【コヘレトの言葉】「何によらず手をつけたことは」【9章】#10

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2004年のある日、70歳になるイタリア人男性が死亡しました。70歳のイタリア人が死ぬのは別に珍しいことではありませんが、問題はその死に方です。元農夫のアルド・ブサート氏は第一次世界大戦で使用されていた爆弾によって即死したのです。それは、彼が収集していた思い出の品の一部でした。庭で友人たちにその遺物を見せていたときに、爆弾が爆発し、彼は死亡し、友人たちは重傷を負ったのでした。

このような合理的説明を超えた不幸な出来事を、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。前回も見たように、それは理解できないものです。今は説明できなくても、神の慈愛に信頼するしかありません。

ソロモンはコヘレトの言葉9章でもこの問題に触れています。しかし、ここでの彼の関心は、ほかの個所でもそうですが、特に死に向けられています。研究を進めるときに、ソロモンがときどき「世俗的」な視点から見解を述べていることに留意してください。そのような見解は、もし正義と報いと永遠の命を約束される神がいなければ、私たちの人生が無意味であることを理解する助けになります。同時に、彼が死ばかりでなく、生命と現在の生き方についても教えていることに留意してください。

神の手の中に

「わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち善人、賢人、そして彼らの働きは神の手の中にある。愛も、憎しみも、人間は知らない」(コへ9:1)。

コヘレト9:1は8章の最後の節からの流れを引き継いでいます。ソロモンはここまで、人間が神の業を理解できないと述べてきました。彼は同じ思想をもって結んではいますが、コヘレト9章は上記の聖句をもって始まっています。それは、先行する聖句に照らして考えると、次のように言っているようにも思われます。「確かに、私たちは神の業を理解することができない。しかし、神はどのようなときにも御自分に忠実な者たちを守ってくださることを、私たちは知っている」。

問1

あなたは上記の結論を正しいと思いますか。忠実な者たちが「神の手の中にある」とはどのような意味だと思いますか。

私たちが神の手の中にあるということは、私たちが決してこの世の人生において苦しみや悲劇に遭わないという意味ではありません。どれほど忠実なクリスチャンであっても、どんなことが「太陽の下」で彼らを待ち受けているかを知ることができません。ソロモンがコヘレト9:1の後半部分で言っているのはたぶんそのことでしょう。「確かに、私たちは神の手の中にあるが、それは苦しみに遭わないという意味ではない」。しかしながら、はっきり言えることは、クリスチャンがどのような状況にあっても神の慈愛と憐れみに信頼することができるということです。いつの日か、「彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」(黙7:17)神がおられるという信仰なしに、さまざまな逆境に直面した場合について想像してみてください。

同じ一つの運命?

コヘレト9:2は、この書を聖書全体との関連において読むことがいかに重要であるかを教えてくれる実例の一つです。『SDA聖書注解』に書かれている次の勧告にもういちど心をとめる必要があります。「この種の聖句は、文脈から切り離されて、霊感が意図していない仮定的な真理を教えるために用いられるべきではない」(第3巻1060ページ)。

ソロモンの言葉は、正しい文脈において捉えるなら、理にかなっています。すべての人は死にます。死は、私たちの知る自然の営みの中で何よりも強力です。死は自然そのものの一部であって、生きているものはすべて死にます。死は善人と悪人を区別しません。死はつねに勝利します。

しかし、どのように生きようとも、同じ一つの運命(死)がすべての人を待ち受けているということは、水を飲もうとヒ素を飲もうとも、同じ一つの運命がすべての人を待ち受けているということと似ています。ものごとを短絡的にしか考えないなら、確かに死はすべての人に臨む運命です。しかし、短絡的な考えは所詮、短絡的な考えです。それは、ベートーベンの第9交響曲の初めのフレーズを聞いただけで全体を解釈するようなものです。聖書全体を読むことは正しい見方を可能にしてくれます。

問2

次の聖句を読んでください。人間に臨む最終的な運命は何ですか。ダニ12:2、マタ25:32~41、ヨハ3:16、5:29、黙20:6~15

聖書ははっきりと、すべての人に共通の一つの運命があるのではないと教えています。二つの運命のどちらか一つ、つまり永遠の命か永遠の滅びがあるだけです。中立や妥協はありません。永遠に生きるか、永遠に死ぬかのどちらかです。幸いなことに、すべての人はイエスによって永遠に生きる機会を与えられています。キリストは、ひとりの例外もなく、すべての人の身代わりとなって死なれました。キリストの備えはすべての人にとって十二分なものでした。結局のところ、どちらの運命をたどるかは私たち自身の選択にかかっています。

死者

私をここで死なせよ。多くの年月を苦しみ、

死ぬしかない者たちを生み出すことはただ死を繁殖させること、

殺人を増殖させるにすぎないからだ。

ロード・バイロン(英国の詩人)

ロシアの作家レフ・トルストイは言っています。「ひとたび死が万物の終わりであることに気づくと、生よりも悪いものは何ひとつなくなる」。

いかに否定的であるとはいえ、トルストイのこの言葉は要点をついています。人生が死をもって終わり、死が万物の終わりであることを知りつつ人生を生き抜くのは、ちょっとつらいことです。

問3

コヘレト9:3~6を読み、神と来世を信じない人の視点に立って考えてください。もし死がすべてのものの終わりであるとするなら、あなたは人生にどんな意義を認めますか。あなたも、あなたの子供も、その子供も、いつかは消滅するとするなら、あなたは自分の行いにどんな価値を見いだすことができますか。

