行いを伴う信仰【ヤコブの手紙】#6

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彼は成功を収めた医者であり、数百人の教会員を有する知名度の高い教会の長老でした。彼は教会の大事業に多額の献金をし、その惜しみない態度がほかの教会員を一層献身的にさせていました。牧師が不在のときには彼が説教をし、だれもがその神学的に深く、感動的で、霊的なメッセージを待ち望んでいました。

ところがある日、真実が明らかになりました。前の週の安息日、彼は教会を休みましたが、その理由は、多くの人が考えていたように、彼が休暇中だったからではありませんでした。彼は海辺の自分のマンションで、遺体で見つかりました。快楽を得るための薬物の過剰摂取が原因でした。

さらに悪いことに、衝撃的なことが明らかになりました。彼の寝室にはポルノのビデオや雑誌が、何十もあったのです。教会は精神的に打ちのめされました。とりわけ、彼を手本として尊敬していた青年たちがそうでした。私たちはあらゆる裁きを神の手に委ねなければなりませんが、この医者の行動は、彼の信仰の内実に疑問を投げかけています。

要点は何でしょうか。私たちは信仰によって救われますが、クリスチャン生活において信仰と行いを分けることはできません。これは、ヤコブの手紙の中で詳しく説明されている重要な真理なのですが、しばしば誤解されています。

死んだ信仰

ヤコブ2:14を読んでください(ロマ3:27、28と比較)。「行いを伴わない信仰」——このようなまやかしの信仰を、ヤコブは生き生きと説明しています(ヤコ2:15、16)。すでに触れたように、ヤコブの手紙における服従は関係的なものです。つまり、困っている教会の兄弟姉妹に、私たちはどのように関わったらよいのでしょうか。言葉だけでは十分でありません。神がその兄弟姉妹を助けるための手段(資力)を私たちに与えておられるのに、「安心して行きなさい。神が与えてくださるでしょう」と言って済ませることはできません。

言うまでもなく、必要は限りなく、私たちはそのすべてを満たすことができません。しかし、「1人の力」と呼ばれる原則があります。私たちはイエスの手足であり、私たちが他者を助けることができるのは、一度に1人です。実際、イエスの働き方はたいていそうでした。マルコ5:22~34の中で、1人の男がイエスに助けを求めています。彼の娘が死にかけていたからです。彼の家に向かう途中、1人の女が背後から近づいてイエスの服に触れました。その女をいやしたあと、イエスはどんどん進んで行くこともおできになりましたし、彼女は喜びながら去って行ったことでしょう。しかしイエスは、女が肉体的ないやし以上のものを必要としていることをご存じでした。そこで、イエスは立ち止まって時間を割き、彼女が彼のための証し人となり、受けるだけでなく、与える人になれるようにされました。それから彼は、ヤコブ2:16にあるのと同じ言葉を口にされました。「安心して行きなさい」(マコ5:34)。しかし、ヤコブの手紙の言葉とは異なり、この場合、イエスの言葉には実質的な意味が伴っていました!

私たちが必要に気づきながら何もしないとき、私たちは信仰を働かせる機会を失ってしまいます。そうすることで、私たちの信仰は少しずつ弱く、少しずつ死んでいきます。そうなるのは、行いを伴わない信仰は死ぬからです。ヤコブはそのことを、信仰はすでに死んでいると、もっとはっきり説明しています。もし信仰が生きているなら、そこには行いがあるでしょう。もし行いがないなら、信仰はどんな役に立つでしょうか。14節の終わりに、行いの伴わない、役に立たない信仰について、ヤコブは質問しています。その質問は、大抵の翻訳よりも原語のギリシア語のほうがはるかに強い印象を与えます。「そんな信仰は彼を救えない。そうではないか」。ヤコブが私たちに期待しているのは、明らかに「そのとおり」という答えです。

救いの信仰

ヤコブ2:18を読んでください。ヤコブは一般的な修辞的技法を用いることで、潜在的な反対者を表立たせます。ここでの場合、反対者は、人は信仰か行いのどちらかを持っている限り大丈夫だ、と述べることで、信仰と行いの間にくさびを打ち込もうとしています。しかし、ヤコブが主張しようとしている肝心な点は、もし信仰に行いが伴っていないのなら、クリスチャンは信仰によって救われることを期待できないということです。「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」(18節)。

