この記事のテーマ
メディアとペルシアがバビロンを征服したあと、メディア人ダレイオスがダニエルの知恵を認め、新しい政府の一員になるよう彼を迎えました。年老いたこの預言者は公務に抜きん出ていたので、新しい王は彼を、メディアとペルシアの政府全体を治める役に任命します。
しかしダニエル6章が展開するにつれて、ダニエルは、最初の罪とまさに呼びうるものの結果、つまり嫉妬の結果に直面します。ですが、私たちは物語が終わる前に、ダニエルがメディア人やペルシア人の下での世俗的職務に対してのみならず、(最も重要なことに、)神に対しても忠実であるのを目にすることができます。そして私たちは、神に対する彼の忠実さがほかの領域における彼の忠実さにも直接大きな影響を及ぼしていたと確信できるのです。
ダニエルの迫害の体験は、終末時代の神の民にとって模範になります。この物語は、神の民が試練や苦しみを免れるとは示唆していません。この物語が請け合っているのは、悪との戦いにおいて善が最終的に勝つこと、そして神が最終的に御自分の民の正当性を保証しているのです。
妬む人たち
完璧な環境であった天においてさえ、ルシファーはキリストに嫉妬しました。「ルシファーはイエス・キリストをうらやましく思い、嫉妬した。しかしすべての天使が、キリストの主権、高い権威、正当な支配権を認めて彼にひれ伏したとき、ルシファーもひれ伏したのである。だが、彼の心は妬みと憎しみであふれていた」(『贖いの物語』14ページ、英文)。嫉妬というのは、十戒の中に、殺人や盗みの禁止とともに、むさぼりを禁じる戒めがあるほど、抱くのが危険な感情です(出20:17参照)。
問1
ダニエル6:1~5を、創世記37:11、サムエル記上18:6~9とともに読んでください。これらの物語の中で、嫉妬はどのような役割を果たしていますか。
ダニエルの行政能力は王に感銘を与えましたが、ほかの役人たちの嫉妬を引き起こしました。それゆえ、彼らはダニエルを汚職で訴えて辞めさせようとたくらんだのです。しかし彼らがどれほど調べても、ダニエルの政務には落ち度が見当たりませんでした。「大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった」(ダニ6:5〔口語訳6:4〕)。「忠実」と訳されているアラム語の原語は、「信頼できる」と訳すこともできます。
ダニエルは清廉潔白だったので、役人たちが偽りの告発をできる余地はありませんでした。しかし彼らは、ダニエルが神に対していかに忠実であり、神の律法をいかに忠実に守っているかということにも気づいたのです。それゆえ彼らは、ダニエルを陥れるには、彼が神の律法か帝国の法律か、いずれかに従うべきジレンマに直面する状況を作り出せばよいのだ、とすぐにわかりました。役人たちは、ダニエルについて学んだことから、条件が整っていれば彼は帝国の法律よりも神の律法を支持する、と完全に確信したのです。ダニエルの忠実さのなんというあかしでしょう!
ダニエルに対する陰謀
問2
ダニエル6:7~10(口語訳6:6~9)を読んでください。この勅令の裏にある考えはどのようなものですか。それは王の虚栄心をどのように刺激しましたか。
ダレイオスは、勅令を発布してすぐに無効にしたいと願っているところからして、愚かに見えるかもしれません。王は、最近樹立したばかりの王国の政治状況をもてあそぶほど頭の切れる役人たちが仕掛けたわなにはまったのです。ダレイオスは地方分権を実施し、より効率的な行政を行うために120人の総督を置きました。しかしそのような措置は、長い目で見ると多少のリスクを伴っています。影響力の強い総督が反逆を企てやすく、王国を分裂する可能性があります。それゆえ、向こう30日間、王にだけ請願することをすべての人に強制するという法律は、王への忠誠心を養い、反乱を防ぐうえで優れた戦略のように思えたのです。しかしその役人たちは、この提案が王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら「一同」の支持を得ていると主張することで、王を欺きました。ダニエルは含まれていないのですから、その主張は明らかに不正確でした。加えて、神として扱われるという見通しが、王にとって魅力的だったのかもしれません。
ペルシアの王たちが神の地位を主張したという証拠はありません。それにもかかわらず、この勅令は、向こう30日間、王を神々の総代理人にすることを意図していたのかもしれません。つまり、神々への祈りは、王を通してささげられなければならないのです。不運なことに、王はこの提案の裏にある動機を探りませんでした。それゆえ、陰謀を防ぐとされるこの法律自身がダニエルを害する陰謀であることに気づけなかったのです。
