聖所に対する攻撃【ダニエル—ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛】#9

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ダニエル書8章の幻において、ダニエル書の象徴的描写は最高潮に達しています。「日が暮れ、夜の明けること2300回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る」という意味深長な聖句を含むのもこの章です。この聖句はダニエル書8章のクライマックスとも言える聖句で、セブンスデー・アドベンチスト教会の形成に重要な役割を果たしました。

初めに、ひとつ覚えておかねばならないことがあります。歴史的背景に照らして考えると、この聖句が天の聖所についてのみ語っているということです。キリストは現在、天の聖所で私たちの大祭司として働いておられます(ヘブ8:1、2)。ここに啓示されている重要な争点は、軍事的な戦い、つまり異教の軍隊が地上の聖所を汚すということではありません。この章の範囲は、局地的、地上的、政治的、あるいは軍事的な戦いを超越しています。むしろ、その争点は霊的なものです。この章は大争闘を別の観点から見たもの、すなわちキリストの働き、またキリストの民に対抗して打ち立てられた巨大な宗教組織にかかわるものです。

繰り返しになりますが、神の裁きは神の民を擁護するものとなりますが、神の主権を奪おうとする小さな角の権力を断罪するものとなります。

地上の聖所を汚す(エゼ5:11)

旧約聖書の中では、神が御自分の民に御自身を現された地上の聖所は聖なるものとみなされています。この聖なる場所がどのようにして汚されたかについて学ぶことは、ダニエル書8:9~14を理解する上で大いに助けになります。

問1

贖罪の献げ物はどのようにして旧約聖書の聖所を汚しましたか。レビ4:1~7、27~31

祭司や会衆が贖罪の献げ物を献げると、屠られた動物の血は聖所に携えてこられました(レビ4:6、17)。支配者や一般のイスラエル人によって献げられた贖罪の献げ物の血は、幕屋の中にある焼き尽くす献げ物の祭壇の四隅の角に塗られましたが(25、30節)、祭司は贖罪の献げ物の一部を食べなければなりませんでした(レビ10:17)。こうして、祭司は象徴的に罪人の罪責を担ったのです。また、祭司が自分自身の贖罪の献げ物を献げるときには、自分自身と民の罪を表す血を聖所に携えてきました。このようにして、すべての人の、告白され、赦された罪が聖所に携えてこられ、それによって聖所は「汚れ」ました。このことはレビ記16:16に次のように明記されています。祭司は贖罪日に「イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う」。このような「汚れ」が主によって許されたのは、悔い改めた罪人の罪を贖うためでした(レビ15:31、民19:20参照)。

また旧約聖書の中では、外国の軍隊が侵入し、神殿の宝物を略奪したときに、神の神殿は汚されています。神の敵は神殿を破壊することによって聖所を汚した、とも書かれています(詩編79:1)。ところが、神殿が破壊される以前にも、ヘブライ人自身、自分たちの告白された罪によってではなく、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿に、……憎むべき物を置いてこれを汚した」のでした(エレ7:30――32:34参照)。

このように、旧約聖書の聖所は様々な方法で、つまり(1)贖いの目的で民の告白された罪によって、(2)儀式的に汚れた人々の不法な接触によって、(3)神の敵による聖所の冒や破壊によって、(4)イスラエル自身が神殿に偶像や異教の祭壇を築くことによって、汚されました。

雄羊と雄山羊の幻(ダニエル8:1―8、20―22)

ダニエル書2章は世界の歴史を支配するようになる政治的な諸王国について概略していました。ダニエル書7章は同じ内容を異なった象徴を用いて述べ、小さな角の権力の政治的活動について紹介していました。ダニエル書8章も、2章と7章に出てくる王国にふれてはいますが、むしろ小さな角の権力の宗教的活動に焦点を合わせています。