要点は、いかなる信仰もそれだけでは救えないということです。本物の信仰、救いの信仰は、良い行いによって特徴づけられます。同様に、行いも、それが信仰から生じる場合にだけ良い行いです。信仰と行いは分けることができません。硬貨の両面のように、一方は他方なしに存在しえません。また硬貨と同じく、一方が表で、他方は裏です。信仰が先に来て、それに伴う行いへの道を開きます。

問1

テトス2:14における、行いに対するパウロの態度について考えてください。なぜ良い行いは重要なのですか。

パウロは良い行いそれ自体に反対していません。彼が反対しているのは、救いの手段としての行いです(ガラ2:16参照)。それどころか、律法を守ることによって救われようとしても、だれもそれを守ることはできないのだから、救われるために律法の実行に頼る者は呪われていると、パウロは言いました(同3:10)。服従は、聖霊の賜物を通してのみ可能です。

「しかしどんな良い行いをもってしても救いに値する者になることができないのであれば、それは完全に恵みによるのであって、イエスを受け、信じたゆえに罪人である人間に与えられるものに違いありません。それは完全に無償の賜物なのです。信仰による義認には議論の余地はありません。そして、堕落した人間が良い行いの功績によって永遠の命を手に入れることは決してできないという事実が確固たるものになるや否や、すべての議論は終結してしまいます」(『信仰と行い』18、19ページ)。

悪霊どもの「信仰」

もし行いがないなら、だれかの信仰が本物であることを「証明する」方法は、ほかにもう一つだけあります。それは信じていること(教理)です。もし私が正しいことを信じていれば、私は信仰を持っているに違いありません。

真理を知的に知ることには意味があること、しかも極めて重要な意味があることは、疑いの余地がありません。しかし、その知識それ自体は、人が救いの信仰を持っていることを証明するのに十分ではありません。

問2

ヤコブ2:19には、真の信仰に対する誤った考えについて、どのような警告が与えられていますか。

旧約聖書の中で、信仰について最も基本的なことを述べている箇所は、申命記6:4「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」です。(最初の言葉が「シェマ」であるために)「シェマ」という呼び名で知られるこの聖句は、唯一の神に対する信仰をうまく要約しています。聖書のほかの教えは、いずれもこの極めて重要な真理から生じています。

しかし、悪霊どもでさえこの真理を信じています。実際、彼らはこのことを知っています!ですが、それは彼らにとって、どんな役に立つのでしょうか。悪霊どもは、イエスと対峙し、彼らが取りついた人から出て行け、と命じられたときに震えおののいたように(マコ3:11、5:7)、神の前では震えおののきます。

私たちの行動の仕方に影響を及ぼさない知的な信仰は、役に立ちません。それどころか、そのような信仰は、誤った教理と嘘で私たちを欺こうと活発に働いている悪霊どもが持っている信仰と同じものです。イエスが地上におられた頃のイスラエルと同様、悪霊どもは、不純で不正な行動をし続けたいという、彼らが取りついた者たちの願いに基づいた欺瞞を人々に信じ込ませようとするでしょう。「しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます」(Iテモ4:1)。

信仰は、私たちの生活の中にあらわれなければなりません。さもなければ、それは救いの信仰ではなく、「悪霊どもの信仰」であり、そのような信仰は、悪霊どもを救わないように私たちを救いません。

アブラハムの信仰

ヤコブ2:21~24を読み、ローマ4:1~5、22~24と比較してください。興味深いことに、ヤコブもパウロも創世記15:6を引用しているのですが、彼らは正反対の結論に達しています。ヤコブによれば、アブラハムは行いによって義とされましたが、パウロはローマ4:2において、その可能性をはっきり否定しているように見えます(24節と比較)。

しかし、ローマ4章の直近の文脈は、義認のために割礼は必要か(つまり、異邦人は救われるためにユダヤ人にならなければならないか(ロマ3:28~30)どうかということに関係しています。パウロは、アブラハムが義とされたのは、割礼を受けたという彼の行いに基づいてではなく、彼の信仰に基づいてであった、と指摘しています。というのも、アブラハムは割礼を受ける前に信じたからです。アブラハムは内面的信仰の外面的しるしとして、あとから割礼を受けました(同4:9~11)。しかし、行いだけでは、ましてや割礼だけでは、義と認められるのに十分ではありません。「わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々」(同4:12)だけが義とされるからです。

