神の言葉と神ご自身を信じる【ヨナ書ー悔い改めの預言者】#6

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3:1時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、 3:2「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。 3:3そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。 3:4ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。 3:5そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。3:6このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。 3:7また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。 3:8人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。 3:9あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。3:10神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。ヨナ3:1-10(口語訳)

目次

使命を与えられるヨナ

3:1時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、 3:2「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。ヨナ3:1-2(口語訳)

1節2節でもう一度、使命がヨナに与えられている場面が出てきており、この召命の場面はヨナ書1章1節2節の繰り返しとなっています。

「主の言葉が……臨んで言った」(ヨナ1:1)とあるように、常に神の召命は「言葉」に根ざしています。それは「主の言葉」と「主」が密接な関係にあるからに他なりません。

神は言葉によって世界を創造され、ヨハネはキリストを「言」と表現し (ヨハネ1章参照)、タルグムは旧約聖書の中に出てくる主なる神を「言」と表現しているのです(創世記3:8)。

「タルグム」は旧約聖書(の一部)をアラム語に訳したもので、ユダヤ教の会堂において大きな影響力を持ちます。それによれば、「主の言葉」は主御自身と密接な関係に置かれています。聖書には、「神は……人を創造された」とあります(創1:27)。タルグムはこれを、「主の言葉は人を創造された」と訳しています。聖書には、「主は……地上に人を造ったことを後悔し」とあります(創6:5、6)。タルグムはこれを、「主は御自分の言葉によって人を造ったことを後悔し」と訳しています[1]

預言者たちはその召命を受けたときに「言葉を伝える」ことを念頭に召しに応じました(出エジプト4:10、エレミヤ1:6、イザヤ6:5)。神の働きは言葉を重要視しているのです。

ニネベでのリバイバルの要因

もしヨナがニネベに文字通りのメッセージを伝えたとすれば、おそらく古代近東で貿易や外交によく使われたアラム語を話したことでしょう。イザヤ書36章11節によると、紀元前8世紀後半、イスラエルとユダの教養あるエリートはアラム語を話すことができたとされています[2]

神の力によってニネベにおけるリバイバルが引き起こされたことは紛れもない事実ですが、それだけでなく、ヨナの能力が非常に高かったこともこの描写からうかがえます。

また、この結果はニネベの当時置かれていた状況というのも影響しています。敵が南進し、ニネベに危機が迫っており、ニネベの滅亡もイメージがしやすい状況下にありました[3]

加えて、ヨナが魚の中から出てきた預言者であったのも、彼らが受け入れやすかった理由の一つかもしれません。

ニネベの人々が、時々、海から上がってきた魚と人間の姿をした人物によってメッセージを送る神を信じていたことは明らかでしょう。そうであれば、魚の中にいるヨナの奇跡と、魚に放り出されたヨナがアッシリアの首都で説教者として素晴らしい成功を収めたことには、明白な合理性、あるいは論理的一貫性があるのではないでしょうか?[4]

悔い改めるニネベの人々

3:5そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。3:6このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。ヨナ3:5,6(口語訳)

荒布を着ることは、この世の快適さと快楽の拒否と罪に対する悲しみや恐ろしさを象徴しており[5]、灰をかぶることは焼き尽くす火と罪の最終的な消滅を表しています[6]

ニネベは「生きめぐるには、3日を要するほど」非常に大きな町であったと記録されていますが(ヨナ3:3)、この大きさに匹敵するのが東京23区です。

また、聖書の神の世界観とニネベの人々の宗教観がまったく異なっている点など、日本の宣教状況とかぶるような思いになるのではないでしょうか。クリスチャン人口が約1.5%の日本において[7]、爆発的なリバイバルが起こることを考えると、ニネベのリバイバルが神の奇跡であったことが明確にわかります。

「神を信じ」という表現は2つの意味で理解されています。1つは「神の言葉を信じた」。もう1つは「神ご自身を信じた」です。しかし、この表現はただ単に誰かが言ったことを信じるだけでなく、その人自身を信頼することを表現しています[8]

ヨナ書3:5 を読むと、ニネベの人々は「神を信じ」とあります。この「信じた」というヘブライ語は、アブラハムとその信仰について述べた創世記15:6のそれと同じヘブライ語から来ています[9]

ニネベの人々はヨナのメッセージを受け入れましたが、それは「言」である神ご自身を受け入れたのと同じことなのです。

条件付き預言

神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。ヨナ3:10(口語訳)

ニネベの人々がヨナのメッセージを受け入れた結果、彼らの上にくだされるはずの災はくだされず、神のあわれみがニネベに与えられました。神は変化されませんが、状況は変化します。神の裁きの宣言はここからもわかるとおり、条件付きの預言です[10]

ニネベの経験は、エレミヤが述べた条件付き預言の基本原則を物語っています。「18:7ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、 18:8もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。 18:9またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、 18:10もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす」(エレミヤ19:7-10)[11]

メシア預言や人類の歴史の終わりについての預言など、宇宙規模での預言は人間の動きに関係なく成就しますが[12]、ヨナ書のように人間の動きに応じて、成就する条件付き預言もあるのです。

まとめ-適用-

キリストは「言」であると言われます(ヨハネ1章参照)。神の言葉は人の言葉とは異なります。「言葉」はヘブライ語ではダバールで、「実行」や「事柄」という意味も持つ言葉です。

世界を言葉によって創造された神は、言葉によって預言者を召命し、言葉を授けます。その言葉が聖書としてわたしたちの手元に今、あるのです。

異なる価値観で生きていたニネベの人々が大きく変化したように、たとえわたしたちが聖書と異なる価値観で生きてしまっていたとしても、神はわたしたちを変えることができるのです。その言葉に信頼を置いて、一歩前に足を踏み出しましょう。

[1]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、53頁

[2]Barry, J. D., Mangum, D., Brown, D. R., Heiser, M. S., Custis, M., Ritzema, E., … Bomar, D. (2012, 2016). Faithlife Study Bible (Jon 3:2). Bellingham, WA: Lexham Press.

[3]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、11頁

[4]Journal of Biblical Literature , 1892, Vol. 11, No. 1 (1892), 56ページ

[5]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, pp. 134–135). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.

[6]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、11頁

[7]総務局統計局 https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html 2022年8月8日閲覧

宗教年鑑 令和3年版 

https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/r03nenkan.pdf  2022年8月8日閲覧

[8]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, pp. 134–135). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.

[9]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、62頁

[10]Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 4, pp. 1004–1006). Review and Herald Publishing Association.

[11]Dederen, R. (2001). Handbook of Seventh-Day Adventist Theology (electronic ed., Vol. 12, p. 626). Hagerstown, MD: Review and Herald Publishing Association.

[12]Dederen, R. (2001). Handbook of Seventh-Day Adventist Theology (electronic ed., Vol. 12, p. 626). Hagerstown, MD: Review and Herald Publishing Association.

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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