「利益もないのに神を敬うでしょうか」【ヨブ記】#3

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ヨブ記は、現実のまったく新しい次元を私たちの目の前に開き、キリストとサタンの大争闘を垣間見せてくれます。そしてそうすることによって、私たちが住んでいる世界、私たちを頻繁に当惑させ、ぼう然とさせ、おびえさせもする世界をよりよく理解するための枠組み、輪郭を与えてもくれるのです。しかしヨブ記は、この大争闘が私たちとは無関係の、他のだれかの闘いなどではないことも示しています。そうであればいいのですが、残念ながらそうではありません。「地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである」(黙12:12)。サタンは地と海に降って来たのであり、彼の怒りが本当に大きいことを、私たち自身が知っています。私たち人間の中に、その怒りを感じたことのない人がいるでしょうか。

私たちは今回、大争闘が激しさを増す中、私たちがいかに適応すべきかについて一層理解しようと努めつつ、ヨブ記の最初の2章を引き続き研究します。

神の僕、ヨブ

ヨブに対するサタンの非難に焦点を合わせながら、ヨブ記1章を読んでみましょう。サタンの主張と攻撃には、どのようなことがほのめかされていて、サタンはだれを攻撃しているのか考えてください。

「あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです」(ヨブ1:10)。ヨブ記の冒頭部分は、ヨブの正しさと善良な品性だけでなく、彼の物質的豊かさと大きな家族についても言及しています。これらの具体的なものによって、ヨブは「東の国一番の富豪」(同1:3)として尊敬されました。しかもこれらは、サタンが取り上げて神を批判した具体的なものでした。要するにサタンは、ヨブが神に仕えるのは、神が彼のためにこのようなことをしたからにすぎない、と言ったのです。

では、もし神がこれらのものを取り去ったなら、ヨブは「面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(ヨブ1:11)というサタンの攻撃には、どのようなことがほのめかされているのでしょうか。その攻撃は、実のところ、神御自身に対する攻撃です(これは、大争闘全体に関係していることです)。もし神がとてもすばらしく、善良な方であられるなら、ヨブはもっぱら愛と感謝の気持ちから神に従い、神を畏れ、神を拝むでしょう。結局のところ、自分のために多くのことをしてくださった神を愛さない人がいるでしょうか。ある意味においてサタンは、神は自分に忠実でいさせるためにヨブを買収しておられたのも同然だ、と言っているのです。それゆえ、ヨブが神に仕えているのは神に対する愛からではなく、利己的な動機からなのだと、サタンは主張しました。

ひどく卑劣で、憎むべき政治的支配者なのに、その支配者がよくしてくれるからという理由で命を捨てるほど忠実な取り巻きを持つ人物を思い浮かべてみてください。実際、もし主が、描かれているとおりの本当に親切で、愛情深く、優しい神であられるなら、たとえヨブはそれらの良いものをすべて失っても、主に仕え続けるでしょう。しかしサタンは、ヨブは忠実であり続けないだろう、と主張することで、ヨブは神を全面的に信頼していないし、彼が忠実なのは、神が彼に与えられたもののゆえにすぎないのだ、とほのめかしています。つまり、(サタンによれば)結局のところ、ヨブの忠誠心は、まさにうまみのある商取引かどうかにかかっているのだ、と言っています。

皮には皮を——戦は続く

ヨブ記2:1~3は、ほとんどヨブ記1:6~8の繰り返しです。大きな違いはヨブ記2:3の後半部分で、そこでは主御自身が、身に降りかかった災難にもかかわらず、ヨブがいかに忠実であり続けたかについて語っておられます。それゆえ、ヨブ記2:3に至るまでは、サタンの非難が誤りであったように見えます。ヨブは神に忠実であり続け、サタンが言ったように神を呪ったりしませんでした。

問1

ヨブ記2章を読んでください。そこではどのようなことが起きていますか。また、ヨブ記1、2章において、「神の使いたち」がその場にいて、神とサタンの対話を目にしているという事実には、どのような意味がありますか。

「皮には皮を」という慣用句は、これまで注釈者たちを悩ませてきました。しかし、その考えは次のようなものです——ヨブ自身の身に何かが起これば、彼の忠誠心が本当はどこにあるのか、わかるでしょう。ヨブの体、彼の健康を害して、何が起こるか見てみよう、ということです。

そしてとても興味深いことに、起こることは、だれもいない所で起こるのでもありません。天における二つの闘争は、ヨブ記で明らかにされているように、これらの天の知的存在たちと神との、ある種の会合のような状況の中で起こっています。サタンは公然と非難をしています。言い換えれば、彼はほかの存在者の前で非難しています。このような考えは、私たちが大争闘について知っていることと完全に一致します。この争いは、全宇宙の前で展開しているからです(Iコリ4:9、ダニ7:10、黙12:7~9参照)。

