この記事のテーマ
マタイ24章はキリストの生涯に関して最も議論になる部分の一つです。イエスはここで再臨の前に起こる出来事のあらましを述べておられます。それは質問を切り出した弟子たちの時代以降、多くの人々の関心を引きつけてきた話題です。イエスはまず弟子たちの時代に起こる出来事をまず予告し、続けて暗黒時代と呼ばれる中世を経て、栄光に満ちた再臨に言及しておられます。
イエスがダニエル7章の第4の王国、多神教ローマ帝国から始めておられるのは興味深いことです。当時世界を支配していた国がローマだったからでしょう。次に、中世(ダニエル7章に預言的に描かれている1260年間)における患難と恐怖の時代(マタ24:21)、さらに“患難の時”が終わったことを示す兆候が続き(29節)、最後に、終末時代の惑わし(24~27節)と栄光に満ちた主の再臨をもって結ばれています(30、31節)。イエスのお話は当時の政治情勢から始まって歴史をたどり、ご自分の再臨をもって終わっています。まさに歴史的解釈の立場に立った見方と言えないでしょうか(第1課参照)。
イエスと民の将来
問1
マタイ24:1~3を読み、終末に関してイエスが語られたときの背景を考えてください。いつ、どこで、何を、誰に語られましたか。一つひとつが終わりの時のしるしに適合する内容と思いませんか。
この講話の直接の主題はエルサレム滅亡ですが、実際にはもっと大事なキリスト再臨と世の終わりのしるしについて述べています。エルサレムの滅亡はここでは再臨前の世界を象徴しています。また3節にある弟子たちの質問から、彼らがキリストの死なれる前からある程度キリストが再臨されることを知っていたことがわかります。
問2
弟子たちの主要な関心は何にありましたか。マタ24:3
弟子たちはイエスに3つの質問をし、イエスはそれらに基づいて黙示的な言葉を語っておられます。
第1の質問は「そのこと〔神殿の崩壊〕はいつ起こるのですか」で、それに対してイエスはマタイ24:15~20で答えておられます。第2の質問は「あなたが来られ〔る〕……ときには、どんな徴が(しるし)あるのですか」で、それについて21~31節で答えておられます。第3の質問は「世の終わるときには、どんな徴があるのですか」で、それに対して4~14節で答えておられます。つまり、イエスはまず最後の質問(世の終わり)に答えることによって話を切り出し、次に最初の質問(エルサレムの滅亡)に戻り、最後に、最も重要な真ん中の質問(栄光に満ちたキリストの再臨)に答えておられます。明らかにイエスの最大の関心はエルサレムの滅亡ではなく、世の終わりと再臨にありました。講話の残りは再臨に備えるようにという訴えになっています。
世の終わりのしるし
マタイ24:5で、イエスは次のように言っておられます。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。この言葉はまさにその通りに実現してきました。歴史を通して今日に至るまで、多くの人々が自分をキリストであると主張してきました。2000年前にイエスがオリーブ山で警告された通りです。
問3
宗教、社会、自然に見られる終わりのしるしを挙げてください。“メシアであるキリスト”と自称する者と聖書の真正さとをあなたはどう考えますか。大事な終わりのしるしの一つである「福音が全世界に伝えられる」との預言の意味を考えましょう(マタ24:14)。
これらの予告された出来事に関して、次の2点に留意する必要があります。第1に、それらは終わりのしるしではなく、むしろ神の民が終わりを待っている間に起こる出来事です(マタ24:6、8)。第2に、それらの出来事は主のしもべたちに対する霊的警告を含んでいます。イエスが偽りのメシアに言及されたのは、この危険について弟子たちに警告するためでした。一方、自然界の災害は多くの人の心に神と神の愛に対する疑いを生じさせるかもしれません。しかし、これらの災害に関するキリストの事前の警告はこうした疑いを和らげるものです。あらかじめ神ご自身によって警告されているからです。
イエスは弟子たちが直面するさまざまな試練や苦難について語っておられますが(迫害、偏見、背信、裏切り、憎しみなど)、それらはsigns(さまざまなしるし)であって、終わりの決定的なthesign(定冠詞のついた徴)(しるし)ではありません(弟子たちがマタイ24:3で求めたのは徴thesignでした)。「徴thesign」となるのは、福音が全世界に宣べ伝えられることです。「それから、終わりが来る」(14節)。
エルサレムの滅亡(マタ24:1~20)
問4
