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獅子の洞窟の中のダニエルこれは、クリスチャンの家庭で育った子どもなら、まず最初に家庭で学ぶ物語の一つです。物語の単純さ、明快な善悪観、ハッピーエンド、ダニエルの不動の信仰のゆえに、それはほとんど「きまり文句」になっています。
しかしながら、問題はそれほど単純ではありません。ダニエルのように信仰に固く立ったクリスチャンが「獅子の穴」に投げ込まれた例はたくさんあります。しかし、彼らがみなダニエルのように危害を免れたわけではありません。今日でも、殉教の死を遂げるクリスチャンは少なくありません。現世において見る限り、その最期はダニエルの物語のように幸運ではありません(しかしありがたいことに、現世の出来事は究極的な終わりではありません)。
あるいは、この物語の重点は、神がダニエルを助けられたことにあるのではなく、むしろダニエルが助かるか否かを知らないままに信仰を貫き通したことにあるのかもしれません。もしダニエルが獅子に食われていたなら、彼の物語は別の意味で力強いあかしになっていたでしょうか。
確かに、この章は数々の疑問をもたらします。今回は、私たちがいかにわずかしか知らないかということを学びます。
忠実な僕、ダニエルの特性(ダニエル6:2―5(口語訳6:1―4))
「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」(マタ7:16)。
バビロンがメディアとペルシアの手に落ちたとき、神の御手がダニエルの上にありました。ダニエルはベルシャツァルとその高官たちのようには殺されませんでした。新しい王、ダレイオスが新政府を組織したとき、王はダニエルを王国全体を治める3人の総督のひとりに任命しました。王はダニエルの並外れた知恵と能力について聞いていたのでしょう。このような優れた地方行政官を持つことは属国を治める上できわめて有益であると考えました。
ダニエルの生涯は神の御心にかなう人物の模範でした。エレン・ホワイトはそのような人物について次のように記しています。「世界で最も欠乏しているものは人物である。それは、売買されない人、魂の奥底から真実で、正直な人、罪を罪とよぶのに恐れない人、磁石の針が南北を指示して変わらないように、良心が義務に忠実な人、天が落ちかかろうとも正しいことのために立つ人――そういう人である」(『教育』54ページ)。
問1
ダニエルを民の指導者にふさわしい人物としていたのはどんな特性でしたか。ダニ6:4、5(口語訳6:3、4)
問2
次の聖句はダニエルの品性についてどんなことを教えていますか。ダニ1:8ダニ5:11、12ダニ2:20~23ダニ2:49
ダニエルに対する陰謀(ダニ6:6~10――口語訳6:5~9)
総督や大臣たちはダニエルを陥れようとします。ダニエル書6:2を読むと、ダニエルは宮廷内で最も有力な人物のひとりで、いわば王に次ぐナンバー2の位にありました。だれかがこの地位に羨望の念を抱いたとしても不思議ではありません。天にあって自分のものでない地位をむやみに欲しがったルシファーを思い起こさせます。
問3
総督と大臣たちはダニエルのどんな点を攻撃しようとしましたか。その理由は何でしたか。ダニ6:6(口語訳6:5)
ダニエルの品性や政務に関してダレイオスの前に訴え出る口実を何ひとつ見いだすことができなかったので、彼らはダニエルの宗教に矛先を向けます。しかし、ダニエルの信仰生活と実践の間には目立った矛盾点がありませんでした。口実を捏造する以外に方法がありませんでした。
総督・大臣たちはダレイオスの前で、すべての大臣、執政官、総督、地方長官、側近が集まって協議した、と言っていますが、これは大きな誇張です。これらの者たちの大部分は王国全体に散らばっていて、何が起こっているのかさえ知らなかったでしょう。彼らの甘言はその目的を達成しました。王はまんまと誘いに乗ってしまいます。
その勅令は、「向こう30日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする」ことを禁じていました(ダニ6:8)。争点は礼拝に関するものだったので、この「人間」は明らかに人々と神々の仲裁をするバビロンの祭司をさしています。言い換えるなら、この30日間は、王だけが人々の祭司になるということでした。これは地方の祭司にとっては屈辱に満ちた経験だったでしょう。しかし、それはペルシアの新政府に対する忠誠を試すものでした。
「勅令にあるように、旧バビロニア領のすべての臣民にペルシアの権威を強制的に認めさせることは、いかにも政治家らしいやり方で、中近東地域の統一に貢献するものであっただろう」(フランク・E・ゲイバレン編「ダニエル書」『エクスポジターズ聖書注解』第7巻79ページ、1985年)。
祈りの重要性(ダニエル6:11―19(口語訳6:10―18))
ダニエルが部屋の窓を閉め、ひとりで神に祈れば、何も問題にならなかったのではないでしょうか。主イエスも山上の説教の中で教えておられます。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタ6:6)。そうしていれば、問題は容易に解決していたはずです。あるいは、それではいけなかったのでしょうか。なぜ不必要な問題を起こさねばならないのでしょうか。
問4
ダニエルは戸を閉めて、敵に非難の口実を与えることのないようにすべきであったと考えるなら、その理由を述べてください。その裏づけとなる聖句があれば、あげてください。
問5
たとえ罠が仕掛けられているかもしれないとわかっていても、ダニエルは普段通りにすべきであったと考えるなら、その理由を述べてください。その裏づけとなる聖句があれば、あげてください。
