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ヨブとこれら3人の友人との論戦の中には、ときとして賢明で、美しく、深く、真実な言葉が含まれていました。人々はなんとしばしばヨブ記から、しかもエリファズやビルダドやツォファルの言葉からさえ引用することでしょう。それは、これまで何度も触れてきたように、彼らが確かに良いことをたくさん言ったからです。ただ、それらの言葉をふさわしい場所、ふさわしい時、ふさわしい状況で言わなかっただけです。ここから私たちが学ぶべきことは、箴言25:11~13の説得力のある真理でしょう。
時宜にかなって語られる言葉は
銀細工に付けられた金のりんご。
聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは
金の輪、純金の飾り。
忠実な使者は遣わす人にとって
刈り入れの日の冷たい雪。
主人の魂を生き返らせる。
残念ながら、ヨブが友人たちから聞かされていたのは、そのような言葉ではありませんでした。それどころか、問題は一層深刻になろうとしていました。なぜなら、3人の友人がヨブに、「あなたは間違っている」と言うだけでなく、新たな1人が登場するからです。
惨めな慰安者たち(慰める者たち)
ヨブの力強い信仰表明のあとも(ヨブ13:15、16)、舌戦は続きました。多くの章にわたって、彼らは入れ替わり立ち替わり、神、罪、死、正義、神に逆らう者、知恵、人間のはかなさに関する深くて重要な問題をいろいろ論じました。
問1
次の聖句には、いかに真理があらわされていますか。ヨブ記13:28、ヨブ記15:14~16、ヨブ記19:25~27、ヨブ記28:28
これらの章を通じて議論は続き、いずれの側も自分の立場を譲りませんでした。エリファズ、ビルダト、ツォファルは、自分なりの仕方で、それぞれの意図を持って、人は人生においていかに自業自得であるか、つまりヨブの身に降りかかったことは彼の罪に対する罰に違いないという議論を弱めませんでした。一方でヨブは、彼を襲った残酷な運命を、その苦しみは受けるいわれがないと確信して、嘆き続けました。入れ替わり立ち替わり、彼らは言い争い、「慰安者たち」は各自空しい言葉を語ってヨブを非難し、ヨブも彼らに対して同じことをしました。
結局、ヨブを含むだれもが、起こっていることをまったく理解していませんでした。どうして彼らに理解できるでしょうか。彼らは、あらゆる人間が持っている非常に限られた観点から語っていました。もし私たちがヨブ記から何らかの教訓(とりわけ、全員の発言が終わったこの時点までに明らかなはずの教訓)を得ることができるとしたら、それは、私たち人間が神と神の働きについて話すとき、謙虚さが必要だということです。私たちはいくらかの真理を、場合によっては多くの真理さえ知っているかもしれませんが、(これら3人の友人を見てわかるように)ときとして、自分が知っている真理を適用する最善の方法を必ずしも知りません。
エリフの登場
ヨブ記26章から31章まで、この物語の悲劇的主人公であるヨブは、3人の友人に最後の話をしています。雄弁に熱く語ってはいますが、基本的に彼はこれまで述べてきた主張を繰り返しているにすぎません。「私はこの身に起こっていることを受けるいわれはない」ということ。それだけです。
またもやヨブは、いわれなきことで多くの人が苦しんでいる人類の大半を象徴しています。そして、(いろいろな意味で最も難しい問題である)その問題は、「なぜ」なのです。ときとして、苦しみに対する答えは比較的簡単です。人は明らかに自分の身に自ら困難を招くことがあります。しかし非常にしばしば、とりわけヨブの場合、そうではありません。ですから、苦しみに関する疑問が残ります。
ヨブ記31章が終わりに近づくにつれ、ヨブは、彼が送ってきたような人生、つまり彼の身に今起きていることに値することを何もしてこなかった人生について語っています。そして、この章の最後の聖句は、「ヨブは語り尽くした」(ヨブ31:40)と書かれています。
