エレミヤのくびき【エレミヤ書】#9

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この記事のテーマ

すでに触れたように、神の預言者たちは言葉を通してだけでなく、実物教訓を通しても宣べ伝えました。ときとして、彼らはメッセージのままに生きなければなりませんでした。それは、要点を伝えるためのもう一つの方法でした。

そういうわけでエレミヤは、彼が伝えなければならない言葉のままに生きるよう、再び召されました。まず、彼は木製のくびきを首にはめなければなりませんでした。「主はわたしにこう言われる。軛の横木と綱を作って、あなたの首にはめよ」(エレ27:2)。最良の環境下であったとしても、それは厄介な務めだったに違いありません。ここでの場合はさらに大変でした。なぜなら、偽預言者がエレミヤの言ったことに異議を申し立てたからです。今回、私たちは、人々の心を捉えようとして争う真理と誤謬をはっきり見ることができます。また、恵みのメッセージがいかに偽りのメッセージになりうるかも見ます。

エレミヤはまた、ほかの人たちが嘆き悲しんでいるときに嘆き悲しんだり、ほかの人たちが喜んでいるときに喜んだりすることを禁じられました。この場合における要点は、人々の罪のゆえにやって来ることを彼らに気づかせ、それによって悔い改めて服従させ、彼らの罪深い行為の痛ましい結果を軽減することでした。

孤独な人生

間違いなく、エレミヤの人生における定めは容易なものではありませんでした(彼も真っ先にそうだと認めるでしょう!)。しかし状況は、私たちが想像した以上にずっと厳しかったのです。

問1

エレミヤ16:1~13を読んでください。エレミヤに対する主のメッセージは、ここではどのようなものでしたか(ホセ1:1~3と比較)。

ホセアは、霊的淫行のゆえに主とイスラエルの関係がいかに腐敗してしまったのかを示すために、売春婦と結婚しなければなりませんでした。そのホセアとは対照的に、エレミヤは結婚も子どもを持つことも自制しなければなりませんでした。これは、当時としては文化的にもかなり珍しく、極端なことでした。イスラエルでは、家庭を持つことがすべての青年にとって非常に重要だったからです。配偶者同士の愛情と交わりに加えて、家名を継ぐことも重要でした。なぜ神は、エレミヤが家庭を持つことを禁じられたのでしょうか。それは彼の人生を用いて、家族が引き裂かれ、別離の苦痛が生き残った者たちの重荷になるときがいかに悲惨であるかということの実物教訓にするためでした。エレミヤに家庭生活がなかったことは、同時代の同胞に対する継続的な警告であり、教訓でした。

エレミヤの孤独な定めは、ほかの領域にも及びました。彼は弔いの家に入ることを禁じられました。これは、悔い改めとリバイバルを求める主の呼びかけを嫌う民の態度を象徴するのです。嘆きの時に加えて、彼は喜びや祝いの祭りにも加わってはなりませんでした。これは、バビロニア人が民のあらゆる喜びを終わらせる時が来ることの象徴でした。

このように、嘆きであれ、喜びであれ、エレミヤは人間同士の絆を築くことを否定されます。彼の人生とその悲しみは、実物教訓となるはずのものでした。それらから民が学びさえすればよかったのですが……。

エレミヤのくびき

問2

エレミヤ27:1~18を読んでください。このメッセージは、それを聞いた多くの者にとって、なぜ裏切りに思えたのでしょうか。

エレミヤが彼の身につけたくびきは、この民が味わうであろう屈辱の、紛れもないしるしでした。それは、私たちが軍事占領と呼ぶものです(申28:48と王上12:4では、くびきが抑圧の表現として登場しています)。エレミヤは、バビロンの侵略が意味することを肉体的に体験しなければなりませんでした。エレミヤが彼の腕と肩にはめた木製のくびきは、長さが1.5メートルほど、厚さが8センチほどありました。彼のメッセージの要点は、もしどこかの国がバビロンに反抗するなら、主は、あたかもその国が御自分に反抗したかのようにみなし、反抗的な人々はその結果として苦しむだろうというものです。