この法律の二つの側面が注目に値します。第一の側面は、違反者への罰が、獅子の洞窟に投げ込まれることであるという点です。この種の罰がほかで用いられたという証拠がないので、ダニエルの敵がその場で提案したものかもしれません。古代中近東の王たちは、だれかを傷つける特別な機会に放つための獅子を檻に入れていました。それゆえ、王の直令をあえて犯そうとする者を傷つけるための獅子には、事欠きませんでした。第二の側面は、勅令が変更できないという点です。「メディアとペルシアの法律」の変更不可能な性質は、エステル1:19、8:8でも言及されています。古代ギリシアの歴史家、シケリアのディオドロスは、(ダニエル書に出てくるダレイオスとは別人の)ダレイオス三世が心変わりしたものの、無実の男に下した死刑宣告をもはや撤回できなかった、と記しています。
ダニエルの祈り
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタ6:6)。
問3
ダニエル6:11(口語訳6:10)を読んでください。ダニエルはなぜ、だれからも見られることなく、ひそかに祈らなかったのでしょうか。
ダニエルは経験豊富な政治家ですが、何をおいても、神の僕です。従って、彼は政府の中でただ1人、王の勅令の背後にあることを理解できました。ダレイオスにとって、この勅令は王国の結束を強める一つの機会になるものでしたが、陰謀者たちにとって、それはダニエルを排除するための策略でした。
言うまでもなく、この陰謀の裏に潜む真の原因と動機は、神と悪の勢力の間の宇宙的戦いの中にあります。当時(紀元前539年)、ダニエルはすでに、ダニエル7章(同553年)、8章(同551年)に記録されている幻を見ていました。ですから彼は、王の勅令を単なる人間の政治的事柄としてではなく、そのような宇宙規模の戦いの一例として理解することができました。いと高き方の民に人の子が王権を渡すという幻や、解釈者である天使からの励ましの支援は(ダニ7、8章)、この危機に正面から立ち向かう勇気を彼にもたらしたかもしれません。ダニエルはまた、友人たちの体験を思い返したかもしれません。彼らはネブカドネツァルの勅令に異議を申し立てるほど勇敢でした(ダニ3章)。
それゆえ、彼は礼拝の習慣を変えることなく、エルサレムに向かって日に三度祈るという慣行を続けたのです。王以外、いかなる人間にも神にも願い事をしてはならないという禁令にもかかわらず、ダニエルはその危険な30日の間も、自分の祈りの生活を隠したり、ごまかしたりする策を講じませんでした。彼は多くの総督や役人の中で、このままだと王の勅令と衝突する唯一の人間であったため、絶対的少数派です。しかし彼は、隠し立てをしないその祈りの生活を通して、神に忠誠を尽くすことのほうが、王や取り消し不能の勅令に対する忠誠よりも重要であることを行動で示したのです。
使徒言行録5:27~32を読んでください。ここでの勧告は明瞭ですが、私たちはなぜ、人間の法律に挑戦するとき、私たちの行為が本当に神のみ旨にかなっているという確信がなければならないのですか。
獅子の洞窟
問4
ダニエル6:12~25(口語訳6:11~24)を読んでください。ダニエルという忠実な証人が、神にとっていかに力強い存在であったかを示すどのようなことを、王は彼に言いましたか。
陰謀者たちはすぐにダニエルが祈っているところを見つけます。それはまさに、勅令が禁じていたことでした。彼らは王の前で告発するとき、ダニエルを卑しめる形で彼に言及しています―─「ユダヤからの捕囚の一人ダニエル」(ダニ6:14〔口語訳6:13〕)。彼らの目には、帝国の大臣の1人も、王のお気に入りも「捕囚」にすぎなかったのです。加えて、「王様、……ダニエルは、あなたさまをも、署名なさったその禁令をも無視して……います」(同)と言って、彼を王に敵対させました。今や王は、勅令に署名することでわなにかけられたことに気づきました。聖句には、「王は……ダニエルを……救おうとして日の暮れるまで努力した」(同6:15〔口語訳6:14〕)と書かれています。しかし、定められた罰から預言者を救うために王にできることは何もありませんでした。メディアとペルシアの取り消し不能の法律は、条文どおりに適用されなければなりません。それゆえ、王は嫌々ながらも、ダニエルを獅子の洞窟に投げ入れるように、と命令を出しました。しかしそうしながらも、ダレイオスはかすかな希望を表明します―─「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」(同6:17〔口語訳6:16〕)と。それは祈りのように聞こえました。