このような強調は、ヤコブの強調とまったく異なるものでしょうか。パウロは、ヤコブが用いているのと同じ、アブラハムの信仰の「証拠」さえ用いています(ロマ4:17~21参照)。神は「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」(同4:17、ヘブ11:17~19と比較)のだから、イサクを復活させることがおできになると、アブラハムは信じました。パウロはまた、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信」(同4:21)することが救いの信仰だ、と定義しています。要するに、神は約束を守られると信頼し、神の御言葉にすなおに従う信仰が、救いの信仰です。このような行いは「律法の行い」ではなく、「信仰の行い」です。「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう」(ヤコ2:22)。ヤコブがそう記しているとおりです。

多くの人が信仰と行いの重要性を強調しますが、それでも(このような言い方は)ある程度両者を区別することになります。真の信仰は、「愛の実践を伴う信仰」(ガラ5:6)です。良い行いは、単に信仰の外面的なしるしではなく、信仰の「実践」です。すべての命を創造された神に対するアブラハムの信仰は、1人息子のイサクをささげてまで神に服従しようと、彼を動機づけました。ヤコブによれば、信仰は服従によって完成されます。

ラハブの信仰

問3

「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか」(ヤコ2:25)。ヨシュア2:1~21を読んでください。もう一度、信仰のみによる救いとの関連において、私たちはこの実例をどのように理解したらよいのでしょうか。

[欽定訳聖書の]ヘブライ11:31によれば、エリコの住民は信じませんでした。最近のほとんどの聖書は、彼らが「不従順」であった、と訳されています。エリコの住民は、イスラエルがミディアン人やアモリ人に勝ったという警告を耳にしていたので、イスラエルの力をよく知っていました。バアル・ペオルでのイスラエルに対する神の裁きは、エリコの住民に神の聖さとともに、偶像や不道徳に対する神の嫌悪を教えていました。「こうした出来事は、みな、エリコの住民に知られていた。そして、多くの者は、服従することは拒んだものの、ラハブと同じく……悟った」(『希望への光』255ページ、『人類のあけぼの』下巻ページ114、115)。

ラハブは、不誠実のゆえに救われたのではなく、不誠実にもかかわらず救われたのでした。彼女は真の神を信じ、ヨシュアが送り出した斥候をかくまうことで、その信仰に基づいて行動しました。条件もありました。彼女は斥候の指示に従い、自宅の窓に真っ赤なひもを結びました。それは、過越の解放の際にイスラエル人の家の扉の周りに塗られた血を思い出させるものでした(出12:21~24参照)。決して完全ではなかったものの、ラハブの一生は信仰の模範です。それは、信仰によって自ら進んで踏み出し、信じて神に結果を委ねるすべての者に与えられる神の赦しと恵みの現実をあらわしています。

魂のない肉体が死んでいるように、行いを伴わない信仰は死んでいます。さらに、真の信仰がなければ、私たちのいかなる「服従」も、神の目に意味のない「死んだ行い(業)」(ヘブ6:1、9:14)にすぎません。

さらなる研究

「自己が完全に捨て去られるとき、あなたは新しい豊かな体験を得ることができる。十字架のもとにひれ伏すとき、あなたは自分の不完全さに気づくだろう。また、キリストの完全さを眺めるとき、自己は取るに足りないものと低くなるだろう。

見抜く力のある目に、キリストはすばらしい品性の手本に見えるだろう。すると、彼の性質が思いや心に影響を与え、品性の中に明らかになるだろう。その聖なる思いは心に影響を与え、生活の中にあらわれるべきである。必要を抱えたままイエスのもとへ行き、生ける信仰によって祈り、神の力の手にしがみつき、信じ、ひたすら信じるなら、あなたは神の救いを見るだろう。あなたが進んで教えられるなら、神はあなたを教え、あなたが進んで導かれるなら、神はあなたを生ける水の泉へ導かれるだろう」(エレン・G・ホワイト『南アフリカへのあかし』26ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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