聖所の清め【ダニエル—ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛】#10

目次

この記事のテーマ

多くのクリスチャンは、ダニエル書8章が小さな角と同一視されるシリアの王、アンティオコス・エピファネス(前2世紀)の時代に実現したと信じています。ある人たちは、この王がまた初めにユダヤ人と契約を結び、その後彼らに背くことになる将来の反キリストの型であると考えます。しかし、これらの解釈は私たちセブンスデー・アドベンチストにとっては、とうてい受け入れがたいものです。その理由の一つは、歴史的に見て、アンティオコスが小さな角の権力に与えられている描写に全くそぐわないからです。私たちはむしろ、預言が歴史において実現したと考える歴史主義の解釈原則にもとづいて(ダニエル書の聖句そのものがそのように要求している)、ダニエル書8:9~14がキリストとサタンとの大争闘、とりわけ神の救いの計画と小さな角の偽りの組織との霊的な争闘を意味していると考えます。これらはすべてキリストの再臨において終結します。今回は、ダニエル書8章に提示されているこの争闘に注目します。そのクライマックスとなるのが天の聖所の清めです。

旧約聖書の幕屋の清め(レビ16:29―33)

旧約聖書における犠牲の儀式は二つの部分からなっていました。一つは日ごとの儀式で、もう一つは年に1回の、年ごとの儀式(贖罪日)でした。日ごとの儀式において、祭司は毎日、要求された焼き尽くす犠牲を献げました。イスラエル人は自分自身の供え物を携えて来ることができました。その供え物は祭司の助けと監督のもとで犠牲として献げられました。年間を通じてなされる日ごとの儀式によって、イスラエルの民の罪が聖所に移されたので、それによって聖所は汚れました。

問1

旧約聖書の聖所はどのようにして、民の罪による汚れから清められましたか。レビ16:15~19

年に一度、贖罪日に、聖所は特別な儀式によって、年間を通じて蓄積された民の罪から清められました。その日、大祭司はまず自分自身と自分の家族のための犠牲を携えてきました。それから、彼は2匹の雄山羊についてくじを引き、1匹を主のもの、もう1匹をアザゼルのものと決めました。

次に、彼は主の雄山羊を屠り、その血を至聖所に携えて来て、贖いの座の上と前方に振りまきました。それから外に出て、焼き尽くす献げ物の祭壇の上と、香をたく祭壇の四隅の角に振りまきました。この儀式によって、彼は蓄積された民の罪から聖所を清めました。

問2

主のための雄山羊は何を象徴していましたか。ヘブ9:11、12

旧約聖書の犠牲はキリストの犠牲の予型(象徴)でした。神は古い契約の祭壇に動物の死をご覧になったのではありません。神はそこに、ゴルゴタで十字架にかかられた神の小羊、すなわち御自身の御子の血に染まった犠牲をご覧になりました。この贖いのゆえに、神は罪人をお赦しになったのです。贖罪日の儀式は、神がキリストの血にもとづいて御自分の民を救う方法について教える実物教訓でした。

2300日の間(ダニ8:14)

ダニエル書8:14は聖所の清めの始まりを指し示しています。この聖句の字義的な意味は、「2300の夕と朝までである。それから聖所は清められる」です。ここと26節に用いられている「夕」・「朝」という言葉は、天地創造の記録に用いられているものと同じ(順序も)で(創1:5、8、13、19、23、31)、これら二つの言葉で暦上の1日を表しています。

問3

2300日を文字通りの日と解釈し、それを紀元前2世紀のアンティオコス・エピファネスに適用する解釈があります。2300日は2300年を意味し、この預言がアンティオコスよりずっと後の期間を指していることはどのように立証することができますか。

この2300日が「年」を意味することについての証拠はいくつもありますが、ここでは二つだけ取り上げます(金曜日の研究参照)。

第一に、天使ガブリエルはこの預言は終わりの時に関わるものであると言います。「この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。……この怒りの時の終わりに……。見たことを秘密にしておきなさい。まだその日は遠い」(ダニ8:17、19、26、強調付加)。したがって、この預言はイエス以前の出来事ではありません。

第二に、ダニエル書2、7、8章にある歴史的事件を比較すると、これらの章がすべて古代バビロンまたはメド・ペルシア王国から始まり、終わりまで続いていることがわかります。

