エルサレムの破壊【エレミヤ書】#10

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「わずか数年のうちに、バビロンの王は、悔い改めないユダに対して神の怒りの器として用いられるのであった。エルサレムは幾度となく、ネブカデネザルの軍勢に包囲、攻略、侵入されるのであった。初めのうち数は少なかったが、後には幾千、幾万の人々が、次々にシナルの国に捕らえられて行って、強制的にそこに移住させられた。エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤなど、これらのユダの王はみな、バビロン王に従属するのであるが、みな次々と反逆するのであった。反乱を起こした国家には、ますます厳しい懲罰が加えられて、ついには全国が荒廃に帰し、エルサレムは荒れ果てて焼き払われ、ソロモンが建てた神殿も破壊されて、ユダの国は滅び、二度とふたたび、地の諸国の間に以前の地位を占めることはなくなるのである」(『希望への光』546ページ、『国と指導者』下巻43、44ページ)。

これまで見てきたように、またこれから見るように、このようなことのどれ一つとして、預言者たち(とりわけエレミヤ)による多くの警告と訴えなくして彼らに降りかかったものはありませんでした。彼らが服従を拒んだことでもたらされたのは、破滅だけでした。彼らの過ちから私たちが学べますように!

タンムズ神のために泣く

エレミヤは折に触れてとても孤独に感じたかもしれませんが、彼は独りではありませんでした。神は同時代人であるエゼキエルをバビロンの捕囚民の中に立てておられました。捕囚民を慰め、警告するだけでなく、この長く厳しい歳月の間に主がエレミヤを通して語ってこられたことを確認するためです。エゼキエルは自分の働きを通して、バビロンからの早期帰還という誤った予言を信じる愚かしさを捕囚民に警告しなければなりませんでした。彼はまた、さまざまな象徴とメッセージによって、最終的にエルサレムに降りかかる壊滅的な包囲攻撃を予告しなければならなかったのです。その包囲攻撃は、人々が悔い改め、罪と背教から離れなかったために起ころうとしていました。

エゼキエル8章を読んでください。モーセや預言者たちの書いた物が、頻繁かつ明瞭に、偶像礼拝や他の神々を拝むことを警告していたにもかかわらず、これらの聖句は、まさにそのことが神殿の聖なる区域においてさえ行われていた、と述べています。「タンムズ神のために泣(く)」とは、タンムズというメソポタミアの神に対する嘆きの儀式のことです。歴代誌下に、「祭司長たちのすべても民と共に諸国の民のあらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した」(代下36:14)と書かれているのも不思議ではありません。

エゼキエル8:12を注意深く読んでください。「自分の偶像の部屋」という訳は、若干曖昧としています[英訳聖書の「偶像」に相当する語は‘imagery’で、「像、心象」の意味]。それは、長老たちが自分の偶像を保管した部屋という意味かもしれませんし、彼らの想像の部屋、つまり心を意味しているのかもしれません。いずれにしても、指導者である長老たちはひどく堕落していたので、主は自分たちのしていることをご覧にならない、主は自分たちを捨てられた、と言っています。別の言い方をすれば、「主はこういったことを気にかけておられない。こういったことは重要でない」ということです。まさに神の神殿の聖なる区域で、この人たちは最も忌まわしい偶像礼拝にふけり、神の御言葉によって具体的に禁じられていたあらゆることをしていました。さらに悪いことに、彼らは心の中で自分たちの行為を正当化していました。パウロは、造り主でなく造られた物を拝む者たちについて述べていましたが(ロマ1:22~25参照)、彼がそのときに意味していたことを、私たちはここに改めて見ます。

ゼデキヤ王の不幸な治世

ゼデキヤは(名前の意味は「ヤハウェの義」)、紀元前586年にバビロンによって破壊される前のユダの最後の王です。当初、彼はエレミヤの言葉を進んで聞き入れ、バビロンに服従したかのようでした。しかし、その態度は長く続きませんでした。

