耳から足まで【箴言―正しい選択を導く知恵の言葉】#2

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科学は、聴覚が私たちの歩き方に影響を及ぼすこと、また私たちの平行感覚さえも、耳の聞こえ方によって影響を受けることを実証してきました。それゆえ、「諭し(教育)」—つまり、私たちが聞く内容—は、私たちがどのように生きるかということにおいてきわめて重要です。箴言4:7(現代訳)は、「知恵は最高のもの」と言っています。

しかし、諭しがいかに良いものであっても、学ぶ者は注意を払う必要があります。古代エジプトの教師がいくらか皮肉を込めて、「少年の耳は背中に付いている。彼は叩かれるときに聞くのだから」と指摘したとおりです(エジプトの絵画では、背中に付いた大きな耳でしばしば学生をあらわしました)。

善悪について知るだけでは、十分ではありません。悪ではなく、善をいかに選ぶかを、私たちは学ぶ必要があります。知恵の訓練は、適切な諭しを聞くことと、私たちが最終的に誤った方向へ歩いていかないよう、学んだことに従っていくことから成り立っています。

聞け!

問1箴言4章を読んでください。ここにはどんな実際的な真理がありますか。神に対して忠実に生きようとするとき、私たちはこの真理を、いかに自分自身の生活に適用させることができるでしょうか。

「聞く」という行為は、教育における第一歩です。ヘブライ人の思想において、知恵や知性の座(the seat)は脳にあるのではなく、耳にあるとされています。これは、私たちが概念化したり、問題を解決したりしようとする前に、まずは聞く必要があることを意味しています。ソロモンが知恵を求めたとき、彼は「聞く心」(王上3:9、直訳)を具体的に求めています。

従って、知恵の最初の行動は「聞くこと」であり、それは、知恵が外部の源(この場合は両親)からもたらされることを示唆しています。私たちは自分の力で知恵を見いだすことができません。自分ひとりで個性を成長させたというのは、聖書の知恵という領域においてはありえない概念です。そもそも知恵というのは、私たちが受け取るものであって、私たち自身の技能で形作ったり、才気や論理的思考で掘り出したりするものではありません。「注意して聞く」(ヘブライ語では「心を注ぐ」)能力は、心が関わっていることを示唆しています。従って、知恵の探求は、単に感情抜きの、客観的な活動ではありません。個人の核(the core)であり、(ヘブライ人の思想における)感情の座(the seat)でもある心が、知恵の探求に関わっています。

問2

マタイ13:44とエレミヤ29:13を読んでください。これらの聖句と、箴言4章にあらわされているような知恵の探求との間に、あなたはどのようなつながりを見いだすことができますか。

あなたの家族を守れ

ひとたび知恵の道を歩むことを決心しても、私たちは依然として大いに警戒する必要があります。なぜなら、私たちはこの先、障害に遭遇することがあるからです(Iペト5:8参照)。私たちが直面する最大の危機の一つは、生活の領域において最も大切で、最も感情的に影響を受けやすく、最も親密である「家族」と関係するものです。

箴言5章を読んでください。私たちは危機を警戒しなければなりません。

第一の危機は、私たち自身から始まります。それは私たちの言葉にあります。私たちは、自分の言うことが不適切なメッセージや混乱したメッセージを伝えないように、自分の舌を警戒しましょう。私たちの唇は、私たちの知識と調和するように、私たちの霊的見識を反映するようにしましょう。

第二の危機は、家族に干渉してくる「よその女」(または「よその男」)によってもたらされます(該当する聖句は、「売春婦」からもたらされる危機のことを指していますが、この言葉は一般的な意味で理解されるでしょう。誘惑は、女からも男からも生じるからです)。いずれも私たちを唆して、結婚の誓いを破るようにさせますが、その罪がいかに破壊的であるかを目にしたことのない人がいるでしょうか。

聖句によれば、しばしば甘い言葉で始まるこのような誘惑に抵抗する最良の方法は、知恵の言葉に耳を傾けることです。霊感を受けた諭しに心を留め、それに従うことで、私たちは最も大切なものに意識を集中し続けることができるようになります。そのようにして、不倫や遭遇するいかなる誘惑からも守られます。

言うまでもなく、私たちは不倫に気をつけるだけでなく、「誘惑する女」のいる場所に行かないようにし、その門口に近寄ってはなりません(箴5:8)。

最後に、よその女や男を愛する誘惑に抵抗する最高の防御法は、たぶん、「若いときからの妻[夫]」(箴5:18)であるあなたの伴侶だけを愛することでしょう。コヘレトの言葉の著者はこの勧告に共感し、「太陽の下、与えられた空しい人生の日々/愛する妻と共に楽しく生きるがよい」(コヘ9:9)と書いています。あなたの持っているものに感謝してください。そうすれば、あなたがよそに目を向けることはないでしょう。

あなたの友情を守れ

かつてある人が言いました、「主よ、私を友人たちから守ってください。そうすれば、私の敵をやっつけることができます」と。「箴言」は友情のもろさにも関心を寄せており、友好関係の保ち方や、必要な場合には、私たち自身を友人から守る方法についても助言しています。「友人」に相当するヘブライ語には、私たちの身近にいる「隣人」、つまり、すでに友人の人やこれから友人になるかもしれない人という意味もあります。聖書の知恵は人間関係を重視していて、その関係における思慮深さと尊敬を奨励しています。

問3

箴言6:1~5を読んでください。ソロモンが言及しているのは、どのような問題ですか。その解決法は何ですか。私たちがここに見いだすのは、どんな重要な霊的原則でしょうか。

