐れることなく世に御自分のメッセージを宣べ伝える民を起こされるときに実現すると信じています。「キリスト再臨への道を備える者たちは忠実なエリヤによって表されている。ヨハネがキリスト初臨への道を備えるためにエリヤの霊をもって来たのと同じである」(エレン・G・ホワイト『健康に関する勧告』72、73ページ、英文)。
さらなる研究
「神は人間の手のわざを祝福される。それは彼らが、神の分を神にお返しするためである。神は、彼らに日光と雨とをお与えになる。神は草や木を繁茂させられる。神は財産を得るための健康と能力をお与えになる。すべての祝福は、神の恵み深い御手から来る。そして神は、男も女も、十分の一と献げ物、すなわち感謝の献げ物、心からの献げ物、また罪祭などによって神の分をお返しして、彼らの感謝を表すことを望まれるのである。彼らは、神のぶどう畑が荒れ果てたままにならないように、神の奉仕のために彼らの財産を献げなければならない。彼らは、もし神が彼らの立場にあれば、何をなさるであろうかを探り調べなければならない。彼らはあらゆる困難なことについて、神に祈り求めなければならない。彼らは、世界のあらゆる場所における神の働きを推進するために、私心のない関心を示さなければならない」(『希望への光』648ページ、『国と指導者』下巻309ページ、一部改訳)。
*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。