これらの章を比較すると、ダニエル書8章が紀元前2世紀に限定されないことがわかります。「人手によらず切り出された石」(ダニ2:45)と全く同様に、小さな角の権力は「人の手によらずに滅ぼされ」ます(8:25)。これらはどれも終わりの時の出来事です。したがって、2300日は文字通りの日ではあり得ず、しかも遠い将来にまで及ぶものです。1日1年の原則が適用されるゆえんです。

さらに、再臨を導くダニエル書7章(26節)の裁きと同8章の聖所の清めとは並行しています。それらは同じ出来事で、裁きが再臨に先立って起こるように、聖所の清めもまた終わりの時の出来事です。もし2300日が文字通りのものであったなら、これはありえないことです。

天の聖所(ヘブライ8:1、2)

昨日の研究では、ダニエル書8:14の2300日が文字通りの日ではなく、年であること、したがって聖所の清めが終わりの時に起こることを学びました。その理由の一つは、聖所の清めがダニエル書7章の再臨前審判と同じ出来事であるからでした。

事実、ダニエル書7章、つまり1260年に及ぶ小さな角の支配後における、次の大きな出来事は裁きです。ダニエル書8章、つまり神の民、キリスト、キリストの聖所に対する小さな角の攻撃後における次の大きな出来事は2300年の終わりにおける聖所の清めです。したがって、ダニエル書8:14にある聖所の清めは、同7:9~14にある裁きと同じ出来事です。

ここで、二つの点に注目したいと思います。第一に、第8課で学んだように、1260年後に起こる天における裁き(ダニ7章)は、今に至る数世紀の出来事であるということです。したがって、裁きはこの時間的枠組みのどこかで始まります(再臨を導くのはこの裁きであることを覚えてください)。第二に、裁きと同じ出来事である聖所の清めもイエスの生涯と死以前の出来事(アンティオコス・エピファネスがエルサレムの聖所を汚した時)なのではなく、ずっと最近になって起こった出来事であるということです。

問4

これらの出来事(裁きと聖所の清め)は、地上の神殿が破壊された時からずっと後に起こる出来事ですが、この時期から判断すると、ここで言及されている聖所として考えられる唯一のものは何ですか。ヘブ8:1、2

もちろん、答えは天の聖所です。出来事の時期から判断して、ほかには考えられません。

時間が許すかぎり、天の聖所におけるキリストの働きを扱ったヘブライ7~10章を読んでください。天の聖所におけるこの働きは救いの計画にとってどれほど重要ですか。この働きの重要性は、天の聖所に対する小さな角の攻撃の重大さを理解する上でどんな助けになりますか。

いつまで続くのか

問5

ダニエル書8:13にはどんな質問がなされていますか。

この質問の中で注意すべきことは、「ついて」という語がヘブライ語聖書にもヘブライ語文法にもないということです(口語訳参照)。したがって、この質問は小さな角の活動だけにあてはまるのではなく、むしろこの章に描かれているすべてのこと、つまり小さな角(異教および教皇ローマ)の活動に加えて、雄羊と雄山羊(メド・ペルシアとギリシア)についての幻をも含んでいます。これを文字通りに訳すと、「この幻、日ごとの供え物が廃されること、罪が荒廃をもたらすこと、聖所と万軍とが踏みにじられることは、いつまで続くのか」となり、この幻の中の中心的な出来事を列挙しているだけです。事実、13節の「幻」(ハーゾーン)という語は雄羊と雄山羊、すなわちメド・ペルシアとギリシアについて述べています。

したがって、この質問を言い換えると、メド・ペルシアが興り、ギリシアが興り、最後にローマが天におけるキリストの働きを攻撃するまでの、これらすべてのことはいつまで続くのかとなります。その答えは天の聖所が2300年の終わる時から清められる(または、天の裁きが始まる)ということです。そして、この裁きの結果として、聖なる者たちが王国を受け継ぎます(ダニ7:26~28)。この預言は、メド・ペルシアから世の終わりまでの神の民の歴史を網羅しているのです。

