【コヘレトの言葉】鏡におぼろに映ったものを見る【8章解説】#9

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コヘレト8章において、ソロモンは先に触れた多くの主題についてさらに探究しています。それらはやはり悲観論と不満で満ちています。しかし、「太陽の下」の人生は所詮、悲観的な要素で満ちたものです。

それでも、ほかの大部分の章と同様、難解な修辞的技巧の中に、力強い霊的真理の珠玉を発見することができます。神がこの書を聖書の中に加えられたのはそのためです。

たとえば、今回の暗唱聖句を見てください。そこには、この世の人生を超越したものへと続く約束と希望があります。事実、この世のあらゆる否定的な要素の中にあって、ソロモンは最終的な正義と裁きについての深い洞察を示しています。すなわち、この世がいかに悪に満ちていようとも(私たちは大争闘の最中にあるのです──黙12:12)、神の最終的な正義が執行されるのです。もうしばらく待たねばならないにしても、私たちはそれについて確信することができます。聖なる者たちに対して「忍耐」するように求められているのはそのためです(黙13:10、14:12)。

今回も引き続き、ソロモン王の独特な視点から見た、堕落した人間の持つ弱点と恐れ、希望について探究します。

王の命令を守れ!

すでに神の国に属しているという現実がある一方で、私たちはいつでもこの世にあって生きることから来る緊張に直面しています。アウグスティヌスはこれを、神の国と人の国の違いと呼びました。

問1

ヘブライ11:13~16を読んでください。これらの聖句は、私たちがそのはざまに立っている二つの国の現実についてどんなことを教えていますか。

クリスチャンが直面する緊張の一つは、自分たちの政府に対してどのような態度を取るかということと関係があります。私たちはみな政治的権限を与えられた政府、すなわち特定の国の規則や法律を制定し、施行する政府のもとで生きています。聖書は繰り返し、クリスチャンに対して法律に従うように教えています。クリスチャンはよき市民であるべきです。

問2

コヘレト8:1~5を読んでください。ソロモンはここで何と言っていますか。彼がここで述べていることは次の聖句とどのように調和しますか。ロマ13:1~4、テト3:1、Iペト2:13~17

ソロモンがこのように言っているとしても、それほど驚くには当たりません。実際のところ、彼は王なのです。しかしながら、これらの言葉はクリスチャンの市民としての態度に関して重要な原則を教えています。どこに住んでいようとも、私たちは国の法律に従う義務を負っています。たとえ、個人的に好きでない法律があっても、です。ここで、「個人的に」という言葉が用いられていることに注意してください。私たちが個人的に好きでない法律に従うことと、神の戒め、つまり神が要求される基本的な原則に真っ向から反する法律に従うこととの間には、大きな違いがあります(明日の研究参照)。重要なことは、世の道徳的標準よりも高い標準に従うように要求されている民として、私たちは「王の命令を守る」ように努めるべきです。

王の命令を守れ?

王の命令を守るべきなのでしょうか。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ(ダニ3章)やダニエル(ダニ6章)は、王の命令にどのように対応しましたか。

私たちの心が神の国にあるかぎり、一つの国に住むことは必ずしも容易なことではありません(マタ6:20、21)。では、クリスチャンはよき市民としてどのように行動すべきでしょうか。

問3

神の民が政治的権力の座にある者たちに背くように強いられた例をほかに聖書からあげてください。

聖書は地上の支配者に背いたために迫害や脅迫、投獄、死に直面した人々の例で満ちています。問題をさらに複雑にしているのは、これら地上の支配者たちの多くが神の選民の指導者であったことです。

一方、私たちはまた黙示録を学んだ者として、終わりの時になると、神の民が神に忠実であるために地上の指導者の法律に背かねばならなくなることを知っています(黙13:12~16、14章)。この意味で、私たちは王なる神の命令に背かないかぎりにおいて地上の王の命令に従うべきであることがわかります(ヨハ19:19)。