「(神殿が崩れるというのは)いつ起こるのですか」との質問に主はどうお答えになりましたか。マタ24:3、15イエスはエルサレムの滅亡が予告されているダニエル9:27に言及しておられます。主は預言者としての権威をもって、ローマ軍による神殿の破壊とその荒廃という預言の成就を語っておられます。聖書に出てくる「憎むべきもの」という言葉は偶像崇拝とそれを行う人々を指しています。偶像崇拝者のローマ軍は神殿とエルサレムを荒廃させる、憎むべきものです(ルカ21:20)。
問5
エルサレム滅亡のときユダヤにいる弟子たちに、どのような特別な指示をお与えになりましたか。マタ24:16~18
イエスによるこの勧告は二つの面を強調しています。一つはローマ軍によるエルサレム攻撃がもたらす死と苦しみを避けて安全な場所に逃れる必要があるということ、もう一つは直ちに行動を起こす必要があるということです。持ち物を集める時間はありません。遅れることは命取りになります。幸いにもイエスの弟子であった初期のキリスト教徒たちは主の勧告に従ったので、エルサレム攻撃の際に死んだ信者は一人もいませんでした(『各時代の希望』下巻95ページ参照)。行いと服従をもたらす信仰の良い例です。これらの人たちは行いによってでなく、ただキリストに対する信仰によって救われたのですが、「ローマ軍が近づいたらエルサレムを離れなさい」というキリストの命令に従うことによって自らの信仰を現しました。つまり、彼らは従ったゆえに、恐るべき滅びの苦痛から守られたのです。『各時代の大争闘』上巻第1章をお読みください。ローマ軍によるエルサレムの包囲、攻撃、陥落、滅亡の惨状、神殿の崩壊、クリスチャン・グループの奇跡的脱出などの記録が描写されています。
再臨のしるし――その1
問6
イエスが予告された「大きな苦難」というのを自分の言葉で説明してください。マタ24:21、22
イエスはエルサレムの滅亡から、ダニエル7:25に描かれた大いなる患難へと目を向けておられます。「長い暗黒の世紀、キリストの教会に血と涙と苦悩の見られる幾世紀が、キリストの目の前に開かれていた。弟子たちはその時このような光景を見るのに耐えられなかったので、イエスは短いことばを述べられただけでこの光景を通り抜けられた」(『各時代の希望』下巻96ページ)。
西洋の歴史におけるこの恐るべき期間に関して、二つの点に留意する必要があります。(1)神はこの期間を限定されること(ダニエル7:25によると1260年の間)。(2)それは世界の歴史にもまれに見る苦難です。「1260年(日)におよぶ患難は歴史において最大のもので、何世紀にもわたって続き、しばしば非常に高い死亡率を出したのでした」(C・マーヴィン・マックスウェル『神の思いやり』第2巻35ページ)。
ダニエル7:25に述べられている患難は、同12:1、2にある患難とは異なります。12章の方は「再臨における復活に関連して起こるものです。それはダニエル7:9~14に描かれた裁きの法廷が種々の記録の調査を終えた後で起こります。それは悪人にのみ恐れを生じさせるもので、神の民は『皆』、それから救われます」(マックスウェル、34ページ)。
問7
もしサタンがすでに敗北しているなら、なぜそのような「大きな苦難」や暴虐があるのでしょうか。次の聖句は何らかの助けを与えてくれるのではありませんか。ロマ16:20、黙示12:12
再臨のしるし――その2
問8
キリスト再臨の決定的な徴の前にどのようなさまざまなしるしが起こりますか。マタ24:29
イエスは大いなる患難の終了に関連して、一連の地球規模のしるしに言及しておられます。アドベンチストは1755年のリスボン地震、1780年5月19日の暗黒日、1833年11月13日の流星雨がそれであると受け取りました。これらの現象の起きた時期とその順序は預言の実現にふさわしいものでした。
1700年から1844年の間に一連の重要な預言的事件が起こっていることは注目に値します。「その順序は次の通りです。(1)大地震――1755年(2)暗黒日――1780年(3)獣に対する裁き――1798年(4)落星――1833年(5)天における審判の開始――1844年」(ウィリアム・シェイ「歴史における宇宙的しるし」『ミニストリー』1999年2月)。主は明らかに私たちの関心を黙示預言の実現に向けておられました。
問9
マタイ24:3で弟子たちが尋ねた再臨と終末の徴に主は何と答えたでしょうか。マタ24:30
