エレミヤを襲うさらなる災い【エレミヤ書】#5

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短期間でも主に従った者なら、だれもが一つのことを学びます。それは、イエスの信者であることや、彼の御旨を行おうと努めることで、安楽な生活が保証されるわけではない、ということです。詰まるところ、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(Ⅱテモ3:12)と言われているとおりです。エレミヤが学んでいたのは、まさにこの真理でした。

しかしその一方で、試練の際に私たちの信仰が与えてくれる、より幅広い理解に基づいて、私たちは苦しみのさなかにあって自分自身を落ち着かせることができます。言い換えれば、不公平で不当な苦しみや試練が襲ってくるとき(そして確かに、苦しみや試練の多くは不公平で不当なものですが)、私たちは、主を知らない人々がしばしば抱く無意味感や無目的感を抱えたまま、放っておかれたりしないということです。現在がどんなに悲惨であっても、私たちは全体像の幾分かでも、神が与えられる究極の希望を知ることができ、その知識(と希望)によって力を得ることができます。エレミヤはある程度このような事情を知っていましたが、時折それを忘れ、自分の苦悩にだけ目を向けているように思えます。

神を恐れない祭司や預言者たち

私たちとユダ王国との隔たりは、年代的には2000年以上、そして文化的、社会的にはおそらくもっと大きいので、私たちがエレミヤの時代に起こっていたことをすべて理解するのは困難です。聖書を読むとき、とりわけ神が民に向かって発せられた厳しい警告や威嚇を読むとき、多くの人は、神が厳しく、意地悪で、懲罰的なお方としてそこに描かれていると考えます。しかしそれは、聖書をただ表面的に読んだことに基づく誤解です。そうではなく、旧約聖書が明らかにしているのは、新約聖書も明らかにしていること—つまり、神は人間を愛し、救いたいと願っておられるが、人間の選択を強制なさらないということ—です。私たちが悪いことをしたいと思えば、たとえ神が嘆願されたとしても、私たちは自由にできます。私たちは結果だけでなく、その悪事に関して私たちが前もって警告されたということを忘れてはなりません。

問1

主が解決しようとしておられたユダの悪事には、どのようなものがありましたか(エレ23:14、15、5:26~31)。

ここで繰り返し述べられている悪事は、神の民が陥ったことのほんの一例にすぎません。祭司も預言者も「神を恐れない」というのは、祭司が神の代表者であるべきであり、預言者が神の代弁者であるべきことを考えると、信じがたいほどの皮肉です。しかしこれは、エレミヤが立ち向かった問題の序の口にすぎません。

ここで述べられている悪事には、さまざまな種類があります。霊的指導者たちの背教も含まれており、彼らはほかの人も悪事をするように導くので、「だれひとり悪から離れられ」(エレ23:14)ません。迫りくる裁きについて主が警告なさったときでさえ、偽預言者たちは人々に、そのようなものは来ない、と語りました。同時に、彼らは神から遠く離れてしまっていたので、みなし子の面倒を見ることや貧しい者を守ることに関する訓戒(同5:28)を忘れていました。あらゆる面で、この国の民は主から離れていました。それゆえ、聖書の大半は(少なくとも旧約聖書の預言書は)、わがままな御自分の民を呼び戻そうとしておられる主を記録しています。つまり、このような悪事やそれ以上の悪事にもかかわらず、主は彼らを喜んで赦し、いやし、回復しようとさえしておられました。しかし、彼らが拒むのであれば、ほかに何ができたでしょうか。

足かせにつながれたエレミヤ

預言者の働きは、常に神のメッセージを伝えることであって、どれだけの人がそれを受け入れ、どれだけの人が拒絶したかを数えることではありませんでした。ほとんどの場合、預言者が説教しているときに、彼らが説いていることを受け入れる人の数はわずかです。例えば、ノアの時代にどれだけの人が生きていたのかはわかりませんが、箱舟に乗り込んだのが少数であったことを考えるなら、大半の人は受け入れなかったのだと推測して間違いないでしょう。聖書に記された歴史の全体を通じて、このようなことが繰り返されているようです。