トーラー(律法)は、貧しい人を助け、利子を取らずにお金を貸してあげなさい、と人々に勧めていますが(出22:25)、知恵は、負債を抱える友人に金銭的支援を軽率にしないよう、警告しています。慈善(charity)の義務は、正義(justice)の義務を排除しません(同23:2、3)。可能なときには、私たちは気前よくすべきですが、私たちの慈善が大きな損失にならないように、賢明でありたいものです(箴22:26、27と比較)。

それゆえ、賢明な勧告が箴言22:26、27の中に与えられています。第一の注意は、私たちの言葉に向けられたものです。私たちが状況を判断し、友人を助けることができるかどうかを確認することは、なんと重要でしょうか。もしそうなら、助けられると判断したときにだけ、約束してください。確かに、私たちの関係の深さや一時的な感情のゆえにいきなり誓ってしまうと、あとで後悔することになるでしょう。

あなたがどれほど善意にあふれていたとしても、実行できないことを誓う前、行動する前に考えなければいけません。重要なのは、もし私たちが借金を作ってしまったなら、(謙遜になり、自分の誤りを認め、慈悲を乞うなど)その解決のためにできることをする必要があるということです。

あなたの仕事を守れ

問4

箴言6:6~8を読んでください。私たちは蟻から何を学ぶことができますか。

蟻は(個々の体重比において、蟻の運べる荷と人間の運べる荷を比較するなら、人間よりも)懸命に働くだけでなく、自主的に働き、監督される必要がありません。蟻が一生懸命働く主たる理由は、将来です。彼らは困難な時期(冬)を見込んで、それに備えます。つまり蟻は、計画を立てたり、活動に従事したりして将来について考えるという知恵を私たちに教えています。「これは、親も教師も生徒も、老人も青年も、すべての人が考えなければならない問題である。どんな商売の計画も人生の目的も、それが現世の短い年月だけに限られたものであって、永遠の未来のために準備するものでないならば、それは健全であることも完全であることも不可能である」(『教育』161ページ)。

問5

箴言6:9~11を読んでください。私たちは「怠け者」から、何を学ぶことができますか。

蟻から何かを学ぶように勧められているのは、「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」(箴6:6)とあるように、怠け者の方です。怠け者から蟻が学ぶのではありません。蟻が働いている一方で、怠け者は眠っています。蟻は刈り入れ時に活動的ですが、怠け者は手をこまぬいて(怠惰を象徴する状態の中に)います。蟻は自分よりも重い荷を運び、将来に備えることで実力以上の成果を出しますが、怠け者は今に生き、自分のことだけで頭がいっぱいです。

あなた自身を守る

「箴言」は、生活の三つの領域—家族、社会的な付き合い、仕事—を脅かす特定の悪について私たちに警告を与えたあと、悪を行う者を描写しています。それは、皮肉と心理学的な鋭い観察にあふれた風刺です。二つの詩(箴6:12~15、16~19)は似ていて、同じ詩的リズムを持ち、七つの主題を扱っています。悪を行う者の内面は、心の中の考えとつながっているとされており、同時にそれは、外面においてなされることの中にすべてあらわれるようになります。

「もしあなたがむなしい想像にふけり、清くないことを思いめぐらすならば、あなたは多少なりとも神の前に思いを行動に移したのと同じほどに罪を犯したことになるのである」(『希望への光—クリスチャン生活編』760ページ、『アドベンチスト・ホーム』375、376ページ)。

問6

箴言6:12~19には、どのような警告が与えられていますか。

この比喩は皮肉っぽいものです。悪を行う者たちは、やる気のない怠け者のあとに続いています。両者の態度は異なるように見えますが、含んでいる教訓は同じです。両者ともに自分自身の中に閉じ籠っていて、外部からやって来る諭しに興味がありません。また、自分自身の知恵や好みに従っています。怠け者は眠っていて、耳も足も機能しておらず、悪を行う者は、足と口が動いているものの、耳が動いていません。結果は同じです。両者ともに破滅するでしょう。

その一方、悪は二つの影響を及ぼします。悪は、罪を犯した相手だけでなく、罪を犯した本人にも害を与えます。うそつきは、最終的に自分のうそを信じるようになるでしょう。また注目すべきことに、悪の結末はいさかいや仲たがいであり、それは社会にも影響を及ぼします。確かに、罪の結果は、罪人だけに限定されることがめったにありません。ほかの人たちもまた影響を受け、たいていさらに悪くなるだけです。

さらなる研究

「聖書を研究するときには、学ぶ者としての精神をもって聖書に接すべきであることを教えられなければならない。自分の意見を裏づけるために聖書のページをめくるのではなく、神が仰せになっていることを知るために聖書を学ぶのでなければならない。……

知的に無能力であったり、道徳的に欠点があったりするのは、価値のある目的に向かって、精神を集中することに欠けていることが主な原因の一つである。……出版社からたえまなく送り出される印刷物の大洪水のために、老人も若い者も、大急ぎで上すべりな読書をする習慣がつき、一貫した健全な思考力が失われる」(『教育』224、225ページ)。

「蟻が自分たちのために作る住みかは、技能と忍耐を示している。蟻が一度に運べる穀物は、小さな一粒にすぎないが、勤勉と忍耐によって彼らは驚嘆すべきものを完成させる。

ソロモンは蟻の勤勉さを、魂や体を腐敗させる習慣や怠惰によって時間を浪費する者への叱責として挙げている。蟻は将来やって来る季節のために準備をするが、考える力を与えられている多くの者が、将来の不死の命に対する準備に怠けている」(『次世代につなぐ信仰—両親、教師、生徒への勧め』190ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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