原文の聖句にはいくらか曖昧さがありますが、エレミヤは自分自身のためだけにくびきを作らなければならなかったのではないようです。それは、すでにエルサレムにやって来ていて、(主の「してはならない」という警告にもかかわらず)ネブカドネツァルに対抗する陰謀を企んでいた異国の使者たちのためでもあったようです。外国からの侵略者には戦おうというのが自然な反応であり、彼らが望んでいたのもそうすることでした。ですから間違いなく、エレミヤの言葉はまったく歓迎されませんでした。

問3

エレミヤ27:5のメッセージに関して、特に重要なのは何ですか(ダニ4:25も参照)。

聖書全体(旧新両約聖書)を通じてわかるように、ここでもまた、創造主なる主が地球全体の統治者です。混乱と大惨事のように思えること(異教の国による侵略と支配)の中においても、神の力と権威は明らかであり、このことはすべての忠実な残りの者たちにとって希望の源です。

預言者たちの戦い

悪い知らせは嫌なものです。しばしば私たちはそれを聞きたくないと思ったり、合理的に説明したいと思ったりします。それは、ここユダにおけるエレミヤと彼が身につけたくびき、つまり民に対する紛れもない警告のメッセージにも当てはまります。「エレミヤが降伏のくびきを彼の首にかけて神のみこころを知らせた時に、諸国から会議に集まった人々の驚きは、たいへんなものであった」(『希望への光』554ページ、『国と指導者』下巻61ページ)。

エレミヤ28:1~9を読んでください。あなたがユダの民の1人で、その場に立っていて、このことが起こっている様子をすべて見ているとしましょう。あなたはだれを信じますか。だれを信じたいと思うでしょうか。

エレミヤは神の名において声をあげ、ハナンヤもまた神の名において語りました。しかし、だれが神の代弁をしていたでしょうか。両者が代弁していることはありえません!今日の私たちには、その答えが明らかです。エレミヤは8節と9節で、「過去の預言者たちは私と同じように、裁きと破滅のメッセージを説いてきた」と説得力のある指摘をしていますが、当時の人にとっては、私たちよりもその答えを知ることがずっと難しかったのかもしれません。

「エレミヤは祭司たちと人々の前で、主が定められた期間の間、バビロンの王に降伏するように熱心に嘆願した。彼は、彼と同じような譴責と警告の言葉を語ったホセア、ハバクク、ゼパニヤなどの預言をユダの人々に引用した。彼はまた、罪を悔い改めないことに対する刑罰の預言の成就として起こった出来事を引用した。過去において、神の刑罰は神の使者が示したとおりに、神の計画の正確な成就として、悔い改めない人々の上に下ったのである」(『希望への光』554ページ、『国と指導者』下巻62ページ)。

要するに、今日の私たちが聖なる歴史から教訓を得なければならないように、エレミヤは当時の民に同じことをさせようとしていました。つまり、「過去から学べ。そうすれば、あなたがたの祖先が犯した同じ誤りを犯すことはない」ということです。彼らがエレミヤの言葉に耳を傾けることがこれまで難しかったのであれば、今や彼に反論するハナンヤの「働き」によって、エレミヤの働きはさらに難しくなろうとしていました。

鉄のくびき

2人の預言者の間の戦いは、単に言葉による戦いではなく、行動による戦いでもありました。神の命令に従って、エレミヤは木製のくびきを首にはめており、それは、彼が民に伝えていたメッセージの明らかな象徴でした。

問4

ハナンヤの行為の象徴的意味は何でしたか(エレ28:1~11)。

例えば、イエスがいちじくの木を呪われたあと(マコ11:13、19~21)、その言葉を聞き、起こったことを知っている人が、イエスの預言に異議を唱えるだけのために、その同じ場所に新しいいちじくの木を植え替えたとしましょう。まさにこれが、エレミヤと、彼の首にはめられたくびきが象徴する預言に対してハナンヤがしたことでした。それは、エレミヤが言ったことを公然と無視する行為でした。

エレミヤの反応にも注目してください。くびきが壊された直後に彼が言ったことを、聖書は記録していません。彼はただ背を向けて立ち去りました。もし物語がここで終わっているなら、エレミヤは負けて逃げ出したと見えたことでしょう。