エレミヤ20:1~6を読んでください。ここで起きていることをよりよく理解するには、エレミヤが預言した言葉、このような高官とのトラブルに彼を陥らせた言葉を読むことがいちばんです。エレミヤ19章の中に預言の一部が書かれています。神は「災いをこのところにもたら(し)」(エレ19:3)、人々が剣によって倒れ、鳥や獣によってその死体が食われるようにし(同7節)、さらに、ユダの人々が互いの肉を食い合うようにするであろう(同9節)と言われます。

こんな預言のとおりになりたいと思う人はいなかったでしょうが、指導者の1人として、パシュフルは特に怒りました。ほとんどの人と同様に、彼の最初の反応はメッセージを拒絶することでした。一体、だれがこのように恐ろしいことを信じたいと思うでしょうか。しかしパシュフルは、それだけでなく、自分の地位を利用して使者を罰するという過ちを犯しました。彼は掟に従ってエレミヤを鞭打ちにし(申25:1~3)、足かせにつないだのです。エレミヤは翌日釈放されましたが、彼はこのつらく屈辱的な体験によって預言を伝え続けることをやめませんでした。今度は、ユダに対してだけでなく、具体的にパシュフルとその家族に向けても預言を伝えました。間もなく、パシュフルと彼の家族の運命は、彼らが捕らわれの鎖につながれるのを見る者たちへの恐ろしい見せしめとなります。エレミヤ書において、バビロンが流刑地であると最初に述べられているのは、この箇所です(各章も、また一つの章の中の各セクションでさえ、年代順に並べられていません)。

骨の中の

パシュフルと民に対するエレミヤの厳しい言葉は、1日中足かせにつながれたことに怒ってエレミヤが発した言葉、彼自身の言葉ではありませんでした。それは、民のために彼に授けられた主の言葉でした。

しかし、そのあとに来る言葉は、霊感の下に書かれたエレミヤ自身の本心です。これは、彼が今遭遇し、嘆いているような状況をどうしても嫌ってしまう人間の心からの叫びです。

エレミヤ20:7、8を読んでください。一読すると、エレミヤの言葉は神を冒しているかのように思えます。しかし、そもそも主が彼に、激しい反対に遭うだろうと警告しておられたのに、なぜ彼は、主が彼を惑わされたと言うのだろうかと、だれもが疑問に思うでしょう。主の警告にもかかわらず、「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。……わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません」と、彼は不平を口にしています。

問2

その一方で、エレミヤ20:9で彼が言っていることには、どんな重要な意味がありますか。

エレミヤは説くことを放棄し、やめたいと思ったのですが、神の言葉はあたかも彼の心の中の火、骨の中の火のようでした。自分の召しを知り、個人的な苦しみにもかかわらず、どんなことがあってもその召しに従おうとしている者の、なんと効果的な比喩でしょう(同様の思想は、アモ3:8、Iコリ9:16にも見られます)。

私たちはこれらの聖句の中に、エレミヤが直面している苦しみを見ます。彼の内外で荒れ狂う大争闘を目にすることができます。彼は、貧しい人々を悪しき者たちから救われた神をほめたたえたかと思えば、(明日の研究で見るように)次には自分が生まれた日を呪っています。

「呪われよ、わたしの生まれたは」

聖書の最も厳しい批評家たちでさえ、聖書が人間の欠点や弱さを隠していない、という重要な一点は認めざるをえないでしょう。欠点も罪もない子なる神を除けば、聖書の中に詳しくその生きざまを記されている登場人物で、弱さや過ちをさらすことなく済んだ人はほとんどいません。先に述べたとおり、これらの預言者たちが仕えた神は完全ですが、神に仕えた預言者たちは完全ではありませんでした。私たちと同様、彼らは信仰によって与えられるキリストの義を必要とする罪人でした(ロマ3:22参照)。ノアからペトロまで、そしてその間のあらゆる人間も、罪によって傷ついた者であり、彼らの唯一の希望は、エレン・G・ホワイトが記しているように、主の前に行って、次のように言うことでした。「自分には救いを要求できるような功績や徳は何もありません。しかし、私は神のみまえに世の罪を取り除く傷なき神の小羊の、すべてを贖う血を提示します。これは私のただ一つの申し立てです。イエスの御名によって私は御父に近づくことができます。神の耳、神の心は私の最も弱々しい嘆願に対して開かれており、神は私の最も深い必要を満たしてくださいます」(『信仰と行い』125、126ページ)。

