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私たちはこの物語をよく知っています。問題は、それがどれくらいしっかり理解されているかという点です。
エルサレムからエリコへ向かう途中、最初に祭司、次にレビ人が、瀕死の状態で道に横たわっている男と遭遇しました。2人とも自分の宗教的な義務(務め)を終えたばかりでしたが、いずれも、けが人を助けることが彼らの義務であるとは感じなかったようで、そのまま歩き去ってしまいました。最後に、半ば異教徒であるサマリア人がたまたま通りがかり、けが人を憐れに思い、その傷に包帯をし、回復できるように運び込んだ宿屋の費用を払いました。さらに彼は、けが人がほかに必要とするものの代金はあとから支払います、と宿屋の主人に約束しました(ルカ10:30~37参照)。
イエスがこの話をなさったのは、ある律法学者から投げかけられた永遠の命に関する質問に答えてのことでした。その律法学者に向かって、「もっと頑張りなさい」とか、「もっと多くのことをしなさい」とか言う代わりに、イエスは行動による愛を説明なさいました。すなわち、私たちは危険性のある状況下や不愉快な状況下でも愛することをしますし、好きでない人さえも愛するということです。
それはやさしいことではなく、しばしば私たちの本性に逆らうことです。しかし、真の愛はかなりのリスクを要求し、教会の外でも、(とりわけ)内でも、人として私たちを隔てる壁を壊すように命じます。私たちは今回、ヤコブがこの重要な真理に関して語らずにはいられなかったことに目を向けます。
金を身につけた人
ヤコブ2:1~4を読んでください。数ある中でも、これは典型的な比較対照です。1人は裕福で立派な服を着込み、どうやら身分が高く、もう1人のほうは貧乏でみすぼらしいなりをし、どうやら無名のただの人のようです。1人は最高の丁重さをもって迎えられ、もう1人は軽蔑をもって迎えられます。1人は居心地のよい立派な椅子を提供され、もう1人は脇のほうに離れて立っているか、床の上に座る場所を見つけなさい、と言われます。
この描写は、あまり気持ちのよいものではありません。というのも、これが礼拝の中で起こっているかのように描かれている(少なくとも、その可能性がある)からです!2節の「集まり」に相当するギリシア語は「シナゴーゲー」で、これは十中八九、ユダヤ人クリスチャンたちの安息日の礼拝を指す初期の言い方であり、その礼拝の多くは個人の家で持たれていたことでしょう(使徒18:7、8参照)。
紀元1世紀のギリシア・ローマの文化においては、個人の世間体や身分が極めて重要でした。富、教育、政治的影響力を持つ人々は、これらの資産を用いて自分の評判を高め、個人的利益を増すことを期待されていました。彼らが公共事業や宗教的事業へ大きな寄付をすると、受け取った人々は贈り主に対して、何らかの形で恩に報いました。親切な行為は忠義によって報いられ、多額の寄付は公の場で感謝されることで報いられました。キリスト教の礼拝に出席していたわずかの上流階級の人々は、優遇されることを期待しました。これらの期待をうらぎることは、教会に不名誉をもたらしていたでしょう。「政治的に正しくないこと」あるいは社会的価値を拒絶することは攻撃の原因や不和の原因となりました。
マルコ2:16とルカ11:43を読んでください。富んでいることや貧乏であることは、罪ではありません。しかし、クリスチャンとしての私たちの経験の指標の一つは、私たちが、年齢、財産、教育、宗教的信念さえも異なる人々をいかに扱うか、という点です。私たちは、社会的地位において自分より「上」と思われる人々には多くの敬意を払い、自分より「下」と思われる人々にはあまり敬意を払わない傾向があります。神が私たちに、異なる者になりなさい(ロマ12:2参照)、と命じておられるにもかかわらず、慣習に引きずり込まれやすいということを、私たちは覚えていなければなりません。
階級闘争
文書伝道者ならだれもが知っているように、実にしばしば、少ししか持たない人はキリスト教の書籍を購入するために、喜んで多くを犠牲にします。一方、裕福な人の住む地区は、本を売り込むのが難しい傾向があります。なぜなら、そこに住む人々は、彼らが持っているものに満足しており、貧しい人々が感じているほどには、多くの場合、神の必要を感じていないからです。
同じ現象は、もっと大きな規模でも見ることができます。教会はしばしば、経済的・社会的ストレスのある場所や時代において、最も急速に成長してきました。詰まるところ、物事が極めて順調だと思っている人よりも、大きな問題で苦しんでいる人のほうが、イエスの物語の中に示されている希望を、より受け入れやすいということではないでしょうか。
