中心思想
終末時代の最終的な諸事件に直面する私たちにとって、神の真実が重要な真理であるのはなぜでしょうか。
アウトライン
- やもめの状態(哀l章)
- 見捨てられた不信仰者たち(哀2章)
- 悔い改める者に対する神の不変の愛(哀3章)
- 苦難の後の救い(哀4章)
- 神への全的信頼(哀5章)
『哀歌』序言
哀歌は紀元前586年におけるエルサレムと神殿の包囲攻撃およびその破壊について語っているので、それはこれらの出来事のすぐ後に書かれたものと考えられています。ヘブル語本文にはエレミヤが著者であるとは書かれていませんが、伝統的に、ユダヤ人とクリスチャンはエレミヤがその著者であると信じています(『国と指導者』下巻77~79ページ参照)。
哀歌の各章はヘブル語の特殊な文学的手法を用いて、その内容を読者に伝えようとしています。各章は22節(部)からなる一つの完全な詩を形成しています。最初の4章は一種の沓冠(くつかむり)体になっていて、各節はヘブル語アルファベットで始まっています。第3章は22部の中に66節をもって書かれています。各部は3行連句を含んでいて、各節が同じヘブル語アルファベット(AAA、BBB、CCC、…)で始まっています。このように、エルサレムの滅亡を感覚に訴えるように嘆くことによって、エレミヤは生き残った者たちの心を神への信頼に導こうとしたのです。哀歌は、終末の諸事件に直面する私たちに対して神との交わりを大切にするように教えています。
やもめの状態(哀1章)
哀歌の最初の4章はヘブル詩の悲歌(挽歌、哀悼歌)として書かれた別々の詩です。最後の章は祈りです。これらの詩はユダの滅亡とエルサレムおよび神殿の荒廃を悲しむ国民の嘆きを表しています。「しかし、それらのメッセージには希望がないわけではない。荒廃の光景を貫いて、主がゆるし、ご自分の民の苦しみを和らげてくださるという一条の期待が流れている」(『SDA聖書注解』第4巻544ページ)。
質問1
エルサレムとユダはどんなたとえによって描写されていますか。だれがその愛人また友人でしたか。哀1:1~7
やもめになることは女性にとって厳しい運命です。聖書の時代においては特にそうでした。たいていのやもめは貧しかったので、生活するのが大変でした。エルサレムはやもめにたとえられています。エルサレムの貧しさを強調するためではなく、その荒廃と征服された民のみじめさ、またかつては親友であった国々による拒絶を強調するためでした。
エレミヤの第1の挽歌には次のことがらが強調されています。
哀1:8、9……エルサレムがやもめになった真の理由。
哀l:10、11……国民の宗教生活の中心とその経済的繁栄の消滅。
哀1:12~20……ユダの罪がその苦しみの原因。
哀1:21、22……ユダの敵がその残虐さのゆえに罰せられるように祈るエレミヤ。
エルサレム減亡後のユダの経験は、恩恵期間終了後の神の民の経験を予示していました。イスラエルの生存者たちがそうであったように、信者は二つのグループに分けられます。(1)印を押された、神に忠実な者たち(黙示7:1~3、14:l~5)。(2)獣の刻印を受けた者たち(黙示13:16、17~9:4比較)。神はパレスチナや捕囚の地におけるご自分の残りの者たちを守られましたが、同じように終わりの時代の印を押されたご自分の民も守り、支えてくださいます。たとえ地上の人間の助けを失ったとしても、神の民は霊的、肉体的な敵から自分たちを守ってくださる主に信頼します。
見捨てられた不信仰者たち(哀2章)
質問2
第2の挽歌の中で、だれがユダを攻撃したと言われていますか。哀2:1~9
第1の詩は悲しみの中にあるやもめのようにユダの荒廃について語っていますが、第2の詩はユダのとりでを攻撃する敵意に満ちた戦士としての神を描写しています。「主は敵のようになって、イスラエルを滅ぼし」(哀2:5)。主はイスラエルの民、つかさたち、軍勢をことごとく滅ぼされました(2~4節)。主はその神殿を見捨て、荒廃させられたので、その儀式と礼典は止みました(6、7節)。主はまたエルサレムの城壁を破壊されました(8、9節)。