エレミヤ20:14~18を読んでください。個人的な状況に対するエレミヤの心の状態について、この箇所は物語っています。言うまでもなく、ここでのエレミヤの言葉は、彼よりさらに悪い状況にあったヨブの言葉を思い起こさせます(ヨブ3章参照)。エレミヤには、自分が神の御旨を行っているという確信、主がともにおられるという確信がありましたが、この時点において、現状の苦しみが彼を消耗させていました。真理に対する彼の知的理解がどのようなものであれ、今はただ、悲しみによってその理解が曇らされていました。

時折、ふと気づくと、多くの人が同じような状況の中にいます。頭では神のあらゆる約束を知っているかもしれませんが、このような約束を払いのけてしまう悲しみや苦しみに打ちのめされ、目の前の苦悩にすべての意識を集中させることがあります。それは無理もない反応でしょう。正しい反応だという意味ではありませんが、理解はできます。私たちがここでも目にするのはエレミヤの人間らしさであり、それは私たちみんなの人間らしさと同じです。

預言者に対抗する計略

問3

エレミヤ18:1~10を読んでください。預言の解釈に関して、どんな重要な原則がここにありますか。

問4

上記の聖句の中に、どんな重要な霊的原則がありますか。

あらゆる悪事にもかかわらず、依然として主は悔い改めの機会を喜んで民に与えるおつもりでした。それゆえ、私たちはここでも、神の恵みを受け取ろうとする者たちに与えられる恵みを目にします。彼らがこれまでにしてきたことにもかかわらず、この期に及んでもなお、彼らには立ち帰る時間がありました。

これらの聖句からも、多くの預言が条件付きであることがわかります。神が、何かをするであろうとおっしゃるとき、その何かはしばしば罰を伴います。しかし、もし民が悔い改めるなら、神はすると言われたことをなさいません。神がすると言われたことは、条件付きであり、民の反応の仕方次第です。なぜ神は言われたとおりになさらないのでしょうか。もし民が悔い改めて悪の道から立ち帰ったとしても、それでもなお罰を与えると、神は警告なさいません。そのような場合には、神は罰をお与えになりません。これらの聖句の中で、はっきりそう述べておられます。

問5

エレミヤ18:18~23を読んでください。民は、エレミヤに対して行いたいと思っていることに、どのような根拠があると信じていましたか。エレミヤの極めて人間的な反応はどのようなものでしたか。

エレミヤを攻撃する者たちが、「祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われ……ない」(エレ18:18)ようにしたいと言って彼を糾弾したのですから、彼はものすごく苛立ったに違いありません。人の心というのは、なんと自己欺瞞に陥りやすいものでしょう!

さらなる研究

エレミヤ18:11~17において、主は御自分の民に、彼らがしていることをやめなさい、と言っておられます。11節には、「お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ」と書かれており、12節で主は、民が彼の警告や嘆願を聞かず、「かたくなな悪い心のままにふるまい」続けるだろうことをすでに知っている、と基本的に言っておられます。そのうえで、彼らの不服従のゆえになそうとしておられることを語られます。ここは、私たちの自由選択をまったく侵害することなく、何を私たちが自由に選択するかを神がすでに知っておられることを示している、聖書中の多くの箇所の一つです。詰まるところ、もし主に従う自由を民が持っていなかったら、なぜ主は悪の道から立ち帰るようにと彼らに嘆願されたのでしょうか。さらにまた、もし民が従う自由を持っていなかったら、なぜ主は不服従のゆえに彼らに罰をお与えになるのでしょうか。明らかなのは、民が選択を行う前でさえ、彼らの自由選択がどうなるのかを、主がはっきり知っておられたということです。この重要な真理は、例えば申命記31:16~21にも見られます。イスラエルの子らが約束の地に入る前でさえ、主はモーセに、彼らが「他の神々に向かい、これに仕え……るであろう」(申31:20)とおっしゃっています。私たちの選択に対する神の予知が、私たちがそのような選択をする自由を侵害しないというさらなる証拠がここにあります。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。

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