聖書は、ダニエルが獅子たちの中で何をしたのか記していませんが、彼はたぶん祈っていたのでしょう。そして神は、御使いを遣わしてダニエルを守ることで彼の信仰を称賛なさいました。翌朝、ダニエルは無事に生き残り、政府での活動を再開できる状態でした。この出来事について、エレン・G・ホワイトは次のように述べています。「神はダニエルの敵が、彼をししの穴に投げ入れることを阻止されなかった。神は悪天使と悪人たちが、ここで彼らの目的を達するのをお許しになった。しかしそれは、神のしもべの救出をさらに著しいものにし、真理と義の敵の敗北を、さらに完璧なものにするためであった」(『希望への光』589ページ、『国と指導者』下巻153ページ)。
正当性の証明
問5
ダニエル6:25~29(口語訳6:24~28)を読んでください。王は、神についてどのようなあかしをしましたか。
この物語の一つの重要な点は、ダレイオスが神をほめたたえ、神の主権を認めている事実です。これが、ここまでの章(ダニ2:20~23、3:28、29、3:31~33〔口語訳4:1~3〕、4:31~34〔口語訳4:34~37〕)において神にささげられた称賛や主権承認の頂点、山場なのです。ネブカドネツァルと同様、ダレイオスはダニエルの救出に対して神を称賛することで応じています。しかし、彼はそれ以上のこともしました。彼は先の勅令を覆させ、「すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない」(ダニ6:27〔口語訳6:26〕)と命じたのです。
確かに、ダニエルは奇跡的に救い出され、彼の忠実さは報われ、悪は罰せられ、神の誠実さと力は証明されました。しかし、私たちがここで目にするのは、これから宇宙規模で起こるであろうこと―─神の民が救出され、悪が罰せられ、全宇宙の前で主の正当性が証明されること―─の小さな一例なのです。
問6
ダニエル6:25(口語訳6:24)を読んでください。この節に関して、私たちはどのような点を悩ましく感じる可能性がありますか。それはなぜですか。
しかし、気がかりな問題が一つあります。それは、私たちが知る限り、罪のない妻や子どもたちが、罪ある者たちと同じ運命をたどったという点です。私たちは、正義の誤用と思われることをどう説明したらよいのでしょうか。
第一に、この措置は、ペルシアの法律に従って王によって決定され、実行されたという点に注目すべきです。その法律は、犯罪者を罰する際に家族も含みました。古代の原則によれば、家族の一員の犯罪に対する責任は、家族全員が負うことになっていました。それが正しいという意味ではありません。単に、この物語は、私たちが知っているペルシアの法律に合致しているということです。
第二に、聖書の物語は、この出来事を報告しているのであって、王の行動を是認しているのではないという点に注目する必要があります。聖書ははっきりと、親の罪のために子どもが刑処されることを禁じています(申24:16)。
このような不当行為やそのほか多くの不当行為を前にして、Ⅰコリント4:5などの聖句から、あなたはどのような慰めを得ることができますか。その聖句は何と述べていますか。その指摘は、なぜ重要なのですか。
さらなる研究
ダニエルの救出は、ヘブライ11章に記録されています。「信仰の殿堂」ともいうべきこの箇所は、預言者たちが、数ある業績の中でも、「獅子の口をふさ(いだ)」(ヘブ11:33)と述べています。それはすばらしいことですが、信仰の英雄には、ダニエルのように死を逃れた者たちだけでなく、(ヘブライ11章も記しているように)苦しんで勇敢に死んだ者たちもいることを、私たちは覚えておくべきです。生きてあかしをするように神に召される人もいれば、死んであかしをするように召される人もいます。それゆえ、ダニエルの救出物語は、すべての人が救い出されることを意味するものではありません。それは、イエスを信じるがゆえに殉教した多くの男女からわかるとおりです。しかし、ダニエルの奇跡的な救出は、神が支配しておられ、御自分のすべての子らを死と罪の力から最終的に救い出されることを示しています。このことは、ダニエル書の次の章で明らかになります。
*本記事は、安息日学校ガイド2020年1期『ダニエル書 主イエス・キリストの愛と品性の啓示』からの抜粋です。