この記事のテーマ
神の僕の苦労と試練は続きます。実際のところ、エレミヤ書の大半が扱っているのは、愛と憂慮のゆえに主が民に伝えようとなさっていた言葉を彼らに聞いてもらおうとして、この預言者が直面した難題と葛藤です。
もし民がエレミヤの言葉に耳を傾け、この預言者の警告を受け入れたなら、どのようになっていたか、想像してみてください。もし彼らが耳を傾けていたなら—民も王も指導者も、神の前に身を低くしていたなら—、悲惨な危機は訪れなかったでしょう。悔い改めの機会は彼らの前にありました。彼らが多くの罪や悪事を犯したあとでさえ、贖いと救いへの扉は閉まっていませんでした。扉は開かれていたのに、単に彼らが中へ入るのを拒んだのです。
ここでも、私たちが彼らの心のかたくなさにあきれることは実に簡単です。しかし、「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」(Iコリ10:11)。私たちにはこのような前例があります。私たちはそこから何を学ぶのでしょうか。
誇る者には……
エレミヤ9章において、エレミヤの哀歌が始まります。避けがたい大惨事が祖国と同胞を襲うとわかったからです。神はエルサレムに裁きを言い渡されたのであり、神が何かを言われるからには、それを実行なさいます。彼らが直面することは予期せぬことでもなければ、単に時折起こる悲惨で説明しがたいことの一つでもありませんでした。そうではなく、彼らが直面することは神の直接的な裁きになります。そして、このような認識がエレミヤに悲しみをもたらしました。しかし彼の悲しみは、神が感じられたに違いない痛みをわずかに反映したものにすぎませんでした。
文脈は異なりますが、次の引用文はこの神の痛みという考え方をうまく捉えています。「十字架は、罪が初めてあらわれたときから神の心に生じた苦痛を、われわれの鈍い感覚に示すものである。人が正しいことから離れるたびに、残酷な行いをするたびに、人性が神の理想に到達できないたびに、神は悲しまれるのである。イスラエルが、神から離れた当然の結果として、敵に征服され、残虐と死という災難がふりかかったとき、『主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった』『彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、……いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた』と言われている」(『教育』311、312ページ)。
問1
エレミヤ9章(エレミヤの哀歌)を読んでください。特に22、23節(口語訳23、24節)に目を向けてください。これらの言葉は、今日の私たちにもなぜ大いに関係しているのでしょうか。
死に関して、私たちはみな「城壁のない町」のようだと言われてきました。知恵、力、富は、それぞれ役割を持っていますが、これらに頼ることは、とりわけ大惨事のさなかや死が迫るときには、無駄であり、無意味です。破滅に関する警告の中で、本当に重要なものが人々に告げられています。それは、慈しみ、正義、恵みの業といったものを可能な限り自力で知り、理解することです。私たちの肉体も含めて、この世のあらゆるもの、人間に関するあらゆるものが役に立たなくなるとき、私たちにそれだけで希望と慰めを与えるものがほかに何かあるでしょうか。
造られた物か造り主か
すでに触れたように、神の民は、異教信仰、偶像礼拝、偽りの教えに染まった周囲の諸国民とは異なるものとなるために召し出されました。それゆえ、モーセ五書の中の多くの警告は、近隣諸国民の習慣に従うことをとりわけ禁じています。それどころかイスラエルの人々は、創造主にして贖い主である主に関する真理をこの世にあかしする者とならねばなりませんでした。しかし残念なことに、旧約聖書の歴史の大半は、彼らがまさに警告されていた習慣に、いかにしばしば誘い込まれたのかという物語です。
エレミヤ10:1~15を読んでください。神が御自分の民にここで言っておられるのと同じ警告が、今日の私たちの時代、文化、背景の中で与えられたとしたら、それはどのように記されたでしょうか。
