この記事のテーマ
「神とサタン、善と悪の、(宇宙レベル、個人レベル双方における)間断なき戦いに関する多くの言及やほのめかしが、旧新両約聖書のページの中には散見される。これらの箇所を比較しながら、私たちはそれらの個々の洞察を埋め込むことで、ほかの方法よりも聖書のメッセージ全体をはっきり見ることができる真理のステンドグラスを作るのである」(『セブンスデー・アドベンチスト神学ハンドブック』969ページ、英文)。
大争闘という主題は、聖書の「メッセージ全体」、とりわけ救済計画をよりよく理解できるようにする枠組みを形作っています。この主題は新約聖書において一層明らかですが、旧約聖書の中にも見いだされます。そして、サタンとこの争い、およびそれらが地上の生活にどれほど強く影響を及ぼしうるかを、ヨブ記以上にはっきりと垣間見せてくれる書巻は、恐らく旧約聖書の中のどこにもありません。
私たちは今回、目の前の現実の背後にあるもっと広い現実——ヨブ記の中心テーマ——に目を向けます。そして、私たちの人生や物語はヨブのものとは異なりますが、私たちには共通することが一つあります。ヨブと同様、私たちはみな、この争闘に巻き込まれているということです。
地上の小さな天国
ヨブ記は、比較的明るい雰囲気で始まります。少なくともこの世的な観点からすれば、私たちはあらゆる面で恵まれた1人の男性を目にします。
問1
ヨブ記1:1~3を読んでください。この箇所は、ヨブが送っていた人生について、どのようなことを明らかにしていますか。ヨブの生き方の肯定的な側面は何ですか。
ヨブは確かに、高潔な品性を含むあらゆるものを手にしているように見えます。ヨブ記1:1で「無垢な」と訳されている言葉は、「完全な」とか「誠実さにあふれる」といった意味の言葉に由来します。「正しい」に相当する語は、真っ直ぐな道を歩いているイメージを伝えます。要するに、この書巻は、何もかも手にした忠実で誠実な富豪を描いている、エデンのような場面で始まります。とは言っても、彼がそのすべてを手にしているのは堕落した世界においてです。
問2
ヨブ記1:4、5を読んでください。これらの聖句は、ヨブが住んでいる堕落した世界の現実について明らかにしています。
「彼〔ヨブ〕は、息子や娘たちとの祝いの催しの最中に、自分の子どもたちが神の機嫌を損ねないようにと気遣った。一家の忠実な祭司として、彼は子どもたち1人ひとりのためにいけにえをささげた。彼は罪の不快な性質を知っており、自分の子どもたちが神の要求を忘れているかもしれないと思い、彼らのために仲介者となったのである」(『SDA聖書注解』第3巻1140ページ、英文)。
明らかにヨブは、地上においてこれ以上なりえないほどに恵まれていました。その場面は、まるでエデンのように描かれています。満たされた生活、大家族、名声、多くの財産を持つ男性。しかし、それは罪に染まった堕落した惑星における人生であり、間もなくヨブが知るように、地上で生きることがもたらすあらゆる危険を伴います。
宇宙規模の争い
ヨブ記は、平和で穏やかな場所である地球で始まります。しかし、ヨブ記1:6から場面が変わります。まったく異なる現実の側面、神の啓示によらなければ人間には見えない側面へ、急転換します。そして実に興味深いことに、この現実の別の側面である天は、少なくともここで最初に述べられている内容によれば、地上のように平和で穏やかではないようです。
問3
ヨブ記1:6~12を読んでください。ここではどんなことが起こっていますか。
これら数節の聖句の中には、研究すべきことがたくさんあります。それらは、どんな宇宙望遠鏡も見つけることができず、人間の科学では理解することさえできない私たちの宇宙の側面を明らかにしているからです。しかし興味をそそられるのは、それらの聖句が宇宙規模の争いをも明らかにしている点なのです。それは、私たちがこの箇所で見る、落ち着いた、平和で、穏やかな会話ではありません。神はヨブについて、(人間の考えを用いて言えば)父親が息子を自慢するように、誇りをもって語っておられます。それにひきかえサタンは、神がヨブについて言われたことをあざ笑っています。「サタンは答えた。『ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか』」(ヨブ1:9)。サタンが神に向かって言ったことは、ほとんどあざけるような皮肉、馬鹿にするような口調に聞こえます。
