今日の聖句はこちら
2:1ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、 2:2言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。2:3あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。2:4わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。2:5水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。2:6わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。2:7わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。2:8むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。2:9しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。2:10主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。ヨナ2:1-10(口語訳)
死から救われたヨナ
2:1ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、 2:2言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。ヨナ2:1-2(口語訳)
ここでヨナは詩編120編1節を引用して神に祈りました。苦難のときにすぐに聖句が口をついて出てくることから、ヨナが敬虔な信仰者として日頃過ごしていたとわかります。
ヨナの祈りの中で「悩みのうち」と「陰府の腹の中」が関連して表現されていますが、「陰府」は原語のヘブライ語でシェオルといい、シェオルは墓場を指す表現なのです。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。詩編(詩篇)30:3(口語訳)
ダビデがいやされたことを神に感謝したとき、彼は詩編30編3節で魂が陰府から引き上げられたとし、「陰府からひきあげ」を別の言い方で「墓からよみがえった」と表現しています。
同じようにヨナも「悩みのうち」にいるのは「墓の中にいる」ようなものであると表現し、神に祈ります。
「陰府の腹の中」という表現からヨナが魚に飲み込まれたことを苦しみとして祈っているようにも見えますが、それだけでなく、むしろその前の1章で見られた悩みもここで神に吐露しているのかもしれません。
ヨナは神から離れ、うつ状態になり、もう死んでもよいと思っていました(ヨナ1:5)。そのようなヨナを神は見捨てられず、魚を備えて救われたのです。
そのときにヨナはダビデと同じように死から救われたことを感じて、神と向き合っていきます。
魚だと思ったのかもしれないし、魚だと感じなかったのかもしれません。いずれにせよ、時間が経つにつれて、死なないことが明らかになりました。どれだけ居心地が悪くても、自分は安全だと感じていったのです。彼が魚の中から感謝して祈ることができたのは、少なくとも、そこでの状況がまったく苦痛やパニックを感じさせないものであったことを暗示しています[1]。
神との関係の回復を求めるヨナ
2:3あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。2:4わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。ヨナ2:3-4(口語訳)
神の導きによって、海に投げ込まれことをヨナは認めています。神から離れてもなお、神が導かれ、自分を救ってくださったことを魚の中で彼は知るのです。
「わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか」というこのヨナの祈りはいくつかの訳の可能性があります。
新改訳2017では次のように訳されています。「私は御目の前から追われました。ただ、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」。
70人訳聖書ではこれを次のような質問の形にしています。「私はあなたの聖なる神殿をふたたび見ることができるでしょうか?」ヘブライ語では母音を変えることで同じ読みになり、文脈からすると、この時点ではまだ希望が確立されていなかったので、質問の方が望ましいと思われます[2]。
ヨナは神との関係の回復を求めて、聖なる神殿をふたたび見たいと望むのです。
下って下って下っていったヨナをひきあげられる神
2:5水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。2:6わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。ヨナ2:5-6(口語訳)
ヨナはまず「ヨッパへと下り」ます(ヨナ1:3)。その後、彼は「船の奥に下り」(ヨナ1:5)、最後には「地に下る」のです。ヨナは霊的にも肉体的にも、下へ下へと下っていました。
さらには、命さえもおびやかされる状況に飲まれていくのです。そのことが「水がわたしをめぐって魂にまでおよび」という表現に出てきます。ここに出てくる魂は命のことで、ヨナは文字通り命の危険にさらされたのでした(詩篇69:1, 2参照)。
そのようなヨナを神は引き上げられます。
わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。ヨナ2:7
「主をおぼえ」は新共同訳では「主の御名を唱えた」と訳されています。ヨナは命が弱ったときに主の御名を唱えたのです。霊的に弱り、肉体的におぼれて弱っていったときに、彼は御名を唱えるのです。
そして、その祈りは聖なる宮に達しました。
ヨナは祈りの中で「聖なる宮を見ることができるだろうか?」という思いから「わたしの祈りは聖なる宮に達した」という確信へと変えられていくのです。それは霊的に肉体的に弱りきっていたけれども、主の御名を唱えて神にすがりついたときに、神が救われたことを思い出したからでした。確信を得たヨナは神との関係を回復させ、もう一度立ち上がります。
2:8むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。2:9しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。ヨナ2:8,9
「誓いをはたす」と宣言していることから、ヨナと神との関係が回復しているとわかります。また、ヨナは偶像に心を寄せる者と真の神である主に心を寄せる者とを対比させていますが、船の上にいた人々が自らの神を捨てていく姿を、思い起こしていたのかもしれません。
偶像を崇拝する人々は、困難な時に自分たちがいかに無力であるかを悟り、その結果、自分たちの神々に忠誠も愛も示さなくなるというのがヨナの考えです。しかし一方、主を礼拝する者は、主が常に信頼に足る方であることを知るのです。そのため、この詩を次のように訳すのが一番良いのではないかと思います。「価値のない偶像にしがみつく者は、偶像への忠誠を捨てるだろう」[3]。
まとめ―適用―
人々が大切にしている財産や偶像、生きるために必要なシステムや設備を嵐の中で必死に捨てている光景をヨナは見ます。それらでは嵐を乗り切ることは決してできないばかりか、むしろ邪魔なものになっていたのです。
その姿にヨナは自分を重ねたのかもしれません。タルシシへいき、良心の呵責をおさえようとしていた自分に。
神のみ前から逃げても待っていたのは虚しさと苦しみだけでした。そのようななか、彼は死をも覚悟しますが、その苦しみの中から神はヨナを引き上げられるのです。
祈ることもできないような状態になっていたヨナがおぼれていくなか、思わずすがったそのか細い祈りを神は聞き逃されませんでした。そのことを思い返したとき、ヨナの中で「聖なる宮を見ることができるだろうか?」という思いから「わたしの祈りは聖なる宮に達した」という確信へと変えられていくのです。
そして、ヨナは言います。「救いは主にある」。
イエスとの交わりに最も気がすすまない時こそ、最も多く祈りなさい。そうすることによってサタンのわなを打ち砕くことができ、黒雲も消えてなくなることでしょう。そしてそこにイエスが御臨在くださっていることに気づくでしょう[4]。
[1]Stuart, D. (1987). Hosea–Jonah (Vol. 31, p. 475). Dallas: Word, Incorporated.
[2]Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 4, p. 1003). Review and Herald Publishing Association.
[3]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, p. 129). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.
[4]エレン・ホワイト『祈り』福音社、421頁