エレミヤは人々に、彼らがすでに知っているべきであったことを語っています。このような異教の神々は、人間が作ったもの、悪魔的にゆがめられた人々の空想の産物にすぎません。これは、パウロが何世紀もあとに次のような人々について書いたときに意味したことの典型的な例です。「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」(ロマ1:25)。
この聖句の中で、パウロがいかに造られた物と造り主とを対比しているかに注目してください。これと同じ対比が、真の神と違ってこれらの「神々」の無力さや弱さについて述べている先のエレミヤ書の聖句(10:1~5)の中にもあります。エレミヤはこれらの聖句を通じて、何もできないこういった物を信頼することがいかに愚かしく、馬鹿げているかを人々に示そうとしています。この世界を創造しただけでなく、御力によって支えておられる創造主なる神とは、まったく対照的です(ヘブ1:3参照)。
これらの聖句がいかに古かろうと、そのメッセージは今日的な意味を持ち続けています。私たちは人間が造った像に頭を下げたり、それを拝んだりしたいとは思わないかもしれません。私たちの多くは「天に現れるしるし」を恐れたり、不安に思ったりしないかもしれません。しかし、私たちは今もなお、裁きの日にユダを救えなかったこれらの偶像のように私たちを救うことのできない物を信頼してしまいやすいものです。
悔い改めへの呼びかけ
エレミヤ26:1~6を読んでください。ここでのメッセージは、聖書全体、つまり旧約聖書と新約聖書を通じてのメッセージと同じでした。それは、悔い改めへの呼びかけ、罪から離れて神が与えてくださる救いを見いだすようにとの呼びかけです。
問2
次の聖句のメッセージは何ですか(代下6:37~39、エゼ14:6、マタ3:2、ルカ24:47、使徒17:30)。
「ユダの住民はみな無価値な人々であったが、神は、彼らをお見捨てにならなかった。彼らによって、神のみ名が異邦の人々の間で高められなければならなかった。神の属性が何であるかを全く知らないでいる多くの人々が、なお、神の品性の栄光を見なければならなかった。神が、神のしもべたちである預言者たちを送って、『あなたがたはおのおの今その悪の道と悪い行いを捨てなさい』と言わせられたのは、神の恵み深いみこころを明らかにするためであった(エレミヤ25:5)。神はイザヤを通して言われた。『わが名のために、わたしは怒りをおそくする。わが誉のために、わたしはこれをおさえて、あなたを断ち滅ぼすことをしない』。『わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。どうしてわが名を汚させることができよう。わたしはわが栄光をほかの者に与えることをしない』(イザヤ48:9、11)」(『希望への光』509ページ、『国と指導者』上巻281ページ)。
旧約聖書においても、新約聖書においても、結局のところ、私たちに対する神のメッセージは変わりません。すなわち、私たちは罪人であり、悪事を働き、罰を受けるに値するということです。しかし神は、キリストの十字架、イエスの贖いの死によって、私たちのだれもが救われる道を開きました。私たちは自分の罪深さを自覚し、私たちの無価値さにもかかわらず無償で与えられるキリストの功績を信仰によって求め、自分の罪を悔いる必要があります。そして言うまでもなく、真の悔い改めには、神の恵みによって罪を私たちの生活から取り除くことも必要です。
死刑の求刑
私たちの視点から振り返れば、人々の心のかたくなさは理解しがたいものです。きのうの研究で見たように、エレミヤのメッセージは、いかに強烈なものであったとしても、まだ希望にあふれていました。もし彼らが悔い改めるなら、神は彼らに下る(契約による約束と呪いに基づいた)恐ろしい罰を食い止めるでしょう。彼らがなすべきことをなし、神に服従し、その服従がもたらす祝福を受けさえすれば、万事うまく行きます。神は、赦し、いやし、回復なさるでしょう。イエスの犠牲によって最終的にもたらされる福音の賜物は、彼らの罪をすべて赦し、彼らを回復するのに十分です。なんという希望のメッセージ、約束のメッセージ、救いのメッセージでしょう!