ヤコブ2:5、6を読んでください。この箇所から判断するに、富んでいる人たちと貧しい人たちの間で大きな問題が教会内にあったようです。この世には拒絶されたものの、神によって選ばれた貧しい人たちは「信仰に富(み)」、一方、富んでいる人たちは、貧しい人たちを「ひどい目に遭わせ(る)」ために自分の富を使いました。富んでいる人たちが貧しい人たちを食い物にするというこの問題は、当時、絶えずつきまとう現実でした。さらに悪いことに、ローマ法が貧しい人たちへの差別を成文化し、富んでいる人たちに好意的だったのです。
「経済的な私利私欲のために行動すると考えられていた下層階級の人々は、上層階級の人々を告発することができなかったし、法は、上流階級出身の犯罪者よりも、有罪判決を受けた下層階級の人々に対して、より厳しい罰を規定していた」(クレイグ・S・キーナー『IPV聖書背景注解』694ページ、英文)。
ヤコブ2:7を読んでください。ここに書かれている悪い振る舞いが及ぼす影響について、ヤコブは重要な指摘をしています。彼らの悪い振る舞いは、イエスの「尊い名」を確かに冒するものです。悪しき行動は、それ自体で十分に悪いものですが、イエスの名前を公言する人たちがそうするとき、一層悪くなります。そして、イエスの名において、教会内でほかの人よりも優位に立つために自分の財産や権力を用いる人々は、もっと悪いでしょう。それはしばしば分裂や争いをもたらすからです。それゆえ私たちは、自分の言葉と行動が、私たちと関係している「尊い名」にふさわしいものであるかどうか、注意深くなければいけません。
隣人を愛すこと
問1
レビ記19:17、マタイ5:43~45とともにヤコブ2:8、9を読んでください。どんな重要なメッセージが、ここに与えられていますか。
ヤコブは神の律法を「最も尊い律法」(ヤコ2:8)と呼んでいます。なぜなら、それは「王の王」(黙19:16)の律法だからです。神の王国の律法は、山上の説教(マタ5~7章)の中で詳しく述べられており、そこには隣人を愛することへの言及も含まれています(新約聖書の中で、隣人を愛することへの言及は9回なされており、これは最初のものです)。
マタイ5:43のイエスの言葉は、レビ記19:18が当時どのように理解されていたのかを示唆しています。例えば、レビ記の中でその直前に記されているさまざまな命令は、明らかに「隣人」の同義語を用いており、それらは「兄弟」(レビ19:17)を憎むこと、同胞のイスラエル人に対して恨みを抱くこと(同19:18)を禁じています。
どうやらイスラエル人の中に、これらの命令は、同胞でない人に腹を立てたり、彼らを憎んだりすることは構わないとしているのだ、と解釈した人たちがいたようなのです。結局のところ、イスラエル人でない人たちは、一般的に敵とみなされたのでした。現在私たちは、そのような態度がクムラン教団(ほかの国民から離れていた敬虔なユダヤ人のグループ)の中にあったことを知っています。彼らは、「闇の子ら」や「地獄の人々」を憎むように教えられました(「教団教規戒律」1:10、9:21、22)。これらの名称で呼ばれる人たちには、異邦人だけでなく、この教団の教えを拒んだイスラエル人も含まれていたようです。
「罪はすべてのわざわいの中で最大のものであるから、われわれは罪人を憐れみ、助けねばならない。まちがいを犯して、恥しさと愚かさを感じている者がたくさんいる。彼らは、励ましのことばに飢えている。彼らは、自分の過失や誤りをながめて、ついにはほとんど絶望に追いやられる。このような魂を無視してはならない。もしわれわれがクリスチャンなら、われわれの助けを最も必要としている人からできるだけ遠く離れて向こう側を通り過ぎるようなことをしないであろう。苦悩のためにあるいは罪のために困りはてている人を見たら、これはわたしに関係のないことだとは決して言わないであろう」(『希望への光』936ページ、『各時代の希望』中巻308ページ)。
律法全体
ヤコブ2:10、11を読んでください。律法に関するイエスの教えがどれほど徹底的なものであったかを理解することは、困難です。当時(や今日の多く)の敬虔なユダヤ人にとって、モーセの書の中に見いだされるすべての律法を守ることに取り組まずして、律法を守っていると本気で主張することはできず、最終的に613の独立した律法(248の肯定的な法と365の否定的な法)が確認されました。
