この記事のテーマ
突然、ヨブ記38章の冒頭に主御自身が登場されたことによって、ヨブ記はその頂点に達しました。力強い、奇跡的な方法で神は御自分をヨブにあらわされ、そのことが結果的にヨブの告白と悔悛をもたらしたのです。次に神はヨブの3人の友人を、彼らの見当外れな言葉のゆえに非難され、ヨブは彼らのために祈りました。「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた」(ヨブ42:10)。そしてその後、ヨブは長く、充実した人生を送りました。
しかし、この物語とその終わり方には、何か落ち着かない、何か満足のいかないものがあります。神とサタンは天で議論し、この地上でヨブの人生と肉体を用いて闘争をしたのでしょうか。ヨブが、神とサタンとの対立のひどい結果をもろに受けなければならない一方で、主が天にとどまり、それをただ眺めておられるだけだったとしたら、公平にも正しくも思えません。
この物語には続きがあるに違いません。そして、確かにあります。それは何百年もあとにあって、イエスと十字架における彼の死の中にあらわされます。私たちはイエスの中にのみ、ヨブ記が十分に答えなかった疑問に対する驚くべき、そして慰めとなる答えを見いだします。
「わたしを贖う方は生きておられ(る)」
ヨブ記38章で神がヨブの前にあらわれたとき、神は御自分を、「豪雨に水路を引き/稲妻に道を備え/まだ人のいなかった大地に/無人であった荒れ野に雨を降らせ(た)」(ヨブ38:25、26)創造主として示されました。しかし、私たちの主はもう一つ別の重要な肩書き、役割も持っておられます。
ヨブ記19:25~27を読んでください。ヨブはこれらの有名な聖句によって、贖い主についての知識——人間は死ぬけれども墓の先に希望があり、その希望は、やがて地球に来られるはずの贖い主の中に見いだされるのだという知識——をいくらか持っていたことがわかります。
ヨブのこれらの言葉は、聖書の最も重要な真理であること、つまり神が私たちの贖い主であるということを指し示しています。確かに、神は私たちの創造主です。しかし、堕落した世、罪人が自分の罪のうちに永遠に死ぬ定めにあるこの世で、私たちが必要とするのは創造主だけではありません。私たちは贖い主をも必要としています。そして、まさにそれが私たちの神であられる方です。創造主にして贖い主(イザ48:13~17参照)、その二つの役割を持っておられる神に、私たちは永遠の命の大いなる望みを置いています。
問1
ヨハネ1:1~14を読んでください。この箇所で、ヨハネは創造主としてのイエスと贖い主としてのイエスを、どのように結びつけていますか。
創世記1:1の創造主としての神へのさりげない言及が、ヨハネ1:1には明らかです。もしそれで十分でないとしたら、次の言葉が、創造主としてのイエスと贖い主としてのイエスを分かちがたく結びつけています。「言は世にあった。世は言によって成った。……言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハ1:10~12)。イエスが私たちの贖い主になりえたのは、ひとえに彼が創造主でもあられたからです。
人の子
ヨブ記の最初の2章において、私たちはキリストとサタンの大争闘の現実を垣間見せられました。知ってのとおり、それは天で始まり、のちに地球にやって来た闘いです(黙12:7~12参照)。私たちはヨブ記の中に同じ主題を見ます。つまり、天における対立が地球にもたらされるという主題です。ヨブにとって不幸なことに、地上におけるその対立は、彼の上に集中しました。
ヨブ記10:4、5を読んでください。ヨブの主張は単純でした。「あなたは、神、宇宙の統治者、創造主です。そのあなたが、人間であること、私たちを苦しませる物事に苦しむことがどういうことかを理解できるだろうか〔いや、できるはずがない〕」ということです。
問2
次の聖句はヨブの不平にどう答えていますか(ルカ2:11、ヨハ1:14、ルカ19:10、マタ4:2、Iテモ2:5、ヘブ4:15)。
