ヨブの品性【ヨブ記】#13

目次

この記事のテーマ

私たちはヨブ記における主要な問題にすべて触れましたが、もう一つの重要な主題を忘れてはなりません。それは、ヨブという人そのものです。主がこれほど信頼し、彼の忠実さと誠実さを巡って悪魔に挑まれたこの人は、一体何者なのでしょうか。自分の身に起こっていたことの理由を理解できず、それが不当だとわかっており、それに対する怒りといら立ちをあらわしたものの最後まで忠実であり続けたこの人は、一体何者だったのでしょうか。

ヨブ記の大半は、災難が襲ったあとのヨブを扱っていますが、物語の中から、それ以前のヨブの人生に関する情報を得ることができます。私たちはヨブの過去と彼のような人間について知ることによって、なぜヨブがひどい苦しみの中でも、つまりサタンが彼を神から引き離そうとして行ったあらゆることの中でも主に忠実であり続けたのかを、より深く理解できます。

ヨブはどのような人だったのでしょうか。私たちは自分の人生を生きるうえで、彼の生き方から、私たちを一層忠実な主の弟子とするのに役立つどのようなことを学べるでしょうか。

ウツ出身の人

ヨブ記1:1、1:8を読んでください。これらの聖句は、ヨブの品性について述べています。ヨブは対話の間ずっと、このような災いが彼を襲うからには、彼が何か悪いことをしたに違いない、と言われ続けていましたが、正反対のようです。彼がサタンの特別な標的になったのは、彼の善良さ、忠実さのゆえでした。

彼はいかに善良であり、いかに忠実だったのでしょうか。第一に聖書は、彼が「無垢」であったと述べています。この言葉は、必ずしもイエスのように「罪がない」という意味ではありません。そうではなく、この言葉に伴う概念は、相対的な意味での完全、高潔、誠実などです。神の目に「無垢」な人とは、その時々において天がその人に期待する成長の度合いに達している人のことです。「無垢」に相当するヘブライ語の「タム」は、「ギリシア語の『テレイオス』に相当し、しばしば〔新約聖書において〕『完全な』と訳されているが、『十分に成長した』とか『成熟している』と訳されるほうがより良い」(『SDA聖書注解』第3巻499ページ、英文)。

第二に聖書は、彼が「正し」かったと述べています。この言葉は、「真っ直ぐ」「一貫した」「公正な」などを意味します。ヨブは、「善良な市民」と呼ばれうるような生き方をしていました。

第三に聖書は、彼が「神を畏れ」ていたと述べています。旧約聖書は、「神を畏れる」という概念を忠実なイスラエル人であることの特徴の一つとして用いていますが、この同じ語句は新約聖書において、イスラエルの神に忠実に仕える異邦人に対しても用いられています(使徒10:2、22参照)。

最後に、ヨブは悪を「避けてい(まし)た」。ヨブのこの特性は、主御自身によってお墨付きを与えられています。主がサタンに、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ1:8)と言われたからです。

結局のところ、ヨブは彼の生きざまによって信仰を明らかにした神の人でした。人がキリストにおいてどのようになりえるかについて、彼は「天使にも人にも」(Iコリ4:9)誠実にあかしをしました。

「乳脂はそれで足を洗えるほど豊か」

ヨブは彼の身に降りかかった災難を受け入れようともがいていたとき、彼の過去について、それがいかにすばらしいものであったか、彼がどのように生きていたのかを考えました。ヨブはかつての日々を語るために、「乳脂はそれで足を洗えるほど豊か」(ヨブ29:6)だった、とここでは言っています。

例えば、彼はヨブ記29:2で、「神に守られていたあの日々」について語っています。「守る」に相当するヘブライ語は、御自分の民に対する神の見守りについて語る際に旧約聖書の至る所で用いられている一般的な言葉に由来します(詩編91:11、民6:24参照)。疑いもなく、ヨブは良い暮らしをしていました。また、彼が良い暮らしを送っていたことを自覚していた点も重要です。

問1

ヨブ記29:8~17を読んでください。これらの聖句は、ほかの人々がヨブをどう見ていたのか、ヨブが苦しんでいる人たちをどう扱っていたのかということについて、何を教えていますか。

ヨブがどれほど尊敬されていたかが、ここでわかります。「広場で座に着(く)」(ヨブ29:7)という語句は、明らかにヨブが一翼を担っていた地方行政のようなものを思わせます。そのような座は、社会の中で尊敬されている年配者に通常与えられるもので、彼らの中でもヨブは高く評価されていました。