問2

天使ガブリエルの説明によれば、雄羊、雄山羊、それに雄山羊の額の「大きな」角は、それぞれ何を意味しますか。ダニ8:20、21

アレクサンドロス大王(角によって象徴される)はまず小アジアからペルシア人を追放しました。彼はグラニコスの戦い(前334)とイッソスの戦い(前333)において勝利を収めると、軍隊をシリア、フェニキア、パレスチナを経てエジプトにまで進め、その途中で堅固な港湾都市ティルスを含む国々を滅ぼします(前332~331)。エジプトを撃破した後、軍を東に進め、一気にインドにまで到達します。彼は10年間に1万6000キロ進軍したといわれています。バビロンに凱旋したとき、彼はわずか32歳でした。はるかフランスやスペインからも、使者がバビロンにある彼の宮殿を訪ねて来たほどです。しかし、紀元前323年、繁栄の絶頂にあったとき、彼は過労と熱病で倒れます。

聖書においては、角はしばしば政治権力を表します(ダニ8:21、ゼカ1:18~21)。ダニエルはギリシア帝国が4つの王国に分裂すると預言していますが、まさにその通りになります。アレクサンドロスが死ぬと、彼の将軍たちが権力を握ります。しかし、将軍たちが互いに争い始めると、帝国は分裂します。フリギアのイプソスにおける決定的な戦い(前301)の結果、帝国は将軍たちの間で分割されます。プトレマイオスはエジプトを、セレウコスはシリアと東方を、リュシマコスは小アジアを、カッサンドロスはギリシアを、それぞれ取ります。このように、4本の角はアレクサンドロスの帝国から興った4つの王国を表しています(ダニ8:22)。天使ガブリエルの説明によれば、これら4つの王国はアレクサンドロスの王国ほど強力ではありません(22節)。

小さな角の台頭

ダニエル書8:8、9には小さい角の台頭について書かれています。ヘブライ語文法に従えば、「小さな角」は、大部分の注解者が言うように4本の角の一つから生じるのではなく、「天の四方」の一方から生え出ることになります。8節の最後の部分は、「4本の際立った角が生えて天の四方に向かった」となっていますが、「天の四方」が「そのうちの一方」(「そのうちの1本」ではない)に最も近い先行詞(修飾される語)になるからです。

さらに、小さな角は3つの地理的実体、つまり「南」「東」「麗しの地」に向かって力を伸ばします。小さな角の、この第2の活動は、第1の活動(「生え出る」)が地理的な側面、つまり羅針盤の4つの方角と関係があることを暗示します。

最後に、9節の「生え出る」(ヤッツア)という動詞は、ほかの角に関して用いられている「生える」(アラー)という動詞(3、8節)と異なるものです(M・プローブストル『本文によるダニエル書8:9~14の分析』100~104ページ参照)。

歴史によれば、4つのギリシア帝国の後に出現したのはローマ帝国でした。ローマ帝国はこれらの帝国から見て西の方角から興りました。

注意すべき点は、ダニエル書においては、異教ローマと教皇ローマがほとんど区別されていないということです。どちらも一つの権力として扱われています。たとえば、ダニエル書7章が良い例です。ここでは、第4の獣から興る小さな角(教皇ローマ)も第4の獣、つまり異教期にあったローマの一部です。ダニエル書8章の小さな角の権力はギリシアの後に興り、人の手によらずに滅ぼされる終わりの時まで存続します(ダニ8:25)。異教ローマはギリシアの後に興りましたが、教皇期のローマとして現在もなお存続しています。

小さい角の活動

問4

小さな角の権力は、何に対してどのような活動をするのでしょうか。ダニ8:9~12

ギリシア諸王国の後に興った国は異教および教皇ローマでした。預言によれば、小さな角は、「高ぶった」(ダニ8:4)メド・ペルシアや「非常に尊大になった(」8節)ギリシアとは対照的に、非常に強大になることになっていました。この事実からすると、小さな角をメド・ペルシアやギリシアほど強くはなかったシリアの王、アンティオコス・エピファネスであると解釈することはできません。しかし、異教および教皇期のローマは強大でした。ダニエル書8章はほとんど教皇期のローマに焦点を合わせています。

小さな角の攻撃については、霊的な性格のものであることが注意されるべきです。彼は「天の万軍」にまで力を伸ばし(10節)、「天の万軍の長」にまで力を伸ばし(11節)、「日ごとの供え物」を廃しています。これは明らかに神の真理に逆らって行動する霊的権力のように思われます。事実、12節には、「真理を地になげうち」と書かれています。