ヨブ記32:1~5を読んでください。ヨブ記の中で、このエリフという男性が出てくるのは、ここが初めてです。彼は明らかに長い議論のなにがしかを耳にしましたが、彼がいつその場に姿を見せたのかは、私たちに告げられていません。エリフは遅れて来たに違いありません。なぜなら、ほかの3人が最初にやって来たとき、彼らと一緒だったようには書かれていないからです。しかし、エリフが対話のどの部分を耳にしたにしろ、その耳にした答えに彼が満足できなかったということはわかります。それどころか、この五つの聖句の中で、エリフは耳にしたことに「怒った」と4回も述べられています。そしてその後の6章の中で、このエリフという男性は、ヨブを襲った災難のゆえに、この人たち全員が立ち向かった問題に対する彼の理解と説明を語ろうとします。
神を擁護するエリフ
エリフと彼のコメントに関して、長年にわたって、多くの注釈が書かれてきました。中には、それを対話の方向性を変える転換点だと見なすものもあります。しかし、対話の力学を変えるような、新しい、あるいは画期的な何かを、エリフがどこで加えているのかを確認することは、実のところ、簡単ではありません。むしろ彼は、ほかの3人が(ヨブの苦しみに関する不公正さの告発に対抗して)神の御品性を擁護しようとして語ったこととほとんど同じ意見を述べているように思えます。
問2
ヨブ記34:10~15を読んでください。エリフはここで、どのような真理を語っていますか。エリフの言葉は正しかったのに、なぜそれは現状にはふさわしくなかったのでしょうか。
もしかすると私たちがエリフに見いだすことができるものは、ほかの友人たちと同様、恐れ——神は、自分たちが考えているような方ではないという恐れ——かもしれません。彼らは神の善良さ、正義、力を信じたいのです。徹底的に、神の善良さ、正義、力に関する真理を言いあらわすこと以外に、エリフに何ができるでしょうか。
「神は人の歩む道に目を注ぎ/その一歩一歩を見ておられる。悪を行う者が身を隠そうとしても/暗黒もなければ、死の闇もない」(ヨブ34:21、22)。
「まことに神は力強く、たゆむことなく/力強く、知恵に満ちておられる。神に逆らう者を生かしてはおかず/貧しい人に正しい裁きをしてくださる。神に従う人から目を離すことなく/王者と共に座につかせ/とこしえに、彼らを高められる」(ヨブ36:5~7)。
「全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない」(ヨブ37:23、24)。
もしこれらがすべて正しいなら、人が導き出しうる唯一の結論は、ヨブは受けるべきものを受けているということです。それ以外の結論がありえるでしょうか。そこでエリフは、ヨブのような良い人に降りかかったひどい災いを目の前にしながらも、神に対する自分の理解を守り抜こうとしたのでした。
災いの不合理
神を信じる者、正義の神を信じる者であったこの4人は、いつの間にか全員がジレンマに陥っていました。神の御品性に対する彼らの理解と矛盾しない合理的、論理的な形で、いかにヨブの状況を説明したらよいのでしょうか。残念なことに、彼らの取った災いの見解、少なくともヨブの身に降りかかった災いを理解しようとする試みにおいて、基本的に間違っていたことがわかりました。
エレン・G・ホワイトは、この点に関して説得力のある意見を述べています。「罪の存在を理由づけようとして罪の起源を説明することは、不可能である。……罪は侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる」(『希望への光』1836ページ、『各時代の大争闘』下巻228ページ)。
彼女は「罪」という言葉を使っていますが、これを同様の意味を持つ別の言葉、つまり「災い(悪)」に置き換えてみたらどうでしょうか。すると先の引用文は次のようになります。「災いの存在を理由づけようとして罪の起源を説明することは、不可能である。……災いは侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる」
悲劇が襲うとき、人々はしばしば、「理解できない」とか、「合点が行かない」とか言ったり、考えたりします。ヨブがずっと口にしていた不平は、まさにそういうことでした。
ヨブや彼の友人たちが悲劇の意味を理解できなかったのには、もっともな理由があります。災い(悪)は理にかなっていないからです。もし私たちがそれを理解できるなら、もしそれが理にかなっているなら、もしそれが何らかの論理的、合理的計画に適合するなら、それは災いでも、悲劇でもないでしょう。なぜなら、それは合理的な目的を果たすからです。