聖句は、この対決が天におけることだったと明言していませんが、それが起こったのは、間違いなく天でした。それゆえ、この被造物である天使は、天の神の前に立ち、「神の使いたち」の前で、面と向かって神に挑戦しているのです。このように現世の指導者に話しかける人間を想像するのは困難ですが、ここには神御自身に向かってそうしている存在がいます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。
その答えは、聖書全体を通じてさまざまな場所に、さまざまな形であらわれている一つの主題の中に見いだされます。それが大争闘と呼ばれるものであり、ヨブ記だけでなく、聖書全体と、地上のあらゆる罪と苦しみの悲しい物語についての聖書の説明を理解するうえで助けとなる効果的な枠組みを提供してくれるのです。そしてもっと重要なことに、それは、地上における罪と苦しみの問題を解決するために、イエスが十字架で成し遂げてくださったことをよりよく理解するうえで、私たちの助けとなります。
地上での争い
ヨブ記はベールを取り払って、私たちの目や耳、またこの世の哲学者たちが決して私たちに気づかせることのできない存在の次元を明らかにしています(それどころか、ヨブ記1:6~12は、全体像を理解することに関して、私たちの目や耳、この世の哲学者たちがいかに有限であるかを示しています)。また、これらいくつかの聖句が示しているのは、神とこの別の存在であるサタンとの争いです。この争闘は、最初ヨブ記において、天で起こっているように紹介されますが、急に地球へ移ります。聖書全体を通じて、私たちはこの継続中の争い、私たちをも巻き込んでいる争いを指し示す聖句を見いだします。
問4
次の聖句を読んでください。この地上において超自然的悪の勢力と争われている闘いの現実を、それらはいかに明らかにしていますか。
創世記3:1~4
ゼカリヤ3:2
マタイ4:1
Iペトロ5:8
Iヨハネ3:8
黙示録12:9
これらの聖句は、明確に、あるいはそれとなく、文字どおりの悪魔(悪意を持つ超自然的存在)を指し示す多くの聖句の中の一例にすぎません。多くの人はサタンという概念を原始的な神話と見なしていますが、このようなはっきりした聖書の証言によって、私たちはそういう欺きにだまされてはなりません。
宇宙の縮図としてのヨブ記
ヨブ記の冒頭の場面は、いくつかの重要な点を私たちに示しています。まず、先に述べたように、私たちが自力で現在知りえることの彼方に別の次元——神以外の天の存在がいる天の次元——があることを明らかにしています。第二に、この地上における生活と天の世界とが、いかにつながっているかを示しています。地上で起こることは、この世界にいる天の存在と無関係ではないのです。第三に、この地上で起こることと関係している天での道徳的対立を明らかにしています。
要するに、冒頭の数節とそれに続く聖句は、大争闘そのものの縮小版の描写のようなものだということです。これらの聖句は、(本来は宇宙規模の)大争闘がヨブという1人の男性の人生の中にあらわれた様子を明らかにしています。そしてこれから見ていくように、それに関連する問題は私たち全員に関係しています。
ヨブ記は神と対決するサタンを明らかにしています。しかし、その対決がそもそもどのように始まったのかは、明らかにしていません。次の聖句は、この争闘をいくらか理解するうえで、助けとなります(イザ14:12~14、エゼ28:12~16、Iテモ3:6)。
エレン・G・ホワイトは、神の統治の基礎として「愛の律法」について語っています。神は「強制された服従」を望まれなかったので、すべての道徳的被造物に「自由意志を与え」られたと、彼女は記しました。しかし、「神が被造物にお与えになった自由を悪用した者があった。罪は、キリストの次に位し、最大の栄誉を神から受け、天の住民の中で最高の力と栄光を与えられていた者から始まった」(『希望への光』14ページ、『人類のあけぼの』上巻4ページ)。そして次に、サタンの堕落を描写するために、彼女は先のイザヤ書とエゼキエル書の聖句を引用しています。