「しかし、贖罪の計画は、人類の救済より、もっと広く深い目的をもっていた。キリストが地上に来られたのは、人間を救うためだけではなかった。この小さな世界の住民が、神の律法に対して当然払わなければならない尊敬を払うようになるためだけではなかった。それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった。……人間の救いのためにキリストが死なれた行為は、人間が天にはいる道を開いたばかりでなく、神とみ子が、サタンの反逆に対して取られた処置の正当性を全宇宙の前に示すのであった。それは、神の律法の永遠性を確立し、罪の性質とその結果を明らかにするのであった」(『希望への光』36ページ、『人類へのあけぼの』上巻61、62ページ)。

主の御名はほめたたえられよ

問2

ヨブに対するサタンの最初の攻撃があり、彼の身に降りかかったあらゆる災難についてのニュースが届いたあと、ヨブはどのように応じましたか(ヨブ1:20~22参照)。このような悲劇の中にあっても、ヨブが「神を非難することなく、罪を犯さなかった」という事実は、何を意味しますか。

神の統治、愛に基づく統治の中核を成すものは、選択の自由です。神は私たちに、強制されてではなく、愛するがゆえに御自分に仕えてほしい、と願っておられます。「サタンは、ヨブが利己的な動機から神に仕えているとほのめかした。……真の宗教が神の御品性に対する知的理解と愛から生じるということ、真の礼拝者が——見返りのためではなく——宗教そのものを愛するということ、彼らが神に仕えるのは、そのような奉仕自体が正しいからであって、単に天が栄光に満ちているからではないということ、彼らが神を愛するのは、神が彼らの愛情と信頼に値するお方であるからであって、単に神が彼らを祝福されたからではないということを、サタンは否定しようとしたのである」(『SDA聖書注解』第3巻500ページ、英文)。

ヨブ記においてヨブは、サタンの非難が間違っていることを証明しました。しかし、神はどうなるかをご存じであったものの、ヨブが異なる行動をすることもありえました。彼は「神を非難すること」も、罪を犯すこともできました。ヨブは神に強制されて、あのように行動したのではありません。その状況を考えると、彼の揺るがぬ忠実さは、人間と天使たちとの前でのすばらしいあかしでした。

ヨブ記1章で起こったことと、創世記3:1~8でアダムとエバに起こったことを比較してみましょう。アダムとエバは、真の楽園の中にいた罪なき存在でしたが、サタンの攻撃のゆえに命令を破り、罪に堕ちました。ヨブは、まったくの苦悩、悲劇、没落の中にいましたが、サタンの攻撃にもかかわらず、神に忠実であり続けました。どちらの場合も、自由意志に関する極めて重要な問題の絶好の実例です。

ヨブの妻

ここで、ヨブの物語におけるもう1人の犠牲者、つまり彼の妻を取り上げるのは、たぶん一番良いタイミングでしょう。彼女はヨブ記2:9、10にだけ登場します。彼女に関して、それ以外のことは書かれていません。しかし、すでに起こったあらゆることを考えると、この不幸な女性が味わった悲しみを、だれが想像できるでしょうか。ヨブ記1章において、子どもたちやほかの犠牲者を失ったという彼女の悲劇は、苦しみの普遍性をあらわしています。私たちはみな、大争闘に巻き込まれており、だれ1人として逃れることができません。

ヨブ記2:3と2:9を比較してください。ヨブが「誠実」であり続けたという表現が両方の聖句で見られるのは、偶然ではありません。〔新改訳で〕「誠実」と訳されているこの言葉は、ヨブ記1:1と1:8で用いられている同じ言葉から派生したもので、しばしば「無垢」「潔白」と訳されます。その語根は、「完全」「充足」といった意味です。

ヨブの妻が、まさに神の称賛されたこと〔無垢であること〕に関してヨブに挑む者になったというのは、なんと不幸なことでしょう。ヨブの妻は嘆き悲しみの中で、まさに神が、ヨブはしないであろうと言われたことをするように彼を後押ししています。私たちは確かに彼女を裁くことはできませんが、彼女は、私たちがほかの人のつまずきの石にならないよう、いかに注意しなければならないかということの大きな教訓です(ルカ17:2参照)。

問3

ヨブ記2:10を読んでください。ヨブはここでも、どのような力強いあかしをしていますか(フィリ4:11~13も参照)。

ヨブは、彼の信仰が本物であることを明らかにしています。彼は良いときも悪いときも、主に仕えようとしています。しかし興味深い点は、サタンがここで物語から姿を消し、二度と登場しないことです。聖句はそのことに言及していませんが、私たちはヨブの態度に対するサタンの落胆と怒りを想像することができます。サタンが、アダムやエバ、またそれ以外の多くの人たちをいかに簡単にだましてきたか、考えてみてください。「我々の兄弟たちを告発する者」(黙12:10)は、ヨブ以外に責めるべきだれかを見つけなければならなくなりました。