問1

エレミヤ37:1~10を読んでください。ゼデキヤ王に対するエレミヤの警告は、どのようなものでしたか。

臣下から、おそらくは貴族たちから圧力を受けて、ゼデキヤはエレミヤの警告を無視し、バビロンの脅威を食い止めることを願ってエジプトと軍事同盟を結びました(エゼ17:15~18参照)。しかし、ゼデキヤが十分に警告されていたように、結局、救いはエジプトから得られませんでした。

エレミヤ38:1~6を読んでください。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マコ6:4)と、イエスが言われたとおりです。かわいそうなエレミヤは、再び同胞の怒りを買いました。しかし彼は、民のほかの者たちと同様、自分は警告されていなかったとは言えませんでした。ただし彼の場合、その警告は、もし彼が忠実であり続ければ直面するだろう試練に関するものであり、彼は忠実であり続けたのです!

エレミヤにとって、それはさぞつらいことでもあったでしょう。なぜなら、民の士気をくじいていると彼は非難されたからです。詰まるところ、人々が外部からの敵と対峙し、その敵に戦いを挑みたいと思っていたときに、エレミヤは長年にわたって、それは勝ち目のない戦であり、彼らは勝てないし、主さえもが彼らに対抗しておられる、と言い回ってきたのでした。人々が彼を黙らせたいと思ったのもうなずけます。罪によってかたくなになった彼らには、語りかける主の声が聞こえませんでした。実際のところ、彼らはそれを敵の声だと思いました。

エルサレムの陥落

エルサレムに対する本格的な包囲攻撃は、紀元前588年1月に始まり、586年の夏まで続きました。エレミヤの預言の言葉が成就するまでに、エルサレムは2年以上持ちこたえましたが、バビロン軍はその城壁を突破し、町を破壊しました。城壁の内側では飢えがひどかったため、守る兵士たちは力をすっかり失っていて、もはや抵抗できませんでした。ゼデキヤ王は家族と一緒に逃げますが、それは無駄でした。彼は捕らえられ、ネブカドネツァル王のもとへ連れて行かれ、息子たちを自分の目の前で処刑されました。このことのさらに詳しい内容は、エレミヤ39:1~10に記されています。

問2

エレミヤ40:1~6を読んでください。ネブザルアダンがエレミヤに語った言葉の重要性は何でしょうか。

この異教徒の親衛隊長がエレミヤの同胞たちより状況をずっとよく理解していたというのは、なんと興味深いことでしょう!明らかに、バビロニア人たちはエレミヤと彼の働きついて何がしかのことを知っており、彼らはゼデキヤなどを扱うのとは異なる仕方でエレミヤを扱っています(エレ39:11、12参照)。この異教徒の指導者は、エルサレムが陥落したのは彼らの神々がユダの神よりも優れていたからではなく、人々の罪に対して主が罰を下されたからだ、と言いました。聖書はその理由を記していません。理由がどうであれ、これは、このような無益な災難のさなかにあっても、主が御自分について何かを異教徒たちに示しておられたことの驚くべき証拠です。

エレミヤはどのような選択—捕囚たちと一緒にバビロンへ行くか、それとも残された者たちと一緒にとどまるかの選択—をするのでしょうか。彼ら全員の状況を考慮すれば、将来に対するいずれの見通しもあまり魅力的ではなかったでしょう。確かに、いずれのグループの霊的必要も大きかったでしょうし、エレミヤはどこへ行ったとしても働くことができました。エレミヤはこの地に残ったグループと、つまり、手に入るあらゆる励ましと助けを間違いなく必要とするようになる貧しい人々と一緒にとどまることにしました(エレ40:6、7参照)。

心を尽くして

問3

「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」(エレ29:13、新改訳)。この約束に関して、あなたはどのような体験をしましたか。「心を尽くして」というのは、どういう意味でしょうか。

主は初めから終わりまで、すべてを知っておられます。偽預言者たちの言葉が本当であってほしいと願いながら、エルサレムの人々が依然としてバビロン人たちと戦っていたときでさえ、主はエレミヤを用いて未来について語り、すでにバビロンにいる人々や最終的にバビロンへ行くことになる人々に話しかけられました。そして、彼が語った言葉のなんとすばらしいこと!

