この記事のテーマ
エデンの園以来、人間の悲劇の根源は、誤った選択にあります。「神だけが全知であり真理であるにもかかわらず、アダムはその神のみ言葉に従わず、欺く者に聞き従ったために、いっさいのものを失ってしまった。善と悪が入り混じったために、彼の心は混乱し……た」(『教育』16ページ)。
「箴言」は、私たちが正しい選択をし、欺く者の道ではなく神の道を選ぶように助けるためのものにほかなりません。父親であれ、母親であれ、親は自分の息子に語るとき、誤った選択をしないように警告するだけでなく、正しい選択をするように励まします。そうすることは、私たちの行う選択が、文字どおり生死に関わる重大問題なので、とても重要です。
「箴言」の初めの3章は、このような教育方法を例示しています。著者はこの書の目的「知恵……をわきまえ(ること)」(箴1:2)を説明し、標語「主を畏れることは知恵の初め」(同1:7、同9:10と比較)を定めたあと、愚かさに耳を傾けることへの警告と、天の知恵の呼びかけに応答することへの促しを繰り返しています。
知恵の始まり
箴言1:1~6において、「ダビデの子、ソロモンの箴言」(箴1:1)という見出しは、「箴言」のこの箇所と列王記上3:5~14を結びつけています。(「箴言」においてと同様)列王記の中で、ソロモンは神からの知恵を求める子として紹介されています。また、両方の箇所でソロモンが「ダビデの子」と呼ばれていることに加え、重要な共通の言葉「知恵」「理解する(聞き分ける)」「裁き」が用いられています。このような類似は、ソロモンがこの書の作成の背後にいることを裏づけるだけでなく、「箴言」が神からの知恵に対する人間の探求を扱っていることを示しています。
箴言1:7を読んでください。ここに書かれている「知恵」と「主を畏れる」という二つの概念の間には、どのようなつながりがあるのでしょうか。
ここにおいて、「知恵」は宗教的な体験として定義されており、主を畏れることとつながっています。ヘブライ人の宗教におけるこの重要な概念[主を畏れること]は、「箴言」を読み解く鍵です。この概念は繰り返し登場するだけでなく、「箴言」全体の枠組みを形作っています(箴1:7、31:30)。
主を畏れることは、神罰に対する迷信的で子どもじみた恐れとはまったく関係がありません。むしろそれは、いつでも、どこにおいても、神が人格として存在しておられるという強い意識として理解されるべきです。主を畏れることは、シナイにおける神の顕現に対するイスラエルの人々の反応を特徴づけていました(出19:16、20:20)。彼らが、神との契約に応えて、神に忠実であり、神を愛したいと思ったのは(申10:20)、主を畏れたことの結果でした。要するに、主を畏れるとは、神に忠実であり、神を愛することです。
「主を畏れることは知恵の初め」(強調筆者)という言葉は、知恵がこのような「畏れ」に由来することを意味します。「初め」に相当するヘブライ語「レシート」は創造物語の最初の言葉を指し示しています(創1:1)。つまり、知恵の最初の教えは、神が創造主、つまり私たちに命と息を与えておられる方であり、常に存在しておられること、愛と正義(公正)と贖いの神であられること(ヨハ3:16、詩編89:15[口語訳89:14]、ヘブ9:12)を理解することです。
真の教育
箴言1:8~19を読んでください。これらの聖句の中で、二つの対照的な「教育」方法が示されています。
教育は、そもそも家庭の事柄であり、真の教育は、何よりもまず両親によってもたらされます。先の聖句において、このような教育は「諭し(教訓)」とか「教え」(英訳聖書では「律法」)と呼ばれています。「律法」に相当するヘブライ語「トーラー」は「方向」を意味しますから、両親は自分の子どもたちに正しい方向を指し示します。それとは対照的に、もう一方の種類の「教育」は特定されておらず、名称が与えられていません。単にそれは、間違った方向へ導く、ならず者(悪者、罪人)の声とされています。
また、「わが子」(男の子とは限りません)という言葉が、親の諭しを強調するために繰り返し出てきます。親(「父」「母」)は、それぞれ単数形ではっきり示され、個人的に関与している一方、別のグループは、無名で複数形の「ならず者」です。
「賢明な主は、家庭があらゆる教育機関の中で最高のものとなるように定められた。子どもの教育の始まりは家庭にある。家庭は子どもの最初の学校である。
子どもはここで両親を教師として、生涯を通じて彼を導く教訓……を学ぶ。家庭の教育的な感化力は、善にとっても悪にとっても決定的な力である。……子どもがここで正しく教育されなければ、サタンは自分の選んだ機関を通して子どもを教育するだろう」(『希望への光—クリスチャン生活編』674ページ、『アドベンチスト・ホーム』195ページ、安息日学校部訳)。