イエスに投げかけられた、どの掟(律法)が最も重要か、という質問は(マタ22:36)、たぶん彼をわなにはめるためのものでした。しかしイエスは、律法のあらゆる「一点」(マタ5:18、最も小さいヘブライ文字)の重要さを認めたようでありながら、彼はまた、神と隣人に対する愛が最も重要な戒めであるとお考えになりました。それらの戒めは、ほかのあらゆる戒めを要約しているからです。
イエスの教えはまた、服従は孤立した状態の中でできるものではないことも示しています。それは常に関係的であり、そうでなければ意味がありません。言い換えれば、もし私が什一を納めるとして、その理由が、そうしないと救われないと思うから、というものであるなら、それは関係的でないということです。一方で、神が多くのものを与えられたことへの感謝から私が什一を納めるなら、その行為は、私と神との関係に基づいたものです。
イエスはまた、「正義、慈悲、誠実」(マタ23:23)が「律法の中ではるかに重要なもの」(同、新改訳)であるとお語りになりました。これらはみな、神やほかの人との関係を中心に展開します。それゆえヤコブは、イエスやパウロが言ったことと何ら異なることを言っていません。神の律法に関しての違反は、いかなるものであれ、神や他者との関係に何がしかのダメージを与えます。従って、悪行を上回る善行を十分にするとかいった問題ではありません。それは、あたかもすべてが自分を中心に展開しているかのように振る舞う、孤立した状態の中での服従です。そうではなく、イエスを知ることによって、私たちは自分自身に向けてきた注意を、神への忠誠と他者への奉仕へ向け始めます。
律法によって裁かれる
ヤコブ2:12、13を読んでください(ヨハ12:48も参照)。私たちが律法によって裁かれる、という教え以上にはっきりしていることはありません。その裁きは、善かれ悪しかれ、私たちがしたことに基づいて行われます。その一方で聖書は、イエスに対する信仰を通して、私たちが彼の義によって覆われるということも明確に述べています。
この覆いには、二つの側面——赦し(義認)と服従(聖化)——があります。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」(コロ2:6)、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラ3:27)。
よく言われることですが、私たちは、自分がしたことに基づいて裁かれるだけでなく、しなかったことによっても裁かれるでしょう。これは本当ですが、多くの人がその意味を誤解しています。これは、もっと多くのことをしなければならない、という意味ではありません。それは落胆と自滅を招く理解の仕方です。ヤコブが13節の前半でこれをどのように説明しているかに注目してください——「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます」。ここでもまた、関係的な意味での「すること」です。
裁きについて長時間考えるなら、私たちはそれに対して被害妄想に陥り、捨て鉢になる可能性があります。しかしそのようなことは、「神を畏れ……なさい。神の裁きの時が来たからである」(黙14:7)という聖句の意味するところではありません!そうではなく、私たちは常にイエスの義に信頼しなければなりません。このお方の功績だけが、裁きにおける私たちの唯一の希望です。神が私たちに命じておられるすべてのことをするように私たちを促すべきものは、御自分の義によって私たちを救ってくださった神への愛です。
その一方、聖書には、私たちのための裁きに関する警告もあります。私たちが誤った安心感を持たないためです。ヤコブは、「憐みは裁きに打ち勝つのです」(ヤコ2:13)と記しています。私たちが最悪の罪に堕ちた人に対応するとき、特にこの言葉を覚えていなければなりません。
さらなる研究
「神はあなたを人々や天使たちの前に、ご自分の子としてお認めになった。『あなたがたに対して唱えられた尊い御名』を汚すことのないように祈ることを望むのである。神はあなたがたを、神の代表者として世におつかわしになる(ヤコブ2:7参照)。生活のあらゆる行いのうちに、あなたがたは神のみ名をあらわすべきである。……このことは、キリストの恵みと義を受けることによってのみ、なされるのである」(『希望への光』1168ページ、『思いわずらってはいけません』140、141ページ)。
「キリストを通して、正義はその高貴な聖さの一点さえも犠牲にすることなく、赦すことができる」(『SDA聖書注解』第7巻、936ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。