しかし、社会の「最も身分が低い」者たちでさえ、ヨブを愛し、尊敬していました。貧しい人々、死にゆく人たち、目の見えない人、やもめ、身寄りのない子ら、歩けない人——ヨブのように祝福されていなかった人たちは、まさに彼が助けと慰めを与えた人たちでした。

「神はみ言葉を通して、ひとりのりっぱな人間、すなわち真の意味において成功の人生をおくり、天地の尊敬をうけたひとりの人間〔ヨブ〕をえがいておられる」(『教育』156ページ)。

先の聖句や(あとで見る)ほかの聖句は、人間の目にも、神の目にも、なぜヨブがあらゆる面で非常に成功した人物であったのかを明らかにしています。

心と目

ヨブ記31:1~23を一読した限りでは、あたかもヨブが自慢しているかのように、彼の聖さ、美徳、善行をほかの人に見せびらかしているかのように思えます。言うまでもなく、このような態度は、まさに聖書が非難する類の態度です(マタ23章参照)。しかし、ここでヨブが言っているのは、そのようなことではありません。もう一度、状況を思い出すことが重要です。ヨブは、彼の過去の人生が、つまり極めて不道徳だったと思われる人生が苦しみの原因だ、と言われていました。一方でヨブは、それが事実であるはずはなく、彼の身に降りかかったことに値するようなことを自分はしてこなかった、とわかっていました。それゆえに彼は、彼が送ってきた人生や彼がどういう人間であるかを詳しく話すために、この機会を用いています。

ヨブ記31:1~23を読んでください。災難に遭う前の生き方について、ヨブが彼の外面的な行動にだけ言及しているのではないことに、注目してください。「目の向くままに心が動いた」(ヨブ31:7)という聖句は、彼が聖さというものの深い意味を、つまり善悪や神の律法といったものの深い意味を理解していたことを示しています。どうやらヨブは、神が私たちの行動だけでなく、私たちの心や思いに注意を払っておられることを知っていたようです(サム上16:7、出20:17、マタ5:28参照)。ヨブは、女性と不倫することはもちろん、女性に劣情を抱くことも間違っていると知っていました(これは、神がイスラエルの民を召し、御自分の契約の民、御自分の証人となさる以前に、真の神の知識が存在していたという事実の、なんと説得力のある証拠でしょうか!)。

ヨブ記31:13~15において、ヨブが言っていることを読んでください。ヨブはすべての人間の基本的平等性について、とりわけ当時としては(実際には、いつの時代であれ)驚くべき理解を示しています。古代世界では、普遍的権利や普遍的法則が理解されたり、守られたりしていませんでした。人間集団は、自分たちのことをほかの集団よりも偉大で、優れていると考え、ときには、ほかの人たちの基本的尊厳や権利を認めないことを何とも思いませんでした。しかし、ここでヨブは、彼がどれほど人権を理解しているか、またそれらの権利が私たちを造られた神に根差していることを明らかにしています。ある意味で、ヨブは当時だけでなく、私たちよりも進んでいました。

岩の上の家

ヨブ記31:24~34を読んでください。ヨブは、自分の信仰をしっかり生きた人、その働きによって彼と神との関係の現実を明らかにしていた人でした。言うまでもなく、このことが、「なぜこんなことが私に起こっているのか」という彼の不平を一層苦いものにしました。そしてもちろん、このことが彼の友人たちの議論を空しく、無価値なものにしました。

しかし、ヨブの忠実で従順な生き方から私たちが学ぶことのできるもっと深く、重要なメッセージがあります。過去における彼の人生が、のちに彼を襲った悲劇に対する応じ方と深く密接につながっていることに注目してください。ヨブが「神を呪って、死ぬ」(ヨブ2:9)ことを拒んだのは、偶然でも、幸運でも、強い意志の力によってでもありませんでした。そうではなく、神に忠実であり、従順であった歳月が、このようなことが起きても主を信頼する信仰と品性を彼に与えたからでした。

問2

マタイ7:22~27を読んでください。ヨブが忠実であり続けた理由を明らかにしているこれらの聖句の中に、どんなことを見いだせますか。

ヨブの大きな勝利の鍵は、彼がそれまでに積み上げてきた「小さな」勝利の中に見いだされます(ルカ16:10も参照)。ヨブをヨブたらしめていたのは、妥協することなく、正しさにこだわることでした。私たちがヨブ記の中に見るのは、ヤコブの手紙が信仰生活における行いの役割について述べていることの実例です。「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう」(ヤコ2:22)。この聖句には、クリスチャン生活の重要な原則の一つがどのようなものであるかが、明らかにされています。私たちはヨブの物語の中に、この原則が力強い形で実行されているのを目にします。ヨブは私たちと同様に肉と骨でできていましたが、彼の熱心な努力と神の恵みによって、神に忠実に従う人生を送ったのでした。