問3
エレミヤとこのメッセージに対する反応は、どのようなものでしたか(エレ26:10、11参照)。
イスラエルでは、法的に招集された法廷だけが死刑判決を下すことができ、裁判員の過半数の票がある場合にのみ、死刑判決は認められました。祭司や預言者たちは、手厳しい非難でエレミヤを起訴しました。彼に抵抗する人々は、彼を政治犯や反逆者として告訴したいと思いました。
問4
エレミヤの返事はどのようなものでしたか(エレ26:13~15)。
エレミヤはまったく引き下がりませんでした。死の脅威を前に、きっといくらかは恐れていたでしょうが、それでもなおこの預言者は、主から与えられたメッセージを一言も和らげませんでした。その主は彼に、「ひと言も減らしてはならない」(エレ26:2)と最初にわざわざ警告なさっておられました。そういうわけで、私たちがここに見るのは、時折泣き言を言い、文句を言い、生まれた日を呪っていたエレミヤとは対照的に、確信をもって堅く立っている神の人です。
死を免れたエレミヤ
昨日見たように、どんな恐れや感情があったにしろ、エレミヤは、判決がもたらしうる死の可能性を十分に認識しつつも堅く立ちました。エレミヤ26:15において、彼は高官たちや人々に、もし彼らが彼を殺せば、無実の者の血を流した罰を受けるであろう、と極めてはっきり警告しています。エレミヤは、彼に対する容疑に関して無罪であることを知っていました。
エレミヤ26:16~24を読んでください。霊的指導者であったはずの祭司や預言者たちが、エレミヤを弁護するために前へ進み出た一介の「長老」や「普通の人々」から叱責され、異議を申し立てられなければならなかったというのは、実に興味深いところです。彼らは、エレミヤより1世紀前のイスラエルに生きていたミカに関して覚えていたことを持ち出しました。当時の王はミカを傷つけることなく、彼の助言に耳を傾け、すべての民が悔い改め、少なくともしばらくの間、惨事は回避されました。今やエレミヤの時代にあって、指導者たちよりも賢明なこれらの人たちが、神の預言者を処刑することで大きな過ちを起こすことからこの国を救いたいと思いました。
無罪放免は、告発されたことについてエレミヤが有罪でないことを際立たせました。しかし、祭司や預言者たちの憎しみは、一層強まりました。怒りと復讐したいという気持ちが彼らのうちに湧き上がり、彼らは別の機会に激しい怒りでエレミヤを攻撃することになります。彼の解放は一時的な安らぎを意味したにすぎませんでした。彼は完全に危険を脱したわけではありませんでした。
私たちがここに見るのは、歴史から教訓を学ぶ人もいれば、同じ歴史を知っていても、同様の教訓を学ぶことを拒否する人たちがいるという実例です。私たちは何世紀もあとに同じようなことを目にします。イエスの弟子たちの扱いに関して、ファリサイ人のガマリエルがほかの指導者たちを戒めた一件においてです。
問5
使徒言行録5:33~42を読んでください。ここに書かれていることとエレミヤの身に起きたこととの間には、どのような類似点がありますか。さらに重要なことに、私たちは歴史や先人たちの過ちから、どのような教訓を学ぶことができるでしょうか。
さらなる研究
「『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました』(Iヨハ3:16)。罪がどれほど、神の創造物に損傷を与え、また、その創造の業を感謝し正しく読み取るための人間の能力に損傷を与えたとしても、私たちは間違いなく、自然界や人間関係や被造物自体の驚異の中に神の愛を見ることができる。しかし、十字架において覆いははぎ取られ、この世界に、可能な限り赤裸々で鮮明な愛の啓示が与えられた。その愛は、あまりにも大きかったので、エレン・ホワイトは『父・子・聖霊なる神の隔離』と呼ぶほどであった」(『SDA聖書注解』第7巻924ページ、英文)。
「父・子・聖霊なる神の隔離」とは何でしょうか。私たちに対する神の愛はあまりにも大きかったので、永遠の昔から互いに愛し合っておられた父・子・聖霊なる神は、私たちを贖うためにこの「隔離」を耐え忍ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)という言葉は、その「隔離」の、つまり私たちを救うために失うものの最も明瞭で効果的な表現です。ここにおいてもまた、私たちの罪のゆえに主が耐え忍ばれた痛みと苦しみを見ることができます。
ですから、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(Iヨハ4:19)。言うまでもなく、堕落した人間である私たちは、そのような愛を見習ってまねているだけであり、その愛さえも、しばしば私たち自身の身勝手さや罪深い欲望によってゆがめられています。神の愛は私たちの愛をはるかに超えており、私たちは、油の浮いた泥の水溜まりが空を映すように神の愛を反映します。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。