しかし、これは非常に重大な問題であって、軽々しく決定すべきものではありません。御言葉を通して語りかけられる主の導きを求めることはもちろんですが、賢明な先輩に助言を求めた後で初めて行動すべきです。

「いかなる国の法律も、ときとして神の戒めに反する場合がある。為政者は法律に対して責任を負うが、一人ひとりの市民は自らの選択に関して神に対して責任を負う。このような場合には、クリスチャンは自らの確信を説明し、良心の自由に訴えることになる。良心の自由は神のかたちに造られた者に対して神から与えられた権利である。もしこの訴えが拒絶されるなら、神への忠誠はまず、過去のクリスチャンが経験してきたように、罰金や迫害、投獄といった犠牲を招くことになるかもしれない」(『SDA神学便覧』第12巻701ページ)。

あなたの知り合いに自分の信仰をめぐって行政当局を訴えようとしている人がいたなら、あなたはどのように助言・勧告しますか。その人が正しい判断をする助けとして、あなたはどんな原則を提示しますか。

不安の中で信頼する

ソロモンは別の思想へと話題を転換します。コヘレト8:5の後半(「賢者はふさわしい時ということを心得ている」)から9節までを読むと、彼がここで人生の不確実性、つまり私たちに理解できないことが起こると述べていることがわかります。どれほど賢い人であっても、またどれほど「ふさわしい時」を心得ていても、私たちには理解できないこと、どんな賢者も推し量ることのできないことがあるものです。

幸いなことに、たとえ不可解なことが起ころうとも、クリスチャンは神に信頼することができます。しかしながら、このような信頼は自動的に生じるものではありません。不信仰な生活から目覚めて、急に神に信頼し始めるということはありません。私たちは御言葉を読むことによって、神の約束に頼ることによって、信仰と服従の生活を送ることによって、神に信頼することを学ぶのです。心を神にささげて、このような生活を送るときに、私たちはどんな時にも神に信頼するようになるのです。

問4

次の聖句は神に対する信仰と信頼について教えています。各聖句の後に、あなたが個人的に感じることや教えられることを書いてください。ほかに印象深い聖句があれば書き出してください。詩118:8、9、詩34:9(口語訳34:8)、箴3:5、6、イザ12:2、ロマ8:28、ヤコ2:22

信頼と正義

問5

コヘレト8:11~13を読んでください。ソロモンはここで何と言っていますか。

ソロモンはここでも、この世の人生に見られる不正の問題を取り上げています(14節参照)。確かに、悪人はその行為を罰せられることなく、うまくやっているように見えます。彼らは悪業の結果に苦しむこともありますが、必ずしもそうとは限りません。たまにならかまわないのですが、いつでもそうなら、なぜ?と言いたくなります。この世に正義がないのはなぜでしょうか。

ソロモンは回答を与えていません。彼はただ次のように言うだけです。「悪人のことは気にするな。ただ神に従いなさい。そうすれば、神はあなたに報いてくださる」。

ソロモンはここで、信仰と信頼の生活を送るように私たちに勧めています。確かに、この世には不正があります。私たちはみな、そのことを知っています。もちろん、神も知っておられます。しかし、主はこれらの問題に関して明確な説明を与えておられません。ただ、私たちの救いの希望であるイエス・キリストの功績に信頼し、信仰と服従の生活を送るように言われるだけです。これらは、多くの悪が「太陽の下」で行われることの理由ではないかもしれませんが、神がいま私たちに啓示してくださっている真理です(ヨハ14:9、ガラ3:21、22、ヘブ1:1、2、Iヨハ5:3)。

今日の研究の要点は、昨日の研究と同様、私たちは目に見えるものや理解できるものにではなく、神の約束に信頼すべきであるということです。神はイエス、すなわち十字架につけられたイエスを通して御自身とその愛を私たちに啓示してくださったのです。

