真理の言葉【箴言―正しい選択を導く知恵の言葉】#9

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この記事のテーマ

今回取り上げる箴言の中には、エジプトの言葉と類似しているものがあります。霊感の下、ソロモンはこれらの言葉を、特にヘブライ人の見方に従って表現し直したのでしょう。そうすることで、エジプト人の言葉がイスラエルの神の霊と出会い、天の啓示になりました。

このような見解は重要です。というのも、「真理」には普遍的性質があることを私たちに思い出させるからです。イスラエル人に当てはまることは、エジプト人にも当てはまるに違いありません。そうでなければ、それは真理ではないでしょう。真理というものは普遍的に、だれにでも当てはまります。

このような訓戒の領域は、[イスラエル人とエジプト人]双方の共同体に共通しています。つまり、あなたがどのような人間であろうと、信者であろうとなかろうと、どこに住んでいようと、あなたがすべきでないことが何がしかある、ということです。

真理の知識

箴言22:17、18を読んでください。学ぶ者の最初の義務は、耳を傾け、きちんと聞くことです。「耳を傾けて……聞け」(箴22:17)。言い換えるなら、「集中せよ!」ということです。重要なのは、真理を探究する者はひたむきであり、正しいことを学びたいと心から願い、それを実行するという点です。

しかし、教えられることに耳を傾けるだけ、あるいは、それを頭で理解するだけでは、十分でありません。聖書に関する多くの事実を頭の中に持っているにもかかわらず、「真理」(ヨハ14:6)そのものの真の知識や実体験を持っていない人がいるからです。

そうではなく、真理は人間の最も奥深い部分に達する必要があります。箴言22:18(口語訳)の「あなたのうち」という言葉は、「あなたの腹」を意味しています。教訓は表面にとどまらないでしょう。それは消化され、吸収され、私たちの内なる部分になる必要があります。ひとたびメッセージが私たちの組織に深く入り込み、私たちの中に根づくなら、それは私たちの唇に上って来て、私たちは力強いあかしができるようになるでしょう。

箴言22:19~21を読んでください。真理を体験することで、私たちはどのような者となるのでしょうか。

①信仰(19節)—知恵の教えの第一目標は、知恵それ自体ではありません。「箴言」は、より賢明な弟子、より有能な弟子を生み出すことを目指していません。「箴言」の教師の目的は、主に対する弟子の信頼を強めることです。

②確信(21節)—学ぶ者は、なぜこれらの「真理とまことの言葉」が確かであるのかを知る必要があります。なぜそれを信じるのかを知るべきでしょう。当然ながら、信仰とは、私たちが十分に理解できないことを信じることです。それにもかかわらず、私たちはその信仰の妥当な理由を持つべきでしょう。

③責任(21節)—教育の最終段階は、私たちが受け取った「真理とまことの言葉」をほかの人に伝えることです。これが、一つの民として私たちが召されたことの中核を成すものです。

貧しい人からの搾取

問1

箴言22:22、23、23:10を読んでください。私たちはどのようなことをここで警告されていますか。

盗むことは常に悪ですが、ここでの禁止は、貧しい人や虐げられている人、つまり最も弱い人たちから盗むことに関するものです。彼らは本当に無力なので、神の特別な配慮を受ける資格があります(出22:21~27)。ウリヤを殺して彼の妻を奪ったダビデと、雌の小羊を用いたナタンのたとえ話(サム下12:1~4)の一件が心に思い浮かびます。貧しい人から盗むことは、単なる犯罪行為ではありません。それは主に対する罪です(同12:13参照)。あなたよりもわずかなものしか持たない人から奪うことは、盗み以上に悪いことであり、それは卑劣な行為でもあります。そのような盗人たちは、神が彼らの行為を見ておられないとでも思っているのでしょうか。

確かに箴言22:23は、たとえその盗人が人間的な罰を逃れたとしても、神が借りを返されることを示唆しています。贖い主(へブライ語で「ゴエル」)への言及は(箴23:11)、終末時代の裁きという神のシナリオさえほのめかしているのでしょう(ヨブ19:25)。それゆえこの警告は、聖書の中のほかの警告と同様に、目先の「利益」にしか興味がなく、はるか先の結果に関心のない人たちを非難しています。彼らは他人を犠牲にして財産を手に入れ、増やし、そのためなら進んで人をだましたり、殺したりします。彼らはそのようなことを今は楽しんでいるかもしれませんが、後々償いをすることになるでしょう。このような論法は盗人を落胆させるだけでなく、私たちの道徳的価値観が神の主権と分かちがたく結びついていることを教えています。

神に逆らう者をうらやむ

問2

箴言23:17、24:1、2、24:19、20は、どのようなことを私たちに警告していますか。

神に逆らう者たちをうらやむ人が、なぜいるのでしょうか。たぶんそれは、神に逆らう者たちが犯しているかもしれない実際の罪のゆえではありません。むしろたいていの場合、彼らが悪事によって手に入れる目先の利益(富、成功、権力)—人々が自分のためにしばしば欲しがるもの—のゆえです。

言うまでもなく、すべての成功者や金持ちが神に逆らっているわけではありませんが、中にはそういう人たちがいます。そして彼らは、先の聖句の中で私たちが警告されているような種類の人間です。私たちが彼らの「豊かな」暮らしを目にし、とりわけ自分の目から見て、自分自身が苦労しているとしたら、たやすく彼らの持ち物をうらやむことでしょう。

しかし、それはあまりにも狭く、近視眼的なものの見方です。結局のところ、罪の誘惑は、その利益がすぐ手に入るということ、私たちが目の前の満足を味わうことです。しかし、現在を超えた視点が、このような誘惑から私たちを守ってくれるでしょう。つまり私たちは、罪によってすぐ手に入る「利益」の向こう側に目を向け、はるか先の結果についてじっくり考える必要があります。