問4

エレミヤ29:1~14を読んでください。これらの聖句の中に、神の愛と憐れみはいかにあらわされていますか。

真の恵みのメッセージがここにありました。それは、捕囚は短期間(わずか2年)で終わるだろうと語った預言者たちから聞かされた偽りの「恵み」のメッセージとは異なるものでした。そのようなことは神の御計画ではなく、起こらないことでした。そうではなく、彼らは、モーセの明らかな教えに基づいて、少なくとも今はこれが自分たちの運命なのだ、と受け入れなければなりませんでした。しかしモーセが言ったとおりに、もし彼らが悔い改めるなら、この土地に戻されるでしょう。

問5

申命記30:1~4を読んでください。これらの聖句は、エレミヤが人々に語ったことをいかに反映していますか(申4:29も参照)。

エレミヤの預言は、捕囚たちの考え方に二つの影響を与えるはずでした。一つは、彼らが偽預言者たちの言っていたことを信じないこと。もう一つは、彼らが意気消沈しないことです。エレミヤは捕囚となっている同胞に、バビロンのために祈ってほしい、と求めました。この要求は、国を追われた彼らを驚かせたかもしれません。エレミヤが捕囚たちに求めていることは、イスラエルのこれまでの歴史の中で前例がありませんでした。神の選民である彼らにバビロン人がしたようなことをした敵のために祈るというのは、まったく前代未聞でした。エレミヤは、神殿とエルサレムについての彼らの理解をすっかり打ち砕きました。彼らは異教の国にあって祈ることができ、永遠なる神は彼らの祈りを聞いてくださるのです。

エレミヤがエレミヤ29:7で言っていること—彼らの「受け入れ国」の繁栄は彼らの繁栄を意味する—にも注目してください。この地において、外国人であり、よそ者であった彼らは、この国の状況が概して悪くなれば、特に攻撃を受けやすかったのです。歴史を通じて、ある国が困難な状況に直面したときに不寛容が特にひどくなるという嘆かわしい実例を私たちは見てきました。このようなとき、人々は非難の対象にできるいけにえを探し、少数民族や外国人がしばしば格好の標的になります。それが悲しい現実です。

エレミヤ29:10において、すばらしい希望が捕囚民に与えられています(エレ25:11、12、代下36:21、ダニ9:2も参照)。主が、起こるであろう、と言われたことは、すべて起こってきました。それゆえ彼らには、主がこの預言(エレ29:10)をも成就されることを信じるのに十分な根拠がありました。なぜ彼らの捕囚期間がぴったり70年なのかはわかりませんが、それは土地に対する安息という考え(レビ25:4、26:34、43参照)と明らかにつながっています。この預言に関してとても重要な点は、もし捕囚たちがそれを信仰と服従をもって受け入れたなら、大いなる希望と、神の完全な主権に対する確信が彼らに与えられたであろうということです。目に見える状況や降りかかった災難のひどさにもかかわらず、彼らは、すべてが失われたのではないこと、主が彼らを見放されたのではないことを知ることができました。彼らは依然として契約の民であり、主は彼らやイスラエルの国との関係を絶っておられませんでした。そこでは、進んで条件を満たそうとするすべての人に、贖いが提供されました。

さらなる研究

「私たちには、単純な福音を複雑にする危険が常にあります。多くの人々には、何か独創的なもので世を驚かせ、霊的陶酔の状態になって、現在の状態とは違った経験に入りたいという強い希望があります。現在の経験を変えることは確かに必要です。それは現代の真理の神聖さが十分に理解されていないからです。必要なのは心の変化です。それは、個人的に神の祝福とみ力を求め、神の恵みによって私たちの品性が改変されるよう、熱心に祈ることによってのみ得られるのです。これが今日必要な変化です。この経験に到達するためには、私たちはたゆまず力を働かせ、心からの熱心をあらわす必要があります。真に心から『救われるために何をなすべきか』と問わねばなりません。天国に行くには、どんな段階を取るべきかを知っていなければならないのです」(『セレクテッド・メッセージ1』251ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。

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