「そのとき、人の子の徴が天に現れる」(マタ24:30)というイエスの言葉の意味を知ることは困難です。この出来事の後、諸民族が嘆き、人の子が栄光のうちに現れます。聖書学者はこの徴の意味について推測してきましたが、満足できる解釈に至っていません。エレン・ホワイトは次のように述べています。「まもなく、東のほうに、人の手の半分くらいの大きさの小さい黒雲が現われる。それは、救い主を囲んでいる雲で、遠くからは、暗黒に包まれているように見える。神の民は、これが人の子のしるしであることを知っている」(『各時代の大争闘』下巻419ページ)。
まとめ
イエスの黙示的講話はダニエルの見た幻の内容にしたがっていますが、悪の欺瞞へ(ぎまん)の警告と信仰の持続への励ましに重点をおいています。主はエルサレムの滅亡から最後の教会に至るまでの間の欺瞞、終わりの徴、栄光の再臨へと弟子たちの心を導いたのでした。
今回の研究を締めくくるにあたって次の点に留意してください。
(1)終わりのしるしの目的イエスが一連の出来事について語られたのは、
第1に、私たちがそれを用いて再臨の日時を定めるためではありません。イエスがしるしを与え、語られたのは、私たちがそれによって再臨の約束をつねに心にとめるためでした。それらのしるしを見るごとに神の民はいつでも再臨を心にとめるのです。
第2に、それらのしるしは信者のうちに期待と希望を抱かせます。主が自分たちをお忘れになっておられない、歴史は神の定められた目標に向かって動いているという確信を与えます。
第3に、しるしは神の民を偽りから守ってくれます。サタンは彼らを欺こうとしますが、イエスは彼らに真理と偽りを識別する方法を教えておられます。
(2)この時代マタイ24:34の「この時代」という言葉は、イエスに耳を傾けている人々、あるいは人々の種類(「悪しき時代」)、あるいは特定の民族を指します。この場合には後の二つが文脈にかなっています。
(3)大きな苦難マタイ24:20、21は、エルサレムの滅亡時に患難が起こるという印象を与えますが、ギリシア語原文にはそのような印象はありません。21節の初めにある「そのときには」という表現は、遠い将来における新しい出来事を指す場合に用いられることがあります。ここでは、エルサレム滅亡のずっと後に起こった出来事を指しています。
ミニガイド
【世の終わりのしるし】キリストの十字架による死から50日目、昇天の日から10日目のペンテコステの日、大群衆の前で聖霊を受けて説教したペトロはヨエルの言葉を引用しました(使徒2:12~21、ヨエ3:1~5参照)。彼は紀元31年の春のこのときを「終わりの時」と宣言し、そのしるしに“太陽や月の異変”を挙げて、聖霊降下こそ預言の成就、と述べました。ペトロはヨエルの預言を自分たちに当てはめて解釈しました。自然や社会にあらわれる現象は大小の差こそあれ、人間世界の歴史に生じることで、一時代に限定されることではありません。人の世は常に悪にみち、地震や飢饉、災害が襲い、人間世界の不安定さを教えています。19世紀の再臨運動を担った人々は聖書研究によって、特に年代に関する預言を調べて終末の近いことを実感し、このころに前後して起きた自然界の特異な現象をはじめ、社会、宗教、文化に見られるしるしなどを総合的に捉えて“世の終わり近し”と受け止め、リバイバル運動を展開、多くの人がこれに応じて再臨信仰に入りました。個々の事件や出来事に意味をつけて決定的な終わりのしるしであるかのようにしないことを今回のガイドは教えています。
【備え】最初に書かれた聖書には章がありません。マタイ24章、25章は連続した文章で、主はまず24章で終わりの近いことを語り、日常的に備えをすることを後半から述べて、25章の部分で3つのたとえ話をもって、いついかなるときもその日のために備えをすることを勧めたのでした。大事なのは現象ではなく、明日でも、あるいは今日であってもよいように心を主に向けて生きることです。
アッジシの聖フランシスはあるとき「今日の日没と同時に世の終わりが来るとしたらどうしますか」と尋ねられました。彼は答えました。「そのとき、私はこの畑を耕し終わっていることでしょう」。
1780年5月19日、金曜日の昼近く、突然周囲が暗くなり、暗黒日が米国北東部を覆いました。コネティカット州議会を開いていた議員たちは世の終わりの預言の成就と思い、いっせいに議場を出て家に帰ろうとしました。そのとき一人が立ち上がって言いました。「皆さん、私たちが仕事をしているところをイエス様に見ていただこうではありませんか!」。議会は暗い中でろうそくを灯して続けられたのでした。私たちも一生懸命生きているところを主に見ていただきましょう。
*本記事は、神学者アンヘル・M・ロドリゲス(英: Angel Manuel Rodriguez)著、安息日学校ガイド2002年2期『重要な黙示預言』からの抜粋です。