死に至るまでの従順

ヨブ記1:22には、「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」とあり、ヨブ記2:10には、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」と記されています。いずれの場合においても、ヨブは〔サタンの〕攻撃にもかかわらず、主に忠実であり続けました。いずれの聖句も、ヨブが行動でも言葉でも罪を犯さなかったという事実を強調しています。

言うまでもなく、これらの聖句は、ヨブが罪人ではなかった、と言っているのではありません。聖書は、私たちがみな罪人だと教えているのですから、そんなことは決して言いません。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」(Iヨハ1:10)。「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生き(る)」(ヨブ1:1)ことで、人の罪がなくなるわけではありません。ほかのすべての人と同様、ヨブは罪の中に生まれ、救い主を必要としていました。

それにもかかわらず、ヨブは、彼を襲ったあらゆることをよそに、主に忠実であり続けました。その意味において、ヨブは彼なりに、ある種のイエスの象徴、イエスのほのかな前例(第14課木曜日参照)だったと見ることができます。そのイエスは、激しい試練と誘惑のさなかにあってもあきらめず、罪を犯さず、そのようにして、神に対するサタンの非難に反論されました。もちろん、キリストがなさったことは、ヨブがしたことよりもはるかに大きく、偉大であり、重要でした。それにもかかわらず、ちょっとした類似性があります。

マタイ4:1~11を読んでください。ひどい環境の中、食べ物がなかったために体が弱っていたものの、人性、つまり「罪深い肉と同じ姿」(ロマ8:3)を取られたイエスは、悪魔が彼にさせたいと思ったことを、ヨブもしなかったように、なさいませんでした。そしてまた、ヨブが忠実であり続けたあとの場面からサタンが姿を消したように、イエスが彼に対するサタンの最後の試みに抵抗されたあと、「悪魔は離れ去った」(マタ4:11、さらにヤコ4:7も参照)と、聖書は記しています。

しかし、イエスが荒れ野で直面されたことは、始まりにすぎませんでした。イエスの本当の試練は十字架で訪れるのですが、そこでも、彼に投げつけられた(ヨブが直面したことよりもはるかにひどい)あらゆることにもかかわらず、主は死に至るまで忠実であられました。

さらなる研究

ヨブ記のヘブライ語を掘り下げて研究する学び手は、興味深い一つの現象に遭遇します。ヨブの妻が夫にかけた言葉は、「神をのろって死になさい」(ヨブ2:9、口語訳、強調著者以下同様)と訳され、ヨブ記1:5は、「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と訳され、ヨブ記1:11は「ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と訳されています。しかし、いずれの場合でも、「呪う」と訳されている言葉は、「祝福する」を意味する言葉に由来します。〔英語アルファベット表記で〕‘brk’という語根に由来するこの言葉は、聖書の中で常に「祝福する」をあらわすために用いられています。同じ語根は、神が御自分の造られた被造物を「祝福」された創世記1:22でも、詩編66:8(「諸国の民よ、我らの神を祝し」)でも用いられています。

では、なぜ「祝福する」を意味する同じ動詞が、先のいくつかの聖句において「呪う」と訳されているのでしょうか。第一に、もしヨブ記のそれらの聖句において「祝福した」という意味であるなら、聖句は意味を成しません。ヨブ記1:5において、ヨブの息子たちが心の中で神を祝福したのなら、なぜヨブは神にいけにえをささげたいと思ったのでしょうか。文脈から異なる意味が必要とされます。ヨブ記1:11も2:5も同様です。災難がヨブの身に降りかかったら、彼が神を祝福するだろうと、なぜサタンは考えたのでしょうか。文脈から「呪う」という意味である必要があるのです。またヨブは、妻が彼に、神を祝福しなさい(ヨブ2:9、10)と言ったからと、なぜ彼女を叱責したのでしょうか。文脈を考えると、「呪う」という意味の場合に限って、この聖句は意味を成します。

それでは、なぜヨブ記の記者は、「呪う」に相当する一般的な言葉を使わなかったのでしょうか。学者たちは、これは婉曲表現だと信じています。なぜなら、神を呪うという概念を書き記すことが、記者の宗教的感受性には不快だったからです(同じようなことが王上21:10、13でも見られます。そこで「呪った」と訳されている言葉は、「祝福する」を意味する‘brk’に由来する言葉です)。呪うという意味が意図されていたことは明らかであるにもかかわらず、モーセは、「呪う」という言葉をそのまま使わずに、「祝福する」という言葉を使ったのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。

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