地上でなされる業

問6

コヘレト8:16、17を読んでください。ソロモンはここで何と言っていますか。このことは先に書かれている内容とどのように適合しますか。それはどんな意味で重要ですか。

近年、知識は爆発的に増えてきました。私たちはこれまで以上に、この世界について知るようになりました。毎日、あらゆる分野、ことに科学の分野で新しい発見がなされています。ところが、私たちは知れば知るほど自分の無知に気づきます。最も単純なことでさえ、説明のできない神秘で満ちていることがわかります。ある領域に到達したとしても、その先にはなお理解できないことがあります。自然界に現された神の御業と力は私たちの理解をはるかに超えたものです。もちろん、神の御業の中で最大のものである救いの計画は、まさに「神秘」であり「秘められた計画」です(1コリ2:7、エフェ3:9、コロ2:2)。

理解できない事柄に対して取るべき態度について教えてくれる書の一つは、たぶんヨブ記でしょう。ヨブは数々の恐るべき災いに見舞われます。神は最後にヨブにお現れになりますが、そのときもヨブを苦しめた出来事について全く説明しておられません。

問7

ヨブ記38~42章にざっと目を通してください。神はヨブの試練に関して何とお答えになっていますか。

主はサタンの挑戦(ヨブ1:9)や、サタンに対する神の返答(2:6)に少しも言及しておられません。ヨブの身に起こったことに関して何の説明も与えておられません。むしろ、ヨブのはかなさと弱さとは対照的な御自身の力と創造力に関して次々と修辞的な問いかけをしておられるだけです。ヨブにとって、これらの神の問いかけは、彼が自分の死んだ子供たち、損なわれた健康、失われた財産について不平を言うことによって、「わたしの知識を超えた驚くべき御業」(ヨブ42:3)をあげつらっていたことを確信させるに十分でした。

まとめ

「われわれは人間の政府を神が定められたものとして認め、合法的な範囲内でそれに従うことを、聖なる義務として教えなければならない。しかし、その要求が神のご要求と矛盾するときは、人間よりむしろ神に従わねばならない。神のみことばをすべての人間の法律にまさるものとして認めねばならない。『教会がこう言う』、あるいは『国がこう言う』ということのために、『主がこう言われる』ということを放棄してはならない。キリストの王冠は、この世の主権者の王冠より高くかかげられねばならない」(『患難から栄光へ』上巻68、69ページ)。

「限りある人間の心は、無限である神のご品性やみわざを完全に理解しつくすことはとてもできない。神をさがしても見いだすことはできないのである。どんなにすぐれた教養の高い人にとっても、愚かな人や無知な人にとっても同じように、聖なる神は神秘におおわれたままでなければならない。しかし、『雲と暗やみとはそのまわりにあり、義と正とはそのみくらの基である』(詩篇97:2)とある。われわれは、神の無限な力に結びついているかぎりない恵みを見分けることぐらいしか、われわれに対する神の態度を理解することはできない。われわれは、理解できる程度にしか神の御目的を悟ることができないが、しかしそれ以上のところは全能のみ手と愛に満ちたみ心に信頼するのみである」(『教育』200ページ)。

コヘレトの言葉には、1章に2度以上、全体では8節に1回の割合で、この書のキーワードともいうべき「空しい」が出てきます。これによって、ソロモンは、神に土台を置かない人生の空しさを強調しています。このことは、裏を返せば、神に信頼する人生の確かさへの強烈な肯定でもあります。この地上で理解できなかったことも、やがてガラスの海のほとりで主がすべてを明らかにしてくださるのです。「まもなく私たちは約束された家郷にはいるであろう。そこではイエスが……この地上で主が私たちの品性を完成させるためにお与えになった暗い摂理を説明してくださるであろう』(『アドベンチストホーム』628~629ページ)。すべての謎が解けて、小羊を賛美する朝が待たれます。

*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。

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