神の多種多様な知恵

ヨブ記の初めのほうで、登場人物たちが入れ替わり立ち替わりする中、テマン人エリファズはヨブに、「あなたが正しいからといって全能者が喜び/完全な道を歩むからといって/神の利益になるだろうか」(ヨブ22:3)と言いました。私たちは天の舞台裏で起きていたことを知っているので、それは非常に皮肉な質問です。確かに、ヨブが正しいことは神にとって喜びであり、ヨブが完全に生きることは神の利益でした。そして、これはヨブだけに当てはまることではなく、主の弟子と主張する人たちすべてについても同様です。

マタイ5:16を読んでください。ヨブ記における重要な問題は、「ヨブは忠実であり続けるだろうか」というものでした。サタンは「否」と言い、神は「しかり」と言われました。そしてヨブが忠実であり続けたことは、少なくともサタンとのこの戦いにおいて、間違いなく神を有利な立場にしました。

しかしこの物語は、より大きな問題の一つの縮図にすぎません。第一天使のメッセージは、一つには、「その〔神の〕栄光をたたえなさい」(黙14:7)と私たちに告げており、マタイ5:16においてイエスは、私たちが立派な行いによって神に栄光を帰すことができる、と説明なさいました。これがヨブのしたことであり、これが私たちにもできることです。

問3

エフェソ3:10を読んでください。ここにあらわされている原則は、より小さな規模ではあるものの、ヨブ記の中でいかに明らかにされましたか。

この聖句やヨブ記の中には、神が、御自分に従う者たちの人生の中で働いておられるという事実が表現されています。神がそうなさるのは、御自分の栄光のために、彼らを御自分のかたちに変えるためです。「神のみかたちが人間のうちに再現されるのである。神の栄え、キリストの栄光は、神の民の品性の完成に含まれている」(『希望への光』1029ページ、『各時代の希望』下巻157ページ)。ヨブは何千年も前に生きた人ですが、彼の人生は、いかに人間がこの原則を明らかにしうるかということの一つの手本でした。あらゆる時代の神の民は、同様の人生を送る特権に恵まれています。

さらなる研究

プロテスタントの宗教改革は、信仰のみによる救いという偉大な真理を取り戻しました。この真理は、聖書の中で、エデンにおいて初めて知らされ(創3:15参照)、次にアブラハムの人生の中でもっとはっきり表現されています(同15:6、ロマ4:3参照)。そしてその後、パウロを通して聖書の中に明らかにされました。しかし、信仰のみによる救いという真理は、信じる者たちの人生における聖霊の働きを救いの手段としてではなく、救いのあらわれとして常に含んでいました。私たちはヨブの人生と品性の中に、この働きがどのようなものであるかの貴重な実例を見ます。神学者たちはこの働きを「聖化」——基本的には「聖」を意味する——と呼びます。それは聖書の中でとても重要なので、私たちは、「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブ12:14)と言われています。聖化の基本的な意味は、「聖なる用途のために取り分けられる」ということです。それは、例えば、主が御自分の契約の民に、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19:2)と言われたときに見られる概念です。

この概念は、旧新両約聖書の中にさまざまな形であらわれていますが、それは、神が私たちの中になさることと関係しています。それは善良さにおける、あるいは善良さに向かっての道徳的成長と見うけられます。聖化とは、「人間の意志と聖霊の力が協力して、起こる道徳的変化の漸進的な過程のことである」(『SDA神学ハンドブック』296ページ、英文)。この働きは、神だけが私たちの中に成し遂げることのおできになるもので、私たちが義認を強制されないように、聖化も強制されません。私たちが自分を主にささげると、信仰によって義とされる同じ主が、私たちを聖めてくださいます。そして、ヨブになさったように、地上において可能な限り、私たちを神のかたちに変えられます。パウロは、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラ4:19)と書きました。エレン・G・ホワイトは記しています。「キリストは私たちの見本、見習うために私たちに与えられた完全で聖なる模範である。私たちはこの見本と同じにはなれないが、私たちの能力に従って、それをまね、似ることはできる」(『キリストを知るために』265ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次