かつてカリフォルニア州で日曜休業令が可決されたとき、A・T・ジョーンズはアドベンチストに対して、公然とその法律を無視するように勧めました。つまり、普段通りの仕事をするように勧めました。反対に、エレン・ホワイトははっきりと、これらの法律を無視してはならないと教えました。「日曜休業令を無視することは、それを強制しようとしている宗教的熱狂者たちの迫害を力づけるだけである。あなたがたを法律違反者と呼ぶ機会を彼らに与えてはならない。……非難を招くような仕事を控え、代わりに最も重要な働きをすることによって、平和を保つ知恵を示したからといって、それで人は獣の刻印を受けるのではない」(『教会へのあかし』第9巻232ページ)。日曜休業令に関連して、彼女はほかのところで次のようにも言っています。「可能なときには、日曜日に礼拝を行いなさい(」同233ページ)。このように、彼女がA・T・ジョーンズと反対の立場をとったのはなぜだと思いますか。
獅子の洞窟の中のダニエル(ダニ6:20~24――口語訳6:19~23)
この獅子の洞窟は、たぶん地下に掘られた穴のことで、四方が切り立った壁で、入り口だけが開いていました。死刑囚は上からつり降ろされるか、投げ込まれるかしました。この場合は、入り口に大きな石が置かれ、王の印と貴族たちの印で封がされていました。ダニエルの敵にとって、この封印はダニエルを助けようとする者がいないことを保証するものでした。同時に、王にとっては、もしダニエルが神によって獅子の口から守られるなら何の危害も受けないことを保証するものでした。
問6
翌朝、ダレイオスは獅子の洞窟からダニエルに呼びかけています。この言葉は、王がダニエルの信仰に精通していたことに関して何を教えていますか(ダニ6:21――口語訳6:20)。行間を読んでください。それはまた、ダニエルの信仰のあかしに関してどんなことを暗示していますか。
問7
ローマ3:9~20を読んでください。これらの聖句は人間の性質に関してどんなことを教えていますか。
ダニエルの返答の中で注意を引くのは、自分が「無実」であったために、神が救ってくださったという言葉です。これは何を意味するのでしょうか。ダニエルほど主と親密な関係にあった人間なら、自分の罪深さを理解していたはずです。確かに、神と親しい関係にあった人間が自分自身の道徳的欠点や罪深さに気づかないということは想像しがたいことです。
ベルシャツァルとは対照的に(ダニ5:6参照)、ダニエルは汚れのない良心に従って行動していました。彼は、自分が主の御心に従って生きてきたこと、また自分が飢えた獅子の穴に投げ込まれるような悪事を何一つしていないことをよく知っていました。彼は公金を横領したり、密かに反乱を企てたりしていたわけではありません。この意味では、彼の良心にはやましいところがなく、それゆえに心の平安を保つことができたでしょう。ダニエルは初めから終わりを見通すことができませんでしたが、汚れのない良心のゆえに、このような状況にあってもある程度の勇気を持つことができました。
神を崇めるダレイオス(ダニ6:25―29(口語訳6:24―28))
ダニエルが獅子の穴から生還したことを知ったとき、ダレイオスは「たいそう」喜びます。王の怒りは彼をだました者たちに向けられます。刑罰は過酷で不当に思われるかもしれませんが(妻子も一緒に穴に投げ込まれています)、犯罪人をその全家族と共に処刑することが当時の専制君主の習わしでした。実際的な意味で、そうすることは犯罪の抑止力になっていました。別の意味で、それは私たちの罪・悪行が周囲の人々にも影響を及ぼすことの実例です。
問8
ダニエル書6:26~28(口語訳6:25~27)を注意深く読んでください。王はダニエルの神について何と言っていますか。王が言っていることを次の聖句と比較してください。詩編59:2、3(口語訳59:1、2)、使徒2:22、ガラ1:4、Ⅰテモ4:10、ヘブ2:4、10:31、ヤコ1:17。王が神について述べていることは正しいですか。
主の力と品性の現れを見た後で、王は神の品性と力をかなりはっきりと理解したようです。しかしながら、それは完全な理解ではありませんでした。このことは彼の布告を見ればわかります。
問9
ダニエル書6:27(口語訳6:26)を読んでください。王の布告のどんな点が、彼の神についての理解が不十分であったことを示していますか。
確かに、主は私たちに御自身を「恐れかしこ」むように望んでおられますが、それは主が聖にして汚れなきお方、私たちが俗にして汚れた存在であるからです。しかしながら、これは決して特定の人間や政府、あるいは教会によって布告・制度化されるものではありません。主との関係は、罪深く、無力な、贖いを必要としている私たちと、愛・憐れみ・力に満ちた主との個人的な出会いに基づいたものでなければなりません。私たちが主を礼拝するのはこのような関係においてです。ダレイオス王はこのことを理解していませんでした。
まとめ
「地上最大の王国の首相であったダニエルは同時に神の預言者であって、天からの霊感の光を受けていた。私たちと同じ感情の持ち主としてではあるが、霊感の筆は彼を欠点のない人物として描写している。彼の商取引は、敵の厳しい取調べを受けても、何ひとつ欠陥がなかった。ダニエルは、すべての実業家が心から回心・献身し、神の前に正しい動機を持つときに、どのような人間になることができるかについての模範であった」(エレン・G・ホワイト『闘いと勇気』254ページ)。
「ダニエルの救出の物語から、神の民は試練と暗黒の時にあっても、前途が希望に輝き、周囲の事情が望みどおりのものである時と、全く同じでなければならないことを、われわれは学ぶのである。ししの穴に入れられたダニエルは、国家の大臣たちの長として、また至高者の預言者として、王の前に立ったダニエルと同じであった。神を信頼している人は、最大の試練の時においても、神と人間からの光と恵みが降り注ぐ繁栄の時と同様なのである。信仰は目に見えないものに手を伸ばし、永遠の実在を把握するのである」(『国と指導者』下巻154、155ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ダニエル書 ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛』からの抜粋です。