サタンの堕落と悪の起源に関する次の聖句に目を向けてください(エゼ28:12~17)。ここにいるのは、完璧な環境の中で、完璧な神によって創造された完璧な存在です。彼は高められ、知恵に満ち、美しさの極みであり、貴重な宝石を身に着け、「神の聖なる山」にいた「油そそがれたケルブ」(英語訳)でした。しかし、これだけ多くのものを与えられたにもかかわらず、この存在は堕落し、悪に身を任せたのです。悪魔に影響を及ぼすようになった悪よりも、不合理で非論理的なものが、これまでにありえたでしょうか。
信仰の難しさ
確かに、ヨブ記のおもな登場人物たちは、「鏡におぼろに映ったものを見ている」(Iコリ13:12)単なる人間として、非常に限られた観点から、物理的世界の(ましてや、霊的世界の)性質に関する非常に限られた理解に基づいて、発言していました。また、ヨブの身に降りかかった災いに関するこれらの議論の中で、ヨブを含むだれもが、ヨブの苦しみの直接的原因である悪魔の役割についてまったく論じていないというのは、興味深いところです。しかし、自分の正しさに対する彼らの(特にエリフの〔ヨブ36:1~4参照〕)自信にもかかわらず、ヨブの苦しみを合理的に説明しようとする彼らの試みは、いずれも不十分でした。
ヨブ記1:1~2:10を読んでください。私たちはヨブ記の最初の2章で、登場人物のだれもが見ることのなかった状況を目にします。それにもかかわらず、問題は今でも理解しがたいままです。すでに触れたように、この苦しみをヨブにもたらしたのは、彼の悪などではなく、まさに彼の「善良さ」であり、その善良さのゆえに神は悪魔の目を彼に向けさせたのでした。
では、ヨブの善良さや、神に忠実であろうという願いが、このようなことを引き起こす原因になったのでしょうか。どう理解したらよいのでしょうか。また、たとえヨブが背景を知っていたとしても、「神様、どうかほかの人を用いてください。私の子どもたちを、健康を、財産を戻してください!」と、彼は叫ばなかったでしょうか。ヨブは実験台になることを申し出ていたのではありません。一方で、神は悪魔からの挑戦に勝利されましたが、悪魔が敗北宣言をしていないことを私たちは知っています(黙12:12)。
では、目的は何だったのでしょうか。また、ヨブに起こったことから最終的にどんなに良い結果が生じたとしても、それはこの人たち全員の死や、ヨブが体験したあらゆることに値したのでしょうか。(より多くの答えが与えられつつあるものの)もしこのような疑問が私たちに残るのであれば、ヨブはどれほど多くの疑問を抱いたことでしょう。想像してみてください。
しかしここには、私たちがヨブ記から学ぶことのできる最も重要な教訓の一つがあります。見えるものによらず、信仰によって生きるという教訓、つまりヨブのように、物事の起きる理由を合理的に捉え、説明できないときでさえ、神を信頼し、神に忠実であり続けるという教訓です。すべてが十分に合理的に説明されるとき、私たちは信仰によって生きていません。私たちが信仰によって生きるのは、ヨブのように、たとえ周囲で起きていることの意味を理解できないときでも、神に信頼し、神に服従するときです。
さらなる研究
英国の科学史家ジョン・ヘドリ・ブルックは、信仰と理性の問題に関する議論の中で、ドイツの哲学者インマヌエル・カント(1724~1804)と、人間の(とりわけ、神の働きに関する)知識の限界について理解しようとする彼の試みについて記しています。「〔カントにとって〕人間に対する神の処遇を正当化するのは、知識ではなく、信仰の問題なのだ。逆境に直面したときの正しい姿勢として彼が挙げているのは、確固たる良心以外のすべてを奪われたヨブである。神の命令に服従し、彼の災禍を合理的に説明しようとする友人たちの忠告を正しくも拒み続けた。ヨブの姿勢の強みは、自分には何もわからない、相次ぐ不幸の意味は神のみぞ知ると認めていることにあった」(『科学と宗教』工作舎、229ページ)。
ヨブ記の中のこの友人たちと、今やエリフは、ヨブの身に起こったことを単純な因果関係で説明できると考えました。原因はヨブの罪、結果は彼の苦しみ、というわけです。これ以上に明快で、神学的に妥当で、合理的な考えがあるでしょうか。しかし、彼らの論法は間違っていました。それは、現実と、その現実を生み出し、支えておられる神が、必ずしも(神と、神が創造された世界の機能の仕方に対する)私たちの理解に従わないという事実の絶好の実例です。
*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。