家庭教育を支持する最良の根拠は、その結果です。それらは品性の内面的な資質であり、頭に載せる冠や首にかける飾りに似ています。中東の文化では、高価な首飾りや腕輪は、価値ある遺産として親から子へ受け継がれました。しかし教育は、物質的な豊かさよりもずっと重要です。子どもと一緒に過ごす時間は、仕事のために費やす時間よりもはるかに価値があります。また、頭や首など、個性を表す人の顔への言及は、教育がその人の人格を形作ることを示唆しています。一方、ならず者、つまり愚かな者たちの道に関しては、あたかも放蕩息子が人格(個性)を失ったように、「足」だけが言及されています(箴1:15)。
知恵の呼びかけ
箴言1:20、21を読んでください。ならず者が「待ち伏せし」、「隠れて待って」(箴1:11、18)いる一方、知恵は「巷に呼ばわり」(同1:20)、「雑踏の街角で呼びかけ」(同1:21)、「語りかけ」(同)ます。ここでは、知恵が擬人化されており、その勧めは路上の男にも女にも与えられています。知恵は、日常生活や仕事をしているすべての人のためのものです。多くの産物と多くの売り手のどなり声とうらみのただ中で、知恵の呼び声は大きくなければなりません。さもなければ、多くの声の喧騒に負けて聞こえなくなるからです。
問1
箴言1:22~32を読んでください。知恵を拒否すると、その結果はどうなりますか。
人々が知恵を拒否する理由は、知恵そのものとは関係がなく、それを拒否する人の品性と大いに関係があります。このような人たちは、あたかも分別があるかのように傲慢で尊大な者と評されています(箴1:25、同30節と比較)。どうやら知恵は、単純で浅はかな人間のためのものであるかのようです。しかし実際は、知恵を拒否する者たちこそが単純で浅はかであり、「知ることをいとう」(同1:22、同29節と比較)愚か者です。
知恵を拒否する者たちは、拒んだ結果(実)を刈り取ることになります。主を畏れることを選ばなかったがゆえに、彼らは自分自身に納得しなければならないでしょう。彼らは「自分たちの意見に飽き足りる」(箴1:31)ことになります。天からの知恵を拒否するとき、私たちはしばしば自分自身のために作り話やうそをでっちあげることになるか、あるいは、ほかの人たちが私たちの受け入れやすい作り話やうそをでっちあげることになります。このようにして、私たちは神と偶像を置き換えます。皮肉なことに、宗教を単純で浅はかなものと評価してあざ笑い、軽蔑する者たちは、しばしば彼らの道において迷信的であり、心の最も基本的な欲求を決して満足させることのない最もはかなく、役に立たないものに価値を置いています。
知恵の利益
箴言2:1~5を読んでください。ここでの話は、[英訳聖書で]‘if(もし)’という接続詞を3回用いており、それは教育の進み具合の三つの段階を示しています。最初の「もし」は、耳を傾けるという受け身の段階(箴2:1、2)、つまり、ただ知恵の言葉に注意を払い、受け入れる状態にあることを、二番目の「もし」は、知恵を叫び求めるという積極的な応答の段階を(同2:3)、三番目の「もし」は、私たちが「宝物を求めるように」(同2:4)知恵を探し求める情熱的な関わりの段階を示しています。
箴言2:6~9を読んでください。6節の「知恵を授けるのは主」という部分が、5節の「あなたは……神を知ることに到達するであろう」に対応していることに注目してください。救いと同様、知恵は神からの賜物です。1節から5節までが人間の過程を描いているように、6節から9節までは神の働き—神が知恵を与え、知恵を蓄え、賢者の道を守り、保護されること—を描いています。
箴言2:10~22を読んでください。「知恵があなたの心を訪れ(る)」ときとは、回心の最終段階を示します。私たちは主の知識を楽しむだけでなく、知恵が私たちの魂の喜びとなります(箴言2:10)。私たちはまた、悪い道から守られ(同2:12)、義の道を歩むことになります(同2:20)。
問2
箴言2:13、17を読んでください。不正の第一段階は何ですか。それはどういう結果になりますか。
私たちは罪人ですが、悪に陥る必要はありません。悪しき道にいるとされる者たちは、最初に、まっすぐな(正しい)道を捨て去ったに違いありません。ですから悪は、何よりも誠実さに欠けることだ、と理解されています。罪はいつの間にか、何食わぬ顔で始まりますが、やがて間もなく、罪人は悪事を働くだけでなく、罪を喜ぶようにもなります。
忘れてはならない!