加えて、罪がいかに破壊的であるかを目にしたことのない人がいるでしょうか。私たちは決して罰を免れません。私たちがしていることを気づかれないように、ほかの人の目から(最も身近な人たちからさえ)隠すことはできるかもしれません。あるいは、自分の罪はそれほど悪いものではないと、自分自身を欺いて思い込ませることができるかもしれません(そうなったら、どれほど多くの人がさらに悪いことをするか、考えてみください)。しかし遅かれ早かれ、いずれにしても、罪は私たちに悪い結果をもたらします。

罪が罪であるがゆえに、私たちは罪を憎むでしょう。罪が私たちやこの世にしてきたこと、また私たちの主にしたことのゆえに、私たちは罪を憎みます。もし私たちが罪の真の代償(犠牲)を見たいと思うなら、十字架のイエスに目を向けてください。これが、私たちの罪の代償です。そのことを実感するだけで、私たちが罪を避け、私たちを罪へ導く人たちからできるだけ遠ざかりたいと思うようになるのに十分に違いありません。

口に入れる物

人間の最初の誘惑が食べ物に関係していたことは(創3:3)、偶然ではありません。罪と死がこの世にもたらされたのは、神に逆らい、不適切な物を食べることによってでした(創3:1~7、ロマ5:12)。私たちはまた、聖書において飲酒に関する最初の言及がなされているのは、極めて否定的でみっともない物語の中であるという厳然たる事実も、見過ごしてはいけません(創9:21)。

箴言23:29~35を読んでください。アルコールがどれほど破壊的になりえるかを、自分の目で見たことのない人がいるでしょうか。確かに、酒を飲む人がみな、惨めな酔っ払いになるわけではありません。しかし、惨めな酔っ払いたちは、最初に酒を飲んだとき、自分が最終的にこのような姿になろうとは、おそらく想像もしなかったでしょう。

「飲酒癖を身につけた者は、絶望的な状況の中にある。酒をやめるように言っても、彼には理屈が通じず、説得することができない。彼の胃や脳は病んでおり、意志の力は弱くなり、食欲は抑制不能である。闇の勢力の君は彼を虜にし、彼には逃れる力がない」(『SDA聖書注解』第3巻1162ページ、英文)。

箴言23:1~8を読んでください。この訓戒は、テーブルマナー以上のものに関係しています。これらの聖句は、食べることが好きで、食欲旺盛な人への警告です(箴23:2)。喉にナイフを突きつけるという比喩は特に強烈で、それは食欲を抑えることを意味するだけでなく、あなたの健康や命さえ脅かす、過食に起因するリスクをも示唆しています。「よく理解せよ」と訳されているヘブライ語「ビン」は、さまざまな種類の食べ物を注意深く選ぶことをあらわします。ソロモンは、「善と悪を判断する」(王上3:9)ことができるように知恵を求めましたが、その際にもこの同じ言葉が使われています。霊感を受けた著者の頭の中には、食欲を抑えるという問題以上のことがありました。彼の勧告は、「供される珍味[ごちそう]をむさぼ(り)」(箴23:3)たいという誘惑に駆られる宴会や飲み会にも関係しているのでしょう。

私たちの責任

問3

「わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める」(エゼ33:8)。ここに示されている基本的な霊的原則は、どのようなものですか。私たちはこの考えを、いかに日々の生活に適用したらよいのでしょうか。

昔、ある西部の都市において、1人の女性が夜の通りで襲われました。彼女は助けを求めて叫び、何十人もの人がその声を聞いたにもかかわらず、だれも警察に通報しませんでした。多くの人が窓の外を見たあと、それまでやっていたことに戻って行きました。しばらくすると、女性の叫び声がやみました。のちに、彼女はめった刺しにされた遺体で見つかりました。

この女性の叫び声を聞いたのに何もしなかった人たちは、彼女の死に対して責任があるでしょうか。彼らは彼女を襲いはしませんでしたが、何もしなかったことで彼女を殺したのでしょうか。

問4

箴言24:11、12、23~28を読んでください。私たちにとってどんな重要なメッセージが、ここにはありますか。

モーセの律法は、目撃したことを報告しない者は罰を負う、とはっきり警告しています(レビ5:1)。私たちは犯罪に対抗して行動することはできないかもしれませんが、もし私たちが目にしたことを黙っているなら、その犯罪者と罪を共有することになります。沈黙によって、私たちは共犯者になります。

一方、もし私たちが自分の証言によって真実を報告し、「正しい答えをする」(箴24:26)なら、私たちは適切に対応し、責任ある人間として振る舞ったことになります。このような行動は「くちづけをする」(同)ことにたとえられていますが、それは、その人が相手を大事にしていることを意味します。

さらなる研究

「私たちの周囲にいる魂は、目覚めさせられ、救われる必要がある。さもなければ、彼らは滅びしてしまう。私たちは一瞬たりとも浪費してはいけない。私たちはみな、真理に有利になるか、あるいは不利になる影響力を持っている。私は、自分がキリストの弟子の1人だという紛れもない証拠を持ち歩きたいと思っている。私たちは安息日の宗教以外のものを望んでいる。生きた原則と、個人の責任を日々感じる必要がある。このことが多くの人によって敬遠されており、その結果が不注意、無関心、用心深さと霊性の欠如となっている」(『教会へのあかし』第1巻99ページ、英文)。

「信仰を語り、信仰に生き、神への愛を高めなさい。神の聖なる名を高め、神の慈しみを語り、神のあわれみを伝え、神の力を話しなさい」(『我らが高き召し』—『今日の光』2001年第1期—16ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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