これはよく誤解されるヘブルの思想の好例です。神はいつでも最終的な権威とみなされているために、実際にはただ干渉するのをやめるだけなのに、何かをするようにみなされることがあります。ユダは主との契約を破りました。それゆえ、主はその祝福と保護を取り下げられたのです。
エレミヤの嘆きは続きます。
哀2:10~13……長老、おとめ、乳のみ子を持つ母たちが飢えて死にます。
哀2:14~22……民がにせ預言者たちの教えと預言を信じたので、「主はその計画されたことを行」われました(7節)。国家的な背信は国家的な滅びにつながります。
今日、神の愛と律法を拒否する者たちもユダの受けたのと同じさばきを受けることに留意する必要があります(黙示15:5~8、16:l~2I)。
「その時サタンは、地の住民を大いなる最後の悩みに投げ入れる。神の天使たちが人間の激情の激しい風を迎えるのをやめると、争いの諸要素がことごとく解き放たれる。全世界は、昔のエルサレムを襲ったもの〔紀元70年〕よりもっと恐ろしい破滅に巻き込まれる」(『各時代の大争闘』下巻386ページ)。
「なんの準備もせずに、最後の恐るべき争闘に当面するこれらの自称キリスト者たちは、絶望して、激しい苦悶の叫びをあげて彼らの罪を告白する。そして悪人たちは、彼らの苦悩をながめて勝ち誇るのである。このような告白は、エサウやユダの告白と同じ性質のものである。これをなすものは、罪そのものではなくて、罪の結果を悲しむのである」(『各時代の大争闘』下巻394ページ)。
悔い改める者に対する神の不変の愛(哀3章)
第3の挽歌の中で、エレミヤは自分自身をユダになぞらえています。彼の民の苦しみは彼自身の苦しみです(哀3:I~20)。神は正しく、その罪深い民は矯正される必要がありますが、この詩はただ神のあわれみと救いだけを強調しています。
質問3
神の不変性が罪人の希望の基礎であるのはなぜですか。哀3:21~24(ヤコ1:17比較)
創造主は決して気まぐれなお方ではありません。さもないと、人間は道徳的混乱に陥ってしまいます。放とう息子が家に帰る決心をしたのは、自分に対する父親の愛が決して変わらないことを知っていたからです(ルカ15:11~32)。ユダとすべての悔い改めた罪人の望みは、神がその原則に忠実であるという根本的な真理のうちにあります。たとえ人間の罪と不義の荒波が神に打ち寄せようとも、神に信頼する者たちに対する神のあわれみは決して浸食されることがありません。
質問4
ユダを長期にわたってバビロンのくびきのもとに置かれた神の目的は何でしたか。哀3:25~30
「神のみことばを受けいれる者には、困難や試練がないというわけではない。しかし、苦難に臨んでも、真のクリスチャンは、動揺したり、疑惑をいだいたり、失望したりはしないのである。たとえ、事態がどのように発展するかをはっきりと見ることができず、神の摂理の目的を悟ることができないとしても、確信を投げすててはならない。そのようなときには、主の情深いあわれみを思い起こして、わたしたちの思いわずらいを主にゆだね、忍耐して、主の救いを待たなければならない。
戦いを経ることによって、霊的命は強められるのである。試練に耐えることによって、品性は堅固になり、霊の結ぶ美しい徳が養われる。信仰、柔和、愛といった美しい完全な実は、暴風と暗黒の中で最もよく成熟するものなのである」(『キリストの実物教訓』38、39ページ)。
質問5
エレミヤは苦しみの中にある捕囚民にどんな励ましに満ちた約束を与えていますか(哀3:31~33)。苦しみの中にあっても(45~54節)どうするように勧めていますか(40~44節)。主はご自分の民の敵にどのように報いられますか。哀3:55~66
苦難の後の救い(哀4章)
エレミヤの第4の詩に強調されていることがらに注意してみましょう。
哀4:1~12……飢え、人食い、エルサレムの最終的な滅亡。哀4:13~16……偽りの宗教指導者たちに対する報い。
哀4:17~20……外からのすべての助けが断たれます。
哀4:21、22……神の民の悔い改めない敵は罰せられるが、悔い改める者たちは捕囚から解放されます。