問6

ダニエル書7章の裁きと8章の聖所の清めとを比較することは、裁きと聖所の清めの意味を理解する上でどんな助けになりますか。

ダニエル書7章は、再臨前審判が小さな角の消滅ばかりでなく、聖者の勝利と神の国の確立をも導くことを明示しています。ダニエル書8章は、天の聖所を裁きと同一のものとして紹介し、天における裁きを天の聖所の清めと平行したものとして示しています。事実、忠実な者たちの罪からの、天の聖所の清めは、年に一度の贖罪日(レビ16:30)、つまり裁きの日におけるモーセの幕屋の清めに対応するものです。同時に、裁きの光景は最後の裁きに関連して聖所の清めを理解する助けになります。それらは共に、天の裁きの真実性と裁きに対する聖所の中心的な役割とを啓示しています。

聖所は清められる

先に学んだ通り、小さな角と聖なる者たちは共に天の聖所を汚します。

  1. 旧約聖書の中で、神の民の敵は聖所を破壊することによってそれを汚しています(詩編74:3~7、79:1)。ダニエル書8:11では、小さな角が象徴的に聖所を倒し、それによって聖所を汚しています。
  2. 旧約聖書の中で、民の罪は不法な接触によって地上の聖所を汚しています(レビ16:16、20:3、エゼ23:37、38)。
  3. 新約時代と同様、旧約時代においても、告白された罪はまた贖いの目的のために天の聖所を汚しました。地上の聖所はこの天の聖所の影に過ぎません。

このように、聖所の清めは二つの問題、つまり神の民の勝利と小さな角の消滅とに関係があります。裁きにおいて、小さな角の権力は滅ぼされ、イエスの血によって罪を赦された聖なる者たちは勝利します。彼らはダニエル書7章にあるように永遠の御国を受け継ぎます。

ダニエル書7章と8章は先に学んだこと、つまり裁きには義人の勝利と悪人の処罰とが含まれることを啓示しています。この思想は、小さな角がこれらの預言の中心にあることを説明する助けになります。聖者に有利な裁きは小さな角の権力を滅びに導きます。

問7

再臨前審判の教理の重要性はどこにありますか。

  1. 再臨前審判が歴史的に重要なのは、それが1844年の大失望を説明するからです。イエスが1844年10月22日に地上に来られなかったのは、イエスが1844年に天においてその働きの第2段階に入られたからです(黙10:9、10)。
  2. 再臨前審判が神学的に重要なのは、それが御国に入る人たちの生涯を最終的に吟味するからです。「これら聖なる者たちの中には、実際には神と人に忠実に仕えていたのに、地上の法廷によって様々な罪名を着せられた人たちがいる。再臨前審判において、地上の法廷によるこれらの不当な宣告が天の法廷によって撤回される。こうして、神は御自分の聖者を擁護される」(ウィリアム・H・シェイ「再臨前審判の神学的重要性」『70週、レビ記、預言の性格』第3巻328ページ、1986年)。
  3. 最終的に、再臨前審判によって、神の義、正義、憐れみが全宇宙に宣言されます(黙15:3、4)。こうして、サタンとの闘争において論争の的であった神の品性が擁護されます(ロマ3:4)。

まとめ

ダニエル書8:14の2300日が1日1年の原則によって解釈される理由はほかにもあります。

  1. 幻そのものは文字通りのものではなく、象徴的なものです。ダニエル書8章は文字通りの雄羊、雄山羊、小さな角について述べているのではありません。したがって、ここに示されている時間的な枠組みもまた象徴的なものと考えるべきです。
  2. 「2300の夕と朝」(ダニ8:14、新国際訳)という表現は時間を表す一般的な表現ではありません。それは文字通りの時間を表すものではありません。

ダニエル書8:13の質問は、幻に出てくるすべてのもの、つまりメド・ペルシア、ギリシア、ローマ(異教および教皇)の活動を含むもので、数千年に及ぶ時間的な広がりを意味しています。仮に2300日を文字通りに解釈すれば、それはわずか6年であって、質問に含まれる諸事件を考慮すればありえないことです。したがって、質問に対する答えが意味を持つためには、2300日を1日1年の原則に従って解釈するしかありません。描かれている諸事件を説明するためには、これだけの時間的な長さが必要です。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ダニエル書 ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次