1.天の万軍の長

ヨシュア記5:14では、万軍の長はキリストになっています。神の民の万軍の長とは、「油注がれた君」(ダニ9:25)、「天使長ミカエル」(10:21)、「お前の民の子らを守護する」「大天使長ミカエル」(12:1)、すなわちキリストです。

2.日ごとの供え物

ヘブライ語の“タミッド”(継続的な、永久の、日ごとの)は旧約聖書に103回出てきます。それは聖所の「日ごと」の儀式に関連してよく用いられています。この聖句は、天の聖所におけるキリストの日ごとの務めが小さな角によって攻撃されることを示しています。

3.聖所

聖書には、二つの聖所があります。一つは地上の聖所で(出25:9、40)、もう一つは天の聖所(ヘブ8:1~8)です。旧約聖書の聖所は紀元70年に破壊されました。しかし、その時でさえ、それはもうキリストの「聖所」ではありませんでした(マタ23:37~39、27:50、51)。小さな角の時代(教皇制度)にキリストの「聖所」として機能していた唯一の聖所は天の聖所でした。この意味で、小さな角の攻撃は天の聖所そのものに対する攻撃です。

小さな角と日ごとの供え物(ダニ8:11、12、24、25)

問5

小さな角はどのようにして日ごとの供え物を廃し、キリストの聖所を倒しましたか。ダニ8:11、12

告解によって人間のための執り成しを司祭の手に委ねることによって、またミサごとにキリストを新たに犠牲として献げることによって、教皇制度はキリストの天における働きを人間の思考から取り除いてしまいました。司祭の務めを、天の聖所におけるキリストの務めの代用とすることによって、教皇制度はキリストの「聖所」を倒し、それを汚しました(11節)。

旧約聖書の聖所には、聖所に仕えるレビ人の「軍隊」がありました。小さな角も自らの組織に仕える奉仕者たちの軍隊を持っています。告解において、司祭は次のような式文をもって罪を赦します。「私は父と子と聖霊の御名においてあなたの罪を赦します」。

ミサの犠牲において、ローマの司祭は「もう一人のキリスト」になります。彼がキリストに化した聖体を祭壇に犠牲として献げ、信仰者の救いのためにキリストを献げるからです。「キリストの犠牲と聖体〔ミサ〕の犠牲とは同じひとつの犠牲である。……ミサにおいて献げられるこの聖なる犠牲の中に、かつて十字架の祭壇において血の様で御自身を献げられたのと同じキリストが含まれ、無血の様で献げられる」(『カトリック教会教理問答書(公教要理)』第1367、381ページ、1994年)。

天の聖所におけるキリストの務めは、このような教えを通して、多くのクリスチャンの心中で廃され、その役割が過ちの多い代理人に効果的に受け継がれています。クリスチャンの心は、ミサと告解によって、天の聖所におられる救い主の仲保の働きから引き離されています。キリストの務めは、キリストの名によってなされる複雑な儀式によって覆い隠され、見失われています。

キリストが御自身の無償で十全な義に信頼する人たちに与えようとしておられる完全な赦しは、実質的にキリスト自身の役割を演じている組織によって奪われています。信者は、直接キリストとキリストの御業に頼る代わりに、キリストの祝福が分配される媒体としての教会に頼るように教えられています。

まとめ

今回の研究の論点をより深く理解するために、改訂版『カトリック教会教理問答書(公教要理)』からの引用文を参考にしてください。それぞれの引用文にある「教会」という言葉を「神」または「キリスト」に置き換えて読むと、ダニエル書8章の内容がよく理解できます。テサロニケⅡ・2:4を念頭において読んでください。

*「『完全な救いの手段』を預かっているのは教会である」(『カトリック教会教理問答書』第824、強調付加、以下同じ)。

*「協議会は聖書と伝承にもとづき、今は地上の巡礼者である教会が救いに必要なものであると教えている」(同第846)。

*「教会は……それ自身のうちに十全な救いの手段を担っている(」同第868)。

*「いかに重大なものであれ、教会に赦すことのできない違反はない(」同第982)。

*「もし教会に罪の赦しがなかったならば、来るべき命、あるいは永遠の救いに対する希望はない」(同第983)。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ダニエル書 ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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