エレミヤ28:12~14を読んでください。エレミヤの返事は、「お前が私にこれをしたので、私はお前にそれをする」といったような復讐のメッセージではありませんでした。そうではなく、その返事は主から与えられたもう一つの明瞭なメッセージで、先のものよりも一層強いものでした。ハナンヤは木製のくびきを壊せたかもしれませんが、鉄のくびきを壊せる人がいるでしょうか。ある意味で、神が彼らにおっしゃったのは、彼らはそのかたくなさと服従への拒否によって状況を悪化させているだけだ、ということです。もし木製のくびきが嫌だと思うのなら、鉄のくびきをはめてみよ、ということです。

偽りを信じる

「ハナニヤよ、聞きなさい。主があなたをつかわされたのではない。あなたはこの民に偽りを信じさせた」(エレ28:15、口語訳)。

だれが正しいのか、エレミヤかハナンヤか、ということに対する答えは、すぐに与えられました。エレミヤ28:16、17に偽預言者の最期が記されています。それは、本物の預言者がそうなると言っていたとおりでした。

ハナンヤは死にましたが、彼が民に与えたダメージは依然として残っていました。ある意味で、彼の働きは、彼がいなくなってからなされたのでした。彼は民に「偽りを信じさせた」からです。ここで用いられているヘブライ語の動詞は、「信じる」という動詞の使役形です。肉体的に強制してという意味ではなく、欺くことによって、ハナンヤは民に偽りを信じさせました。主が彼を遣わされていないのに、彼は主の名において語り、そのことはユダにおいて強い影響力がありました。加えて、ハナンヤの「恵み」「解放」「贖い」のメッセージは、バビロンが与えていた大きな脅威を思えば、確かに民が聞きたいものだったのです。しかしそれは、主が彼にお与えになっていない偽りの「福音」、偽りの救済メッセージでした。そのようなわけで、エレミヤの言葉と彼がもたらした贖いのメッセージを聞かねばならなかったときに、人々は代わりにハナンヤの言葉に耳を傾けました。そして、そうすることは彼らの苦悩を深めるばかりでした。

Ⅱテモテ4:3、4とⅡテサロニケ2:10~12を読んでください。これらの聖句には、エレミヤ28:15と共通点があります。

状況は今日も変わっていません。私たちは大争闘の中にいます。この世の何十億もの人の心を得ようとする戦いです。サタンは、できるだけ多くの人に「偽りを信じさせ」ようと熱心に働いており、その偽りはさまざまな外見や形であらわれます。しかし、それは常に偽りです。詰まるところ、イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハ14:6)と言われたのですから、ほとんどあらゆることがサタンの偽りになりえます。しかしそれらには、イエスの中にあるような真理が含まれていません。

さらなる研究

すでに触れたように、人々は悪い知らせではなく、良い知らせを信じたがります。例えば、人々はエレミヤのメッセージではなく、ハナンヤのメッセージを信じたがりました。今日でも同じようなことが起きています。例えば、多くの人が、私たちの世界は時間をかけて良くなっていく一方だ、といまだに主張します。しかし、テリー・イーグルトンのような無神論者でさえ、そのような考えが極めて滑稽だと思っているのです。「もしいまなお敬虔な信仰を集めている神話や誰もが疑わないような迷信というものがあるとすれば、それは、ほんのわずかの障害さえとりのぞけば、わたしたちみな[原文ママ]、よりよい世界にいたる途上にあるのだと思い込んでいるリベラルな合理主義信仰にほかなるまい。この拙劣な楽観論は、中産階級の星が中天に登りつめる途上にあったリベラリズムの英雄時代の名残である。今日、それが踵を接しているシニシズム、懐疑論、ニヒリズムこそ、栄誉あるこの系譜の多くのなれの果ての姿なのだ」(『宗教とは何か』青土社95ページ)。

生活のいくつかの側面は良くなりましたが、この世界それ自体は、特に長い目で見ると、希望や慰めをほとんど与えてくれません。もし私たちが何らかの希望を持たねばならないとしたら、その希望は地上のものではなく、天上のものの中に、自然のものではなく、超自然なものの中になければなりません。そして言うまでもなく、それが福音にほかなりません。私たちの世界と私たちの生活への神の超自然的な介入です。それがなければ、ハナンヤたちと彼らの偽り以上の何が私たちにあるのでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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