箴言3:7を読んでください。自分自身を知恵ある者と見ることは、賢明であるために神は必要でない、という思い違いにつながります。これは絶望的な状況です。「彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる」(箴26:12)。ここでもまた、知恵は宗教的な義務として描かれています。賢明であるというのは、神の戒めを心に留めること(箴3:1)、「慈しみとまこと」(同3:3)をあらわすこと、そして「主に信頼すること」(同3:5)です。知恵は、神との親しい関係を暗示しています。神の働きかけに対する私たちの個人的な応答の座(the seat)である「心」が、繰り返し言及されていることに注目してください(知恵の訪れる場所として、箴言2:10でもすでに言及されていました)。
箴言3:13~18を読んでください。知恵には、命と健康が伴います(箴3:2、8、16、18、22)。それを最も連想させるたとえのひとつが、「命の木」(同3:18)—「箴言」の中で何度か繰り返されている約束(同11:30、13:12、15:4)—です。この比喩は、エデンの園をほのめかしています。この約束は、知恵を得ることで永遠の命が与えられると言っているのではありません。そうではなく、人類の最初の両親がエデンで享受していた、神とともに過ごす生活の質が、ある程度回復するということです。神とともに生きるとき、私たちはエデンをそれとなく感じますが、さらに良いことに、この失われた王国が回復されるという約束に望みを置くようになります(ダニ7:18参照)。
問3
箴言3:19、20を読んでください。知恵の必要性は、なぜ切実なのですか。
創造物語への唐突な言及は、この文脈の中で不自然なように思えます。しかし、天地創造において知恵が用いられたことは、知恵と命の木を結びつけている18節の論拠を補強するのです。神が天地を造るために知恵を用いられたとすると、知恵はささいなものではありません。知恵の領域は宇宙的な広がりを持ち、私たちの地球での生活を超えています。そのうえ、知恵は私たちの永遠の命にも関係しています。このような教えが、エデンの園を連想させる命の木への言及の中に暗示されています。またこのような視点は、今回の聖句を締めくくっている約束—「知恵ある人は名誉を嗣業として受け(る)」(箴3:35)—の中にも含まれています。
さらなる研究
「青少年たちは、『いのちの泉はあなたのもとにあり』と聖書に述べられているみ言葉の基礎となっている深い真理をさとらなければならない。神は万物の創始者であるばかりでなく、生けるすべてのものの生命であられるのである。われわれは日光や清いさわやかな空気や、食物を通して、われわれの肉体を築き、われわれの力をささえるものを受けるが、それはとりもなおさず神の生命である。われわれが、時々刻々に生存するのは、神の生命によるのである。罪のために悪用されているものを除けば、すべての神の賜物は、生命と健康と喜びに役立つのである」(『教育』235ページ)。
「多くの人々は、神に献身することが、健康にも、人生の人間関係における快活な喜びにも害を及ぼす、という印象を抱いている。しかし、知恵の道、聖なる道を歩む者たちは、『信心深いことは、現在と将来の生活を約束するので、すべての点で益である』ことがわかる。彼らは人生の真の喜びを味わうことに敏感である」(『SDA聖書注解』第3巻1156ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。