ユダは敵の前で辱められました(哀4:1~12)。彼らはかつて自分たちを神の聖なる民、また周囲の異教徒のような卑金属とは異なり、神の品性を反映する純金、宝石とみなしていました。しかし、彼らは背信によって神の品性を汚しました。敵は彼らの偽りを見抜き、彼らが価値のない粘土のつぼにすぎないことを知りました。中にはダニエル、エゼキエル、また彼らの仲間のように光を輝かし、異教徒にまことの神をあかしした者たちもいましたが、大多数の者たちの経験はカルデヤ帝国の道徳的暗黒の中にかすんでしまいました。
質問6
主は終末時代のご自分の民を世の最大の患難の中からどのようにして救出しようと計画しておられますか。ダニ12:1~3、マタ24:15~22、黙示18:4、19:7、8
大いなる悩みの時における保護
「神の民は苦難を免れるわけではない。彼らは迫害と苦しみに会い、窮乏に耐え、食物の不足に苦しむのであるが、滅びるままにほうっておかれたりはしない。エリヤを養われた神は、ご自分の献身的な子供たちをひとりも見捨てられない。彼らの頭の毛までも数えられるおかたが、彼らを保護し、ききんの時にあって満ち足らせられる。悪人たちが飢えと疫病のために死んでいくときに、天使は義人を守り、その必要を満たすのである。もし人々の目が開かれて、天の幻を見ることができたならば、カ強い天使の一団が、キリストの忍耐の言葉を守る者たちの回りに駐屯しているのを見るであろう。天使たちは、優しい同情の念をもって、彼らの苦悩を見つめ、彼らの祈りを聞くのである」(『各時代の大争闘』下巻404~406ページ)。
神への全的信頼(哀5章)
質問7
ユダヤ人の苦しみはエルサレムの陥落をもって終わったわけではありません。バビロンによる征服後、彼らはどんな事態に直面しましたか。哀5:1~18
質問8
エレミヤは自分の民のためのどんな熱心な祈りをもって第5の挽歌を結んでいますか。哀5:1、19~21
神は永遠であり(哀5:19)、その品性の基礎である義の原則も永遠です。あらゆる人間による虐待の象徴であるバビロンは倒れます。あらゆる悪の背後にあるサタンを初め、神に敵対する勢力もすべてそうなります。永遠の神は善と悪の大争闘に決着をつけられます。
神はご自分の民を見捨てられません。背信したユダの回心を求めるエレミヤの祈りは神に向けられています。神の恵みは人の心を変えることができます(エゼ36:26~28参照)。
「神だけがさまよう者をご自身のもとに帰すことがおできになる。ご自分の律法の権威によって、その福音の改変力によって、その聖霊の優しい影響力によって、神だけが心を改造し、歩みを変え、そして過ちを犯しはしたが、今は心から神の恵みとゆるしを求めている者たちの過去を新たにすることがおできになる」(J.R.トンプソン「さまざまな著者による説教」『プルピット・コメンタリー』第26巻89ページ)。
質問9
終わりの時代の人類がまもなく直面する大いなる悩みの時に備えるためにはどうしたらよいでしょうか。黙示3:2、5、11、12、18~2
「もしヤコブが、欺購によって長子の特権を得た罪をあらかじめ悔い改めていなかったならば、神は、彼の祈りを聞き、あわれみ深く彼の生命を保つことを、なさらなかったであろう。そのように、悩みの時においても、神の民は、恐怖と苦悩にさいなまれているとき、まだ告白していない罪を思い出すならば、彼らは圧倒されてしまうことであろう。絶望が彼らの信仰を断ち切り、彼らは神に救いを求める確信が持てなくなることであろう。……言いわけをしたり、隠したりして、それを告白せず、許されないまま、天の書に残しておく者は、みなサタンに負けてしまうのである」(『各時代の大争闘』下巻393、394ページ)。
まとめ
預言者アモス(前767~753)やミカ(前740~700)が早くから預言していた通り、エルサレムとユダはついに滅亡しました
(前586)。カルデヤ人の強力な軍隊はすべてのものを破壊し尽くしました。哀歌は多くのユダヤ人の心からの悲しみと悔い改めを表現しています。同じように、終末の大いなる悩みの時においても、心から悔い改めた信者は悔い改めない者たちを襲う災害を生きのびることができます。なぜでしょうか。主は彼らの受くべき分であり、彼らは主を待ち望むからです(哀3:24、25参照)。
*本記事は、安息日学校ガイド1994年2期『エレミヤ書、哀歌 神の計画と私たちの役割』からの抜粋です。