神は人間でないのだから人間の苦悩を理解できない、というヨブの不平は、イエスが人類の中にやって来られたことによって、十分かつ完全に答えられました。神性は失いませんでしたが、イエスは完全に人間でもあり、その人間性において、ヨブやすべての人間同様に、苦しみ、もがくことがどういうことなのかを知っておられました。実際、私たちは四福音書全体を通じて、キリストの人性の現実と彼が人生において体験された苦しみを目にします。イエスはヨブの不平にお答えになりました。
「キリストが御自分に取られたのは、見せかけの人性ではなかった。彼は人性を取り、人性を生きられた。……彼は単に肉体を取られたのではなく、罪深い肉体と同じ姿を取られたのである」(『SDA聖書注解』第5巻1124ページ、英文)。
キリストの死
問3
次の聖句は、イエスと、彼に対する私たちの見方について、どのようなことを教えていますか。
Iヨハネ2:6
ガラテヤ4:19
疑いもなく、イエスは模範的な人です。彼の人生、その品性は、彼に従う者たちが神の恵みによって見習うべき手本です。イエスは、神が私たちに求めておられるような人生を送るうえで私たちが持っている唯一完全な手本なのです。
しかし、イエスは単に手本を示すためだけにこの地球へおいでになったのではありません。罪人である私たちの状況は、品性の発達以上のものを必要としました。確かに、私たちの品性を改め、私たちをイエスに似せることは、贖い主としての彼の大切な働きです。しかし、私たちはそれ以上のものを必要としています。私たちは、私たちの罪の報いを受けるだれか、身代わりを必要としています。イエスは私たちの手本としての完全な人生を送るためだけにおいでになったのではありません。彼はまた、その完全な人生が私たち自身のものとして認められるよう、それにふさわしい死を遂げるためにもおいでになったのでした。
私たちにはキリストの死が必要であることについて、次の聖句は教えています(マコ8:31、ルカ9:22、24:7、ガラ2:21)。律法を守ることは、クリスチャン生活の柱ですが、罪に堕ちた者たちを救うことはできません。ですから、イエスは私たちのために死ぬ必要がありました。「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう」(ガラ3:21)。もし罪人を救いうる律法があるとすれば、それは神の律法でしょうが、その律法でさえ、私たちを救いえません。私たちの完全な手本であるイエスの完全な人生だけが、私たちを救いえたので、キリストは「罪のため(の)一つの永遠のいけにえ」(ヘブ10:12、口語訳参照)として御自分をささげるためにおいでになりました。
人の子の苦しみ
十字架における主の苦しみについて教えているイザヤ53:1~6を読んでください。イザヤ53:4は、イエスが私たちの病と痛みを担われた、と述べています。そこにはヨブの病と痛みも含まれていたはずです。イエスが十字架で死なれたのは、古今東西のあらゆる人間の罪のためでした。
それゆえ、十字架においてのみ、ヨブ記は正しく捉えることができます。そこにおられるのは、ヨブに御自分をあらわされた神——鷲に飛ぶことを教え、クォーク*を結合させられる神——と同じ神です。その神は、これまでいかなる人間も(ヨブさえもが)苦しんだことのないほど、苦しまれました。私たちが個人として知っている病や痛みを、この方は一つにまとめて担われました。従って、苦しみについて神に意見することのできる人はいません。なぜなら、神は人として、罪が地球上に広めたあらゆる苦しみを一身に背負われたからです。私たちが知っているのは自分自身の病と痛みだけですが、十字架において、イエスはそれらすべてを体験されました。
「天の法則を知り/その支配を地上に及ぼす者はお前か」(ヨブ38:33)とヨブにお尋ねになった神は、「天の法則」を作った方でありながら、地上で肉体を取り、「死をつかさどる者、つまり悪魔」(ヘブ2:14)を滅ぼすために、その肉体によって死なれたことを私たちが悟るとき、一層驚くべき神になります。