問4

一方、同じ聖句をアドベンチストの視点に立って読んでください。アドベンチストにとって、死は単なる眠り、「一瞬」の出来事にすぎません。私たちはキリストの再臨において新天新地における永遠の命に復活させられます。先の視点とは対照的に、このような視点に立って上記の聖句を読むとき、それはどれほど異なったメッセージを与えてくれますか。

私たちはキリストの死と復活を通して与えられている救いに心から感謝すべきです。この救いがなければ、私たちは今日の聖句にあるような絶望状態に陥ります。私たちの信仰はかけがえのないものであって、大切に守り育てる必要があります。私たちの生命はそれにかかっているのです。

今こそ、救いの日

アドベンチストは死者の状態について説明するためにコヘレト9:5、6をよく用います。それは正しいことです。確かに「、死者はもう何ひとつ知らない」し「、太陽の下に起こることのどれひとつにももう何のかかわりもない」からです。しかし、それはイエスが来られるときまでのことです。ソロモンは、ここで単に神学的な死者の状態を述べているのでなく、生きることについて重要なことを指摘しています。死について語ってはいますが、人生をいかに生きるべきかに目を向けさせようとしています。

問5

コヘレト9:5~10で、ソロモンは人生について何と言っていますか。どのように生きるように言っていますか。この基本的な考えを私たちのクリスチャンとしての生き方にどのように適用したらよいでしょうか。

私たちの人生はこの世において与えられたただ一つの人生です。この人生ははかなく(ヨブ8:9)、この世とその中にあるすべてのものは、いつかは滅び去ります(IIペト3:10~12)。しかし、それは永遠の結果をともないます。この世における生き方は永遠への運命を完全に決定するからです。そうです。この世の短い人生においてなされる決定、数秒とかからない決定が、私たちの永遠への運命を決定するのです。とするなら、与えられた恵みの時を有効に用いること、魂を注意深く守ることはいかに重要なことでしょう。これほどの重大な結果を考えると、愚かな生き方はできません。

問6

次の各聖句は上記の思想をどのように支持していますか。マコ14:38、ロマ14:12、IIコリ6:2、IIペト3:10~14

時と機会

私たちはみな、必ずしも人の手によるとは限らない不条理な出来事を見聞きし、経験しています。「時と機会」はときどき、きわめて不公平に、冷酷な方法で作用することがあります。

人生の盛りにある若い女性が不治の病に侵され、働き盛りの男性が不況のために解雇され、有名なスポーツ選手が階段から滑り落ちて選手生命を絶たれる。記せば切りがありません。

問7

コヘレト9:11~18を読んでください。ソロモンがここで言っていることについて、あなたはどう思いますか。

人間的な見方をすれば、「時と機会」は私たちの生活全体を支配しているように思われます。しかし、それは聖書の見方ではありません。聖書の教えによれば、すべてのものをご覧になる神がおられ(詩編11:4、箴5:21)、この神は、たとえ理解できないことがあっても、人間のあらゆる出来事に複雑にかかわっておられます(箴16:9、ダニ2:21、マタ6:25~31)。クリスチャンにとって重要なのは神を個人的に知ることです。神と神の愛を知ることは、「時と機会」にもてあそばれているように見えるときにも、信仰と服従をもって神に信頼することができます。

問8

コヘレト9:13~16には、どんなことが強調されていますか。

これらの聖句については、いくつかの解釈が可能ですが、文脈からすると、ソロモンはさらなる不条理な出来事について語っていると言えます。彼は素晴らしい貢献をしたにもかかわらず、何らかの理由で(ここでは、貧しさ)認められなかったか、忘れ去られてしまった人について語っているように思われます。人間的な見方をすれば、このようなことはよくあることです。しかし、幸いなことに、人間的な見方は重要ではありません。重要なのは神の見方です。神は忘れるどころか、報いてくださいます(ルカ6:35、コロ3:24、ヘブ10:36、黙22:12)。

「時と機会」によって残酷な仕打ちを受けている人を、あなたは何と言って励ましますか。苦しみの中にあっても神の愛と守りが与えられることについて、どんな約束を語ることができますか。

まとめ

「キリストは、聴衆に、人間は死後に魂の救いを得ることは不可能であることを理解させようと望まれた。アブラハムは、次のように答えたと述べられている。『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。このように、キリストは人々が第二の恩恵期間を望んでもむだであることをお示しになった。この世は、永遠のために備えをするために人々に与えられた唯一の時期である」(『キリストの実物教訓』238、239ページ)。

「どの時代にも、光と特権の日、すなわち神と和解する恩恵の時が人々に与えられている。しかしこの恵みには限度がある。何年間人々に訴えても、恵みは軽んじられ、こばまれるかも知れない。しかし恵みが最後の訴えをする時が来る。心はかたくなになって、神のみたまに答えなくなる。すると、人をひきつけるやさしいみ声はもはや罪人の心に訴えなくなり、譴責と警告はやむ」(『各時代の希望』下巻25ページ)。

「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)とイエスは言われました。この地上の人生には限りがありますが、主を信じる者にとっては、信じた瞬間から永遠の生命が始まっていることを覚えるのは、なんという大きな喜びであり、慰めでしょう。お互いに助け合い、いたわり合い、赦し合い、愛し合いながら、最善をつくして、しかも楽しくみわざのために働こうではありませんか。主は、私たちの思いをはるかに超えて事をなしてくださいます。

*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。

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