ここでの極めて重要な概念は、「愛の律法」と自由意志の存在です。聖書は私たちに、サタンが彼自身の輝きと美しさのゆえに自分を称揚し、高慢になったと告げています。どうしてこのようなことが起きたのかはわかりません。それは、IIテサロニケ2:7が「不法の秘密の力」と呼ぶものの一部に違いなく、神の律法がいかに神の統治の基礎と密接に結びついているのかを私たちが理解するとき、完全につじつまが合います。肝心なのは、サタンがヨブ記に登場するまでに、彼はすでに堕落しており、すでに始まっていた争闘はかなり進行していたという点です。
十字架での答え
ヨブ記は、多くの重要な問題を提起しています。しかし、これらの問題の多くは、そこで答えられていません。私たちには聖書の残りの書巻が必要です。しかしその場合にも、私たちは依然として、「鏡におぼろに映ったものを見ている」(Iコリ13:12)ようなものです。
昨日触れたように、例えば、サタンの反逆がいかに始まったのかということについて、ヨブ記は何も語っていません。サタンが大争闘で最終的にどのように敗北するのかということについても、一切語っていません。それどころか、このあとに続くヨブ記の中でサタンが重要な役割を果たしているにもかかわらず、2回だけ登場したあと(ヨブ1:6~12、2:1~7)、彼は二度と姿を見せません。彼が引き起こした破壊は残るのに、彼は突然姿を消しています。残りの部分は、彼に言及さえしていません。その代わりに、このあとに続くヨブ記のほとんどは、サタンではなく、神に関する内容です。そして、それは道理にかなっています。なぜなら、ヨブ記は結末において、神と、神が本当はどのような方なのかということについて記しているからです。
それにもかかわらず、聖書は大争闘におけるサタンの敗北に関する疑問への答えなしに、私たちを置き去りにしていません。そして、その敗北の中心的役割を果たすのは、十字架におけるイエスの死です。
次の聖句は、イエスがなさった、大争闘を終結に導くであろうことを説明するうえで、助けとなります(ヨハ12:31、32、黙12:10~12、ロマ3:26、ヘブ2:14)。
十字架において、サタンは、殺人者であるという彼の正体を宇宙の前で完全に暴露されました。天で君臨しておられたときのイエスを知っていた者たちは、彼がサタンの手先によって侮辱されるのを見て驚いたに違いありません。それが、ヨハネ12章においてイエスが語られたサタンに対する「裁き」でした。十字架で、救い主が「全世界の罪」(Iヨハ2:2)のために亡くなられたときに、ようやく天は、救いが訪れた、と宣言できました。そのとき、その場において、神が「永遠の昔」(IIテモ1:9)になさった約束が果たされました。私たちの身代わりに死んだことで、キリストは「御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさる」(ロマ3:26)ことができました。つまり、彼は十字架で、神は律法を守る(正しい方である)ことができないし、その律法を破った者たちを救う(義となさる)こともできないという悪魔の挑戦に反論されたのでした。カルバリーのあと、サタンの運命は確定しました。
さらなる研究
善と悪の争い、争闘という概念は、多くの文化の中に見られます。その考えは、数千年もの間、しばしば神話を通じて表現され、生き残ってきました。今日、高等批評や現代的合理主義のせいで、多くのクリスチャンが文字どおりの悪魔や悪天使の存在を否定しています。こういったものは、自然悪や人間〔道徳〕悪*をあらわす原始的な文化の象徴にすぎない、といいます。私たちアドベンチストの観点からすると、悪魔や彼の天使たちの存在を信じることなく、どうして聖書の意味を理解できるのか、想像できません。
善と悪の超自然的な勢力間のこの宇宙規模の対立が存在することを否定するあざむきに、すべてのクリスチャンがだまされているわけではありません。例えば、グレゴリー・ボイドという名前の福音派の学者は、神とサタンの(永遠ではないものの)長年にわたる争いの存在について詳しく書いています。彼は、『交戦中の神』という著書の序文で、ダニエル書10章のいくつかの箇所に言及したあと、次のように記しています。「聖書は、最初から最後まで、人間と神との間に存在する霊的実在を前提としており、彼らの行動が、善かれ悪しかれ、人間の存在に大きな影響を与えている。まさに、私が本書で論じているそのような概念が、聖書の世界観の中心を成しているのである」(11ページ、英文)。彼はなんと正しいことでしょう。
*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。