キリストの十字架を通して見るとき、(十字架なしで見るよりも)ヨブ記は一層納得がいきます。なぜなら十字架は、この書巻の中で答えられなかった多くの疑問に答えているからです。あらゆる疑問の中で最大の疑問は、ヨブが地上においてあのように苦しまざるをえなかったときに、神が天におられたのは公平かというものであり、それはサタンの非難に反論するためです。キリストの十字架は、ヨブやほかの人間がこの世においていかにひどく苦しんだとしても、私たちの主は、どんな人間が苦しんだよりもずっとひどく、自発的に苦しまれたことを示しています。それはすべて、私たちに救いの希望と約束を与えるためでした。
ヨブは神を創造主と見ていました。しかし十字架のあと、私たちは神を創造主にして贖い主、あるいは、贖い主になられた創造主(フィリ2:6~8参照)と見ます。そしてそのために、神は、ヨブを含むいかなる人間も苦しみえない形で罪の苦しみを受ける必要がありました。それゆえヨブのように、いえ、それ以上に、私たちはその光景を前にして、ただ叫ぶしかありません。「わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:6)。
*物質の基礎単位であると考えられている理論上の粒子。
正体をあばかれたサタン
問4
ヨハネ12:30~32を読んでください。十字架と大争闘との関係において、イエスはサタンについて何と言っておられますか。
エレン・G・ホワイトは十字架におけるイエスの死について語ったあと、天と見守っている宇宙にその死が及ぼした大きな影響に関して、次のように書いています。「神のご品性とその統治に対するサタンの偽りの攻撃は、その真相をさらけ出した。彼は、神が被造物に服従を要求されるのは、ただ神ご自身を高めるためにすぎないと非難し、創造主はすべての者に自己犠牲を強制しながらご自分は克己も犠牲もしておられないと主張してきた。
今や、堕落した罪深い人類の救いのために、宇宙の支配者であられる神が、その愛によってのみなし得られる最大の犠牲をお払いになったことが明らかになった。なぜなら『神はキリストにおいて世をご自分に和解させ』られたからである(IIコリント5:19)。また、ルシファーは栄誉と主権とを望んだために罪の門戸を開いたが、一方キリストは罪を滅ぼすために身をいやしくして死に至るまで従順であられたことが明らかになった」(『希望への光』1841ページ、『各時代の大争闘』下巻240ページ)。
IIコリント5:19を読んでください。キリストの死は、堕落したこの世を神と和解させました。この世は罪に堕ち、神に反逆していました。例えば、ヨブ記にはっきり見られるように、この世はサタンの陰謀にさらされていました。しかしイエスは、神性を失うことなく人性を取ることで、天と地の間に断ちがたい絆を結び、御自分の死によって、罪とサタンの最終的な滅びを保証なさいました。イエスは十字架において罪に対する法的罰を受け、そうすることで堕落したこの世を神と和解させられました。私たちは死を運命づけられた罪人ですが、信仰によって、イエスにおける永遠の命の約束を手に入れることができます。
さらなる研究
「イエスは続けて言われた。『「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』。イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである」(ヨハネ12:31~33)。いまは世界の危機である。もしわたしが人類の罪のためにあがないの供え物となれば、世は明るくなるであろう。人の魂をとらえているサタンの束縛はたちきられるであろう。けがされた神のみかたちは人性のうちに回復され、信じる聖徒たちの家族はついには天国を嗣ぐであろう。
これがキリストの死の結果である。救い主は、目の前に浮かぶ勝利の光景について瞑想にふけられる。主は十字架が、それも残酷で不名誉な十字架が、あらゆる恐怖を伴っているにもかかわらず、栄光に輝いているのをごらんになる。
しかし人類のあがないの働きが十字架によってなしとげられる全部ではない。神の愛が宇宙にあらわされる。この世の君が追い出される。サタンが神に向けた非難が反ばくされる。サタンが天に投げかけた非難は永遠に除かれる。人類はもちろん天使たちもあがない主に引きよせられる」(『希望への光』1002ページ、『各時代の希望』下巻88ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。